2012年6月 4日 (月)

第4回由学館セミナーに行ってきました。

3日は九重の建築学会九州支部の歴史・意匠系研修合宿を後にして、午後から竹田市へ。
先週無事に撤収したはずの竹田市で開催された第4回由学館セミナー『中川氏三代』を拝聴してきました。

由学館セミナーは、文化財行政の委員や歴史資料館の別館水琴館に集う「先生たち」が、
大学のない市に持ちかけて、2年前に発足した一般向けアカデミー講座みたいなものです。
ボクが税務課に異動となるのと入れ替りではじまった「先生たち」の講座モノにわざわざ出向くのも手間でしたが、
今回は、晴れて「復活」したあいさつ代わりと、由学館な方々のご研究の進捗状況のリサーチを兼ねて出向いた次第。

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で、このセミナー、今回は前日まで「広報たけた」には日程とテーマだけで、講師未定なまま。
しかし、当日行ってみると、市内では防災無線やチラシで告知が成されていたようで、
現地でチラシをみて、講師が長浜城博物館の太田浩司さんだったのでビックリ(^^
会場は、3月まで勤務していた市役所の三階会議室。
セミナーの前にサンチアゴの鐘の記者会見がありましたが、それはさておき、セミナーです。

報告は三本で、清秀・秀政・秀成をそれぞれの講師がご担当。
太田さんはトップバッターで賤ヶ嶽合戦と中川清秀について報告されました。

昨年の大河ドラマの歴史考証をされた先生のお話を……と時間が40分程度しかなく駆け足だったのが惜しまれました(ρ_-)ノ
ぜひとも織田・豊臣政権と中川清秀というかたちで
基調講演でじっくり拝聴したかったです。

二本目以降は由学館セミナーの側からで、別大の豊田学長が中川秀政について、三木まで行って撮影した写真と共にお話。
豊田報告については、大坂城天守閣の中村博司氏の茨木城と初期豊臣政権の摂河泉支配に関する論考を踏まえて、
織豊政権下における中川秀政の政治的立場(つまり中川氏の位置づけ)を皆さんに伝えてほしいと思いつつ拝聴。
むしろ、太田先生に織豊政権下の秀政像についてもお伺いできればと思いました。

そして三本目にわたしが税務課に異動した後、後任で資料館を担う入江くんが中川秀成について報告。
入江報告は、文献史料からわかることをきちんと整理してきたなあという印象でした。
今後も、身近な環境に惑わされずやってほしいなあと思う次第。

質疑応答では、戦国期の十川→中川氏時代の竹田城下への移動についてフロアからあり、
太田さんが近江国の事例(小谷→長浜など)をもとに、全国の織豊期研究では著名な織豊期城下町論を紹介されていたのが印象的。
そして、長浜市域出身の田中吉政の柳川城普請の事例を挙げて、織豊大名の土木工事の大きさを説明されていました。
竹田の皆さんに、ボクも議論に参加してきたマクロな視点での織豊期城郭・城下論の一端が披露されたのをみながら、
ボクが壇上に居たら、太田さんのボールを受けて竹田城下の具体例で応酬するんだけどなあと思いつつニヤニヤしてました。
由学館な先生方では、せいぜい元締めからの○町がどう、××町がどう、水路がねぇというウンチク披露が限界でしたからなおさら。

とあれ、今回は、何より九州ではなかなか拝めない太田浩司さんの講演が聴けたのがよかったです。
また、現在、進めている自分の「豊後岡城と岡藩初期藩政の研究」についても今後押えるべき要点を確認できてよかったです。
ついでに、何年経っても変わらない永遠にそのままな水琴館……もとい由学館のお歴々のご尊顔を拝見できて面白くありました。

会場の様子は竹田市ホームページの写真ニュースにありますのでどうぞごらん下さい。ニヤニヤしている誰かさんも写っています(^^

2012年4月 8日 (日)

文禄・慶長検地帳の村落、直入郡城後地区を行く。

5月末に近戸の寓居から上津役へ引っ越すまでは週末は竹田市と往来。
4月第一週の週末、
由布院・湯平経由で直入町方面から最初の竹田市入りです。
さっそく、ライフワークとする中・近世豊後直入郡の研究を進めるべく、直入町上田北の城後地区などの下見をしてきました。

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城後地区(城後村)は、城後川上流の城後と下流の荻原から構成されています。
名前の通り、大友氏時代の有力国衆田北氏の居城、田北本城↓の西南に位置します。

