2010年8月23日 (月)

旅する学者?と西国路。

週末研究者な生活になりカレンダー通りの休みがとれることもあって、
西国路に関心が高まり頻繁に往来するようになると、現地を往来する移動費がバカならないのは当たり前。
そこで先達にあやかり、夏から津山までは自家用車(EKワゴン)でかっ飛ばすことにしています。
昔、海外ドキュメンタリーであった『旅する学者』ってのをうろ覚えに、旅する学者気取りで。。。
車の後部座席を倒しておいて、MacBook Proの入ったコニシタンかばんに、調査用具や書籍、複写資料を幾つかのフリーボックスに分けて搭載。
だいたいの荷物が入れておけるので、今回の生涯学習講座遠征でも打ち合わせ資料も入れておいて即座に対応できて便利でした。
列車だと移動時間に読書やチェック、原稿書きができますがその分格段に視力が悪くなるのと、
何より城跡や古建築など文化財のある現地を訪れるには鉄道がないところが多いので、旅する学者?は車が必須。
ということで、冬期を除いて車移動で西国往来の日々です。

日中移動すると豊前路がえらいことになるので、できるだけ夜の移動。
だいたい深夜で7時間半、日中で8時間強走れば到着します。
大分(竹田)〜北九州2.5時間、北九州〜山口1時間、山口〜広島2時間、広島〜津山2時間のペース。
山陽道より中国道が難路ですが車が少ないのでその分走りやすいです。
あらためて、豊予海峡大橋があれば四国ルートは5時間弱は固いのを思えば本当に残念です(^^ゞ

おかげで、途中で毛利氏関係の故地に立寄ることが出来ます。
吉田郡山城・吉川元春館跡・三次の比熊山城など江の川沿いから、山陽路の福山・西条・広島界隈などなどなど。
そして、毛利博物館をはじめ各地の博物館・資料館や図書館、山口県立文書館等各種施設も立寄れます。
走りながら、ただいまフリーなボクに岡山・広島・島根・鳥取界隈で城館史料学に関する調査・研究のオファーないかな?と思うくらいに、
中国地方には魅力ある戦国期の国衆・大名から織豊・近世初頭までの城郭跡がたくさんあって実に楽しい。
また、土地勘を知りながら新たな知見を得るのはまさに車旅の楽しみ。
しっかり先行研究を把握し、ポイントとなる城郭跡をこの目で押えて毛利領の城館を知りたいと思う日々です。
そして、古建築・文化財も要点を抑えていきたいと思う次第。

その前に、もちろん北部九州を抑えるのも忘れずに(^^ゞ

写真は左が比熊山城、涼しくなったら登る予定、右は早朝にたどりついた吉川元春館跡正面。
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2010年8月22日 (日)

森家たっぷり美作学講座-森家をめぐる城々-

21日は津山市生涯学習講座『美作学講座-中世山城の世界-』最終回。ボクが1回目を4月にやった連続講座の〆です。
トリを飾るのは、森家語らせたらこの人な、福田久子氏による森可成・長可・忠政にまつわる戦国・織豊期の城郭についてのレクチャー。

毎回140人を超す聴衆に恵まれて好評だった「津山市生涯学習講座」。
冒頭から3人難しいことを話す人が続いた後で、最後はリラックスしながら森家三代と城郭についての内容。
ともすればコネクリ回して専門用語連発で延長戦も辞さない(^^ゞ我々に対して、
簡潔かつ丁寧で写真とイラスト組み合わせで攻めて引き際までしっかりまとめられた福田さんのお話は
年配の人にも優しいレクチャーでした。

それがわかるのも、終わった後の質疑応答の皆さんの勢いの良いこと良いこと。
我々がやるとたいてい消耗して何から言えば良いのやら的雰囲気が漂うのとは違って興味深く拝見してました。
うーむ、実に勉強になるレクチャーでした。
10月の山城サミット2日目に話すことも組み直さないと!と思うくらいにいいヒントをもらいましたです。
あと、森家三代で蓮台城→兼山城→手筒山城→宇佐山城→海津(待)城→津山城→(天下普請の数々)と戦国・織豊期城郭を語ることができるんだなあと再認識しました。
常に織豊政権の最前線で活躍した(おかげでかなりの戦死者が当主家に続出)森家という存在はなかなかに興味深いものです。

終わった後は打ち上げ。この日は某倭城なKさんも津山に居らしており(ボクは姫路に続き3週間ぶりにお会いしました)、
ニフティFSIROの方々も来訪となぜこのようなつながりがという不思議なネットワークを楽しめた一夜になりました。
ボクも昔はFSIROに参加していましたので何とも感慨深い1日でした。あらためてよろしくお願いします(._.)オジギ。

ということで、来年の連休は倭城に遠征することはほぼ内定(^^ゞ。その前に11月に今の「福岡城跡」を存分に楽しむツアーも内定。
その前に津山市での中世山城の祭典でがんばらにゃ(^^ゞ

そして、この講座開催にあたって、津山市・津山市教育委員会、美作大学の皆さんには週末開催にも関わらず大変お世話になりました!
引き続き、お世話になっている分を含めてさらに貢献できるよう務めたいと思います。

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2010年8月16日 (月)

毛利氏との出会い。

7月最終週に高速道路を利用して津山まで帰省。
交通費がさすがに嵩むので試しに1,000円高速の恩恵を受けようとした次第。

金曜深夜に出発して豊前路を通って苅田経由で関門越えして中国道をゆくコースで夜明けには広島まで到達。
ちょうどよい時間だったので仮眠を兼ねて、大朝インター(ホントは千代田が近い)で下りて朝イチで吉川元春館と万徳院を見学。
「戦国の庭、歴史館」開館まで仮眠してから見学。
それだけでは勿体ないので、ひとやま越えて安芸高田市吉田町の毛利氏の郡山城まで寄りました。
夏なのと津山に到着する時間を考えて、郡山城は登り口だけ確認して麓の安芸高田市歴史民俗博物館を見学してきました。

その次の週、世界遺産姫路城を前にして報告させていただいたセミナーでお会いしたのがその
歴史民俗博物館の学芸員Aさん。
これぞ、まさに、運命の出会い(^^ゞ
ということで、郡山城跡麓で発掘された「大通院谷遺跡」報告書について入手させていただきました。
吉田で吉川元春館クラスの発掘調査とも言われている郡山城麓の遺跡とのこと。
前の週に図録は購入したけど、セミナーを考えて見送った報告書について新たな知見まで案内いただき、大変お世話になった次第です。
先だって小都隆氏の著作も入手できたことですので、毛利
のご縁を大事にして、勉強したいと思います。
涼しくなったら郡山城跡へ登るぞ(あの石垣が見たい)と固い決意をした次第。

吉川元春館は過去の報告書が販売していたし、安芸高田市歴史民俗博物館も図録や上記の報告書が販売されています。
広島県(安芸国)なのに、日本海に注ぐ江の川水系に展開した毛利氏と国衆たちの世界を土地勘から理解するには、
安芸高田市や北広島町界隈のゆかりの地に直接行くのが最適です。ぜひお立ち寄りを。

ということで、写真は朝の光まばゆい、朝露に濡れる吉川元春館。
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2010年8月15日 (日)

念願の!それとも今頃!

今さらながらですが、『図説中世城郭事典』を全巻揃えることが出来ました:.゚ヽ(*´∀)ノ゚.:。+゚

大学院時代、1万円を出すのに勇気が必要だったので「西日本だし3巻から仕入れよう」とコツコツ仕入れて2巻目まで入手したものの、
肝心の東日本の1巻目が品切れ。その後は古書店でもウェブ上でも探せない状態が続いていました。

それが久々にチェックしてみると、ウェブ上の『日本の古書店』にも全巻セットで出るようになっているじゃないですか。
と、そこにまるで私に買えといわんばかりに1巻のみのバラ売りが。
しかもほぼ当時の価格、1万円ちょいなり。
あれから10数年、すっかり大人になっていた私は、ポチッと押して注文。
博論前後の「私債費」の清算をしている最中というのに、最後の仕入れとばかりに購入できました。

昨今、大学院時代並みに城館史料学に勤しむとともに、東日本の城館に注力してきた夏のご褒美かも。
もっと城館を勉強せよというありがたい巡り合わせかも知れませんね(^^ゞ

2010年8月 1日 (日)

世界遺産姫路城の近くで発表してきました@第27回全国城郭研究者セミナー

7月31日、8月1日は、世界遺産、姫路城』の前にある姫路市イーグレ姫路にて第27回全国城郭研究者セミナー
2日目の報告者兼パネラーとして
「西南日本の城郭の横矢掛りから考える — 城郭研究と年代観 —」の報告しました。
城郭研究の老舗セミナーにて報告するのは、2006年第23回以来です。
前回は自分のレベルが追いついてなくてひどいものでしたので、奮起して今回の報告には満を持して準備しました。
また、城郭研究に専念できる環境にもなりこれまでの経験を下敷きにじっくり考えることも出来ました。
おかげで、パネラーとしては自分が伝えたいものやロールプレイはこなせたと思いました。
もっと先行研究や同年代の研究者の動向を把握しないといけないという課題は残りましたが、
ようやくセミナーやシンポというものが何となく認識できたような気がします。

どちらかと言うと「煽り役」になりましたが悪意はありません。
城郭研究が活発になればと思う故です。
第26回大会で質問を立てて提起しようとパッション的には思ったものの、
論点の準備不足故に留まった憾みは幾分か出せたような気がします。

引き続き、有言実行が伴うよう努力したいと思うセミナーになりました。
皆さん、お世話になりました。
そして、
本当ならば、世界遺産級の岡城を
学術研究の土俵に載せることで広くプロパーに周知するために、
全国の城郭研究者が集う伝統あるセミナーを九州初として誘致する予定だった第27回のセミナー。
諸般の事情で果たせなかったわけで、そうした事情を汲んでいただいた
城郭談話会&姫路市の皆さんには本当に感謝いたします。
このご恩に報いることが出来るよう務めたいと思います。

追記:中世城郭研究会のサイトにセミナー写真が出ています。がんばりましたよってこんな感じこんな感じ(^^ゞ

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2010年7月23日 (金)

闘いの渦中。

なぜここに私は居るのか?という実存的問いかけをする今日この頃(^^ゞ

平日の8時半−17時以外の時間はずっと城館のことばかりアレコレ考えています。
休日を潰されずイベント事に振り回されない分、研究ばかり考える日々。おかしなことだが、大学院のときより勉強してる。
もっともっと、城館史料学を極める、という気持ちを強く持ちたいもの。
下半期にくるだろう仕事のドタバタを迎えるまでに自分のカタチをモノにするのが当面の目標。
もちろん城館史料学からいろんな領域へ攻め上がってナンボと思っています。

今、まさに闘いの渦中。
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2010年7月 6日 (火)

最後の一冊。

土曜日に福岡へ出かけた際にジュンク堂に立寄る。
気がつけば天神コア(全館ガールズショップ!)から紀伊国屋書店は撤退しており、いまや天神界隈を代表する大型書店。
で、書棚をみていると。。
小都 隆氏の『中世城館跡の考古学的研究』があるじゃないですか。
広島県の城郭研究を押えるには書かせない一冊。
しかしながら、Amazonにも古書店でも検索できない幻の一冊でした。
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それが普通に店頭にある。と言うことで、迷うことなくゲット!
帰ってからジュンク堂ウェブをみてみると、どうやら福岡店の一冊が最後の在庫だった模様。
翌日から在庫無しになっていました。

うーむ、なんという幸甚。ラッキーでした(・ω・)ノ
ちなみに、その日はもうひとつ探していた幻の書籍が店頭にありましたが、コチラは高いのと直接必要ではないのでパス。
それにしても、おそるべしジュンク堂の在庫力(^^ゞ。

2010年7月 5日 (月)

第27回全国城郭研究者セミナーで報告します。

ということで、一応、予告。
7月31日〜8月1日に、下の写真の姫路城のある姫路市で開催する、第27回全国城郭研究者セミナー2日目で報告します。
シンポジウム「横矢掛かりから考える」において、

「西南日本の城郭の横矢掛りから考える 城郭研究と年代観
で報告します。

九州から全国的な研究に言及していきますので、
たぶん、関東で埼玉県の戦国期城郭について関係者が、ひとつの年代観を鵜呑みにして飛びついたネタを、
いなせばよいのに真っ正面から受け止めて「問題」にしたことが問題と言う件についても言及することになるんでしょう。

去年のこともありますので、少なくとも相手から仕掛けてきた「闘争の場」に受けて立つのが縄張り屋さんの責務。

日々、あーでもないこーでもないと脳内予習の日々。しっかり準備して臨みたいと思います(^^ゞ

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2010年6月30日 (水)

美作の山城。

城跡を歩く方が楽しいと思いますヨ、とつぶやきつつ、
世界杯を横目に複数の仕事をこなしながら進んできた6月も終わり。

この3ヶ月、本当に濃密に城郭のことばかり考えるよう集中している。
もちろんケンチクな人なので、3月まで準備していたアートなこと等もしたくてウズウズするのですけど、
渋さのライブに行くぐらいしか状況が許さない(^^)。
ということですので、現在は城館史料学に注力することが、次のステップの足がかりとしては合理的なものですので、ご理解の程を(^^ゞ

と言うところで、6月は大阪と福岡での2つの報告準備を介して夏のセミナーの準備とパネラーのイメージトレーニング?に励んでいる間に、
『美作の山城』の解説を書いています。美作東半部を中心に625城。その内100城くらいを書いています。
大変ですねぇ。でも楽しい。陣城くさいのがチラホラみつける。マッピングしながらの作業。間に合うかなあ(..ゞアセ
福岡県の城郭も面白いけど、岡山県の城郭もバリエーションがあってとても面白い。

それに加えて、別に依頼をいただいた原稿も仕上げていきます。
9月下旬から別府大学の集中講義をする準備もそろそろエンジンかけないと(..ゞアセ。
イベント事に絡まれずにじっくりと勉強できる機会を得たタイミングで、寓居の身にオファーをいただくのは本当にうれしいこと。
しっかりと次のステップに繋げられるように、7月も引き続き、頑張りますヨ。

写真は神楽尾城です。
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2010年6月28日 (月)

26日は福史連大会で報告。

さて、26日の福史連大会のこと。
市外では「学位を持つ研究者」として評価いただき、福岡県教委からのお招きで久々に福岡県立図書館へ出張です(・ε・) 。
第44回福史連大会にて「福岡県の城郭と年代観」と題して中村修身さんに続いて80分程度報告してきました。
例年、80名程度の参加のところ、雨にも関わらず120〜150名近い参加者に恵まれたとのこと。各方面にご挨拶をかねた報告となりました。

お誘いいただいた福岡地方史研究会の石瀧さんをはじめ、福岡県立図書館の皆さんには、本当にお世話になりました。ありがとうございました!
秋から福岡県の城郭について調査を本格的に再開しますので、その節はお世話になると思います。
また中村さんをはじめ、北部九州中・近世城郭談話会の皆さんにも、会費を納めましたことですし、
これから再調査で乗り込むのでその節はとごあいさつ(^^ゞ

会場では、福史連所属の各地の研究会の冊子が出ておりました。その中で、西日本文化協会から福岡県史の県史だよりが合冊になっていたので注文してきました。
また、福岡県史の棚卸し50%offもありました。こちらは手が出せず。。。(´・ω・`)。
それから、Oさんからはトピック展示『祈りの山宝満山』の成果を拝受しました。ありがたいことです。
うききのFさんも来ていただき多謝です。8月の津山市よろしくおねがいします。
そして、近年精力的に縄張り図を書かれているFさんにもお初にお会いできたのもありがたいこと。
資料館の人と思いきや現在は同じ業界とは思わなかったでしょう(^^ゞ。機会があればご案内下さい。

と、以上私信でした(._.)オジギ

ということで、これまで捕まり続けてきたハコ芸から解放され4年ぶりに北部九州のフィールドに復帰です。
秋からいよいよ再調査。帰ってきましたのでどうぞよろしく。

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2010年6月27日 (日)

『福岡県の城郭と年代観』を話しました。

さて、26日は福岡県立図書館にて開催の『第44回福岡県地方史研究協議大会』(主催:福岡県教育委員会)に報告者として参加してきました。
福岡県では、自分の報告する場として福岡地方史研究会に属しています。
ちょうど北部九州中・近世城郭談話会を中心として『福岡県の城郭』が刊行されたので、福岡県の中世山城というテーマで依頼を受けました。

ちょうど、2008年下半期からハコ芸の展開も清算して北部九州の戦国期城郭について博論に取り組んだものの、足りないところも多く見つかったのも事実。
2009年下半期から、織豊系城郭・近世城郭から九州以外の城郭跡も積極的に回って「
学び直し」をテーマにライフワークとしての城館史料学の構築を図ってきました。
そして、今年の4月に野に放たれたのを契機に、さらにドンっと腰を据えて城郭研究の仕事をこなすようになった次第。
現在、フリーな時間で作業しているお仕事はすべからく自分の体系化へ向けての助走となっています。
そうした流れの中で夏のセミナーへ向けて、準備を進めていたところに、福史連の報告の依頼がやってきました。
そこで、2週間前の大阪・高槻での城郭談話会報告と連動させて「福岡県の城郭と年代観」というテーマで報告することにしました。

