2012年1月22日 (日)

文禄・慶長期の豊後岡城・竹田城下と支城体制。

2012年から、新たにカテゴリーを起こしました。
題して、「豊後岡城・竹田城下と支城体制」

これまでの調査成果から、約400年前の文禄・慶長・元和期を中心に豊後岡城と城下の出城・櫓場、中川領内の支城を紹介します。
そして、城郭からわかる中川氏家中の動向や近世初頭の社会情勢についても紹介できればと思っています。

最初に去年の3月の巡検レポートから→「あれこれラボ:豊後岡城夕方巡検」

豊後岡城というすばらしいフィールドを舞台に、縄張り研究ベースの城館史料学の研究手法の地域における実践を行い、、
近世初頭の豊後岡城・竹田城下と中川領の支城体制を念頭に、地域史から全国史の視点まで様々に見解を提示していきたいと思います。
また、既に公表してはいますが、ひきつづき随時、関連して学術論文も発表してまとめる準備を進めています。乞うご期待。

2011年12月24日 (土)

三連続外桝形虎口の下原門。

24日は豊後岡城に踏査。
行ってみると、下原門跡の樹木が伐採されて見やすくなっていました。
私が拙稿[2007年、http://ci.nii.ac.jp/naid/110007043710]で、下原門と併せて三連続の外桝形虎口と
申していた豊後岡城の東の城門です。

まずは、拙稿をもとに、2008年の村田修三編『日本名城百選』(小学館、2008年)に掲載した豊後岡城下原門部分の縄張り図。
黄色の連続桝形虎口部分の形状にご注目。おおむね、城郭研究の間では認知していただいている次第。

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24日の昼前に撮影した、伐採した下原門付近の写真です。

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ちょっとわかりづらいですが、『名城百選』で示したような連続外桝形虎口の遺構があります。
奥に┏ 状の「腕」があり、手前から真ん中に┓状の「腕」があるのがわかるでしょうか。

さらに奥には下原門を形成する三つ目の「腕」があり、これらで三連続の出撃路である外桝形虎口を形成します。
以前、公表した縄張り調査の通りに現況遺構が残されていることがあらためて確認できました。

わかりづらいので、手前ふたつの「腕」について、補助線を引いてみます。

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いかがでしょうか。

主郭からの城道と並走して東ノ郭(御廟跡)から押出す出撃路となっています。
全国でも興味深い事例であり、豊後岡城の独特な縄張りプランの特徴が如実に現れた遺構になります。
縄張り調査による外桝形虎口の評価を提示することを以て、今後の整備に際して遺構の性格を踏まえた慎重な遺構保全を要望します。


☆追伸
御廟所跡となっている東ノ郭の北西側に続く第2郭付近では竹薮の伐採が行われています。
ところが絵図にもある水ノ手の虎口と土づくりの櫓台跡(写真、根元の盛り上がり部分)に伐採した竹が積まれた状態にありました。
遺構保全の観点から、現存遺構に配慮した伐採作業を強く要望するところです。

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2011年12月23日 (金)

荻台地の城館、鴫田城と弁当城を踏査しました。

23日は荻台地の城館跡(鴫田城と弁当城)を踏査してきました。
鴫田城は荻台地の南方、柏原郷の台地の先端に位置する丘城。
一方、弁当城は荻台地の北方、葎原郷の西側にあり下荻岳の麓に位置する平城。
なお、前述の下原城跡を含めて、弁当城など葎原郷の城館を考える際には、
玉来→君ヶ園→高城→中行年→馬場→藤渡→政所→木下→滝水→波野と通る往還を踏まえる必要があります。
荻台地の歴史の道とも言える玉来〜滝水間の往還については別途アップします。

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鴫田城跡は現在、周囲が土取りで破壊されていますが山上部分が残されています。
文禄期に中川家の与力となった田原紹忍が入ったとされますが、山上は特徴的な遺構は確認できませんでした。

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一方、弁当城跡は写真にある玉来〜滝水間の往還沿いにあります。
文禄年間に葎原郷に所領を得た宗像掃部(中川家の与力)が拠ったとされます。
写真右奥手の小山か、字「弁当城」のある左側の圃場整備された迫地のどちらかが比定地とされます。
この日は両方とも確認してみましたが、小山の方は目立った遺構はありませんでした。
そこで、字「弁当城」が左奥手にみえる下荻岳の麓であることから、こちらの方が比定地の可能性が高いと判断しました。
類例として、久住の都野方面に割拠した朽網氏が戦国末期に築いた居館も似たような地勢にあり、
宗像掃部が往還沿いに展開した葎原郷の後背地を押える立地に居館を配したものと思われます。

この2つの事例を踏まえると、やはり馬場(葎原)から藤渡川を挟んで北東に位置する
新藤の下原城跡は少し様相が異なります(この前、地籍図で復元した城跡です)。

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単郭の丘城である鴫田城跡や平地城館の弁当城跡など荻台地にみられる城館と比べると、
2.5m程度の土塁が台地を直線で区切る下原城跡は「浮いた存在」にみえます。
 

滝水・波野から万徳寺のあった馬場(葎原)を通り玉来に通じる往還に近接して位置したことを鑑みると、
下原城跡はより広範囲の防禦体制のもとで整備された城郭跡ではないかと考える次第です。  

2011年12月18日 (日)