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戦国・織豊期の城後村は、田北氏の一族城後氏が割拠し、文禄年間に大友氏改易により帰農して田北氏を名乗ったようです。
その後は近世を通して城後村庄屋として続き、良質の近世文書群(田北家文書)を遺してきました。
昭和40年代に佐藤満洋氏らによる文献調査を経て、
現在は大分県立図書館に所蔵されています。
その中に、400年前の文禄・慶長期の豊臣政権下での検地帳、及び寛永年間の竹中伊豆守による検地帳が伝わっています。

文禄・慶長期の太閤検地をもとに、佐藤満洋氏により大分県地方史で考察が発表されています
しかしながら、それ以来、現地踏査などを踏まえた総合的調査は成されないままに圃場整備も行われてしまいました。

それでも、今日もなお村落景観を残す城後地区は、400年前の様子を文献と現地調査から調べる余地が残されているように思えます。
併せて、近隣の田北本城・松牟礼城の調査も併せてこの際整理しておこうと思い、フィールドに加えることにした次第です。
今後、閉鎖字図の確認や聴き取り調査などを行いつつ400年前の景観復元を試みたいと思います。ご協力よろしくお願いします(私信)。

既に、荻地域では葎原郷の城郭跡と関連資料の調査から近世初頭、400年前の荻台地について調べる準備を進めています。
また、直入地域でも岡藩の支城法螺貝城の調査から当時の境目地域の動向を進める予定です。
これに加えて、親しい荘園研究者や別府大学などで行われている荘園故地調査の手法に学びつつ、
どこまでやれるかわかりませんが、痕跡から丹念に読み解くフィールドワーク系歴史学の「地域学」への有用性を示す意味でも、
上田北に残る400年前の土地家屋台帳(検地帳)から当時の村落景観の一端を読み解ければ、と考えています。

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2012年2月27日 (月)

豊後岡城にある織豊系の桝形虎口、三題。

今さらな昔語りはさておき、今日も近戸の寓居から登城し、夕方巡見するのでした。

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みよ、絵に書いたような石塁(一部、土塁)が伸びて嘴状に形づくる、⎾┓のお手本のような外桝形虎口。
城外側へ出入り口を押出すという出撃的な姿勢がそのまま投影されたプランだとわかる好材料です。

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相変わらず、わかりづらいですけど、⎾┓なパターンが続く連続外桝形虎口の下原門跡。

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東中仕切門跡。これも外桝形虎口。横堀を越えて対岸に張り出す、千田Ⅳ期B、木島α系統Ⅶ類な虎口変遷モデルの指標でもある虎口です。
⎿┗┓ な形で、向こう側に土塁+石塁、
手前に土塀の基礎が土塁状に残っています。

今日もなお、良好な状態で織豊系縄張り技術の基本的な要素と教科書的な枡型虎口モデルから彼らの防禦の工夫がダイレクトにわかる点が
この豊後岡城の遺跡としての魅力です。また、その防禦の工夫が社会体制に昇華した姿を伝える点が史料的価値の高さを示しているのです。
高石垣の優れた事例は他にいくつもありますが、全体が残る故に、教科書的な虎口プランと防禦の仕組みがわかる近世城郭はそうそうありません。
なので、約400年前に織豊取立大名の中川氏が整備した虎口プランの的確な評価と保存を何度も指摘するのです。

これらの虎口プランが堪能できるのは、下草が霜で枯れた冬季に限ります。(上2つは伐採によりさらにわかりやすくなりました。)
ぜひ、飲み物持参でいらしてください。

2012年2月21日 (火)

豊後岡城の古式と思われる軒丸瓦、城郭遺跡と瓦片についてなど。

最近、委員会さながらに夕方巡見していると、整備のための発掘現場に出くわすことがあります。活発に整備のための調査をされているようです。
おかげで、以前にお茶屋のオバチャンにみせていただいた↓の軒丸瓦以外にも、ボチボチ古式と思われる軒丸瓦が確認できるようになりました。

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↑は既に紹介した今は解体された茶店のオバチャンにみせていただいた軒丸瓦。その際、掲載許可はいただいています。
亡父が地獄谷で採集したとのこと。外縁部が厚くてしっかりした界線と左巻きの巴紋。12コの珠玉があります。