今回の報告は、まず、縄張り研究は「城郭跡を最終段階の遺構として捉える姿勢から研究をすることに意義がある」ことを前提として、
全体では元和一国一城令を下限(17世紀半ば頃まで幅を見ますが)とした上で、北部九州においては1586-87年に戦国期城郭から織豊系城郭へガラッと変化したことに着目して、
北部九州の戦国期城郭からみた城郭遺構の年代観を提示しました。

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2010年6月17日 (木)

城郭談話会で準備報告しました。

12日午後は、大坂城を後に梅田経由で高槻へ。
関西で活発な活動をする城郭談話会。会員によるフラットな運営で多くの研究成果をあげています。
以前は森之宮で定例会をしていましたが、近年は高槻市立総合市民交流センターで第2土曜日に定例会をしています。
何度か帰省の際に顔を出していたのですが、今回は夏のセミナー@姫路市を城郭談話会が引き受けることと、
ボクが西日本から1本報告すると言うことで事前準備報告をすることになりました(日本史研究会みたいでしょ(^^ゞ)

関西の芸風?は、シンポやセミナーはしっかりシナリオをこしらえて関係者で事前の段取りを詰めるよりも、
おおよその「目的」を共有した中で、それぞれが当日にフリートークを仕掛けることでライブ感をつくる印象が強くあります。
今回は皆がしゃべりたいということでボクが壇上に挙げられることになったそうなので、
それでは、フロアが仕掛けたろ!と思うような「呼び水」的な報告をしたらよいだろう、と準備をしました。

今回のセミナーのテーマは「横矢掛りから考える」。ミソは、横矢掛り考える、ではなく横矢掛りから考える。ということだそうです。
それなら、西日本をフィールドとする者が、自分の城郭研究の立ち位置を表明した上で、西日本から近年話題?の年代観について報告したらいいと思った次第。
戦国・近世期の九州は、1587年が転換点のひとつとなっています。
それ以前の在地系縄張り技術は防塁型ラインを多用し虎口も発達せず横矢掛りがまったくない。
一方、1587年以降に波及した織豊系縄張り技術による立花山城や豊前黒田領の陣城・支城になって、ようやく横矢掛りがみられるという案配。
これほどガラッと変わる地域は九州くらいのものでしょう。
そして、九州の在地系縄張り技術は1580年代に急速に発達するように、他の地域より10~15年遅れた様相を見せます。
この状況は、全国の動向に比べて、九州が「遅れていた」地域というだけなのかもしれませんが、ホントにそうかな?というのが今回の趣旨。

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2010年6月16日 (水)

上坂&大坂城に登城。

金曜日は、仕事を終えてから車に荷物を載せて出発。大分港からさんふらわあで上坂。
瀬戸内海を移動中は、個室をとって船内で福史連の原稿仕上げを執筆しながら、世界杯を堪能(^^ゞ
今回は城郭談話会でセミナー準備報告をするために、土・日曜日は実家に帰省。
土曜日の夕方から、はじめての城郭談話会での報告をしてきました。

朝に六甲アイランドに到着してから湾岸線で実家へ。荷物を解いてから南海電車と地下鉄で大阪へ。
城郭談話会で高槻に行く前に、大坂城へ訪問。
谷町線の谷町四丁目駅からだと大阪歴史博物館経由で大手口に行けるのだけれども、鶴見緑地線の大阪ビジネスパーク駅経由で北から攻めmした。
ビジネスパークから城内にはいり青屋口から入城。ここは前に張り出した「桝形」門。
そして、曲輪と化した馬出し空間を通って橋を渡り山里丸から登って「天守閣」へ。
北からのアプローチは、大坂城が淀川と旧大和川(寝屋川)の合流点に張り出した上町台地の先端を掘り切って築城されたことが実感できます。
徳川時代の造成を踏まえても、石垣高からかなりの比高差があることがわかります。
大阪のど真ん中は上町台地があって案外アップダウンが激しい。その先端部はかなり切り立ってるんだなと再確認。
そうした地形を総石垣で近世城郭に仕立てた豊臣秀吉の畿内政権としてのスタート時期のエネルギーのかけ方と、
それを埋めて主郭部の面積を広げた最新モードに改修した徳川政権(というか西国大名)のエネルギーを直視してほしいもの。

大阪城天守閣は、
展望台まで上がってみると、外堀で囲まれた曲輪配置がみれてなかなかよい案配でした。
一見、観光施設ですが、中はれっきとした歴史博物館。
豊臣政権を考える上では基礎となる史料を収集し、基本となる図録もたくさん出しています。1,500円前後とリーズナブル。
豊臣政権をきちんと抑えたいと思う今日この頃ですので、この日は過去の図録「秀吉家臣団」「秀吉お伽衆」「五大老」を3冊購入しました。
以前は、城内の隣接した位置に市立の大阪歴史博物館がありましたが、現在はBKと一緒になり難波宮&近世テイストの歴史博物館になっています。
対比を考えても、豊臣政権・桃山時代の収集史料が充実した大阪城天守閣に、城郭史・考古学・建築史方面からの大坂城の研究成果がより加味されると面白いなあと思いながら歩きました。
大坂城ガイドブックとか編集すればガイドツアーとも連携できますし。外国観光客も大坂城そのものを柱にしていろんな分野から紹介したら、より要点を伝えやすいかもとしばし妄想。
で。近年のボクは、豊臣・徳川初期を中心にしっかり考えたい(だから伏見城もはずせない)と思うところがあるので、
涼しくなったら、あらためて丸一日大坂城巡りで観て写真撮影兼ねて観て回ろうと再訪を思案。

この日は、図録を無事入手してから報告会の準備のため大手口から下城。
谷町四丁目前の大阪歴史博物館は近代建築の展覧会があったけど、城郭談話会の報告があるのでやむ得ずスルーして梅田経由で高槻へ移動しました。
この日は暑かったので城内巡りは延期。次はしっかり歩いてバンバン写真撮りましょう(^^ゞ。

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2010年6月11日 (金)

西から読み解く年代観。

まもなくワールドカップですが、こちらはただいま報告の仕上げと美作の城館と論考で追い込み中(^^ゞ
その合間をぬって、先々週(5月最終週末)は、豊臣・徳川移行期を伝える城郭遺構、伏見城を考える見学検討会に参加。
先週(6月第1週末)は、九重で、建築学会九州支部建築意匠部会での恒例の合宿に顔を出し、藤井恵介氏の濃縮還元な日本建築史レクチャを拝聴。
と実に濃密な日々を送っております。

藤井先生の日本建築史は久々に「日本建築史」のレクチャーを聴いて刺激的でした。太田博太郎『日本建築史序説』についても議論ありの内容で収穫あり。
加えて、帰宅してから古書サイトを探索してみるとなかなか安価で手に入らない『文化財講座日本の建築』全5巻が安価で売っていたので
ようやく仕入れることが出来ると言う奇遇に恵まれたのも収穫。
こちらも、しっかり「建築史料学」と言えるようなものを指向したいと思う次第。

一方、城館史料学の方では夏のセミナーの準備を進めています。
今回は、城郭の年代観について、西南日本(中国〜九州)界隈の城郭跡の事例をもとに城館史料学の方法論を使って組み立ててみようといろいろ調べています。
昨今、東日本から城郭の年代観を問う議論が見かけます。
文献史学の成果を遺構や遺物評価と重ねることで、従来の縄張り研究などの年代観の甘さをつく内容が多くあります。
確かに、縄張り研究者の中には、近年、遺構の年代観について一貫した姿勢がみられない論点を出される方が居られるとしても、
そんな縄張り研究者の論調に対して、問題提起をされている方の他の尺度からの年代観やそれに乗った文献史学からの議論も検証されてしかるべきかと。

そうした学際的な問題関心から、西日本から目線でどういう視点が提示できるのか?を考えてみようと思った次第。

既に西日本の研究成果では、城郭遺構の検証から陶磁器・石垣・瓦といった指標の見直し作業が進められています。
例えば、古唐津の陶磁器編年については縄張り研究による岸嶽城の成果から1580年代説は否定され1600年代へと見直しを求める議論が提出されています。
木島孝之「唐津焼創始時期-1580年代説-を問う〜岸嶽城の縄張り構造の解明を通して〜」
古唐津の初期の編年がズレることは、これまでの古唐津編年に拠ってきた年代観の見直しを迫るものです。
このように、他の編年・年代観についても城郭遺構と絡む場合などから再検証する機会があってよいと思います。
そうした流れに学びながら、城館史料学の方法論をもとに西国から場を求めて、畿内、東海・関東へと進展させたら。と思っています。

西日本は、織豊系縄張り技術と在地系縄張り技術が異なった系譜で発達した状態でぶつかり、前者が後者を席巻するという図式。
畿内・東海・関東とはそういった点で違いがはっきりわかる地域性を持ちます。
それ故に、これまでの議論と異なる角度から読み直しができるのではないだろうかと(^^ゞ。

この魅力あるチャレンジのためなら、これまでの活動を整理し城郭研究に専念する時間を手に入れた価値があったと言うものです。

2010年5月30日 (日)

伏見城研究の成果と課題に行ってきました。

大阪歴史学会の見学検討会「伏見城研究の成果と課題」に行ってきました。
午前中は伏見城跡(明治天皇陵宮内庁管理地のぞく)の見学会、午後から検討報告会のスケジュール。

ありがたいことにこの日も晴天。
朝から南海→地下鉄→京阪で丹波橋まで。集合場所の近鉄桃山御陵前駅で降りるとたくさんの人だかり。
をを!と思っていると龍馬の見学会なグループと待ちあい場所が同じだったようです。さすが歴史と文化のまち伏見です。
と、それを差し引いても伏見城見学会は予想以上の参加者に恵まれ、事務局は対応にてんやわんやだったようです。
いつもは大阪歴史学会の会員や参加者が集まって多くても80名くらいだそうですが、

この日は200人は軽く超えたらしく伏見城への関心の高さがうかがえます。
ナビゲーターは午後からの報告者でもある中井均さんと森島康雄さん。たしかに聴きたいですね。
この日は伏見城だけに、歴史・考古・博物館な各分野の方々にお会いできました。皆さんに近況のご報告もしたりして(^^ゞ

昔は京阪特急が伏見に止まらなかったこともあり、私自身は伏見城や伏見界隈には行ったことがありませんでした。
現在の伏見城跡は明治天皇の陵墓が南斜面にあるため、本丸・二の丸などの主要部の立ち入りは制限されています。
それでも、日本史研究会編による『豊臣秀吉と京都』や高田徹氏による調査可能範囲の遺構調査による基礎的考察(中世城郭研究19号)などの先行研究があります。
それらの成果を踏まえて、可能な範囲の城跡を歩き現地の様子を探るのが今回はじめての伏見城跡訪問の大きな目的。
本当は、去年あった16学会による伏見城陵墓内立ち入り調査の報告会に参加したかったのですが、その時は仕事の関係で行けず。
でも、今回は大手を振って土日に参加できました(・ε・)。

木幡山にある伏見城跡はキャッスルランドだった北の長束大蔵曲輪から北堀跡の公園を中心にみてまわることができます。
桃山御陵前駅から御香宮を通って明治天皇陵参道まで登っていきます。天皇陵には行かずに北側の方へ廻っていくコース。
現地を歩いて、予想以上の長い傾斜がかなり印象的でした。ゆるやかな坂が際限なく続いた先に木幡山があります。予想以上の高低差。
城跡は石垣がほとんど抜かれた状態で、遠目にみても切岸らしい地形がみえました。たぶん石垣は抜かれて宇治川の護岸に使われたのでしょう。
治部池などの北側の堀は、自然地形の池を取り込み巨大な遮断線となっていました。
北堀は堀底がそのまま公園になっており、やはり巨大な遮断線を形成しています。
やはり、豊臣秀吉晩年に築城されてから徳川初期まで政治の中心となった公儀の城郭。とにかくでかい。
帰りは、伊達街道から桃山高校を経由してひたすら傾斜の西側斜面地を下って丹波橋まで。

それにしても、何とか宮内庁の理解を得て管理地となっている主郭部について縄張り調査をお願いしたいですね。
発掘などは無理ですが、縄張り調査に長けた研究者による調査グループで入れば、4〜5日もあれば現況遺構図ができるでしょう。
考古学的調査法のひとつ縄張り調査を導入すれば、豊臣・徳川移行期の慶長・元和期の政治と社会を知る貴重なデータを得ることができます(^^ゞ。
但し、それは最終段階の遺構がわかるということです。たぶん、現況遺構の踏査と考察を抜きに他の資料を駆使して一足飛びに秀吉晩年の様相を探ろうとしても八方塞がりになると思います。
城郭史料学は「最終段階」を示す現況遺構を踏まえた上で遡及的に考察を深める学問ですので、
文献史料や絵図で状況証拠を固めつつ、現地調査による遺構の読み込みを柱として、モノ(遺構)から歴史を読み解くのがキモであり、
伏見城研究にもそうした有効性を発揮すると思います。

午後からは研究報告会。感想は別途資料を読み直してから(^^ゞ。
あとは懇親会まで参加しました。お城屋さんの密度の濃い会でしたが、皆さんどうもお世話になりました。
Hさん、労作ありがとうございました!と業務連絡(^^ゞ

写真は伏見城治部池を遠くから。冬にもう一度ゆっくり観に行こうと思います。
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2010年5月20日 (木)

晴耕作図。

春になり野に放っていただいた上に休日が晴天続きだったので、遅れ気味の調査も快調に進みました。
夜な夜な図面の清書をロットリングでやってます。
今、作成している城跡は小さな事例ですが、ここから大きな成果が生まれるやも知れません。それが城跡の現地調査の醍醐味。

これから雨の季節、現地調査の成果から総合資料学を組み立てていく作業がたのしみ(・ω・)ノ

さて、わたしがハコでつまらん連中相手にかまけていた間に、Kさんは城館史料学の枠組みを固める論考をいくつも出しています。
その理にかなった仕事っぷりをみてると、某S城問題なんて「問題以前」のことだとわかります。
極意を理解してはやく追いついてこい、と言われてますが追いかけるだけでも一苦労(^^ゞ。
でも、この機会を逃さず、城館史料学に専念し自分なりの研究手法を確立させるべく努力に勤しむ初夏の夜です。

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2010年5月16日 (日)

城跡調査に加勢していただく。

過日のニチヨウ城郭跡調査は、BP大の院生くんにご加勢いただきました。
先生のご紹介で知己になったのですが、縄張り調査に関心を持ち自分でもやっているとのこと。
以前にKさんの調査を見学して、レンザティックコンパスと巻尺による縄張り調査をみてから、
さっそくレンザティックコンパスを仕入れたと言うから、熱心な学生さんです(^^ゞ
わざわざ遠路ご加勢いただき感謝する次第でした。
Kさんの立花山城調査に帯同して、一緒に作図することで縄張り調査のノウハウと城跡の見方を習得した15年ほど前の自分を思いだします。
でも若い子と一緒にすると疲れてもサボれないので体力的に厳しいのは年のせいですかね?それともボクが怠け者なせいでしょうか?
おかげで、サボれないのでがんばって集中して取り組んだおかげで、随分とはかどりました。

城跡を調査して論文をするというので、時間的に秋から春しかないことを踏まえて、
戦国期城郭よりも織豊系城郭一発狙いから歴史学研究に絡める事例を攻めるべきとアドバイスしました。
また、若いときには戦国期城郭よりも、ある程度縄張り技術が理解しやすい織豊系城郭を一度触れておいた方がいいと思うところもあります。
時間があればボクのように秋月氏や筑紫氏を網羅するのもアリですが、修論なので「労少なくて功多し」事例を薦める。
城郭研究を柱にして歴史研究をがんばってほしいものです。

さて。
今年度後期にBP大大学院の集中講義に出講します。内容は「城館史料学概論」、もちろん時間外の出講です。

たぶん本邦初?の城館史料学オンリーの15コマ集中講義です。研究史から現地踏査、城郭跡と城郭跡を介した総合資料論で構成します。
城郭跡と城郭跡を媒介にさまざまな資料解釈を通して地域史を総合的を読み解く城館史料学の
面白さを伝えることができれば幸い。
Q大からいただいた学位で地域社会のお役に立てる機会ですからありがたいことですし、城館史料学の方としても責任重大(・ω・)ノ
城郭研究を知りたい、学びたい人なら誰でも参加できる「次世代を育成する」場にしたいものです。

どなたかに講義をUst中継してもらえたらいいですね。

2010年5月15日 (土)

「城跡調査と戦国史研究」

今日はBP大にお伺いしてあれこれ打ち合わせ。その後、城郭研究部の若い学生さんたちに縄張り研究についてお話してきました。
大学の城郭研究部と言えば、往時は関西・東海・関東などで多くの城郭研究者を輩出したものです。
今でも立命館大学で城郭研究部がありますが、九州ではほとんどない状況で、BP大にあるというのはうれしいことです。

