2012年8月19日 (日)

第2回九州山岳霊場遺跡研究会に行ってきました。

19日は第2回九州山岳霊場遺跡研究会に参加すべく、会場の糸島市まで遠征してきました。
前回は土日休みの稼業でしたので、大分から九歴のある小郡まで出て懇親会まで行きましたが、
今回はシフト稼業になり、北キューから糸島市まで日曜のみの参加でした(ρ_-)ノ
いい営業活動になったと思うとちょっと惜しい部分もあり。
でも、前回と比べると格段に近い領域に復帰したのでリサーチを兼ねて参加してきました。

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さて、今回の会場は糸島市人権センター。
テーマは第1回の「北部九州の山岳霊場遺跡-近年の調査事例と研究視点-」を受けて、各地の事例を検討する段階へ。
第2回は、「背振山系の山岳霊場遺跡-背振山・雷山・怡土七ヶ寺-」と題して背振山系の山岳寺院を中心とした構成でした。

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基調講演・報告6本にシンポとてんこ盛り。
歴史学、考古学、美術史学、民俗学など様々な分野からの報告で、9時半から17時半までのロングランとなりました。
事務局の皆さん、おつかれさまでした。

自分としては、城郭史は戦国・織豊期が主な対象なので、直接からむことは少ないのですが、
怡土・志摩郡に展開した原田氏や那珂郡・早良郡に展開した筑紫氏の動向について、城館調査から研究を進めてきましたが、
それらの地域の基層構造を押える上でも、背振山系の山岳寺院の動向を整理できて興味深くありました。
また、仕事上、関連する遺跡の美術作品、考古資料などを取り扱う機会もありますので、その観点からもいいリサーチになりました。

第2回の資料集も糸島市域を中心に山岳寺院遺跡や民族調査の成果などを含めて充実したものでした。六一書房で頒布するそうです。
第1回の「九州山岳霊場遺跡集成」には豊筑地方の山岳寺院遺跡もあるので、併せて稼業に反映させたいものです。

夏も峠を越して、城郭史を柱にモノから探る歴史学をしっかり体系だてるためにも、いろいろと深める日々です(´ー`)。oO

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追伸:帰ってから五ヶ山ダムに沈む予定地の福岡県調査報告書『五ヶ山・小川内』を読み直す。
吉良国光さんの「中世の背振山について」と背振山関係中世資料集をあらためて復習しました。

2012年6月23日 (土)

第46回福岡県地方史研究協議会に行ってきました。

本日は、福岡県立図書館で開催された第46回福岡県地方史研究協議会に参加してきました。
2年前の第44回研究協議会「福岡県の中世山城」で報告させていただきましたが、
その時はハコから解放されて、「4年ぶりに北部九州のフィールドに復帰です」と調査するぞと気合いを入れていましたが、
岡山方面と豊後岡城の調査にかまけている間に2年が経って、

今回、13年ぶりに本当に福岡県復帰になったこともあり、あいさつを兼ねて出向いた次第です。
よく帰ってこられましたねとあたたかいお言葉をいただきました。

今回のテーマは「福岡県の近世城郭 1.筑前の部」ということで福岡城が対象です。
なので、多くの関係者が来られていました。
報告は私の比文時代のボス、服部先生の「福岡城の歴史と構造」と、
以前、ご一緒させていただいた柴多一雄氏の「時代を生きた福岡城—築城から現代まで—」でした。

服部先生の報告は聞き慣れたものでしたが、福岡城周辺の歴史地理情報を集めたものは興味深いものでした。
だけど、城郭に関する解釈は相変わらずでして(・_・;)
2つの門を備えた定型の桝形があるかないかで三の丸の虎口の方が主郭部よりも防禦意識が高いとする解釈は、
正直、どうなんだろうというところとかいろいろツッコミながら拝聴。
また、持論にこだわっておられる下之橋御門復元についてもいろいろと考えながらの拝聴。
というのも、元々、ぼやで近代に単層に変更されていた門を二層に戻す復元の根拠についての議論なのですが
復元案を創った方の根拠も、それに反論として自説を推す根拠もどちらも復元対象となる下之橋御門の古写真がないので、
残っている上之橋御門の写真を下之橋御門と一緒の形だからという前提で使っているのはどうなのかという疑問が拭えません。
「実際の下之橋御門とは違う」ものを、やれ当時はこうだ、それ光の辺り具合が違うとか議論しても意味がないのではと思いつつ拝聴。
これに関連して以前に先生が出されていた「城郭復原無用論」ではありませんが、
近代の改変後の姿しかわからない建造物を
学問的検証がはっきりしないで復原はむやみにするものではないことを再認識した次第です。