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↑は、年末に関西のKさんと歩いた際に、現在行われている桜の馬場(城代家老屋敷跡)の発掘現場の近くに置いてあった軒丸瓦。
一部欠けていますが、外縁部が厚くてしっかりした界線と左巻きの巴紋。12コの珠玉があるタイプです。
もちろん撮影しただけですのであしからず。

この他、現在行われている桜の馬場(城代家老屋敷跡)の発掘現場側に軒丸瓦があり、これをみると、
上2つよりも少し外縁部の厚みがないもの。界線はやや細く右巻きの巴紋。16コの珠玉があるタイプでした。
(もちろん実見しただけですので、持ち帰ったなどと言わないようにお願いします)

さて、現時点ではこの2つのタイプ、どちらも形式だけなら古式なもの(17世紀初頭)と評価できるようです。
豊後岡城は地表面に落ちているものをみた範囲では桟瓦も多くて、余り古い形式の瓦がないと思っていました。
しかし、最近これらの瓦をみるにつけ、あるところにはあるような感じがしています。

ところで、城館史料学会、城郭談話会、織豊期城郭研究会などで報告されてきた城郭瓦の成果は今日、広く認知されており、
城郭跡に関わる調査者ならば近世城郭における城郭瓦の調査とその成果が公表されることの重要性は共有されていると思います。
そのひとつとして、近世の城郭遺跡の瓦片の取扱いについて取上げると、『城館史料学』第三号の木島孝之氏の論文にあるように、
無数の瓦片などが多く含まれる近世の城郭跡の発掘調査では、そのほとんど一層に近い表土を矧ぐ際に、
どういった形式の瓦片がどれだけの分量含まれているか、またどういった状態で散布していたのかを
慎重に調査し記録しつつ作業を進めることの重要性が指摘されています。

瓦片ひとつひとつはたいした資料とはならないものですが、一括の分量として扱うことで、それらの分布範囲の傾向をつかむ材料として、
また瓦片のタイプ別含有割合から、当時の建造物の様相や瓦の使用状況を知る貴重なデータが得られるというわけです。
それを知らずに、礎石などの検出に目がいく余りガサッと表土を矧いでしまっては、こうしたデータ収集はオジャンになり、
史料的価値を秘めた瓦片は残土と共に廃棄されることになってしまうので要注意です。
調査者の見識ひとつで、瓦片が貴重なデータを導く資料となるかどうかが決まります。
これらの見識も、広く城郭関連の研究者・担当者のネットワークの中に入り議論を重ね、先行研究に学ぶ中から得られるものです。

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さて、豊後岡城の城郭瓦の先行成果としては、1988年の近戸門側の普請方近辺の発掘調査があります。
報告書では、その時の担当者さんが検出された軒丸瓦について形式表を提示し、遺物の年代観を提示するなど優れた先行研究を公表されていました。
しかしながら、その後は西ノ丸や大手門の発掘調査が成されたにも関わらず、まとまった報告書(事業報告書ではありません)も少ないまま推移してきました。

ようやくここ数年は西方外曲輪の家老屋敷跡を中心に発掘調査→整備が始まり、まとまった分布を知る重要な機会と思われます。
ですので、上記の写真にて、軒丸瓦などの城郭瓦の存在を外部の研究者の皆さんに紹介すると共に一括資料としての瓦片の取り扱いを含めて、
学術的にオープンな場での検証と幅広い調査成果の活用を広く喚起したいと思います。
その嚆矢として、関係筋には充実した専門職の体制をフルに回転していただくことで、
早い段階に、単なる事業成果報告や文献史料集に留まらない学術的な考古学調査とこれまでの成果を盛り込んだ
本格的な発掘調査報告書を刊行されることをお願いしたいところです。

2012年2月20日 (月)

伝えたいふるさとで400年前を探る。

岡城・城下町もいいけど荻台地もね、というわけではありませんが、
伝えたいふるさと2月号にて、「400年前の荻台地の城館」と題して、旧荻町指定史跡の下原城と弁当城・鴫田(峰)城を紹介しました。
11〜12月の調査成果をもとに作成した下原城跡の復元図を掲載し、下原城跡が中川領の支城として整備されたとの見解を示したものです。
加えて、別府大学の調査成果をより精査し自らの現地踏査を加味して弁当城の位置もおおよそ比定することが出来ました。
中川秀成入部時に荻台地に所領を得た与力の田原紹忍・宗像鎮続の持城、弁当城、鴫田(峰)城と、
葎原郷の統治拠点として機能した平地城館の弁当城と、軍事的機能が前面に出た下原城を対比することで、
これらの城跡が関ケ原戦時の荻台地における緊張状態が読み取れる重要な史料であることを紹介しました。