その中でいの一番に紹介したのが、村田修三氏が1979年の日本史研究会大会報告で発表された「城跡調査と戦国史研究」です。
翌年の日本史研究211号に掲載され、
縄張りベースの城郭研究では、エポックとなった論文と位置付けられています。
歴史学において、城跡を歴史研究の「史料」として活用する営みの重要性を紹介し、縄張り研究を提唱した論文です。
東京堂出版の『展望日本歴史12 戦国社会』に再掲されています。(もちろん国会図書館のコピーサービスでも可)

「中世の城郭遺跡を地域史と在地構造分析の史料として活用すること」は、しばらくは縄張り研究者の間で「お念仏」のように唱えられたものです(^^ゞ
また、はじめに—中世城郭とは— に書かれている、城郭の概念と考察の視点、調査法(文献・伝承調査と現地調査)についての概説は
当時の様子をうかがい知ると共に、今一度、目を通したらいろいろと示唆に富むところがあると思います。若い人も当時の雰囲気を想像しながら読んでみて下さい。
論文の中にある「城郭遺跡を歴史研究の史料として活用する営み」は、
現地調査を通して城郭研究を行う目的を端的に示しているとも思っています。

30年近く経ち
「城郭遺跡を歴史研究の史料として活用する営み」は、紆余曲折・さまざまな立場を含みつつ広がりをみせています。
その中で、城郭史から城館史料学への展望が開けるように努力できればと思っています。

2010年5月11日 (火)

縄張り調査ベースの城郭研究の研究史。

縄張り研究の研究史について、全国的な流れについて把握する上での基礎文献としては、

千田嘉博氏の『織豊系城郭の形成』1城郭研究の視点と方法 と、
木島孝之氏の『城郭の縄張り構造と大名権力』序章

は少なくとも目を通すとよいと思います(^^ゞ。

村田修三氏『城跡調査と戦国史研究』は入手が難しいですが、東京堂出版『展望日本歴史12、戦国社会』に再掲されています。
しかしながら、80年代の村田修三氏の業績を整理して批判を加えた上で、城郭跡のさらなる史料論的可能性を述べた松岡進氏の
「戦国期城館遺構の史料的利用をめぐって」(1988)は、入手の難しい『中世城郭研究』第2号掲載の上に、
論集などに再掲されていないので入手が難しくあります。けど目を通すとよいと思います。

縄張り調査ベースの城郭研究が80年代以降起こってきた背景や城郭跡の地表面観察がどういった面で有効なのか?
が伝わっていないのではないか。と去んぬる筋で話しになったので、あらためて再確認。
ボクも当時の現役世代ではないので、研究史をしっかり読み直すことで下半期の講義に活かしたいと思っています。

2010年5月10日 (月)

高良山の吉見嶽城を歩きました。

かつて直入郡衆を率いて天正12年からの大友氏の筑後出兵を担った朽網宗暦よろしく、週末は筑後出兵。
地域で、直入郡衆を率いて各地を転戦した戦国武将朽網宗暦をもっと取り上げてほしいものですね。

とリクエストしつつ、高良山にある吉見嶽城を踏査してきました。
永禄年間には毛利勢の九州出兵に応じて蜂起した高橋鑑種ら北部九州の毛利方勢力に対して、
大友宗麟が出陣し、本営として各地の戦線に対して陣頭指揮を執った城郭として有名ですが、
現状遺構は北部九州の戦国期城郭の傾向からみれば、天正後期
の高良山勢力(或いはそれを援用した大友勢)のものです。
毘沙門嶽城と同じく土塁で囲まれて虎口のよくわからない主郭部(琴平宮のあるところ)が確認できて満足です。
力任せな堀切もあり、北部九州の戦国期城郭としてはオーソドックスな縄張りでした。

ところで、文献史料では吉見嶽城が大友氏の本営となっていたとされる永禄末年。本州では戦国期の後半期にはいるはずの時代。
毛利氏は元就が防府まで出陣し、毛利両川も渡海して毛利軍は立花山城一帯・多々良川まで進出しました。
迎え撃つ大友氏も宗麟が高良山まで出陣し、宿老衆も前線に出て大友軍も立花山城をはさんで一進一退で対峙しました。
大友側の『豊前覚書』や毛利側の『森脇覚書』などでも戦いの様子は詳細に後世に伝えられ、そこでは両軍は陣所を構えて対峙したとあります。
特に『森脇覚書』などでは立花山城を囲んだ毛利勢が「岸を切り」「堀を構え」るなどして大友軍を迎え撃ったとあります。
ところが、今日、立花山城の城外にはそんな遺構はみることはできません。
永禄の大大名同士の長期対陣で文献史料には「陣所」を構えたことがあちこちに記述されているにも関わらず、
彼らの拠点となった場所には、美作岩屋城攻防戦のような陣所遺構らしいものは見当たりません。

同じ毛利氏でも10年ちょっとほど下がった天正期に織田軍と長期対陣でやりあったときには両軍は多くの明確な遺構を残す陣城を築いています。
もちろん織田軍の播磨三木や因幡鳥取での陣城は著名ですが、毛利氏もこの頃には備中戦では各地に足場となる城郭跡を構えました。
それなのに、天正期と同じく激しい戦いが繰り広げられたはずの永禄期の戦いではそうした形跡がまるでありません。
(ちなみに豊前長野城周辺の包囲網とされた遺構は、後世の作業道の読み間違いなのでご注意あれ)

北部九州において永禄期の毛利・大友勢の戦いよりも、天正後期の豊臣軍と対峙した秋月氏など国衆たちの方が激しく築城している事実。
古くから城を築くことがあっても、縄張りを組合せて大規模かつ技巧的にこしらえる段階は、以外に新しい「事態」なのでは?
これが、私が城郭跡の縄張りを現存遺構を最終段階のものとして捉える立場から、編年モデルや年代観を考える理由のひとつです。
ですから、文献史料で何と出ようとも、それに引っ張られて吉見嶽城を永禄期など
と不用意に年代を古くするのは慎む姿勢。
千田嘉博氏と木島孝之氏が明確な指標を立てられた織豊系城郭・近世城郭を柱に、様々な城郭跡の縄張りの相対的比較から検討した
年代観を基礎として、隣接分野の諸史料を勘案しながら考える立場を選択しています(^^ゞ。

写真は吉見嶽城主郭の土塁。虎口に見えるのは後世の破壊道です。場所などはコチラのサイトを参照して下さい。。

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2010年4月29日 (木)

休日、好天。

この4月は週末はずっと城跡三昧でした。津山市教委の地域学プログラム「美作学講座」のコーディネートのお手伝いと講師を務めさせていただきました。
城跡の縄張り調査も再開し、天候もよく快調に進んでいます。

去る筋から今年はわたしに転機が訪れると言われてたものでしたが、ハコ芸からエコ芸への転身を考えれば、まさにこれが転機でした。
これまで自分の持てるものを、足元の文化的資産への気づきと内外の歴史と文化の橋渡し役として尽力してきたつもりでしたが、
去んぬる筋からの史跡に関する文献調査の依頼を受入れたが運の尽き。。。
いつの間にやらお決まりの面々で組織化されたO藩史研究会(O県地方史の某論文参照アレ)が別館を活動の場にするようになり、
10年前の前任者と全く同じ部署に外されるまで
、精神的な面も含めて随分と悩まされたものです、と「これまでの経緯」。
幸い、これまでの仕事で思う存分経験知を積んだ後でもあり、こんな他に類例をみないようなやり口をする相手とは全うな事は何もできないと見切りをつけて、
学位取得による研究環境の整備とやり残しのアートプログラムなどの助成事業の実践などひと通りの清算作業を進めてきました。
ですので、ひと区切りつけた後では「正直なところ、どうでもいいよね」
的な気分であちらさんがどれだけのスゴイ成果を出すのか興味津々なところです。
ボクなんかのつまらない仕事なんて霞むくらいのスゴイ成果を出して下さるんでしょう。何年後か知りませんが(^^ゞ。
そんなことより、近年のハコ芸受難を思うなら「史跡からみる地域学」活動等を充実させエコ芸の幅を広げることにこそ使命と感じる日々を過ごしています。
当面は城館史料学メインで、まだ見ぬ「人間の家」を目指し今一度じっくりこれからの足腰を鍛える好機と思っています。
それに合わせるかのように、4月から休日は天候も良く大型連休もすっかり晴れ続きの様子。
天からもガンバレ!と応援していただいているようで実にうれしくあります。

ところで。4月から配属された先は地籍図・台帳等を扱い現地調査する稼業なのですが、実は城跡調査には古い地籍図や地名の確認は欠かせないのは案外知られていません。
そもそも私が修論の時は鞆の浦の現地調査で福山の法務局で大金はたいて古い地籍図をたくさん閲覧してコピーしたものです。
よって、こうした取扱いや法務局通いもまったく無縁なことではない(^^ゞ。もちろん、データが必要なときは学術調査で申請します。そのための身分保障が「学位」の学位たる所以。
今回の出会いは、もしや『城館調査ハンドブック』を読まれてたかもしれない、と思うくらいの奇遇だったわけです。

休日はおおむね晴れたおかげで、しっかり調査日程もこなしています。
ようやく腰を据えて縄張り調査も行うことができ、着々と図面を作成しています。
と、業務連絡。

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2010年4月28日 (水)

連休は。。。

せっかくいただいたゴールデンウィーク。ゆっくりと津山に帰省してヨメさんとゴロゴロしています。
その最中に、先約済だった兵庫県播磨町にある兵庫県立考古博物館に行ってきます。
帰りは土山から姫新線経由で津山に戻る予定。

『戦国時代の守護、山名氏の城と戦い』やっています。
なかなかレアなのと土山まで行けそうなので予定を組んでいました。

別府鉄道の廃線跡(たぶん)を歩いて行ってきます。

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◎業務連絡。
すんません、出勤ローテを見越してGW前半を押えてしまってました>各位。
連休明けからまじめにノルマに参加します(^_^;;;

2010年4月25日 (日)

久々に本格的に縄張り調査してます。

この4月から本格的に城郭跡調査を再開しています。。
4月にハコ芸から離れたことは、あらためて自分がやるべき領域は城館史料学であると確信するのにはちょうどよいタイミングでした。
新天地でガンバレという声?もありましたがナンセンス。
これまでのやり方をより集中して推し進める、まさに
機は熟せり、の気分です。
もちろんアートやその他ハコ芸で実験的にやってきたことなど、やりたいことはたくさんありますが、若い頃とは違い、時間は有限。
ならば、もっとも経験知を積み、もっとも方法論を熟知している城館史料学の立ち位置からさまざなま分野に押し出すのはもっとも現実的な対応と言えます。
ようやく、城館史料学に集中できるチャンスが来たと確信しているところです。

そうした思いを胸に調査活動を組み立てる上では、土日を使うことが計算できるようになったのは大きい。
休みを配分して、本格的にまとまって調査が進められるようになりました。

ハコの中にいる時の後半は、ハコ芸や店番に手を取られたりで日程調整がうまくいかず、満足した調査は見込めませんでした。
常に内外の情勢を見据えてハコの維持管理まで意識して活動するのは至難の業。
おかげで業務に関連しそうな現地調査でも参加を断念したものはいくつもあります。

ハコ芸との二足のわらじから解放されたので、しばらくは何の束縛もなく思う存分城館史料学に没頭できるようになりました。
何と、2007年春以来のまとまった調査になっています。シンジラレナイ怠慢ぶりでした。
これから、「お城屋さん」の本領発揮
福岡方面の積み残し等やるべき調査は多々あります。
天気の良い春の休日は城跡調査。屋外で生の資料の上で調査するのは実に気分が良く、健康的です。
机の上では味わえない知のダイナミズムを堪能しています。
現在は、実に面白く興味深い遺構を確認し調査しています。乞うご期待。
暑くなってブッシュが厳しくなる梅雨前まで続きます。

平日は勤務励行。好天祈願で休みが晴れなら即出陣。5月まで時間はあまりないので雨は降るなと天に祈る日々。

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2010年4月18日 (日)

美作学講座「中世山城の世界」に出講。

17日は津山市の美作荒神山城跡にて、「美作荒神山城を歩く」と題して現地の史跡で中世山城(織豊系城郭ですが)を案内する講師をさせていただきました。
津山市生涯学習課の地域学事業「美作学講座・中世山城の世界」の4回シリーズの第1回目を担当しました。
10月にある国民文化祭の『中世山城の祭典』のプレイベントでもあります。自分にとっても「史跡からみる地域学」ことはじめです。
週末まで天気が悪くありましたが、当日は新緑もまぶしい快晴!
63名の参加者に来ていただきました。関西からも顔を出していただきありがたいことでした。
津山市・市教委、保存会の方々に誘導していただき、城跡を無事にまわることができました。
実際に歩いて説明する機会を与えていただき、多くのご参加をいただいた津山市の皆さんには感謝するばかりです。

今回のポイントはただひとつ「織豊系城郭の縄張りを理解してもらうこと」です。
これを何となくでも認識していただければ、それ以外の城跡は戦国時代の城跡であるとなります。
荒神山城跡は堀切がある以外は内桝形・連続外桝形虎口やくい違い虎口、横矢の効いた土塁や塁線、櫓台など織豊系城郭のパーツが多くあります。実見するには最適な事例となりました。
現地で実際の遺構を説明しながら、木島孝之氏の織豊系城郭虎口変遷案でキーワードとなる「L字状の腕」となる土塁・石塁線をイメージしてもらうことに務めました。
特に、南東側の虎口と北東側の虎口で丁寧に説明しました。塁線と出入り口に注意してもらいたいことを口酸っぱく言いました。
あと、諸説はありますが、おおまかに分けると中世から安土桃山時代・江戸時代初期の城郭跡は、
1、織豊系城郭 2、武田氏系城郭 3、後北条氏系城郭 4、それ以外の在地系城郭(戦国期城郭) 5、近世城郭(織豊系城郭の発展型、巨大化したもの)
の5種類になります。それぞれの特徴をおおまかに説明しました。

何となくでもイメージしてもらえたら幸いでしたが、参加者は熱心に聴いていただきとても好評のうちに終わりましたので一安心。
説明する私の方も、一般の方々に伝えるのに要点をしぼって簡潔かつ丁寧に説明することはとても勉強になりました。
もちろん、説明の仕方や図の見せ方はまだまだ工夫が必要です。上記の方向性を基礎により良いものにしたいと思いました。
当日の写真は。。。説明している側ですのでもちろんありません(^^ゞ

追伸:後日、主催の美作大学地域生活科学研究所の方から写真や記事をいただきました。ありがとうございます!

2010年4月16日 (金)

[参考資料]豊後岡城下原門の虎口プラン

既に拙稿や『名城百選』で論じているところですが、豊後岡城の下原門は、全国的にも例のない桝形虎口の事例ですのでご紹介。
下に虎口プランを掲示しておきます。連続した外桝形虎口ですが虎口の通路が2手に分かれていてそれぞれの行き先が「奇妙」です。
この虎口プランの特徴が読み取れる人は縄張りがわかる人です。
下原門のような虎口プランは他の近世城郭にはたぶん類例はありません。豊後岡城の特徴を現した虎口プランと言えます。
そして、この虎口プランひとつで初期岡藩中川氏の当主・家老たちの関係が読み取ることができます。まさに貴重な原資料。
今のところ、植林が為された以外は遺構は良好に残っています。大手口から一番離れていますが歩いて行って読み解きに挑戦してみて下さい。

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2010年4月 9日 (金)

若い世代の城郭研究する方々へ。

縄張り研究も30年近く経過して研究史らしいものも次第にできつつあります。
その意味で象徴的なのが、2002年に退官を記念して開かれた「村田修三先生を囲む会」の写真です。これは中城研のページの中にあります。
リンク張らないでとありますので、リンクは張りませんが興味ある人は画像検索とかでググってみましょう。
ここに80年代以降、活躍された城郭研究者の主だった方々が一堂に会した貴重な機会だったようです。
そうした研究者の皆さんが一堂に会したことからも、村田先生の城郭研究における研究史的役割の大きさが理解されます。
そう考えると、なかなか貴重な写真です。

ちなみに当時のボクは館勤めでいけずじまいという致命的なポカしてます。ホント、遠隔地の館勤めは足かせでした(^^ゞ

村田修三さんを筆頭に、ご挨拶されている方々の研究を追いかけていくと80年代以降の縄張り論をベースとした城郭研究の光芒がわかります。
なかなか入手の難しい文献などもあり探しづらいでしょうが、探索してみて下さい。
もちろん実地で縄張りを理解することが不可欠ですので、その上での話し。
但し、さまざまな論点をすべてを鵜呑みにしないことです。
城郭研究は短期間に急速に理論が進化した研究領域でしたので、進展する研究動向や新たな知見が次々出てくる中で試行錯誤してきました。
さまざまな事例からさまざまな論点が提示されてきたので、一見ややこしいと思います。
それでも、丹念に論考をあたりながら、さまざまな事例研究や論点の中から、これを外しては城郭研究が成り立たないという根本理論があります。
研究史を理解する上で、それを掴むことがポイントになります。

2010年4月 4日 (日)

