2012年9月30日 (日)

400年祭に400年前の当主にごあいさつ。

さて、13年住んだ竹田市を離れて6ヶ月。節目の前日になる9月30日に竹田市でのおたまやライブを観てきました。
台風一過の夕方から始まったライブは19時過ぎまで続き、最後は名月とブルースのコラボレーションで幕となりました。
文人の里にふさわしいライブでした。

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さて、400年前に亡くなった岡藩初代藩主の中川秀成は、晩年に子の秀征(久盛)に家督を譲り隠居する準備として、
城下の七里に別邸を整備しました。能などを催したりして悠々自適な隠居生活を考えていたようです。
が、直後の1612年に急に亡くなってしまったので、そのまま別邸は菩提寺となり碧雲寺が開かれました。
その後、碧雲寺の隣に代々の藩主の御廟が建てられるようになりました。
(鳥居ヶ窪に葬られた3代、小富士山に葬られた8代、1年で亡くなった7代を除く)
そして、少し前に残っていた墓所とその前面にあった製材所跡地を公有化して整備されたのがおたまや公園です。
ですので、ライブの前に後ろにひっそりとたたずむ400年前の藩主、中川秀成公の墓にお参りしてきました。

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没後、碧雲寺殿と呼ばれた秀成は400年前にここで亡くなり葬られましたが、
自らが城郭を築き整備した街の行く末をここで400年間、ずっと見守ってきたわけです。
この日は、夕暮れから名月が出てくるまでのひととき、
岡城・城下町400年記念の一環として、地元の町衆が企画したライブを堪能されたことでしょう。
上方生まれの豊臣大名として活躍した秀成は、桃山文化の薫陶を受けた教養人でもあった武将ですが、
きっと400年も続く「竹田町衆」の芸達者ぶりに満足されたと思います。
今年は岡藩城下町400年祭が開かれていますが、後に田能村竹田を輩出した温故知新の気風と共に
この400年前の当主が眠る「発祥の地」を大事に伝えてほしいと思う次第。

で、何をご挨拶したかって?
もちろん「あなたが手がけた豊後岡城と岡藩の城郭群の調査で、これからもよろしくお願いします」です(^^

2012年5月23日 (水)

大船山の入山公廟。

竹田市久住町にある大船山の途中、鳥居ヶ窪には岡藩三代藩主中川久清の御廟があります。
5月末には、文化財課による清掃登山が行われています。
今年は400年祭ということもあって、三重総合久住分校などから大々的にボランティア清掃となったようです。
竹田市:写真ニュース「久清公の遺徳を偲ぶ~大船山に眠る藩主御廟を清掃~


ボクも歴史資料館時代にこの清掃登山に参加したことがあります。
その時のことは「旧たけろぐ」に書いたのですが消してしまいました。
雰囲気はそのままこのウェブログに再録されていますので、どうぞごらんください。
前はふんだんに使っていた画像もあって、ありがたいことですヽ(・∀・)ノ

Nyuzan4_1 ◀ 入山廟です。後ろの馬蹄状のものが当時のお墓。前のは幕末維新期に整備された墓標です。

入山こと、中川久清はかなりのワンマン殿様でして、藩政の基礎を確立させ藩主に集権する体制を敷いた方です。
17世紀後半にはそうした「生まれながらの殿様」なワンマン型藩主が多数出て、各藩で「名君」と呼ばれています。
久清もそうしたひとりで、儒学者を招聘しさまざまな規則を制定したりしていきました。
そこそこ長生きし子宝にも恵まれた彼は、藩主を子の久恒に譲った後は隠居して「入山」と名乗り、西ノ丸に隠居御殿を整備しています。
その際、城内屋敷の転居に難色を示した熊田氏(初代秀成以来の創業の老職で、秀成母の実家)を改易したり、戸伏氏の屋敷を転居させています。
そして、子どもたちを新たに老職にして藩主を輔弼する役割を与え、城内に屋敷を構えさせています(中川右近家(中川民部)屋敷です)

Img_0633 ◀最近、整備された中川右近家屋敷(中川民部屋敷)