むしろ、今日聴きたかった柴多さんの近代以降の福岡城跡についての報告で、下之橋御門が歩兵第二四連隊兵営
時代には
正門=「大手門」として扱われていたことをあらためて知ることができたのは有意義でした。
そして戦後は史跡としていち早く昭和32年に指定し、国有地の用途変更などに県の方がむしろ反発して保存しようとしたことが
今日の三の丸まできっちり残る「遺構の残りが良い近世城郭」たる福岡城跡を残したという話は興味深く拝聴しました。
柴多さんの報告を聴きながら、資料としてみた場合にどうやって保存するかをいろいろと考えさせられるものがありました。
学問的に「下之橋御門」の復元を考えるならば、従来は近世福岡城段階に戻すことが自明のこととされてきました。
しかしながら、「復原無用論」の視点で考えるならば、当時を知る決定的な資料が乏しい以上、

かの門は資料的に遡れる歩兵第二四連隊兵営時代のぼやで黒焦げになる前の原状復旧が妥当だと言うべきだったのかもしれません。
大阪城天守閣などにもみられますが、近代さえ歴史となってきた昨今においては、
廃城以後の変更についても現代につながる「歴史的変遷」であり、簡単に抹消して過去への「復原」とはいかない。
図らずも福岡城下之橋御門の復原は物語っていることを今回の協議会では考えることが出来たのはいい勉強になりました。

2012年5月22日 (火)

上津役に住む。

ボクが北九州市に引っ越すことになり、土地勘もない中2〜3週間で家を探すことになった際、
たまたま紹介していただいた中で行き当たったのが、上津役という場所でした。

しばらく田舎の借家住まいだろうと鷹を括っていたので、ある程度の広さは必要だったし、
田舎暮らしで慣れた体には、臨海側の工業地帯近辺で煤煙に晒すのは厳しかろうということから、
鹿児島線沿いはパス。(実際にコチラへ来て、臨海部の煤煙のただよい具合は予想以上でした。)
で、市外の郊外に住むか、高速への出やすさから内陸かなあと思っていたら、上津役でした。
但し、今は上津役(上上津役や町上津役・下上津役)の大字は宅地化の波で新しい地名や地番が
出来ていて、以前は小字にすぎなかったものが町名になったりしています。
ボクの住みついたのはどうも新開地のようで、ホントならもう少し旧来の住宅地界隈に借家があるとよいのですけどね。
背後は山地でよい風が吹きぬけ、水は清く、宅地化しつつもみどりの多い環境はベストとまではいかなくともベターな選択でした。
それでも、竹田市での自然と共存する環境とは比べものにはなりませんがね。。。(ρ_-)ノ

その上津役地区は、面白いことに近くを長崎街道や福岡藩主の参勤道が通っていた歴史的にも由緒の深い地域でもあります。
また近くには麻生氏の城郭跡もあり、少し行くと帆柱山・花尾山城と麻生氏の拠点に近い立地でもあります。
山地から伸びる稜線と河川が削った谷部が繰り返す地形は中世以来開けた場所のようで、
中世には上津役郷と呼ばれていたようです。そこから南には楠橋荘・香月荘・野面荘と続いています。
いずれ、仕事と別に上津役地区の歴史についてはゆっくり歩き回って、おおよそのラフスケッチを皆さんに紹介できたらいいなあと思っています。


思えば、大学院の頃は九州北部の国衆が築いた戦国期城郭を調べるべく、福岡平野周辺を手始めに東へ進んでいく研究計画を立てていました。
予定では麻生氏や長野氏、秋月氏・高橋氏まで行き着くはずでしたが、福岡平野周辺を終えたところで仕事を得て竹田市に越していきました。。。
それから13年後に、北九州市に移り、花尾城に拠る麻生氏の拠点に近い上津役地域に自分が越すことになろうとはなんとも奇縁を感じる次第です。
文献史料では断片的な彼らの足跡を城郭跡から探る試みを、最後までやってくれという過去からの依頼なんでしょうか(^^

2012年5月15日 (火)