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今回は法務局にて行った閉鎖図面の調査から、400年前の下原城跡の復元図を作成しました♪( ´θ`)ノ
そうした成果を盛り込み地域をあるく眼差しから400年前の荻台地を紹介する、「伝えたいふるさと2月号」は、殿町の竹田創生館に置いてあります。
興味ある方はお問い合わせ下さい。

旧荻町の下原城に続いては旧直入町下竹田地区にある法螺貝城を紹介したいと思っています。こちらはバリバリの織豊系縄張り技術の土づくりの山城です。
このように、日々、着実に作業を進めていますので、できるなら専門職にあられる関係筋からも岡城築城前後、400年前の地域の文化財から
包括的な視点の歴史像を市民に示していただき議論できれば幸いに思います。

2012年2月 8日 (水)

寒暮登城。

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近戸谷の一番奥の光景。真上には西方外曲輪(西ノ丸)の外郭ラインを構成する櫓台が睨んでいます。
わざわざ谷のおおよそ真ん中の位置に合わせるように櫓台が
配置されている点が豊臣大名らしいテクニックです。

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どなたかが説明板を掲げているのに気づきました。拙稿の内容を踏まえた解説文になっていて面映ゆい限り。
豊後岡城の縄張りの特徴をいかんなく発揮している東ノ郭から下原門跡周辺について、先行研究とどう向き合いながら整備するのか、衆目がみています。

前にも紹介しましたが、城郭跡を扱う専門の方々なら下記の遺構が連続外桝形虎口にみえないようでは困ります。
400年の時を刻む遺跡に対して、城郭跡の縄張り理解という専門的な力量が問われる瞬間です。

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2012年2月 6日 (月)

豊後岡城主郭の軒丸瓦をみせていただいた思い出。

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写真は、豊後岡城の二ノ丸茶店のオバチャンに以前に見せていただいた軒丸瓦です。
はっきりとした年代はわかりませんが、瓦頭の様式的には古式な部類に属するもののようでした。
文禄慶長期とまでは言いませんが、様式としては寛永より遡る近世初期と言ってもよい部類の軒丸瓦でした。
オバチャンは亡父が地獄谷側の斜面で採集したと申してました。その際、今後の紹介についてご快諾をいただいています。

豊後岡城の地表面で確認できる古瓦は桟瓦など近世後半のものがほとんどです。
その中で古い様式の古瓦がいくつか確認されています。
20数年前の西ノ丸公有化に伴う普請方の発掘調査では、出土瓦から瓦編年表が作成されています。
その中でも近世初頭に遡るだろう軒丸瓦の瓦頭が記録されています。
残念ながらその後は古瓦についての調査成果もなく、まとまって表面採集された報告もないようです。
とある方が瓦について問い合わせたところ、その20数年前の軒丸瓦はまだ整理できていないのだとか。もったいないことです。

その意味では、上記の軒丸瓦は主郭に近いところで採集されたものとして貴重な遺物と言えそうです。
茶店にあったのを撮影させていただきましたが、去年の秋に茶店は取り壊されてしまいました。
その際、この軒丸瓦はちゃんと引き渡されたのか、どこへいったのかは今の身分では知る由もないのですが………。

四百年前の近世初期の息吹を知るやもしれぬ貴重な資料ですので、確認できているならぜひ公開してほしいですね。

2012年2月 3日 (金)

豊後岡城の御城外櫓場と竹田城下町

城下町とは、文字通り城郭が築かれてはじめて成り立つもの。
ですので、城郭の縄張り構造を踏まえず切り離して語られる城下町論や都市論はあんまり意味がありません。
今日の多くの都市のルーツとなった城下町は、織豊期の豊臣系大名や関ケ原戦以降の諸大名が新たな領土に入部し、
織豊系縄張り技術ベースの近世城郭を築城してはじめて成立したものがほとんどです。
城郭が築かれなければそこには町は成立しなかったと言い換えることも可能でしょう。
よって、都市のルーツを語る際に城下町論を行うならば、主体たる城郭の理解を抜きにはあり得ないと言わざるを得ません。