そういうワンマン型藩主久清は、登山や湯治、野外の狩猟を好むアルペン&アウトドア殿様でもありました。
特に、久住連山の大船山を愛し、たびたび登り鳥居ヶ窪で山中訓練(狩りですね)したりしています。
晩年に足が悪くなり湯治の頻度も高くなった彼ですが、やはり大船山に登りたいということで、人馬鞍をこしらえて担いでもらったりしています。
それほどまでに愛した大船山ですので、遺言としてそこに廟所を構えたら領内の鎮護を担おうと言い残したらしいです。
そして、亡くなった後に整備されたのが入山公廟です。おそらく日本で最も高い場所にある「大名墓」でしょう。
馬蹄型の儒教墓になっていますので、個人的にはきちんと測量して、碧雲寺のおたまやと並んで大名墓研究会に報告したいものです。

この入山廟、御廟はそのままで明治期に管理のための施設が麓に下りて入山神社(来田見神社)となっています。
その後、入山廟に納められた宝物は久住町中央公民館に預けられていました。

今は保存の観点から、歴史資料館に収蔵しています。
興味ある方は、たぶん、人馬鞍も展示していると思いますので、もし展示していたらごらんになってくださいませ(微笑)

2012年5月11日 (金)

銅鐘の音と中川神社。

11日にニュースになっていましたが、
中川神社所蔵(竹田市立歴史資料館寄託)のサンチアゴの鐘を、竹田市がメンテをして鐘を鳴らすプロジェクト。
いよいよ、幻の鐘の音が録音されたとのこと。神社を管理されてきた地元の方々も喜ばれていることでしょう。

“幻の音色”時代超えて「サンチャゴの鐘」
竹田市の録画ニュースで音が聴けます→コチラ(いきなり音が出ます)

で、せっかくなので、サンチアゴの鐘の音について聴き比べるサンプルをご案内。
以前に「奥豊後のキリシタン展」取材を兼ねて帰省した際に、
大阪市北区中津にある南蛮文化館所蔵のキリシタンベルと妙心寺春光院のキリシタン鐘(1577の銘あり)を見学したことがあります。
その内、南蛮文化館のキリシタンベルは、細川忠興が友人の森忠政が津山城を築く際に贈呈した
九曜紋入りのベルという由緒あるものですが、館蔵品なので自由に叩くことが出来ます。
ボクも鳴らしましたが、とても澄んだ響きで余韻の残る音色でした。

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知人のうききさんが、その音を録音されていたので参考までにダウンロードして聴き比べてみて下さい(^^
http://ukikimaru.ran-maru.net/ran/jiten/yougo/asagao.htm

ところで、館の過去の所蔵品図録などに掲載されていることなので周知のこととは思いますが、
中川神社の宝物には、サンチアゴの鐘以外に、伝中川秀成着用の甲冑や中川家の馬印、家紋の幟などもあります。
現在、拝田原にある中川神社は前身は岡城東ノ郭にあった中川家の霊廟「荘岳社」がルーツです。
ですので、神社の宝物のほとんどは、藩政時代に中川家が先祖を祭るために由緒ある品々を納めたものから構成されています。
もちろん、現在も祭神は中川家の藩祖である中川清秀と子の秀政、秀成です。

今回の岡藩城下町400年祭は中川秀成が亡くなった年にちなんで開かれるものです。
でしたら、これらの中川家由緒の「幻の宝物」も中川秀成が亡くなった年に長崎の施療院に掛けられたサンチアゴの鐘同様に、
精密な調査とメンテ(できればレプリカ作成)で日の目を見せてやってほしいと思うのは、私だけではないでしょう。
ぜひとも、これを機に、岡藩ゆかりの荘岳社をルーツとする中川神社と宝物が注目されることが期待されますね。
 

2012年5月10日 (木)

たけログ、復活させました。

かつて、歴史資料館勤務の際に、たけログという非公式ウェブログを試験的にこしらえたことがあります。
要は竹田直入地域の自然と歴史と文化に関するあれこれを載せていたものです。
資料館勤務から異動になった際に閉鎖したのですが、前々からあれよかったのにという声をいただいていました。

で、今回、エコミュージアム的なノウハウを学ぶことも考えて決めたことも踏まえて、
せっかくなので、竹田直入地域を素材に、ウェブ上にエコミュージアムな視点で綴ってみようと思いました。
ということで、たけログというカテゴリーを新たに起こしましたので、おいおい加筆していこうと思います。
よろしくお願いします(´ー`)。oO

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2011年10月27日 (木)

世界無形文化遺産。

世界無形文化遺産:壬生の花田植と佐陀神能が登録へ(毎日新聞)