都市を描く-京都と江戸- の図録を仕入れました。

つい最近まで、歴史民俗博物館と国文学資料館で開催されていた、人間文化研究機構連携展示『都市を描く-京都と江戸-』の図録を仕入れました。
東京に行けませんので通販で仕入れたもの。2000円+送料。
今回は、一連の洛中洛外図屏風に加えて江戸図屏風も出ていたので一冊でまとめて見ることが出来るなあということで入手。
図版もキレイでみやすくてよい感じです。
洛中洛外図関係はこれまでも図録などで見ることが出来ましたが、
江戸図屏風はなかなか仕入れる機会がなかったのでありがたいなあと思う次第。
詳細はコチラ↓
http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/o120327.html
通販はコチラ↓
http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/catalog/index.html

2012年5月 6日 (日)

『織豊政権と東国社会』購入しました。

「未知なる城を求めて」の管理人たけさんこと、竹井英文さんの論集『織豊政権と東国社会』が刊行されたとのこと。
http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/30430522.html
さっそくお問い合わせして、直接購入させていただきました。

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ありがとうございました(私信)。
近年さかんな織豊期の関東について他の成果と併せて、じっくり読んで勉強したいと思います(・ω・)ノ

2012年4月30日 (月)

『毛利家の至宝』の図録を仕入れました。

サントリー美術館で5/27まで開かれている『毛利家の至宝』展の図録を仕入れました。
報道ステーションを見ている方なら、毛利庭園というのでなじみがあると思いますが、
東京ミッドタウンは旧萩藩の毛利家下屋敷があったところです。
と言うことで、防府市にある毛利博物館の名品+毛利家下屋敷関係資料のセットで構成された展覧会の様子。

美術史的には、毛利博物館蔵の雪舟筆「山水長巻」などの一連の水墨画でしょうが、
ボク的には山口県文書館の「毛利家麻布御屋敷差図」などが興味あるところ……ですが、基本、美術工芸中心の展覧会ですね。
とあれ、毛利博物館のコレクションがまとまって一冊に仕上がっているので、とりあえずで仕入れた次第です。
これで大方、毛利氏関係はしばらくいいかなあ(^^

通販はコチラ→https://ssl1.suntory.co.jp/apl/oss/sma_shop/product/detail?PRODUCT_ID=CATALOG_53

2012年4月22日 (日)

旧福岡城表門(崇福寺山門)を訪ねる。

21日はお城仲間の方にアニバーサリーな所用があったので福岡行き。
たまたまfacebookにて、黒田家菩提寺の崇福寺山門(旧福岡城表門)が公開されていることを教えていただいたので、
それに合わせて見学してきました。
今年の春から、住処を筑前国御牧郡へ移し&13年ぶりに福岡県復帰なので、筑前国52万石の黒田家にご挨拶も兼ねて?のご挨拶です。

この山門は、大正七年に石垣に挟まれるように築かれた本丸表門を崇福寺が譲り受けて移築したものです。
城門の左右部分を切り離して門構えの部分で再構成されているので少し不格好な感じがします。
黒田家菩提寺ながら明治以降は衰退していた崇福寺でしたが、明治半ばに住職となった玄外和尚が再興に務めて再建事業を進め、
その一環として福岡城本丸表門を譲り受けての山門整備だったようです。
一部には福岡城跡に戻そうという動きもあるようですが、近代の崇福寺再興を物語る歴史資料もあることを鑑みれば、
移築された事実を重んじて、この山門は崇福寺にあった方がいいのではと思います。
今回の公開では、門の二階も入れました。中では台風被害で葺き直した江戸期の鬼瓦や古瓦も展示されていました。

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黒田家墓所も公開してましたので、訪問しました。
墓所は後に整備されたようで、思った以上に整然とパターン化されたものでした。
少し拍子抜け(^^

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さて、次の機会は豊前側の細川家、小笠原家関係も訪れないといけませんね。

2012年2月26日 (日)

講演会でない研究集会の重要さ。

私が在職していた頃、「近世の山城」というタイトルで全国城郭研究者セミナーを誘致しようと目論んだことがあります。
全国の城郭研究者や関係者に竹田に来ていただき、豊後岡城を中心に議論を開きたいと思ったからです。
城郭跡としては著名な割には、「調査事例」としては研究者の間で共有されていない状況をなんとかしたかったからです。
遺跡の調査成果から研究報告や論文などの公開、研究集会での報告といった研究上の交流を
積極的に展開しない限り、
知られていないのと同じだからです。
もちろん、セミナーを開くのは、これまでの自分が積み上げてきたネットワークや実力が試される機会なのですが、
多くの研究者を呼び集めることのできる研究集会は、講演会を何度も開くよりも遙かに対外的効果が見込めます。