既に示した豊後岡城の縄張りの特徴を踏まえて、城外の上角台地・竹田城下町をみるとその独特な風景がみえてきます。
その一端を示すのが、『中川氏御年譜』にも収録されている「岡城中櫓場城外櫓場之覚」です。
この内、下記の城外櫓場13ケ所が設置されたことを抜きにして、竹田城下町の性格は捉えられないと思います。

一 菅作之進屋敷 吉村五藤治屋敷
  願成院山 惣役所重門上 村上臺四郎屋敷
  中川大三郎揚屋敷 小河弥右エ門屋敷
  室十右エ門屋敷 中川平右エ門屋敷向
  吉田峯之進屋敷 大勝院山 烏嶽
  下石勘右エ門屋敷  左十三ケ所

場所に示すと下記の図の
通りです。

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豊後岡城を中心として、上角丘陵の要所に櫓場が築かれていることがわかると思います。
櫓場の覚書を手掛かりに現地を踏査すると、櫓屋敷と呼ばれた櫓台を持つ屋敷跡や櫓場跡を確認することが出来ます。

この中で、西端の阿蔵口を押える茶屋の辻に築かれた下石勘右エ門屋敷(上角鬼ヶ城)は隅櫓を複数構えた方形の出城。

Rimg3285◀上角鬼ヶ城の隅櫓

北側の近戸口を押える村上臺四郎屋敷(木戸の城)↓は両袖桝形を持ち、石垣で囲まれた出城となっています。 

Rimg4128◀木戸の城の石垣塁線。

そして東側の菅作之進屋敷には、当初は屋敷の直下を通っていた十川町ヘ下りる城道を押える位置に櫓台が遺されています。
また、眼下に十川町を見据えることが出来ます。

Rimg4102◀下原門から十川町へ下る旧城道を見据える櫓台跡

この配置をみると、出城や櫓場は豊後岡城の三口(下原、上角、近戸)から伸びる尾根上の武家地に築かれており、
城外で攻め手を牽制し先制攻撃を加える役割を期待されたことがわかります。
また、西側の竹田城下町をすっぽりと囲むように背後の尾根に櫓場が整備されていたことがわかります。

城外櫓場の現地調査をもとに、次の4タイプ(A:出城型櫓屋敷(櫓台が一体化した武家屋敷)タイプ、
B:屋敷内などに単体の櫓台が配置された櫓屋敷・櫓場タイプ、C:櫓台が伴わない見切場タイプ、
D:後世の改変等により特定できないもの)に分類して、分布をみると
下記の図のようになります。

1

これをみると、豊後岡城の尾根筋に築かれた出城・櫓場は明確な土木構築物を備えたものが多く、
本城部分の防御を第一義として築かれたことがわかります。
城下の中でも家臣団が居住する武家地は本城部分と一体的な役割が期待されたことが見て取れます。

一方、城下町側は外縁部に櫓場を構えているものの、こちらは物見台のような簡単な構造が多かったようです。
櫓場で囲まれていたことは、竹田城下町が本城を核とする求心的な秩序の中に位置づけられていたことがわかります。

竹田城下町が本城と武家地を構える大名家と家臣団を支える供給基地として位置づけられたものと思われます。
しかしながら、櫓場の形状が若干劣ることから、本城と武家地より城下町はワンランク下の位置づけが成されていたことも見て取れます。
つまり、いざという時には本城・武家地に比べて城下町は放棄もやむなしという位置づけだったと思われます。

幸い、豊後岡城で激しい戦闘が起こることはなく竹田城下町を捨てて本城・武家地に立籠ることはありませんでした。
多くの城下町と同様に、350年余りの平穏な時代には豊かな城下町文化が栄え、近代に引き継がれることになりました。

他の城下町ではそうした本来の基層構造を知る手掛かりがないため城下町の位置づけは見落とされることが多いのですが、
全国でも珍しい城下町の外側を囲む櫓場の存在がわかる竹田城下町は、本来の城下町の役割を知るとても貴重な物証と評価できます。

このように、全国の最前線の城郭研究の現場に足を運び城郭の縄張り構造を読み解く目線を鍛えることから、豊後岡城のみならず、
竹田城下の櫓場が貴重なものであることや、原初の風景を遺す竹田城下町の資料的価値、独特な景観を持つ町の履歴がみえてきます。
それは、縄張り研究ベースの城郭理解を以て現地を丹念に踏査し、その知見を以て文献史料にも当る姿勢で臨むことで得られるものです。