美作岩屋城跡。

去年に高山城、医王山城、神楽尾城、院庄構城、小田草城とみて、2月からは荒神山城、林野城、三星城、そしてようやく岩屋城をみることができました。
なかなか美作の戦国・織豊期城郭は興味深い事例が多い。
おおよそ毛利方が築いた拠点城郭の特徴もなんとなくわかってきました。
それと対称的な羽柴・宇喜多方の城郭も、もちろん在地系城郭の特徴もです。感じだけですけどなかなか勉強になる。

毛利氏は高田城→岩屋城→桝形城→(医王山城)→高山城→[因幡]と展開します。
大規模な軍団を押し出して併呑するような展開をみせます。
それを、篠向城や荒神山城を足がかりにピンポイントに寸断しようとするのが羽柴・宇喜多氏側という感じを受けます。


さて、美作岩屋城跡。城跡そのものは特にコレといった縄張り技術があるわけではない。
城域が広く曲輪も大ぶり。水源を持つ谷を2つ城域の中に抱えてその上の稜線に曲輪を連ねるプランです。
これは神楽尾城にも通じるプランです。どちらも毛利氏が軍団を駐屯させる拠点タイプです。
城域の縁辺部には稜線を区画する堀切が築かれています。
虎口は平入り虎口と下位曲輪に土塁を延ばしてスロープにして用いるタイプがあります。桝形虎口などの凝った虎口プランはありません。
なので縁辺部には要注意。

折れや喰い違いをみせるようなプランがありますが地形上そうなったもので織豊系とは言えないものです。
その一方で、大堀切やてくのぼりと呼ばれるハーブバイブのような巨大な畝状空堀群が8本も刻まれるなど、後背からつながる稜線に対しては神経質なまでに防御が施されている。
おそらく陣城群で囲まれたときの籠城戦で徹底的に遮断する意識が反映されたものだろうかと思う。

また、麓の慈悲門寺跡とされる曲輪群は谷あいに曲輪が広がるもので、往時は籠城に使用されたものでしょう。
寺跡とされる広い曲輪には古瓦や備前の破片がたくさん落ちていました。

これと合わせて、土塁によるスロープの評価をしっかりして岩屋城跡の縄張り図をきちんと取ると面白いのではないかと思いました。

美作岩屋城跡は単体としては大味な縄張りと言えます。他の城郭跡と比べてもこれといった特徴を見出しにくい部類にはいります。
でも大味な縄張りの美作岩屋城跡に毛利方の美作国の国衆が籠城し、麓に土塁ラインとコンパクトに織豊系城郭の縄張り技術を用いた陣城を築いた羽柴・宇喜多勢が対峙する。
この構図がそのままセット関係で今日も遺構として残っていることにこそ、この史跡の歴史的価値があると思います。
攻守両方の城郭跡の縄張りの違いは、戦国から織豊期への移行期たる天正10年代の時代を証言するもの。どちらも欠けてはいけないものです。
美作岩屋城跡・陣城群は、織豊系城郭の縄張りを使いこなす両勢力のぶつかった賎ヶ嶽陣城群など陣城のある事例と並んで、
この時代を端的に示す物的証拠、そして、境目たる美作国の地域性が如実に出ている事例と思います。

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2010年4月 3日 (土)

今日の収穫—美作岩屋城跡と陣城群

美作岩屋城の周囲を囲んだ羽柴・宇喜多軍の陣城のひとつ、荒神上陣城。
囲まれた側の毛利方にあった美作国の国衆が結集した岩屋城跡も、広い城域の割には虎口がショボい毛利方の特徴が出ていてなかなか。
基本は平入りか下位曲輪へ伸ばした土塁をスロープ状に使って下りるプラン。
そして、力任せに掘り抜いた巨大な畝状空堀群など見どころたくさん。
それでも、今日は麓の陣城群のひとつ、荒神上陣城跡の写真の馬出しを拝めたことが大きな収穫。これは重要。
現物を見るまでは「ホントに大丈夫?」と半ば疑いの目でした(失礼!)(^^ゞが、
実物を拝見して「ホントにあるんだ」という実感と美作国で織豊系城郭の陣城の好例に出会えた嬉しさに感激しましたさ。

そうなると、美作岩屋城は天正12年の中国国分けの際の立て籠る毛利方国衆の山城跡と接収を図る羽柴・宇喜多側の陣城跡がセットになっている優れた事例。
県指定なんてもったいない。戦国期毛利領の城郭技術の到達点である岩屋城跡と同時期の織豊政権の城郭技術を反映した陣城群が対峙し、
相互に比較できることを考えると重要な遺跡と言えるでしょう。課題は陣城跡の指定範囲の確定でしょうか。
さらに、同じ陣城群でも、技巧的な荒神上陣城に比べてより上方の稜線に築かれた迫畑上陣城跡とは技術差がみられます。
その理由を考えると興味津々、なぜでしょうか。
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2010年3月23日 (火)

美作の中世山城連絡協議会で話しました。

岡山県北部の旧美作国の内、津山盆地周辺には幾つか主要な戦国期山城が点在しています。
荒神山城跡、医王山城跡、神楽尾城跡、岩屋城跡などなど。。。。
そして、この地域ではそれぞれの山城跡毎に中世山城保存会が結成され、案内板の設置や草刈りなど活発に活動されています。
広域をカバーする保存会がある地域は珍しくありませんが、個別の山城跡に保存会があり連絡協議会を結成している地域はそうそうありません。

そんな、美作の中世山城連絡協議会のご招待で、今年の総会は私がお話しすることになりました。
14日に各城ののぼりが立つ津山市婦人青年の家で100名ほどの聴衆に、中世山城のことを話しました。

ボクが話す場合にポイントとするのは、城郭跡は縄張りの見方がわかると築城主体を理解する手がかりとなるということ。
城郭跡は地域の歴史を考える「生きた史料」であることを強調します。
まだまだうまく説明できていないところがありますが、相手より有利な高所を占めて山城と言う施設を築く意図を説明した後に、
千田嘉博氏の織豊系城郭編年案と木島孝之氏の虎口変遷案で近世城郭以前の織豊系城郭を何となく理解してもらっています。
これにより、多くの戦国期城郭が、織豊系城郭と非織豊系城郭(いわゆる在地の城)に大別されることをイメージしてもらう。
その上で、いろいろな城郭跡の事例を分類して分布をみることで、この地域の歴史像を城郭跡から読み解くことを示すと言う案配です。

前段の仕込みを如何にコンパクトにして、後半の身近な事例で説明を加えるかがポイントで、まだまだうまく引きつけられないのが課題。
わかりやすい説明とスライドを精進しているところ。
この会では後半の美作の山城跡からどう歴史像が描けるかをいくつか提示しました。
話したポイントはレジュメにありますが、ひとつはこの地域で荒神山城跡が技巧的にも突出している点を述べてきました。
事前調査では東から調べて、西側の岩屋城跡まで踏査しきれていなかったのが今後の課題となりましたが、
おおよそアウトラインは引けたような気がします。
皆さんに熱心に聴いていただき、微力ながら、美作の中世山城跡を精査して地域に還元できればと思う機会になりました。

4月17日に荒神山城跡の登山会では、織豊系城郭のプランをうまく説明したいと考えて簡単なレジュメを思案中。
それまでに岩屋城跡も歩いてみたいと思います。
他の城郭跡も随時歩いてこの目で確認して、今年中におおよその調査プランを仕上げられたらいいなあと考えています。
3年計画くらいでじっくり調査できればかなり成果が出る見込みです。

追伸:津山朝日新聞に記事になっていたとのこと。津山朝日新聞記事切り抜き。「城跡は生きた史料」ありがたい見出しです。

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2010年3月22日 (月)

第27回全国城郭研究者セミナーで研究発表者の募集です。

第27回 全国城郭研究者セミナー 研究発表者の募集
『全国の城郭研究者に最新の調査・研究成果を発表する場を提供し,研究者相互の交流の場として続けてまいりました全国城郭研究者セミナーも今回で第27回 を迎えます.
広く研究発表の場を設けるという理念をさらに深化させるため,今回は研究発表を全国より募集いたします.』

というように、長い歴史のある全国城郭研究者セミナーの中で、
今回7/31〜8/1で姫路市で開催する第27回セミナーでは、初の試みとして研究発表者の募集を行います!
4月16日金曜日までに発表要旨をA4縦の用紙全面に横書きでレイアウトしリンク先の宛先まで郵送にて送付ください。
分量は本文1枚以内、図版を含めて最大2枚までとします。


そもそもこのセミナーは、特定の会の「会員」のみが発表するクローズドかつ定期的な研究大会ではなく、
全ての城郭研究者に開かれ互いに切磋琢磨することを目指して設立されたものです。
その精神は、タイトルにある「城郭研究者」というコトバに現れています。
セミナーという仕組みは歴史研究会でよく行われるサマーセミナーがモチーフですので、そういった感じの報告会でイメージして下さい。


もちろん
研究発表ですので、単なる踏査報告とかスライドショーのみ(スライド使用はかまわない)ではダメで、
これまでの研究動向を踏まえて議論を交わせる報告者も聴衆も勉強できるような、調査に基づく報告を期待します。

若手研究者の掘り起こしと交流もねらいですので、フィールドワーク系文献史学・歴史考古学からのアプローチも歓迎します。

募集は報告時間の都合から2名ですが、この他、当日は会場でのポスターセッションも予定しています(別途告知予定)
転載自由ですので、広くみなさんにご周知下さい!!

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2010年3月20日 (土)

院庄を考えると夜も眠れない。

先だって、津山市弥生の里文化財センターさんのお招きで、第28回文化財報告会に参加してきました。
ボクの役目は院庄館跡と構城跡について城郭史から評価してほしいと言うもの。
前原茂雄さんと森俊弘さんのお2人が院庄館跡・構城跡と周囲の歴史的動向について説明されて、ボクが補足的に固めるという感じでしょうか。
既に津山市さんの方でどちらも発掘調査が行われているので、それを踏まえて、全国的な城郭史研究の中で2つの事例を位置付けてみてはどうかという提案型の報告にしました。
下記の通り、なかなか難しい事例なので報告の構成はやや課題が残りましたけれども、当日は盛況で、多くの方にお会いすることが出来、とても有意義な場になりました。

現在の城郭史研究では平地居館跡で土塁を持つ事例は発掘調査などから早くても14世紀くらいからと考えられています。
近年は土塁があったとされる守護館でも当初は築地塀などで土塁を持つようになるのは16世紀初頭からと年代観が下がっています。
それ以外の土豪や国衆の館跡でも土塁は15世紀後半にならないと広がらず、それでもあんまり多用されないと考えられるようになっています。
それに対して、院庄館跡は、土塁が現存して残る上に遺物や関係資料(と言っても太平記ですけど)から
14世紀以前の守護勢力の館跡ではないかとされています。
なので、そうした研究事例に真っ向から反する希有な事例となるわけです。
史料的には、鎌倉〜室町前半には院庄に何らかの中心的機能があった可能性は高いので、
守護勢力の館跡ではあるだろうが、果たして土塁はいつのものか?という問題提起をしてきました。
土塁は研究動向に合わない。ならばどう評価するのか?と、なかなか解釈の難しい事例です。

これに対して、構城跡は中世後期に機能した平地の城館跡で調査事例からも史料からも研究史的にもすんなりいきます。
大きさも周辺にある構と呼ばれる平城・居館とあまり大差がありません。
それ故、森忠政が美作入部の際に最初に腰掛城として入った割には小さいという評価ができます。
こちらは、森忠政が院庄に入った際に本格的な改修を構城跡にはしていないという証拠と言えるでしょう。
どうも院庄への入部は、最初から鶴山に新規築城するまでの腰掛城だったようです。
そしてにらみあいの松で有名な家中紛争はその築城過程で生じたものと思われます。

今回はいくつかの仮説を立てて、今後の課題とするに留めました。
とりあえずは、周囲の事例から地域の傾向を明らかにしつつ、再び問い直す機会を得たいものです。

いずれにしても、今回、山城から平城・居館まで興味深い事例が多数残る美作国の戦国・織豊期城郭について、
勉強する機会と報告の場を提供してくださった、弥生の里文化財センターの津山市教育委員会文化財課の関係各位には感謝する次第です。

2010年3月17日 (水)

津山城百聞録

津山市から今年の1月に『津山城百聞録』が刊行されていました。1,000円なり。
以前に、津山城整備・備中櫓復元事業に際して多くの資料・絵図等を集成して『津山城資料編』を刊行した津山市。
その時の資料をもとに、文化財課や市郷土博物館の研究員が執筆し市ホームページで連載された「津山城百聞録」が書籍化したものです。
2月に郷土博物館で資料調査をした際に仕入れました。

一般向けに専門的な内容を短いトピックを重ねることでわかりやすくするという手法はなかなか参考になります。
近世城郭跡を持つ自治体では
ありそうで意外にないのがこうした書籍。それだけに貴重です。
得てして、写真のある豪華本とかガイド本などはあったりしますが、内容はこういった書籍の方がいろいろ読めておトクな気がします。
また、城郭跡に関連した殿様や人物伝、まちのことなどを並べて案外城跡のトピックが乏しいということもなく、
城跡から周囲の歴史までバランスよく項目が構成されているのも特徴。
こうした書籍化は一般向けには有効と思いますので、先行事例として、近世城郭跡を持つ他の自治体でも続いてほしいものです。

津山市郷土博物館か弥生の里文化財センターに売っています。郷土博物館からは通販もできるようです。
興味ある人はお買い求めください。
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2010年3月15日 (月)

「院庄」と「美作の山城」

『院庄館跡と構城跡』の報告会と美作の中世山城連絡協議会の講演は無事にお務めを果たしてきました。
作州津山のみなさん、大変勉強になりました。ありがとうございます(._.)オジギ。

院庄館跡と構城跡についてはもう少し勉強しないといけません。周辺の事例と比べながら詰めてみたいと思います。
美作の城郭については、岩屋城・陣城群など未踏の山城を確認しておおよその概略を整理できると思います。
あとは戦国・織豊期の城郭技術のポイントを、シンプルかつコンパクトかつ図でお伝えする方法を練ってみたいと思います。
気合いを入れて臨んだので?全体的に内容を難しく作りすぎたきらいがありましたが(..ゞアセ、
これ以上難しくなることはないので要点をうまく伝える術を練っていきますね。

懇親会もいろんなお話で楽しむことができました。津山は音楽どころでいいお店が多いです。
多士済々、これからもお世話になります!(._.)オジギ

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2010年3月11日 (木)

お城の本。

最近書籍コーナー行くと、歴史ブーム?もあって新書にムックに百家争鳴。
その中でも幕末や戦国武将モノと並んで、しっかり城郭入門な書籍がたくさん出ています。
とは言え、ぱらぱらめくってみると、案外従来のオーソドックスな記述のものが目に付きます。
前半は、天守や櫓、復元建築がメインで解説は軍学から引いてきたり、歴史研究から読み解いた事柄などなど。
そして後半の見どころは城郭史跡のガイドブックみたいなものだったりします。
図も概念図っぽいものであんまり良くないです。

その一方で、縄張りを知っている人の書いているのが意外にないのが何とも。。。
どうも、それは縄張り研究をされている人が筆無精?だからかもしれません。

その中で、縄張りも知っていて城郭をまとめた本で一般向けとなると。。。
千田嘉博氏の『戦国の城を歩く』になりそうです。もともと新書版ですが最近文庫本になっています。
ちょっと詳しい調査編になると不朽の名著『城館研究ハンドブック』になるでしょう。
とりあえず、この2冊に書いていることをベースにして、あとは学研などのカラー図版の良いムック本を探すといいかもなあ。

とは言え千田さんの本は戦国から安土城までが中心なので、本当は『天下統一と城』図録が一番良いのでしょうけど、
織豊・近世城郭の記述も含めるとなると。。。手前みそで『名城百選』は違うか(..ゞアセ。

あれだけたくさん新書や入門本が出てるのに、コレという入門本はないようです。
その辺は意外に「日本の美術」の城郭シリーズの方がオーソドックス1本調なのでまだいいかもしれません。
昔の小学館の探訪ブックス日本の城シリーズを復刊してくれた方がどれだけ良いか。
城郭とタイトルがつくと売れ行きがよくなるからか、いろんな業界の方々の草刈り場化している様子。
昔のお城ブームの二番煎じにならぬよう祈りたいところ。

2010年3月 9日 (火)

美作湯郷のお城、林野城跡

厳密に言うと林野の方と思いますが、市役所(旧役場)のある市街地の裏山にある林野城跡。
信長の野望にも美作のお城として登場する著名な?城郭。

戦国・織豊期に機能したとされ、小早川秀秋も支城として取立て稲葉通政が麓に館を構えたとされる城郭です。
麓のハローワーク美作の裏手から登山道があります。
駐車場はありませんのでハローワークの臨時駐車場などを拝借するか林野駅から歩いて下さい。
途中で道がわからない箇所がありますがジグザグな上り道ですので見つけて下さい。
療養湯でご一緒した土地の古老からも小さい時から遠足でよく登ったものと教えてもらいました。

林野城跡は、乗岡実さんの論文からはコビキB瓦が採集されたお城です。
こちらは兵庫西部から山陽・山陰方面を転戦する山下晃誉さんの図面を片手に踏査。
土塁はしっかりしており、主郭中央の櫓台は切岸もよく時代が下がるような雰囲気のあるお城です。
梶並川対岸にある岩盤質の三星城とは対照的に、山頂の主郭部は長く平坦地も広く採られた立地の良い山城です。
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2010年3月 8日 (月)