また、セミナーのレジュメは有償頒布されるし、大会成果は翌年の『中世城郭研究』に掲載されるチャンスでした。
さらに、初の九州開催での全国城郭研究者セミナー、皆さんが九州の城郭を観るチャンスとして来てくれるという期待がありました。
会を開くことで、200名近い城郭史・歴史考古学・歴史学などの城郭研究者が集まる機会。
内には城郭研究とはどういうものかを、外には特徴ある縄張りを持つ近世山城、豊後岡城を全国の研究動向に印象づけるチャンスでした。

しかしながら、タイミングが合わない中、ようやく具体化しようとした頃には、
私の環境はそうしたものを受入れる状況にありませんでした。
そのため、2010年セミナーは泣く泣く関西の城郭談話会にお願いすることにしました。
嫌な予感はあたり、姫路大会が開かれる年には私は肩書きのないひとりの研究報告者として別の報告をすることになった次第です。

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一方で、そうした研究集会の重要性を証明するかのように、世界遺産を目指していた平泉町では2010年に町の八重樫忠郎氏が事務局を担い、
長年「学際的研究集会」を開いてきた著名な研究会である、中世都市研究会の平泉大会の開催を実現しています。
全国の中世都市研究の中に、平泉をどう位置づけるかを内外から確認しあう場となったようです。
その研究大会の成果は、2011年に刊行された『中世都市研究、都市のかたち—権力と領域—』で研究者に広く手渡っています。
ちなみに、この中世都市研究会は第9回大会(2001年)に大友府内遺跡を持つ大分市で開催されたことのある研究会です。
その際は、私も参加者としてフロアにて勉強させていただいたものです。

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このように、専門職に係わる人々ならば、自分の持ち分から成果を導き各地の研究会に積極的に参加し報告を重ねる中で
研究者同士のネットワークを築き、自分の所属元と全国の研究者ネットワークをつなぐことが求められます。
事業のためのネットワーク以上に、学術的なネットワークを築くことで、
自分の担当する遺跡が知られると共に、多くの研究者から関心をもっていただき、様々な見識に触れることができます。
それは限られたひとたちの中で議論することよりも遙かに有意義なものです。そうした知見を地元に還元する役割が求められるのです。

私のウェブログを見ていただいている方にはわかると思いますが、
中・近世遺跡については、歴史考古学・文献史学・歴史地理学・城郭史・建築史など様々なジャンルの人たちが
関係する幅広いネットワークがあります。
残念ながら、我がすまいの近くに近世初頭の城郭遺跡を持ちながら、その史料的位置づけを伝えることができていない憾みがあります。
それ故に、上記の責務を少しでも果たすべく、これまでに積み上げてきた「豊後岡城とその周辺の遺跡」など初期岡藩の関連遺跡について、
限られた条件下の現地調査とさらに限られた文献調査による研究を重ねてきました。

本年は、それらの成果をまとまった形として世に問う機会と考えている次第です。
もちろん、今の私は専門職的な環境・身分にはありませんので、民間学の立場からそれなりの手段を講じてベストを尽くしたいと思っています。

その一方で、今年は節目の年にあたるコチラに籍のある「専門職」な方には、私よりも遙かに恵まれた環境で専門的業務に従事されているのですから、
単に事業関係者を呼んでの講演会型セミナーではない、高い専門性の研究集会をどんどん企画・実践してほしいと願う次第。
その実現のためにも、担当者自らが研究報告者として積極的に中・近世移行期の学際研究ネットワークに参画し、
これまでの調査成果を全国の研究者に積極的に公表し門戸を開かれることを切に要望する次第です。
そうすることで、いずれ、この著名な城郭遺跡について研究者に認知されるような研究集会を誘致するネットワークと環境が整うと思います。

私自身、長年城郭研究絡みで研究会に参加する中で、重要な中・近世移行期の遺跡を担当された方々にお会いしてきました。。
そうした方々は、何年も係わってきた調査整備事業の成果を研究集会の報告などで発表され世に問われています。私も多くの学びを得てきました。
私の寓居の上にある近世城郭も、その歴史的価値が故に、中・近世移行期を対象とする多くの研究者が現場からの成果報告を待っていることに
もっと敏感になってほしいものです。

2011年12月25日 (日)