近世初頭の本来の本城と武家地・城下町の関係性を遺跡として遺す豊後岡城・竹田城下の重要性を指摘すると共に、
主たる城郭を取り扱う縄張り研究の理解と実践を抜きにしては城下町論を語れないことを認識していただければ幸いです。

2012年1月25日 (水)

下原門跡、1月巡検とその所見。

年末に伐採されていた東ノ郭(御廟所)跡、下原門跡について、仕事を終えて近戸の自宅から登城し夕闇巡検してきました。

豊後岡城の三口で最も緩斜面(車で登れる市道が通っている)に面した出入り口である下原門。
城攻めの際、真っ先にねらわれる可能性が想定される城門です。
それ故、中川氏は築城に際して、志賀時代の岡城だった東ノ郭を筆頭家老に預けると共に、
東ノ郭から開口部側に向けて、L字の石塁による桝形虎口を何重にも連ねる連続外桝形虎口を構え厳重な防御を施しました。

このことは既に拙稿や『名城百選』にて調査成果を公表しています。
筆頭家老に任せた曲輪から続く過剰なまでの桝形虎口を重ねる虎口プランは全国でも貴重なものです。
その評価は、写真の現況遺構から虎口プランをきちんと読み取ることが欠かせません。
他の城郭以上に、豊後岡城の評価に際しては、調査事業側に城郭遺構把握(縄張り理解)の力量が問われます。

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今回、上掲の写真のように公有化により伐採作業が行われ、拙稿の縄張り調査で解明された姿が現れてきました。
ところが、現地を歩くと下の写真のように伐採作業の際に虎口付近の石列が動いたとみられる形跡がありました。

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     西からみた写真        ↑この位置から動いたとみられる。

千田嘉博さん外による『城館調査ハンドブック』でも指摘されるように、遺構評価のポイントとなる虎口周りの適切な保護は重要。
また、下原門においては微地形の読み込みに併せて現況の石列を追うことも虎口プラン解明に必要です。
そうした配慮が必要なのに、
写真の他にも、切り倒した木材なども周辺に遺された石列を避けることなく石塁現況遺構の上に重ねたりしていました。
従事者や指導する委員の先生が縄張りをわかっているならば、虎口周りの石列やL字の石塁を痛めない配慮がみられたはずですが。。。

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↑2011年3月段階の東側からの写真です。草むらに石列が直線上に点々とあるのがわかると思います。
せっかくの整備が、学術的な判断材料を損ねるようではいけません。
豊後岡城の史料的価値を内外に知らしめるためにも、事業側には全国の城郭研究の成果に耳を傾けていただきたいと願うと共に、
今後もすばらしい城郭遺跡の適切な保全の一助となるべく、随時、私見を示していかねばと思う次第。

Photo

なお、虎口の評価を抜きに、絵図資料や「御年譜」など文献史料を並べて「番所」の平面復元で完了、とならないようにも願いたいものです。

2012年1月24日 (火)

慶長期中川領の調査を進めています。

今日はとある酒席にて、「ここに住んでいて、今年の抱負」がテーマでした。
ので、慶長期中川領の本城・城下・支城体制について、城郭遺構調査を柱とした歴史研究からわかったことを少し披露してきました。
わかる方にはいい反応をいただきました。
荻台地の歴史の道も「あれがそうなのか」と反応いただき、実にありがたいことでした。

400年前の慶長期中川領は豊後岡城以外にも、城下に出城・櫓場を構え、関ヶ原戦前後には領内の要所に軍事的な拠点となる支城を築いていました。
従来は大藩クラスが本城・支城体制を整備するというイメージでしたが、中規模の中川領でも案外改修を加えた事例が見つかるんだなという成果。
西国諸藩なら、関ヶ原前後に何らかの形で支城が整備されていた可能性があるということを指摘しました。
ですので、それぞれの地域で、周囲の在地系城郭と比べて縄張り技術の上で「浮いた事例」があったら、豊臣系大名による改修の可能性を考えましょう、
というお話。

さて、私の方は、一昨年に野に出されましたが、その分、麓の近戸に付城を構えて、本城だけでなく上角台地の出城・櫓場と領国内の支城の調査を進めてきました。
日頃は一般業務に時間を割かれても、それ以外の時間を用いて以前よりも着実に成果を提出させていただいています。
「私は動かないと思いますが」と自負されたご専門の方からもそろそろ十分な時間を現場に費やされた日頃の研究成果を提示していただき、衆目の前で議論したいものです。(私信)

Foxkeh! フォクすけ!


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