美作湯郷のお城、三星城跡。

眼下に広がるは、美作三湯のひとつ湯郷のある美作市。中世は塩湯郷。
その近くにこんな場所。三星城の主郭はさえぎるもののない岩山です。
三星城は、美作中央病院側の明星三星神社参道から登ります。近くに何とか駐車できるスペースがあるものの、駐車場はありません。

三星城は、畑知良さんの縄張り図を片手に踏査。
麓から登ってすぐに館跡とされる曲輪群があります。後藤勝基の墓とされる五輪塔があります。
そこから作業道が入っていて登るのは楽です。
山頂は主郭は岩盤の塊。最後の登りはなかなかスリリングな体験ができます。
尾ね続きに東西にも山塊があり山頂部にはそれぞれ曲輪群が造成されています。基本的に岩山なのですが西よりも東の方が削平は良いようです。
また、東の方には斜面に岩盤をくりぬいて数本程度の畝状空堀群が掘られています。
山頂から西へ伸びる尾根筋には、妙に出来のよい横矢の効いた土塁+長大な登り土塁が妙に自然地形な平坦地と斜面を走るという興味深い組合せの「遺構」があります。
たぶん境界土塁ではないと思われます。
全体として戦国期の様相を示す三星城ですが、この西側尾根筋の土塁は横矢が随所にあり登り土塁にもなるなど、抜きん出て技巧的なのが特徴です。
但し、現在は麓からの作業道が脇をかすめて入っているため、土塁に伴う平坦地の確認が困難になっているのが実に残念な状態。

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2010年3月 5日 (金)

鹿背山城跡。

守護所シンポメーリスみてたら、何だか、鹿背山城跡で発掘調査しているようで発見みたいです。
鹿背山城跡に「薬医門」木津川市教委調査
「虎口」儀礼的に発展?木津川・鹿背山城跡

後出しみたいな言い方で申し訳ないのですが、2006年の旧木津町での全国城郭研究者セミナーの際に訪れた時にみて、
「あれが桝形虎口にみえるなんて、関西はどうかしている」

と地表面観察しながらKさんと語って既に結論を出してた「虎口」です。
写真はその時撮った主郭部虎口付近。ローアングルで撮っています。

あの虎口がなぜ中途半端に広がりスロープ状のかたちをしているのか。
縄張り図を開いて、主郭だけで観ないで城域の他の部分もじっくり観て下さい。
そうしたら気づくと思います。九州にも似たような虎口はありますし。
(とKさんと歩きながらアレコレ教えてもらいながらそんな結論に達してます)
あれが桝形虎口でないのはわかっていたので、裏付けられたのはよいのですが。。。

もうひとつ、薬医門について礎石と据え付け柱でどうして上屋が推定できるのかは何とも戸惑います。
年代については瓦と土器からかもしれませんけど遺物ですので慎重な判断が必要かと。
薬医門な城門があの位置にあるのかは別として(あの位置で本当に門の遺構かも慎重な判断が必要な気がします)、
仮にそういった城門があるなら城郭になる以前かもしれないし、
松永時代以降に城門として築かれて十分機能していた証拠の可能性もあるのでは。とも感じます。
また、メーリスには防御
だけでなく「儀礼」を兼ね備えるとありましたが、どうでしょうか?
仮に儀礼を兼ね備えた薬医門を引き継いだのなら、城郭の論理に寺院の儀礼が引き込まれたという解釈もありうることは留意すべきかもしれません。
手持ちの材料がないのでこの辺は歯がゆいところ。

[追記:せっかく書いたのですけど、6日夕方に加筆しようと思ったら後半が消えてしまいましたorz。
書き飛ばした感じだったので、とりあえず写真を載せて、以下、書き直し。]

個人的には鹿背山城は松永久秀時代、或いはそれ以降天正初期まで機能していてもおかしくないのではと思っています。
関西はどうしても年代を15世紀末から16世紀前半辺りまで遡って考える傾向がありますが、
城郭跡の現況遺構から考える場合には古く遡って考えるよりも、
天正後期(そこまでいかなくても織田政権がある程度主導権を確保した天正中期頃)まで)は可能性を検討しないといけないのではと思っています。
それとは別に、発掘成果から桝形虎口じゃなく思ったよりも軍事性が低かった→薬医門とみられる遺跡が出土した
→だから防御だけでなく儀礼的な意味もあるのか、という議論は賛同しません。
あまり軍事を直視したくない印象を受けます。
スロープ状で広がるとしても出入り口は平坦面から抑えられる位置であるし、
痕跡の残りづらい柵列か板塀で仕切れば十分な機能を果たすのではないか、と思うところです。
在地系の虎口プランについて説明がつかないで評価するのではなく、微地形などを勘案して彼らの中のベターな回答を読み解いてほしいと思います。

桝形虎口ではないのは元々そうとして、寺院のような門(近世には城郭でも使用されていますが)が検出されたとしても、
在地系の虎口プランとして、防御等の軍事性については十分評価してほしいなと思うところです。
虎口の評価は城郭研究のキモですので、防御などの軍事性の評価は譲れないので遠く西国からフォローしました。

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2010年3月 2日 (火)

大鳥井山遺跡。

山城の出現、200年遡る。11世紀の秋田大鳥井山遺跡

……構造から山城なのは明白だったが、問題は時代だった。土器なども多数出土したが、近隣でも調査例の乏しい時期で、いつのものか特定できなかった。 「古代にはあるはずがない」として、「中世の山城」との見方が強かった。

 国の史跡指定を受けようと横手市教委は昨年まで3年にわたり再調査を実施した。この間、北東北では、世界遺産を目指す平泉(岩手県)などで古代遺跡の調査が進み、歴史の物差しとなる土器の編年が整っていた。その結果、10世紀後半に築造が始まり、土塁や堀が完成したのは11世紀後半と特定。後世の戦国時代などに城として使われたことのないことも確認された。……

この記事で、この下りが興味深かったので引用しておきますね(・ω・)/
10年前くらいに行った盛岡での全国城郭研究者セミナーや、東京での全国城郭研究者セミナーでの事例報告を思い出しました。

2010年2月27日 (土)

伏見城跡について見学検討会あります。

5月29日土曜日に、大阪歴史学会の見学検討会で伏見城跡をとりあげるようです。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/historia/ 見学会等をクリック。

「伏見城研究の成果と課題」
10:00 近鉄京都線「桃山御陵前」駅改札前 集合(12:30まで)
   ※京阪「伏見桃山」駅より徒歩2分
→伏見城(治部少丸、キャッスルランド跡地、運動公園、北堀公園)、城下町(北側惣構、家臣団屋敷跡=丘陵西斜面)を見学
                

13:30〜17:00 検討会
会場:京都市呉竹文化センター(京阪・近鉄「丹波橋駅」西側徒歩1分)
アクセスはこちら[京都 市伏見区京町南7丁目 075(603)2463]
○報告
・中井 均氏(NPO城郭遺産による街づくり協議会)
 「伏見城と豊臣・徳川初期の城郭構造」
・福島克彦氏(大山崎町歴史資料館)
 「伏見城の機能とその破却について」
・丸川義広氏((財)京都市埋蔵文化財研究所)
 「伏見城の考古学的調査」
・森島康雄氏((財)京都府埋蔵文化財調査研究センター)
 「伏見城城下町の考古学的調査」
 コーディネート 仁木 宏氏(大阪市立大学)

この他、山田邦和、仁木宏両氏の誌上報告もあるそうです。

○趣旨は以下の通り。
伏見城については、これまで城下町研究はある程度、進められてきた。しかし、城郭については、主要部が宮内庁管轄地で自由な立ち入りが
できなかったため、実態はほとんど明らかにされてこなかった。
昨年、大阪歴史学会は他の学会と合同で、この宮内庁管轄地を見学する機会を得、貴重な知見を獲得した。今後は、城内・城外の研究を総
合的に進め、これまで十分に解明されていない伏見城の全体像にせまる必要がある。
本見学検討会は、そうした総合研究の第一歩として、城郭史、考古学などの立場から伏見城研究の現状を提示し、今後の課題を明らかにし
ようとするものである。


午前中10時から、現在みられる範囲の伏見城跡と城下町を見学するようです。
そして、午後から、下記の通り検討会を開くスケジュール。城郭研究では中井さんと福島さんが報告されます。

無料で事前予約不要、一般の方も歓迎とあります。興味深い内容ですのでぜひとも行けたらと思っていますが、行けるかな?
いろんな学会で代表な方々が陵墓内に入ったそうですが、比較的勝手な行動さえ慎めば自由にみせてもらえたそうで、
中井さんにはぜひとも写真スライドを希望。そして、どのような討論が引き出されるのか期待です。

2010年2月24日 (水)

荒神山城に登る。

今回、登ってきた美作荒神山城。
土塁と桝形虎口があるということなので、どれほどの改修を受けているのか確認してきました。
川中山王バス停から40分ほど歩いて荒神山集落に到着。そこから山道を通って城跡へ。
麓に熊野神社がある方の山、西側に似たような山があるけど間違えて登ってしまいやすいらしい。

荒神山城は、1994年の『中世城郭研究』第8号に掲載された池田誠氏の縄張り図があります。
池田さんは織豊系縄張りの影響を受けている点から天正10年代までの宇喜多方花房氏時代を想定しているようです。
最近の調査では『16世紀末全国城郭縄張図集成』には山下晃誉氏の縄張り図が掲載されています。
今回は、最近岡山で調査されている畑和良さん@落穂ひろいの縄張り図を参考にして登りました。

山頂は保存会の方によるものか下草や笹藪が伐採されておりとても見やすい環境にありました。
おかげで土塁や石垣などの遺構の確認がしやすく、大いに助かりました。
大ざっぱな印象を羅列するとこんなところ。
○山頂の主郭部は広く、北西隅に櫓台のような低い土塁囲みあり。東側に張り出してスロープ状に降りる虎口あり。
○主郭の周囲は帯曲輪。北西側と南側に広く北東側は斜面に近い形状。ここもスロープ状の虎口。
○主郭部東側の2段の曲輪の上の方の曲輪には石垣列があり、一段下がった方形状のものはおそらく櫓台。北東隅にも櫓台あり。
 2ヶ所の櫓台が下の曲輪を制するプランとなっている。
○南側の曲輪はよく登城記に写真がアップされる土塁が凸状に南半分を回る。
 折れは直角に近い状態に仕上げてあり横矢を意識したもの。斜面は切岸がかなりしっかりと造られている。
 尾根伝いに侵入されやすい南側尾根筋に向けて、かなり意識して橋頭堡状に横矢を効かせる縄張りとなっている。
○この曲輪には2ヶ所に虎口がある。ひとつは有名な内桝形虎口、もうひとつは北西側から金蔵の段に下りる虎口。
○南東側の内桝形虎口は石列が残る。土塁の突端にある櫓台が効果的な位置を占める。そこから下位曲輪にL字状の「腕」が伸びる。
○金蔵の段へ通じるルートは、途中、上位の曲輪から派生した削平地から伸びる土塁状の地形(切岸あり)から牽制される小曲輪を介する。
○金蔵の段は広い曲輪。東側がへこみ虎口となる。但し開口部が広く人工林があることから後世の手が加わっている可能性が考えられ、
 かなり評価に悩んだのでとりあえず保留。遺構とすると大手に相当する虎口となる。
○館と言われている北側の曲輪群の北端には2つの櫓台が下の曲輪をにらむ。直下の曲輪に土塁と虎口あり。
○石垣は部分部分にあったが、ほとんど見当たらない。全体的に切岸はかなりしっかりしている。

思いついただけで以上の通り。
予想では部分的に改修かな?と思っていましたが、実際には城域の全般にわたって要所を織豊系縄張り技術で改修している。
横矢や桝形虎口、櫓台などの配置には攻め手に対して効果的な防御を行おうとする一貫した意図が感じられました。
なので、ある時期に全体の縄張りを一気に改修した印象を強く受けました。
一方で、関ヶ原以後の大藩の支城にみられるようなコンパクトに縄張りを締めて主郭部を徹底的に改修する感じではなく、
虎口や土塁・櫓台を細かに配置して作り込んだ感じがするので、関ヶ原以前の豊臣大名の支城という印象を受けました。
そうなると、池田さんの説よりも下がって、宇喜多氏末期から小早川時代の城跡として指標になるのかなという印象。
文献史料では、城主の花房氏が文禄3年に宇喜多家中を退去して廃城ということですが、案外関ヶ原頃まで機能していたのではないかな?と思いました。
ボクは縄張りからそうみましたが、先行する乗岡実氏の表採瓦からの年代観とも重なっているようです。
いずれ他の事例と突き合わせて年代観を考える機会が持てればいいのですが。
その意味でも、荒神山城は、機会があれば何度かじっくりと調査してみたい興味深い事例でした。

写真で撮っても感じが伝わらないと思いますけど、こうした地形から城郭研究者という人たちは、曲輪の縁辺部や櫓台・土塁などの上端部と下端部を見分けて作図していくのです。

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2010年2月22日 (月)

城郭跡を歩くこと。

2月22日は、4月に踏査会を行う美作荒神山城に遠征してきました。
朝からヨメさんに送ってもらい津山駅へ。
奇跡的に朝の1本に乗って中鉄北部バスで津山駅からもよりのバス停。。。押渕上ではなく川中山王バス停から
テクテク県道を歩いて行ってきました。

荒神山城を5時間踏査して、実に満足な結果を得て帰ってきました。詳しくは別に起こすとして。。。

なぜ、岡山県の城郭跡を歩くのか?
理由は実に単純。
ヨメさんところに帰るのと、泊まるところがあること。
そして関ヶ原以降に完成された抜きん出た近世城郭と、土塁や畝状空堀群はいろいろ工夫するものの曲輪にたいして特徴のない戦国期城郭しかない九州に対して、
岡山県周辺には、その間にあたる織豊期の織豊系城郭の事例を含めて戦国期城郭から織豊系城郭・近世城郭までまとまってあるからです。

関西出身だけど、九州で城郭研究の洗礼を受けた身としては、
1番軸となる関西・東海の城郭跡をほとんど歩いた経験がない。
よって、織豊系城郭や九州以外の近世城郭を実際に見る機会がかなり少ないと言う課題がありました。
たまたま縁のあった岡山県の城郭を踏査することで、戦国期城郭から織豊系城郭、そして大藩から小藩まで築いた近世城郭を
まとまったかたちで歩き、実地で考える訓練をしているわけです。
近畿では各カテゴリがあるもののその他の要因が加わり特徴が弱くなる傾向にあるので、岡山県辺りの境目くらいがちょうど適している。
幸い、遺構の読み込み方は十分に教え込まれました。でも城郭跡は実際に行って遺構をみながら(できれば作図して)学ばねば仕上げにはなりません。
それを遅ればせながら、今しているわけです(..ゞアセ。

一見、単なるお城めぐりの道楽にみえるようですが、気楽な見学や物見遊山ではありません。
どこかの館や所蔵者に頼んで史料を閲覧したり、埋文センターで遺物を実見しているのと同様のことをしています。
「実際、原史料を見ないと。。。」と同じように、城郭跡を扱うなら「実際に、城跡の遺構をみないと」というわけです。
たまたま扱うのが古文書や指図、出土遺物じゃなくて、現地で露出している遺構なだけで、歴史資料には変わりない。
そして、たまたま空調の効いた閲覧室か、人里離れた山の中かというロケーションの違いに過ぎないのです。
やっていることは同じなんですけど、「古文書めぐり」とかないですから城跡を行くのは道楽みたいに思われるようです。

さて、美作荒神山城はかなり興味深い遺構を拝見。さて、どうやって図面をとる時間を確保したものか。。。

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2010年2月16日 (火)

シンガの地。

拙ウェブログは、私的な時間を惜しむように使っているあれこれラボの研究活動を報告するために書いているのであって、
それ以外の大半の時間を費やしている稼業はパブリックな「業務」ですから、私的なページに事細かに書くことではない。
せいぜいあれこれの研究活動に絡むことくらいしか言及しませんですよ。。。
って一応断りしておくか(..ゞアセ。

さて、今日は天気が悪いということだったんですけど、非番&晴れてたので予定を変更して志賀城へ行ってきた。
天正の豊薩戦争で岡城を守った志賀親次の本拠地です。
宣教師の報告やフロイスの『日本史』には、爺さんとは違って熱心なキリシタン武将だった「期待株」の親次くんを事細かに書いています。
それをみると、九州国分けによる豊後一国体制になるまでの彼の居場所は「岡」ではなく常にシンガとなっています。
シンガには教会を建てたり、臼杵など宗麟や義統の近くに詰めない時は居たりしています。
このシンガですが、親次が島津勢の北上に備えて岡城に籠るので、彼を岡城主とする考え方から、このシンガを「岡」と解釈されています。