荻台地の歴史の道。

23日は城館跡の現況調査と併せて、玉来→高城→馬場→藤渡→木下→滝水へ通じる荻台地葎原郷の往還を行きました。
下原城跡と弁当城跡がちょうどこの往還に沿って位置するからです。2つの城跡を考える上で、この往還の性格を考えることが大事だからです。
豊後国と肥後国をつなぐこの往還は、現在も県道や市道となって通ることが出来ます。
岡藩領を描いた近世の絵図に朱色で記された主要な往還ですが、今日ではあまり知られていません。
しかし通ってみて、先史以来の豊肥国境の台地を一体的につなぐ歴史の道だと言うことが理解できます。

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道中には旧万徳寺の妙雲寺や荻神社など葎原郷ゆかりの史蹟があります。
中世に開基された万徳寺は元禄年間に竹田の七里に移転するまで荻の台地にあり、
豊後国直入郡から肥後国阿蘇郡にかけて多くの宗徒を抱えたとされます。
近世になり、豊肥間を宗徒が往来することが問題視されたため、内牧に別院を営んだという記述は興味深く拝見。
一方、荻神社はもともと下荻岳にあったとされる神社。麓の政所の字宮田からここへ移転したとのことです。

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さらに、国境まで走らせるとJR滝水駅に出ます。
滝水集落には、肥後藩・岡藩の境目裁定の際に植えたとされる「御論木跡」の看板がありました。
貞享年間に幕府立ちあいのもと、馬渡川上流の岡藩領滝水村(下滝水)と肥後藩領滝水村が画定された場所。
その際、御論木が植えられ、それより下流の湧水は下滝水が供与したとのこと。
近世初頭の曖昧な藩境が次第に行政区画として画定され、今日の大分県竹田市と熊本県阿蘇市まで続くことがわかる景観です。

同時に、荻台地の方々が他の直入郡の人々と比べても波野・阿蘇方面との関係の深いことからもわかるように、
今日もなお、台地がひとつの文化圏を構成しており、そうした文化圏を支える役割の一端をこの往還が担ってきたものと思います。
その観点からも、この往還が「荻台地の歴史の道」として注目されれば良いのにと思う次第。
こうした中世以来と思われる主要な往還に沿って、弁当城と下原城が築かれていることがわかったことは大きな収穫。

加えて、こうしたエコミュージアムのような歴史的景観について、ハコ芸や文化財的業務では体得できなかったものが
土地勘を鍛え地理情報の集積から理解を深めることで体得出来たことはなかなか興味深い体験。

2011年11月15日 (火)

天草市倉岳町棚底の防風石垣とこくりを見ました。

合同研究会の初日、12日は天草市教委の方々にお世話になり遺跡の見学会。
寺澤氏の支城、軍ヶ浦城とされる大浦城(天草市有明町)と国指定史跡となった戦国期城郭の棚底城を案内していただきましたが、
その途中で棚底城が近接する天草市倉岳町棚底の集落にとてもめずらしい景観をみせていただきました。

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みせていただいた時にはお口あんぐりでした。
まるで城郭の石垣のようです。なかにグリで充填するものもありますが、基本的には石を積み上げて分厚い壁面をこしらえる組積造です。
山からの吹き下ろしを防ぐために、周囲に石を積み上げた防風石垣が集落のあちらこちらに連なるとても異様?な風景。
扇状地故に、山地から土石流などで多くの石が混じっており田畑からいくらでも掘り返せるとのこと。
本来なら土塀や防風林で処理するところをそれを積み上げてとても技巧的な石塁を築いたそうです。
なかなかこういった風景は他にはありません。背の低い石垣が続く風景は離島などにありますが、ここまで積み上げたものとなると……

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そして、もうひとつ。集落には、畑の下を通る石積みの地下水路「こくり」があります。
水路補修に併せて発掘調査している現場をみせていただきました。
扇状地の急傾斜に効率良く流す農業用水の補助路として機能したそうです。上部は石のフタをして土で埋め戻します。
これもなかなか興味深い農業遺産(現役ですが)でした。

これらの集落景観を含めて、天草市では歴史的景観の指定を目指して調査・整備・保全策を進めているそうです。
近くに棚底城や寺院遺跡もあり、なかなかの歴史的景観。一見の価値有りです。
但し、皆さんが生活している集落でもありますので、見学の際は周囲に配慮してくださいませ。

Foxkeh! フォクすけ!


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