前々から思っていたことで、今さらながらなのですが。
大分県南部から熊本県阿蘇地域の山間部に育まれてきた御嶽流神楽を
世界無形文化遺産にノミネートさせようとする地元の機運ってのは起こらないものか。

ちなみに2010年時点の日本の世界無形文化遺産リスト(毎日新聞より
能楽▽人形浄瑠璃文楽▽歌舞伎▽雅楽▽小千谷縮・越後上布▽石州半紙▽日立風流物▽京都祇園祭の山鉾行事▽甑島のトシドン
▽奥能登のあえのこと▽早池峰神楽▽秋保の田植踊▽チャッキラコ▽大日堂舞楽▽題目立▽アイヌの古式舞踊▽組踊▽結城紬

神楽枠はあと一つくらい。。。世界無形文化遺産を目指すのにふさわしいと思うのですが。

2011年10月 5日 (水)

土木は美しい。

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過日、白水ダムに案内してきました。
大野川が何千年、何万年かけて台地を削って流れてきた渓谷にあるのでなかなかアプローチが難しいところです。
それでも、案内すると誰もがその美しさに感嘆します。
昔の土木技師の設計手腕と施工技術を目の当たりにすることができます。
当時の技師は景観を意識しなかっただろうに、時代を経てマッチングする姿はデザインを考える上で実に興味深い(現地には地元の有志で案内板があります。)

そんな白水ダムのアプローチは、玉来駅近くの吉田八幡宮からの大野川に沿って走る里道→山道を延々と行けば着きます。
途中に姫だるま工房もあり、なかなかのんびりなコース。
もうひとつは、菅生や豊後荻駅のある荻町中心部から県道695号を通るコース。
西福寺地区から左折して丸福本店を通過してから台地を下っていきます。鴫田を通ってから迂回する方法もありますが、
最近は鴫田地区へ行く途中からダイレクトに渓谷を下る林道ができています。
このラストの急直下林道が圧巻。山をえぐるように削り込み両側がそびえ立つ切立った法面に囲まれた道路で川へ下ります。
今の土木設計とそれを実現する施工技術の水準を目の当たりにすることができます。

昔の土木工学と今の土木工学が折りなす景観を見比べるのもなかなか興味深い風景。合わせてお楽しみ下さい。

2010年9月10日 (金)

落門の瀧を眺める田能村竹田像。

豊後竹田駅の後ろにある落門の瀧。城原井路の悪水抜きのために崖から流下させた「瀧」です。
農業用水なので四六時中流れているわけではないけど、瀧を見ながらゆっくり読書などはまさに文人の気分です。

過日、落門の瀧をみることが出来る駅前の一角に、田能村竹田の銅像が設置されました。
オリジナルは朝倉文夫の兄、渡辺長男の彫刻《田能村竹田像》です。
オリジナルから型をとっての複製ですので申し分なし。

ちなみに駅前には朝倉文夫の彫刻《時の流れ》もあり、兄弟そろい踏みともなりました(^^ゞ
列車の待ちあいなどにぜひとも見比べていただきたいものです。
なんの変哲もない駅前のロータリーですが、
歴史的モニュメント彫刻を多数制作した正当派の彫刻家として活躍した兄の特徴が見て取れる作品と、
自然主義的写実主義の彫刻を多数制作し、兄を越えて時の美術会の重鎮となった弟の特徴が見て取れる作品が
同じ空間に並ぶ、ここだけで近代彫刻史の一コマがみてわかる企画展覧会の展示のようです(^^ゞ

さて、銅像からすると前方にある落門の瀧は、日田の廣瀬淡窓がこの瀧のことを「断崖落泉大夫門」と詠んだことから名付けられたとのことです。
日田をたびたび訪れ、子の太一(如仙)や弟子の帆足杏雨を入塾させるなど、
田能村竹田は淡窓とも交流が深い博学多彩な文人でした。
淡窓が竹田に来たことはないようですけど、淡窓が詠んだ景観を眺める竹田さんという組み合わせは、
落門の瀧を眺める文人的思惟を追体感するロケーションとも言えるのではないでしょうか。
ちなみに、田能村竹田が落門の瀧を観ていた記録があったかあいにく失念仕り覚えてないのですけど、
年代的には多分観てるはずとは思うので、ロケーション的にはいい。。。はずです(^^ゞ

そんな、日本の近代彫刻史と文人芸術を味わえる「1粒で2度オイシイ」立地の、駅前の竹田さんの銅像をぜひ観に来て下さい。

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Foxkeh! フォクすけ!


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