でも、稲葉川と大野川が合流する地点にある中世岡城から下流に行くと、
大野郡のかつての朝地町・緒方町に分かれて大野川沿いに志賀という地域があります。
ここは元々、志賀氏の本貫地になります。今日も志賀城跡が遺ります。
素直に読めば、親次はこの志賀に普段は居て非常時の詰城として中世岡城を構えていたと考えるべきです。
但し、九州国分け以後は大野・直入郡に居ることが多かったようで中世岡城にも頻繁に滞在しています。
それでも、宣教師の報告や『日本史』をみると、志賀と岡を併用していたようです。

そんな志賀城跡を見て来ました。
志賀地区の南側、大野川に面した小高い独立丘が城域です。大野川から貫入する谷や迫地、斜面を利用した田畑が周囲に広がります。
予想通り、志賀城はただの平坦地が連なる丘城でした。主要部は平坦地のままでしたが切岸もほとんどありませんでした。
周りは、江戸時代から墓地になっていたり、山仕事や畑仕事の手が入った状態になっていました。
堀切や竪堀などは確認できませんでした。
伝承などがなければ、城跡かどうかも悩むような、地形をそのまま利用して構えたタイプの丘城でした。
立地的には岩盤があるわけでもないのでやろうと思えばできたと思うのですが、そうした造作が加えられていないことがわかったことが収穫でした。

下竹田を除く直入郡や大野郡西部の戦国期城郭はほとんど手が加えられない平坦地を利用したものが多くみられます。
両志賀氏や朽網氏、一万田氏などがそうした同じようなタイプの城を築いています。
直入郡の場合なら溶結凝灰岩の地勢故にできなかったという可能性もありますが、大野郡まで来ると丘陵地はそこまで影響しない。
なのに、親次段階の天正後期でも細かな造作を加えないで城郭施設を運営していたわけで、大友氏領国の性格を考える上でも興味深い資料が得られました。
築城技術は現地の技術を採用していたという、自前で積極的にあれこれ造作しない点も志賀氏の特徴として興味深いですが、
南志賀氏や朽網氏、一万田氏などが居館跡が比定できるのに対して、北志賀氏は天正後期の親次まであまりこの地域の足取りがわかっていないことを踏まえると、
他の南郡衆に比べて、宿老級の北志賀氏は臼杵や府内に詰めていてあまり在所には居なかったんじゃないのかな?という気もします。
この辺をうまく整理したいと思います。

普段は周囲の迫が入った村落の中に屋敷を構えていたのでしょう。
写真にある風景のどこかに教会もあったのやもしれません。
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2010年2月 1日 (月)

「院庄館・構城を考える」@津山市やります。

去年はアート三昧でしたが、今年は痕跡探しの城跡の研究でアレコレやります。
ということで、今年は私のもう一つの拠点、津山市でもいろいろと活動をします。
というのも、岡山県で開催される国民文化祭の一環として、津山市開催行事のひとつに「中世山城の祭典」があるからです。

毎年行われている「全国山城サミット」(公式ページがないのでコチラをご参照下さい。)は山城を持つ自治体が参加する自治体交流事業。
17回目の担当が岡山県津山市で、国民文化祭行事として「中世山城の祭典」を10月末に開催する予定となっています。

この事業に冊子作りなどでお手伝いする予定です。ちなみに、津山市の加盟城郭は「矢筈城」と「岩屋城」だそうで、既に矢筈(髙山)城はチェック済。

その一環で、今年は津山市でいくつか城郭絡みの企画に参加します。
その最初の企画として、3月に国文祭プレフェスとして
「院庄館・構城を考える」をテーマにした研究報告会を行います。
津山市教育委員会文化財課のご協力で、「津山市調査報告会」の枠で開催します。
概要は以下の通りです。

第28回津山市文化財調査報告会—院庄館・構城を考える—
と き:2010年3月13日(土曜日)13時30分〜16時30分 終了予定
ところ:グリーンヒルズ津山リージョンセンター(岡山県津山市大田512)
内 容
報告(各45分)2と3の間に休憩10分あり。
1 前原茂雄(九州大学)「『院庄』とは何か—中世院庄の歴史・地理学的分析」
2 森 俊弘(岡山地方史研究会) 「文献史料からみた院庄館・構城」
3 中西義昌(城郭談話会)    「城郭史からみた
院庄館・構城
討論と質問タイム

の予定です。
津山市教委でこれまで行った院庄館と近年行われた院庄構城の部分的な発掘調査を踏まえて、3者の切り口から中世院庄の実態について考えようと言うものです。
ボクは縄張り研究の視点から、中世美作の山城や構と呼ばれている平地の城郭について、城郭史研究からどのように捉えられるのか、位置付けと見通しを語る担当です。
ここから周辺の山城と平地に残る「構」の保全に目を向けてもらえれば幸い。

美作中央部の津山市周辺には戦国期の拠点となった山城が多く、それぞれ地元で熱心な保存会がある関心の高い地域です。
秋の山城の祭典に向けて、まずは政治的な拠点にもなった院庄の実態について様々な視点から検討する研究会からはじめます。
ちょっと遠いですが、よろしければ聴きにきて下さい。
あと、4月17日には生涯学習講座の一環で、「中世山城入門—美作荒神山城を歩く—」します。中世なのか?という疑問はおいといて。
こちらは10時集合、15時半解散の予定です。こちらは後日またお知らせします。

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2010年1月12日 (火)

院庄村絵図みてきました。

11日は、M&Mさんに同行して津山市の津山郷土博物館での資料調査に参加してきました。
郷土博物館といっても、
昭和9年に落成した旧津山市庁舎を整備した本格的な市立博物館です。
昭和63年4月に開館したそうです。

越前系の高田藩松平家の忠直→光長の家督を引き継いだ宣冨から続いた津山藩松平家。
藩政史料をたくさん残しており、愛山にあった旧松平家倉庫に保管されており「愛山之印」が蔵書印だったことから「愛山文庫」と呼ばれています。
昭和34年に東京の松平邸にあった分と合わせて津山市に寄贈され、現在はこの郷土博物館に所蔵されています。
組織的に資料整理が進められ、藩政時代の分は「愛山文庫目録」として刊行されています。
元禄11年から廃藩置県まで書き続けられた国元日記など近世史研究者にとっては定点観測するのにもってこいな史料群のようです。
(それにしても岡山藩池田家、鳥取藩池田家、津山藩松平家とこの界隈の殿様はみんな膨大な藩政文書を地元に残されています。すごいものです。)

という、津山郷土博物館に行ってきたのですが、どちらかと言えば中世史研究者ですので今回は別の所蔵史料群から院庄村の絵図について拝見してきました。
絵図自体は院庄構城の発掘調査の現地説明会資料でも引用されているものです。
写真は掲載できませんが、天明2年の絵図で田畑を色分けしており院庄館(現在の作楽神社)や院庄構城があった辺りの近世の様子が
手に取るようにわかるいい絵図でした(サイズも大きくないので取扱いも少しは楽でした)。
現在は姫新線や国道が走るなど変化の激しい地域ですが、おおよその道筋や神社・祠の位置などがわかり収穫多しでした。

まもなく詳細をお知らせできると思いますが、3月上旬に津山市教委のご好意で同行させてもらったメンバーで院庄館と院庄構城について報告会を開く予定です。
場所は津山市内です。私は城郭史の立場から報告する予定です。
美作国に分布する「構」と呼ばれる土塁囲みの平城が分布する地域的特徴から院庄館と構城をみようという内容。。

美作国は中世から織豊期・近世初頭の研究には非常に興味深いフィールド。
何度か通って城郭跡もあり、それぞれ保存会もしっかりしているので、九州で培ったものを持っていって少しはお役に立てればと思っています。
福岡平野方面の「書き直し」と美作国の城郭。筑前と美作から毛利氏領国を挟み撃ちする予定です(^^ゞ

2009年12月16日 (水)

安楽平城に登ってきた。

今日は寒波到来の福岡へお出かけ。途中、長湯〜湯平越えは雪が積もっていた。
10年ぶりの安楽平城へ下調べに行ってきました。いやあ、博多湾からの風が寒いを通り越して冷たい。
高祖城に続いて、10年前の縄張り図に書きもらしや見落としがないか確認に行く、まさに「清算行脚」(^^ゞ

ラジオを聴きながらひとり図面とカメラを片手にウロウロ。
他の人が指摘していた主郭部の石垣ラインの見落としも無事確認(ノ_・。)。あと谷の小曲輪を2つほど確認。
高祖城の畝状空堀群と同じく、安楽平城の石垣もおそろしくわかりやすい位置に見つけることができました。(´д`;
10年前の自分はあちこち堀切はくまなく踏査したのにこんなわかりやすい石垣を見落としていたのか。。。(´д`;
あちこち精査したはずが、足元の初歩的な遺構を見落とすなんてアホか、コイツ。
と、10年前の自分を叱っても意味がないので、さっそく図面の一部手直しにかかりますσ(^_^)


高祖城に続いて、結果オーライでこれまでの持論を補強する確認作業にはなりヤレヤレですが、高祖城に続いて宿題が増えました。
安楽平城の縄張りは基本的には小田部氏段階で主郭部と防塁型ライン、堀切といった大枠はできたと思います。
しかし、今回遺構を再確認してまわって最終段階には筑紫氏の改修がかなり入っているなあ。と確信してきました。
石垣の辺りは多分筑紫氏のものと思われます。
筑紫氏時代の城主は、筑紫大炊助。彼の出自は大村氏。。。大内氏研究の方ならピンときますね。惟門の姉婿が大村氏でその子辺りかと考えられる人物です。
近々、図面を手直しして、もう少し資料を整理して論文にまとめます。

ちなみに写真はちゃんと図面には書いてある著名な防塁型ラインの石垣。
これも小田部氏か筑紫氏か微妙?と思っていましたが、結果、筑紫氏の可能性大。あらためてみると勝尾城と似てますよね?
もうひとつは早良平野の遠景。遠くに飯盛山城と柑子嶽城まで観えます。
対岸の防塁型ライン上の曲輪には、地元の方がイスを置いたり木を刈ったりして下さっていて、見晴らしがよろしくなっています。。
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2009年12月15日 (火)

『西国城館論集 1 』入手しました。

城館史料学会査読基準検討会&城郭談話会に出席した際に、
中国・四国地区城館調査検討会編の『西国城館論集1』(
河瀬正利先生追悼論集)を関係筋から2000円で入手できました。

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注文される方は、ちょっと割高になりますが六一書房が手堅いかと。または八雲立つ風土記の丘展示学習館の高屋さんまでとのこと。
http://www.book61.co.jp/book_html/N04328/
中国・四国地区の中近世遺跡を担当される埋文担当者による報告や論考が集まったものです。
この方面の最新の成果を総覧することができ重宝しています。

岡山県関係では、岡山市の乗岡実さんの採集瓦からみた小早川氏段階の支城網の考察を興味深く拝読。
医王山城の現地見学で縄張りを下見した段階で、毛利氏以降、小早川氏か下手したら森氏段階まで下がるのでは?と思っていたので、縄張りからも証明しないといけないなと思った次第。
これはひとつ取り組みたい大きな宿題です。

2009年12月14日 (月)

城館史料学会の査読検討会。

12、13日は城館史料学会の総会&査読基準検討会に参加してきました。
場所はいつもの大山崎町立歴史資料館。
いつもは委員としての参加でしたが、今回は自分が投稿する側(..ゞアセ。

今回は、豊後岡城に関する論考。近世初頭の岡藩成立時の豊後岡城とその周辺のことについてまとめていく作業。
11月下旬からずーっと原稿の準備と構想、図版を用意しての準備に費やしての状態。
ギリギリまで原稿をつめてから朝イチの列車に飛び乗って関西へ。
総会は13時、査読基準検討会は14時から。

3月の完成原稿に対する査読する基準を決める会です。内容を報告し参考意見を次々いただきます。
日頃、大分界隈ではなかなか城郭研究者同士のやりとりができないので、こうした場はかなり貴重。
厳しい意見もたくさん受けましたが、ひとつひとつが参考になるもの。いろいろ反論も思いましたがまずはしっかりと異見に耳を傾ける。
この検討会では、よっぽど明後日の方向に行かない限りは、論文の内容の是非や異なる考え方であっても「そんなのはダメだ」とか否定したりイチャモンつけて介入しないのが基本。
論旨が通っているか、研究史を踏まえているか、図版資料の解釈にミスはないかを確認。
その上で、指摘された修正点を踏まえてどう改善されるべきかをあらかじめ決めておくスタイルです。
その上で査読を受けて、基準に適応した完成原稿への修正意見などを踏まえて採否が問われることになります。

まずは最初の関門をクリアしました。3月までに仕上げる予定です。前回の別府大学史学論叢に出した小論をさらにバージョンアップさせた豊後岡城の論考になるはずです。おたのしみに。

終了後は、恒例となった城郭談話会へ参加。
今年も12月はコネタ集。村田先生が美作高山城の報告があってビックリ(^^ゞ。
今日の縄張り研究を積み上げてきた老先生のご報告にも、容赦なくミサイルを撃つフラットさがこの会のいいところ?というか村田先生のご人徳かもしれません(^^ゞ
終了後は高槻市内で忘年会に顔を出してきました。
このご時世に、若手の就職もチラホラ決まり勢いづく関西の城郭研究会の空気を吸ってきました。
彼らとも談論風発。彼らのような城郭を知る人材が中近世遺跡のある自治体にはいっていってもらいたいもの。

とあれ、今年まで比文の博論に足をとられてきましたが、ようやく荷物を降ろしたところ。
いよいよ来年は、豊後岡城の論文をあげて「ご恩返し」を皮切りに、城郭研究関係のプロジェクトにいろいろ絡んでいきます。
次世代の若手に負けず、上の人たちに一太刀浴びせるように腕を磨かないといけませんので、30代の数年が正念場とがんばります(^^ゞ。

2009年12月 2日 (水)

『福岡県の城郭』

北部九州中近世城郭談話会の方々の編集による『福岡県の城郭—戦国城郭を行く—』が銀山書房で出版されました。
3,500円です。小出版社なので650部だそうです。急いで、急いで。

けっこう図版が載っています。。というかもっと載せた方がよかったのでは(^^ゞ
廣崎篤夫氏の『福岡県の城』『福岡古城探訪』に比べてリーズナブルではないけど、今の事例が多く収録されているので「福岡方面の城を把握しておきたい」向きには一冊は抑えておいて良いと思います。

古代の考古研究は盛んな福岡県にも関わらず、九州で最後に「中世城館悉皆調査」をしてない県という不名誉な事態になっています。
その分を、ボランティアで研究者がやったというものです。ボクも含めてみなさんたくさん書いているんですよ。
しばらく福岡方面はそんな動きもないし、九州方面では報告書は販売されないことを思えば十分に仕入れる価値アリと思います。

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2009年11月 3日 (火)

陣跡めぐり@肥前名護屋

2日は早朝から出発して、福岡経由の鎮西町行き。
途中でKさんと落ち合って、佐賀県立名護屋城博物館で開催中の「肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城」を観に行きました。
会期中無休なので月曜日に攻めてきました。
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2005年に「秀吉と城」展、2007年に「秀吉と文禄・慶長の役」と2年毎に行われる城がらみの展覧会です。
安土城から山崎城、大坂城、聚楽第、石垣山城、名護屋城、伏見城と構成された内容ですが、何といってもお目当ては大阪城天守閣や安土城考古博物館等々のあちこちの城郭研究ではおなじみの史・資料(屏風図や絵図、城絵図、出土遺物、古文書などなど)を九州で観に行けること。

今回は三井文庫の聚楽第屏風が出てました。「安土山下町中掟書」、小田原陣の絵図、大坂城跡出土の沢瀉紋押瓦などなどウハウハものです。もちろん肥前名護屋城屏風も(・o・)。
これらの資料をみながら、ああでもないこうでもない。前の評価と変わっただの相変わらずだの言いながら観て来ました。

また、こちらになじみ深い神戸大学中川家文書も多数出てました(神戸大学ではウェブ上に公開するなど、織豊期の貴重史料群が特定の研究室に留まることなく公開されています。広く共有されることは学術的にも大事です)。
中川秀政が秀吉から度々受けた書状や、中川久盛率いる岡藩隊が唐津城を受け取ったときに調査した沿岸図や唐津城図と記された肥前名護屋城縄張図、隣国様子聞合帳までありました。
このように、神戸大学中川家文書は豊臣政権から近世初頭を知るにはとても重要な史料群です。
豊臣政権初期に近い立場にあった勢力で古文書を多数残しているものはあんまりないものです。
中小規模の大名では中川氏か一柳氏くらいなものか。。。慶長末期から元和期以降でもかなり貴重な状況です。
豊後岡藩にも関係する神戸大学中川家文書の貴重さ、そして数少ない織田取立て大名の生き残りで一定数の古文書を残した重要性を竹田の人には知ってもらいたいものです。

と脱線しつつ展覧会を満喫。今回と前々回の図録、別件資料集の石垣集成、紀要などを購入して戦果をあげて退出。
それから陣跡をまわることにしました。海風の厳しい日に岬めぐりならぬ陣跡めぐりです。
今回の図録の後に発掘や整備の写真がまとまって掲載されていたのでそれを参考にしつつ、カウンターでいただいた地図を使って整備されているであろう陣跡をまわっていくことに。
ちなみに全て「伝」です。あしからず。