法螺貝城を調査しました。

週末は、竹田市内の下田北須郷地区にある法螺貝城跡を調査しました。
芹川ダム湖の南方、芹川と馬門川の合流点に面した小高い山上にあります。
須郷集落を抜けた先に作業道があってアプローチできます。

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写真は作業道の入り口。城跡は中央の山ではなく、写真より左手奥です。

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土づくりながら、しっかりした切岸と直線的な塁線。南側は3m幅の土塁があります。

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笹を刈って虎口の形状を確認。両側に土壇を持つ両袖桝形です。

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2日間調査して、夕方には仕上がりました。次は清書です。
平成14年頃に大分県悉皆調査で一度見学したことがありましたが、
今回、自分で調査してみて、織豊系縄張り技術による城郭であることを確認。

公領と岡藩領の境目に位置する法螺貝城は立地からみても岡藩の支城と言って良いでしょう。
これで
小牟礼城に続いて2つ目。どちらも今のところ文献史料には記述はないものの縄張りから裏付けることのできる城跡。
岡藩初期、関ヶ原前後の緊張関係を今日に伝える貴重な遺跡になりそうです。
確認調査して材料を揃えてから、岡藩初期の支城について一本にまとめます。

2011年12月15日 (木)

豊後岡城の縄張り調査と報告を進めています。

自宅裏の一番身近な城郭跡、豊後岡城を中心に直入郡の城郭と中・近世移行期研究も暫時進めています。
特に、最近はリボジトリから拙稿がダウンロードできるようになりありがたいなあと思っています。

今春に投稿した別府大学『史学論叢』41号の拙稿「豊後岡城と鬼ヶ城・木戸の城について : 近世城郭と城下の関係を考える手がかりとして

は別府大学のリボジトリからダウンロードできます。

http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg04101

こちらは、豊後岡城の城下に広がる武家地にある2つの出城について論じたものです。
なかなか興味深い事例ですのでご意見いただければ幸いです。

その前の38号に投稿した拙稿「縄張り調査と城郭跡の資料的活用 : 豊後岡城東ノ郭の縄張り調査を通して」も同じくダウンロードできます。
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg03804
こちらは、豊後岡城が主郭(天神山)と東ノ郭が一城別郭的な曲輪配置になり主要部を形成する独特な縄張りをもつ近世の織豊系城郭である
ことを指摘したもの。
併せてご意見いただければ幸いです。
また、要点については、小学館から刊行された『日本名城百選』の豊後岡城の項にもまとめています。
この他、『日本歴史』752号
(新年特集 史跡・景観の保存と活用)に寄稿したものとして、
「中・近世城郭の構造分析と城郭跡の保存・整備--城館史料学の視点から」でも触れています。


これに、城館史料学に投稿した「豊後岡城と竹田城下の櫓屋敷について—織豊取立大名中川氏と近世城郭・城下の考察—」が掲載されれば、

豊後岡城の縄張り構造と初期藩政の要点をまとめた論考シリーズはとりあえず取っ掛かりの目処はつきそうです。

今後も、H町のYさんのように、豊後岡城なら○○さん、と言っていただけるよう精進したいものです。

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2011年3月30日 (水)

豊後岡城、夕方巡検。

ノー残業な水曜日の夕方、寓居より徒歩10分で近戸門まで行ける豊後岡城を巡検なりヽ(・∀・)ノ
全国五本の指を目指す縄張り研究者の目線で、テキパキと視察して廻りましたです。

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歩いて10分で近戸門というスバラシイ環境。お散歩感覚で巡検です。ありのままの遺跡を魅せるには草刈りが第一ヽ(・∀・)ノ

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屋敷平面&造園復元が成された中川覚左衛門屋敷の側にある豊後岡城の外郭ラインを形成する大空堀、相変わらず人知れず草むしたまま。

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左手は(おそらく)《岡城真景図屏風》をもとに石垣修補された家老屋敷。月刊文化財でも紹介された史跡整備ツーリズムの場所。
一方、右手に見え隠れするのが豊後岡城の外郭ラインを形成した横矢掛かりの大土塁。城郭跡の性格を明確に示す遺構はどちら?

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正保城絵図に描かれていた旧水ノ手門跡や東ノ郭下位曲輪の櫓台など、一城別郭の特徴を示す遺構は写真奥の薮の先(T高の学有林)にある。

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下原門には、わずかな高まりや根石列が複合型桝形虎口の痕跡として残る。
地表面にむき出しの痕跡は、
縄張りを理解し遺構を読み解く視点を持った上で慎重な取扱いが欠かせない。

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「にっぽんの名城」で千田嘉博氏も申していたように、城郭跡の遺構は防御の仕組みを理解してはじめて評価できるもの。
主郭(天神山)にある外桝形虎口+内桝形虎口な西中仕切門・太鼓櫓門と、
東ノ郭にある二つの城道が重なり合う複合型外桝形虎口な下原門(伝えたいふるさと2月号を参照して下さい)、
そして上記の西方外曲輪を形成する外郭ラインの仕組みが理解されて、はじめて優れて、かつ奇妙?な近世城郭、豊後岡城と大名中川氏の特徴を評価できる次第。
ボクがどこかの委員なら、真っ先に縄張り評価を行う重要性を担当者に指摘します。

この事例に限らず、縄張り研究の視点や成果が現場では加味されないまま続けられる各地の城郭整備の問題点を指摘したのが、日本歴史1月号の拙稿というわけです。(^^

Foxkeh! フォクすけ!


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