最初に行ったのは道の駅にも近い前田利家陣・・・・。確かに石垣修理をしてましたが思いっきりブッシュでした。
何とか立ち往生もしながら石垣をカメラに収めてきました。ここは抜きん出て高石垣でした。
それから、波止岬の北条氏盛陣、生駒親正陣はキャンプ場敷地内としてまだよい方でしたが、島津義弘陣も潅木の中(ノ_<)。増田長盛陣は完全に埋もれてました(ノ_<)。
それでも、島津陣は石垣もしっかり撮影できました。増田陣は断念。
それから国道に戻って、鍋島直茂陣へ。道がわからなかったので民家に通じる里道の方からアプローチ。
頂上の石列はみたものの、麓の石垣を観るのを忘れました(ノ_<)。
地図をもらえたのはありがたいのですが、番号打っているのにこれらの陣所は未整備でかなりブッシュなところが多いです。
普通の服装では厳しいですので要注意。。。

それから、ようやく整備された羽柴秀保陣と堀秀治陣へ出て、夕日が迫る中まとまって写真に収めてきました。
肥前名護屋城は次回に期すとして、一気に主な陣跡をみてまわり傾向を掴めたのはありがたかったです。

写真は伝前田利家陣、伝島津義弘陣、伝豊臣秀保陣、伝堀秀治陣の順です。多種多様なのが一目瞭然です(^^ゞ。

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2009年10月30日 (金)

おーぎ、小城その2

小城市立歴史資料館に寄ってきました。小城鍋島家文書は佐賀大学が所蔵しているらしい。なので佐賀大学と連携事業を組んでいる様子。図録は図版よりも論集&史料集といった案配。どういう案配で予算組みをしているのか興味あるところだが、うらあましい限りである。見習いたいもの。
今回は千葉氏のことで、千葉(祇園岳)城をふくめて佐賀より西部の方面で勢力を持っていた千葉氏がどの段階まで勢力を保持していたのかは興味深いところだったので遠征&図録をゲットした次第。
ところで、千葉城が15世紀の様相を示すという下りが論考にありましたが、さすがにそれはないでしょう(^^ゞ。
地表面の遺構評価からは明らかに戦国後期(天正期)の様相と推察されるものです。もちろん、そこから採集された遺物で年代比定をする立場もありますが、逆に遺跡の評価から遺物からの年代比定を疑う立場もあってよいでしょう。
などと思いながら、中世の仏像や古文書が平気で残る佐賀郡・小城郡・藤津郡の歴史の古さに感銘を受ける。

ついでで、武雄市の歴史資料館のパンフレットがあったのでゲットしてきました(^^ゞ。ここも図書館とセットの設備の整った施設。うらあましい限り。

2009年10月22日 (木)

大友氏領国から毛利氏領国へ。

今年は残暑が短くあっさりと秋にはいったおかげで10月上旬から城跡を精力的にまわり準備を進めています。

九州と中国地方の往来する状態も7年目を迎えて、北部九州もある程度整理することが出来たおかげで大友氏領国についておおよその見通しを立てることが出来ました。
もちろん豊前国方面や筑前国宗像郡方面、筑後方面、そして大友氏領国の主要城郭については縄張り図を再度きっちりとらねばいけないものもありますが、今後おおよその目処は立ってきたようにみえます。
その一方で、岡山県を含めて中国地方、特に山陽方面は縄張り研究者が少ないため毛利氏領国の様相をみる研究は余りありません。
大名領国系城郭はあるか?という問いが出されたセミナーではありますが、古典的な大名領国でまだまとまった答えが出せていない大きなヤマいっても良い事例に毛利氏領国があると思います。
既に織豊系城郭の視点からは、毛利氏は豊臣政権に欠かせない旧族大名として両方のカラーを持ち合わせた大名であること、防長転封後もそうした特徴を色濃く残したことが特徴として既に指摘されています。
ところが、戦国期から豊臣政権に組み込まれた時期の毛利氏はどのように城郭を展開させていたのかは曖昧なままです。
結論は単純で、毛利氏も大友氏と同じく城郭の縄張り技術でオリジナルの縄張り技術を成立させていくことが無かった勢力だからです。
それなのにこれまでは「毛利氏の大名系城郭があるはず」としてきたのです。
そうではなくて、毛利氏が支配した中国地方の各領域の在地諸勢力(あるいは天正期に台頭した有力国衆)の縄張り技術をある程度把握しつつ、毛利氏がこれらの技術をどのように消化していったのか(或いは丸呑みしたのか)を検証する二方面作戦を展開する必要があります。

既に大友氏の場合では、大友氏より秋月氏や筑紫氏の方がその地域の水準では優れた縄張り技術を展開させました。大友氏は最終段階まで曲輪の削平も弱く畝状空堀群を採用した防塁型ラインを採用するに留まっていることを指摘してきました。
さて、毛利氏はどうなのか?それよりもう少し優れた展開を示していそうですが、そうした問題意識でピンポイント的に把握することで豊臣政権期以前の毛利氏の到達点(あるいは有力国衆の到達点)がみえてくるように思います。それは、毛利氏領国のなかでどの程度帰属した有力国衆が独自性を持っていたのか、その中でどこに毛利氏は独自の勢力を入植させることができたのか、領国全体を束ねる支配論理はあるのか?といった問い掛けを城郭跡の調査から拾い出していく作業です。

毛利氏領国は大友氏以上に広い範囲にわたります。気の遠くなりそうな作業です。
縄張り研究など城郭史では、秋から冬、春の野山を数日間かけて調査して複数の事例を面的に揃えていかないといけません。
1日で調査する方法もありますが、ある程度5〜10回くらいかけて調査しないと築城主体の意識がみえてきません。
ひとつの断片的な調査事例だけでも築城主体は語れますが、屋外の調査事例に加えて文献史料や絵図など様々な史料にあたるひとり学際的作業を行い城跡を軸に総合的に解釈する作業が不可欠です。
そうした総合的作業を屋外(+屋内作業)で行うことを経て、調査事例から何が描けるかまで問われてようやく1本。
机の上ではもちろん出来ませんので野外作業です。あちこち廻らねばなりません。休みでも雨だとできません。暑いと作業が困難です。

思うに任せない中で時間を確保してやっていますが、大友氏から毛利氏まで考えるようになると本当に時間が足りないと痛感するようになってきました。
そう感づいた瞬間から、八方美人なもの(それぞれやりたいものではあるが人生は有限だから仕方ない)を可能な限り捨てて城郭調査に専念することを意識するようになりました。
大友氏領国から毛利氏領国まで天正期を中心に上位権力から各地の地域領主まで、さまざまな勢力が遺した城跡を把握したい。
そのために、何とか時間を確保して作業を進める準備を。それだけの魅力あるフィールドがそこにあると思っています。

2009年10月18日 (日)

美作国の中世城郭資料整理&美和山城へ行きました。

今日は朝から津山市でお仕事。
津山方面で中世城郭の見取図を精力的に調査されてきたYさんの図を紹介するために整理する作業。

Yさんの図は図面としては20年前の感じではありますが、いくつかの城郭では縄張り図が公表されているものの、まだ悉皆的な縄張り調査が進んでいない旧美作国ではかなりの事例を図化しており貴重な先行成果。
今後の調査を喚起すべく貴重な成果を公開するために整理しようという目的の作業です。
来年10月までの長丁場ですがオファーをいただいたのでお手伝いの一員として参加することになりました。

わたしとしては、中国地方においてなかなか魅力ある美作方面の戦国期城郭を把握するよい機会。
全国的にも把握する必要のある岡山県の中世城郭、このような機会を与えていただいた皆さんの期待に沿うよう勤めたいと思います。


さて、当日夕方まで作業した後、同じく作業に関わられているMさんのご案内で夕闇迫る美和山城へ寄ってきました。
美作二宮の近く、国道179号線バイパス沿いにあります。
二宮の社司立石氏の城郭と伝えられています。
国指定史跡美和山古墳群の内、丘陵の一番北側にある前方後円墳の1号墳まで歩くと、古墳の両端に土塁が築かれているのがみえます。
1号墳の北側は川により崖となっています。墳丘の上にも土塁が配され増設された土塁と共に北側の平坦部を囲んで城域とする、俗に言う「後ろ堅固の城」です。
墳丘部の主郭と北側の土塁で囲まれた第二郭で城域が形成されていたと考えられます。
前面の丘陵上には古墳が並びますが、その間に人工的な横堀状の凹みが2箇所ありました。
遠堀かどうかは微妙ですが1号墳より前面の処理が難しいので可能性として考えられそうです。いずれ調査してみて評価を検討するとしてとりあえず保留。
国府のあった神楽尾や津山の総社方面から院庄へ抜ける街道筋をおさえていたのではないかとされる美和山城。院庄の東側を押える要害として機能したと思われます。

興味深い事例をご案内いただき、Mさんには感謝です。

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2009年10月17日 (土)

美作小田草城へ行く。

今回の津山への帰省は、美作国の戦国期城郭についてひと仕事やるための下調べも兼ねたもの。

とはいえ、17日は家族サービスでヨメさんの仕事場で家族見学会。ですのでジャケット来て革靴。
朝8時にヨメさんを仕事場に乗せていって送ってから。。。10時集合まで時間あるな。。

と、その間に鏡野町の戦国期城郭をひとつ探訪しました(^^ゞ
鏡野町馬場にある小田草城。伯耆倉吉に通り抜けるルートから少しはいったところにあります。
城主は斎藤氏だそうで、麓の小田草神社には貞治7年に斎藤二郎の銘を持つ梵鐘が伝わります。
これをそのまま鵜呑みにできるかは別ですが、この地域に影響を及ぼしていたようです。
斎藤氏は戦国後期には尼子氏に従った後に毛利方に参画したとのこと。どうやら戦国後期に地域を支配した国衆のようです。

麓の小田草神社に行ってみると、城跡への登山道が割ときれいに整備されていました。入り口には城跡の説明する看板がありました。
登山道は鉄パイプの手すりやステップを据え付けるなど丁寧に整備しています。時間もあるし登ってみるかとそのまま登城(^^ゞ

登山道は急斜面でしんどいものの比較的楽に登れます。登りついた山頂は眼下に展望できるよう整備されており、城跡も割と楽に見て回れます。なのでジャケットを脱いでシャツと革靴で下草を分け入りながら遺構を確認してまわりました。
曲輪の配置は基本的には連郭式、タテに曲輪が一列に連なります。主郭となる曲輪の前後には空堀があります。単に遮断するだけでなく堀底は掘り抜かない堀底閉塞土塁となっています。これは、かなり興味深いプランです。
城域の先端にある曲輪は土塁が配され、尾根筋には堀切があります。曲輪のひとつには凹んだ箇所があり虎口の可能性があります。
以上、さらっと見たところでは、宇喜多氏以降の織豊系城郭の様相は感じられませんでした。
しかし、在地系城郭としては単に曲輪を並べるだけでなく、空堀で主郭を仕切ったりするなど縄張り技術に工夫をみることができます。
詳細に縄張り図をこしらえるといろいろわかってくるでしょうが、戦国後期の美作国での国衆の縄張り技術を押える上では基準となりそうな事例と思いました。

美作国の戦国期城郭はけっこうバリエーションがあるなと手応えを感じながら下山。
そのままヨメサンの仕事場の家族見学会に参加してきたのはヒミツだ(^^ゞ

ちなみに家族見学会の後も日没までもう少し時間があったので、桝形城と葛下城の登山道を調べにウロウロしてきたのもヒミツだ(^^ゞ

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2009年10月15日 (木)

高山城、それから。

○○先生が科研費をとるので研究員にしろ、と某担当者が錦の御旗のごとく説明に来ました。
科研費は研究者がグループを組んで申請する調査なのですが、研究協力者から組織をあげて全面協力の依頼とは摩訶不思議。
そんな頓珍館な世界とは別の話題。

以前に津山市加茂町の高山城に登った際に保存会の方々にあれこれこの図面はダメだとかこの評価はダメだと申したことがありました。
過日、M先生が保存会の方々に招かれ登られたようで、さっそく解説つき縄張り図と共に書簡が送られてきました。
「木を見て森を見ないようではいけない」と言われたとか。至極明言です。
これからこのフレーズは使わせていただこう(^^ゞ
縄張り図と共に解釈が記されており、とても興味深く拝見させていただきました。ありがとうございます。
やはり岡山になると関西に近く、城郭研究最前線の空気が伝わってきます。
そうした体験の乏しいまま九州で根を張ってきた私にはあまりなじみのないことだけにありがたいことです。

週末は津山。美作の城郭調査を続けてこられたYさんの調査成果を拝見させていただく。
実に、楽しみです。

2009年10月14日 (水)

10年ぶりに高祖城を踏査。

13日は宿泊した秋月から一路、まもなく糸島市になる前原市の高祖城に行ってきました。
天正中・後期に早良下流域から糸島、松浦郡東部まで支配域を広げた有力国衆原田氏の居城、高祖城跡の遺構をふたたび確認するためです。

10年前に高祖城の縄張り図を書いていたのですが、その後に前原市の方から「まだ奥(上ノ城の東側)に遺構がある」と指摘されていたものでした。その頃は古代怡土城のものだろうと思っていました。
でも、北部九州城郭談話会のYさんの報告で、畝状空堀群の見落としもわかったのであらためて高祖城を見に行くことにした次第。

まずは畝状空堀群。。。
確かにありました(^^;)。以前の図で畝状空堀群を書いたところから続く形で谷状地形に何本も刻まれておりました。
なぜ10年前の自分は気付かなかったんだろうと言うくらい、何の迷いもなく畝状空堀群とわかる代物でした。お恥ずかしい限り。
原田氏の畝状空堀群は、飯盛山城にもあったのでどう位置づけようか悩んでいた面もありました。高祖城でも同じく、城域の弱点となる部分を補強するために畝状空堀群が用いられていました。
これで、原田氏の場合には、秋月氏とは異なる畝状空堀群の使い方がはっきりするようになりました。
12日に秋月に滞在した際にみた荒平城のように、地形に左右されず畝状空堀群で斜面に並べる秋月氏のやり方とは違っていました。

次に、東側の遺構。
大空堀の先にしばらく自然地形が続いた後に、ピークの前後をつなぐように土塁の防塁型ラインがありました。
最近測量のためか笹藪を抜開したようで見やすくなっていました。感謝です。
そのままラインで伸びているだけならば、古代怡土城の遺構と評価できたかもしれません。
しかし、登山道を挟んで上ノ城側と外側のピークをつなぐかたちで土塁が走り、外側のピークは今宿上の原からの登山道を睨むように縁辺部を巻いて収斂するプランとなっていました。
明らかに上ノ城を防禦する前線となる防塁型ラインの役割を果たしており、戦国期の遺構と言えます。
この箇所を確認できたことで、原田氏が積極的に用いた縄張り技術がやはり土塁であることがはっきりしました。
また、凹状の部分に開口部があり現在の登山道が走っています。これは破壊でなくて平入りながら開口部として処理されたものでした。
これらの事例から上ノ城の発掘調査でも検証された原田氏の虎口プランの特徴がよりはっきりみえてきたのも収穫です。

10年前は、最終段階の有力国衆の動員力が大きいとは思っていなかったこと、不必要に城域を広く考えることに禁欲的であったこと、この2つの見立てから遺構を読み切れなかったようです。
その後、勝尾城や高鳥居城などの調査で有力国衆の動員力の大きさがみえてくるに連れて気付くようになってきた面もありましたが、糸島地方は遠かったこともありなかなか見直しができてませんでした。
再踏査が遅くなり、大変申し訳ない次第です。

竹田で余計なことに八方美人で脱線してたり、博論に時間を費やしている内にあれやこれやと10年経っていました。。。光陰矢の如しを痛感した再踏査でした。
つまらぬ些事に脱線せず城郭研究をやらねばならないなと再確認させてもらったような感じですね。
糸島の調査は故石橋さんにお世話になったところ。糸島の調査を多く盛り込んだ博論の成果を持っていこうと思っていたところでした。
「ほら、中西さん。言った通りだったろ。あんたはなかなか言うことを聞きなさらん人やから」と言われそうな気分です。
基本的には自分の高祖城の評価は変わらないし逆に補強された面がありましたので、きちんと未確認だった部分を縄張り図に反映させた上で、あらためて高祖城と原田氏の縄張り技術を整理する予定です。

2009年10月12日 (月)

12日は秋月の荒平城を歩きました。

12日は秋月のろまんの道界隈でいろんな人たちが集まってワイワイやっている秋月芸術祭にヨメサンも参加しているので前夜から合流。暮待巣(クレマチス)という農家民宿B&Bに滞在。
朝から秋月の真横にある秋月氏の居城と呼ばれる荒平城を見てきました。
昼から秋月芸術祭の作品をみて夕方に片づけをお手伝い。
夜は芸術祭のみなさんのご相伴で
暮待巣(クレマチス)の方からの協賛&サービスのもつ鍋をご馳走になりました。
ホルモンが分厚くてホントに美味しかったです。
大変お世話になりました。ありがとうございました。

で、12日午前中は、連休中なので観光客の多い(それでも減ったそうな)秋月で、麓では戦国祭なる骨董市メインのイベントが聴こえてくる裏山をゴソゴソはいまわって秋月氏時代の戦国期城郭をみてきました。
荒平城は岡寺良さんが図面をとっておられるのでそれを見ながらウロウロ。
時間の都合で国道で破壊されている中腹まで確認してきました。

さすが秋月氏の居城だけあって畝状空堀群が多い。
基本的には緩斜面や侵入を妨げたい位置に築くものですが、秋月氏の場合はパターン化されていて地形に左右されずに帯状に竪堀を斜面に築くのが特徴。
竪堀はけっこう長いものもあり、長短を地形に合わせながらラインのように築いています。
一方、曲輪の方は、西側の曲輪群では連郭式で虎口も平入りのスロープタイプであまりめだったものがありませんでした。
畝状空堀群と比べるとそれほど曲輪の造成に力を入れているわけでもなく地形に沿った連郭式の縄張り。
麓に近い方の主要な曲輪は削平がよいものの中腹になると粗雑な造りになっているのが興味深い。時期差か機能差かは判断が難しい。
これに対して、東側の尾根筋はもう少し削平が良くて、上部には岡寺図にもある面白い虎口をみることができました。
背後の曲輪から両端に土塁が伸び、正面を四角な石塁で2/3程度塞ぐ形で虎口空間をつくっている。この周辺だけ石積みが配されるなど秋月氏にしては(この辺りの有力国衆にしては)技巧的な虎口プランです。
但し、背後の曲輪はあまり大きくないのが興味深い。このような虎口は益富城や古処山城(図でみただけですが)にもあって、いずれも曲輪と連動しない「技巧的な虎口」が城域にポツンと築かれる。
これが秋月氏の虎口プランの到達点のようです。

実は、まだ古処山城には登ったことがないので(..ゞアセ、また暮待巣に滞在して秋月界隈の中世城郭をみたいと思います。
秋月氏は、対立した豊臣政権側から筑前と豊前・筑後半国の領主と高い評価を受けていた有力国衆です。
九州征伐はともすれば対島津氏のイメージがありますが、実際は前半の秋月氏を中心とする豊筑の国衆連合と豊臣政権の対決がメイン。ここが一番の正念場と豊臣政権側は捉えていたようです。
この辺はKさんが既にまとめています。竹田でウダウダしている内に先越されました(ノ_<)。

そんな大勢力と畝状空堀群を用いた技巧的な縄張り技術を展開した秋月氏、秋月種実などは今日の秋月ではあまり関心が持たれていません。
せっかく城跡が良好に残っているのですから、
下手な整備はご遠慮しますが、秋月の方々にもう少し戦国の梟雄?秋月氏と彼らの築いた戦国期城郭にも注目してほしいものです。

2009年10月11日 (日)

小早川家文書と秀吉。

戦国・織豊期の西国をやる上で毛利氏の基礎史料は欠かせない。
毛利氏は、大日本古文書で毛利・吉川・小早川とあり、萩藩閥閲録などの書上げ史料など基礎資料は充実している。
その一方で、毛利氏領国の城郭像はなかなか全体像が描けていないところがある。
この辺はこれまでやってきている大友氏領国と似ていて常々比較対象として興味を持ってきた。
どちらも戦国大名としての城郭像がみえない一方で有力国衆(戦国領主?)が地域性に富んだ縄張りを展開する。
自らが手を加えた城は特に共通点をもたないのに、それより優れた各地の拠点城郭を無節操?に取り込んでいく軍事編成も似ている。
この辺は、自らが手を加えた拠点城郭に何らかの共通性を持つ後北条氏など東国の戦国大名とは違うところ。

大友氏関係は増補訂正編年史料以外はコピーできているので、随時毛利氏関係の史料を集めている。
萩藩閥閲録は2年前に、今年は小早川家文書と吉川家文書を仕入れた。あと毛利家文書を何とかしたいけど大穴開けたので厳しい(ノ_<)。
毛利氏関係では大日本古文書は東京大学史料編纂所にはデータベースがあったりして便利と言われるものの、Mac環境では見づらいので古書で仕入れた。

さっそく、小早川家文書を読んでいるけど面白いのは、小早川隆景に宛てた豊臣(羽柴)秀吉の書状がまとまってあること。
豊臣政権の基礎史料と言ってもよいですね。
秀吉が仕えた織田信長も何かと荒っぽい文言を出す人だったようですけど、隆景に出す秀吉の書状ははるかに物騒な表現が多い。
秀吉は関白になっても戦線へ出す書状には撫斬りや干殺し、誅罰とか○○奴原など「布武」な荒っぽい文言が随所にあってなかなか興味深い。
一応、関白なんですけどすさまじいものです。彼の方が世間に流布する信長像よりもよっぽど「絶対君主」に近いような気がします。
日本史上で、彼ほど残虐さを備えた強権を振るう絶対君主的存在に近づいた人は他にいないと思います。
中でも、反抗する奴原は城に押し込めて干殺しとか、干殺しは初期の中国国分けや四国・九州の国衆一揆討伐でひんぱんに出てくる。
それを見てると、播州三木や因幡鳥取など何だか「干殺しの秀吉」なんてキャッチフレーズのような気がしてくる。
きっと備中戦でも秀吉が岡山入りしたのを受けて、毛利勢では「あの干殺しの羽柴秀吉が来た」と浮き足立ったのか?と邪推する。

そんな秀吉が毛利氏領国の窓口に指名したのが小早川隆景。毛利本家と豊臣政権の間にあって苦慮するわけですがその辺を目を通しています。
どうでもよいですけど、毛利両川の隆景と毛利からの養子秀包、秀吉からの養子秀秋など戦国・豊臣期の小早川氏を題材に歴史小説つくったら面白いと思います。
小早川秀秋は若死していて肖像画をみると優柔不断の貴公子っぽいですが、実際はかなりキーマンな動きしている様子。関ヶ原で恩を売って宇喜多領をもらうくらいですから軽視してはならないのかも。
豊臣政権は毛利に始まり毛利に終わるは、Kさんが城郭研究の視点から唱えられていますが、そのキーマンに計らずもなった隆景とその周辺。いろんな史料を押えながらどなたかトライしません?

2009年10月10日 (土)

城跡を調査する季節。

あれこれと見積もりなき「気持ち」に対応していたら、当初の予算計画はどこかへ行ってしまいすっかり軍資金が底をついてしまった。
これ以上引っ張っても出費とリスクが増えるだけなので、断腸の思いで事業を取りやめて清算。

得難い経験といろいろ学べた「授業料」と考えるようにしていますが、これだけあれば、MacBook Pro&iPhoneへの買い替え(実際PB永眠したし)とか、絵図集・史料集(毛利・島津&戦国遺文とか群書類従正編・続編が買えるくらい)揃えて研究環境整えられたのになあ。。。としばし凹む。
まあ、また働いて取り戻せばいいかと言い聞かせるが、何とも笑えない実験結果でした。

気を取り直して、そろそろいただいた博士号仮免を磨くべく、本格的に論文づくりのために机の上ならぬ山籠りへ。
学位論文づくりで止まっていた調査も再開です。
幸いなことに今年は秋の入りが早く調査にはいいコンディション。
連休は最終日に秋月。秋月氏の荒平城をみてくる予定です。天気が良ければ、畝状空堀群を書き漏らしている高祖城と、谷あいの平坦地が気になる安楽平城、それから空堀をひとつ書き漏らしている岩門城の再調査と続きます。
来週末はヨメさんのもとに帰省して津山で戦国期城郭の調査資料の確認に行ってきます。
こちらは春にいくつか下見して以来の再開。ちょっとした大仕事で楽しみ。

2009年10月 8日 (木)

豊後佐伯城を見ずして近世城郭の石垣を語る事なかれ。

ちょうど去年の4月に取材した豊後佐伯城。
城山まで20分くらいのハイキング気分で登れる。山頂からの佐伯市街地の眺めは最高。

一般的には旅行で佐伯まで行くことはほとんどないと思われますが、この佐伯城は全国でほとんどみられない独特の石垣積みを持つ近世城郭なので一度は観ておきたい城郭跡と言ってよいと思います。
地震で江戸時代半ばの享保頃に大改修を施したのですが、単なる補修や修繕ではなく石垣積みや虎口プランを「ニュースタイル」で新たに改造したところが大きなポイントです。江戸時代でも中期から後期に幕府の許可を得た「新規築城」はいくつかみられるのですが多くの事例は既存の形に復旧すること、或いはそれに準拠したやり方で築いています。それに対して、幕末の洋式要塞モデルを除いて、このような「ニュースタイル」で全面改修をした事例はたぶん佐伯城だけでしょう。

まず、大きな特徴として角の処理に算木積みを用いず滑らかな曲線に仕上げていること。
参考までに一番右側の延岡城二の丸の大手と比べてみて下さい。こちらは一般的な算木積みで、石垣の積み方が落としがはいったり亀甲積みになったりしてもこの辺の処理は幕末まで用いられています。それと比べると、一目瞭然で佐伯城の石垣が如何に他の一般的な近世城郭と違っているかがわかると思います。まるでグスクみたいです。
これは山頂の城山だけでなく、麓の三の丸屋敷跡(現存大手門が残る)も同じ仕上げになっているのがポイント。
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もうひとつの特徴は虎口プランの通路部分も直角でなくて滑らかな曲線を描くこと。享保年間に佐伯城を改修した技術者は要所を滑らかな曲線で仕上げることを選択した模様。韓国や琉球の都城・グスクにみられる東アジア型の技術を見様見まねで採用しようとしたのでしょうか?
そして主郭や虎口周り、櫓台跡は丹念に敷石を敷いて「舗装」しているのが特徴です。虎口も石段ではなく敷石。
ここまで敷石を並べた城郭もめずらしい。この辺も何を参考にしたのかよくわからないのですがどこか「大陸風」です。
佐伯城跡に残る享保年間に佐伯藩が採用した築城技術はこれ以外にほとんど普及した形跡はみられず、ちょっとした「あだ花」っぽい事例となっています。それにしても何をもとにして彼らはこの技術を採用したんでしょうね?
当時の技術担当者とそれを採用した藩主に聴いてみたいものです。何かその辺の経緯がわかる史料があれば面白いでしょうけど。
佐伯城、ぜひ必見です。佐伯城の石垣を見ずして近世城郭の石垣を語る事なかれなんてね^^ゞ

下城後は港に行って寿司食いましょう。絶品です。
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延岡城と千人殺しの石垣周りの虎口プラン。

4日から8日までいろいろと手続きと対応。
その合間の6日は城郭の調査に行く予定でしたが、天気が悪かったので車で延岡と佐伯へ出かけてきました。
延岡城は関ヶ原以後に高橋元種が築いた石垣造りの城郭。ちょうど天下一の薪能のステージ準備がされていました。
3年前に延岡城(高橋時代は縣城)と高橋元種のことをお話して以来の訪問。

通称、千人殺しの石垣。主郭のある「二の丸」からの桝形虎口とスロープは防禦を考えたプランで圧巻。
その割には主郭まわりは石垣も高くなく、既存の地形にそれほど手を加えておらず虎口も単純なものに留まる。
でも、主郭周り横の御三階櫓跡はすぐ下の城道をしっかり抑える位置にあるから縄張り技術を理解していなかったわけではない。
豊臣政権モデルの城郭技術がわかっているのに妙なところで貫徹されていないところに、築城主体の高橋元種の特徴が出ていて面白いです。
彼は戦国末期に秋月方として豊前一国を席巻した武将です。香春城や長野城も彼の勢力によるもの、もともと畝状空堀群や土塁を積極的に使っていた勢力です。その後、豊臣政権に降伏して日向で大名となり朝鮮出兵など最前線で経験を積んだ。その辺の出自が影響している模様です。ちなみに宮崎城も高橋領なのですが、ほとんど手を加えていないのも興味深い。

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2009年10月 2日 (金)

鞆の浦と鞆城。

祝。鞆の浦埋め立て差し止め!
(今はS根大へ移られた)Hさんから署名依頼メールをいただきコメントつき署名をしたことがお役に立ててやれやれ。
鞆は大学院時代の1996年にたびたび港町の調査に行って、修論の題材にした思い出の町。まずは一安心です。

鞆は中世以来の港町で、織豊期には毛利氏を頼った足利義昭が滞在した場所として有名。
でも、現在の町並みは慶長期に安芸・備後に入部した福島正則が大々的に整備した鞆城の影響を受けています。
鞆城は大崎玄蕃が在番し、港の背後の小山を主郭として南側の港を囲むように総石垣の城郭を築いています。今回景観保全が問われた南側の港は、当時は背後を城壁で囲まれた閉鎖的な空間に安宅船などの軍船が多数停泊していたという案配ですのでずいぶんと違ってみえたことでしょう。

で、当時は縄張り図の書き方を知らなかったので、高田徹氏の縄張り図を使用させていただいてそのことを下敷きにして都市構造をまとめたのが、城郭研究に足を突っ込むきっかけ。あの時、まちをウロウロして歩いた町の景観が何とか残ったことはうれしいこと。これで鞆の浦も落ち着きそうです。
また、ここの対潮楼は、朝鮮通信使が立ち寄ったところ。岡藩中川氏はその通信使を鞆で接待したことがあります。
今、岡藩絡みで居ることを思えばこれまた感慨深し。

しかし、ここからが課題。
これまで埋め立て反対を唱えてきた側は、景観を妨げて橋を造るよりも確かなまちのトータルデザインと「なりわい」を提示し創るという責務を負う。まずはイコモスを通して世界にネットワークを広げることからか。ぜひ世界中の人に「TOMONOURA」に来て瀬戸内海の美しさを体感していただきたい。
そして、ハード・ソフトでは、港町特有の交通路の狭さをどうクリアするのか、何がまちのなりわいを支えるのか?
これを応えないと再び橋の問題が帰ってくることでしょう。
衆知が問われるところ。

ボクとしては福山から沼隈半島、松永・尾道方面には毛利氏時代の重要な戦国期城郭が多数のこるので、コイツらを図化したいんですよね。
そして、何らかのカタチで鞆の浦にも関われたらいいですが。

2009年9月28日 (月)

ヒストリア別冊届く。

研究会の見直し作業の一環として、大分県地方史研究会を退会して大阪歴史学会に入会しました。
考古系があるのともう少し関西方面にアクセスを広げたいと思ったからですが、様子を見てから他の九州系の研究会参加も暫時縮小しようと思っています。

さっそく、
ヒストリア別冊の『大坂城再築と東六甲の石切丁場』が送られてきました。
ほしかった冊子がきてワーイ(・o・)。

内容としては、各地の調査事例などが掲載されたもので突っ込んだ考察までないように思えたのが印象的でした。
ひとつの城の普請を各大名に振り分けて実施することの意味とか、その際にどういった現場が生まれたのかを遺構・遺物から評価するのが重要ではないかと。事例の収集がまず先に必要であり突っ込んだ考察は後からとしても何らかの見通しがないと個別事例の集積でしかなくなるような気がしました。
こうした天下普請の築城ではかなりな労力と投資がかかっているわけですが、今さら「西国大名の弱体化」なんて俗説は放置しておいて、こうした諸大名を動員する協働作業の歴史的位置づけや当時の社会にどのような影響を与えたか、こうした作業を可能にした経済状態とは?などなど、さまざまな課題を念頭において遺構分析ができないかな?という問題意識で基本的なところを学ぶべく拝読させていただきました。

岡城の石垣を積み上げた中川家もけっこう参加している大坂城の天下普請。大分県の枠組みでは全く拾えない領域について、関西方面の研究動向から照射するよう心がけたいものです。とりあえず、大阪歴史学会に移ったメリットは十分に感じました。

2009年9月10日 (木)

業務連絡『歴史史料としての戦国期城郭』

業務連絡です。
2001年に岡寺さんとまとめた『歴史史料としての戦国期城郭』はおかげさまで花書院から出していただいた分はほとんど完売の状態でした。
でも、お引っ越しを念頭にしたわが家の総片づけをしていたらひょっこりとまとまった冊数の預かり分が出てきました。

花書院さんにお返ししていますので、ご希望の方はそちらにご連絡下さい。
さすがに8年も前だといろいろ手直しもみえていますが福岡平野周辺の戦国期城郭の縄張り図を掲載しています。
よろしくお願いします。

2009年9月 8日 (火)

「文書」に記された城と現存する城跡は違うことから考える。

午前中はお仕事のスケジュールの都合で立ちあい、昼間はテラマチあります。の段取り、夕方は県立図書館で資料探しというひとり3役な1日。。。

さてさて、最近そろそろ城跡調査と論考の準備に入っているところです。そんな中で自分なりに考え方の基本姿勢として、現存する城跡は、戦国期や織豊期でも天正年間より遡らないと思っています。逆に下限は可能性だけなら慶長・元和くらいまで下がる可能性を常に意識してみることにしています。つまりは、天正期〜文禄・慶長期には断続的にかなりの手が入ったのではないかと予想して遺構をみることにしているわけです。

ところが、例え目の前に「城跡」が残っていても縄張り図と「俗称」される簡易測量図による資料化よりも「文献調査」で城に関する記述探しを重んじる傾向のある大方の中・近世史研究では、16世紀前半でも15世紀でも文献史料に城という文字があればその時期まで遡るのではないかと考える節があります。それゆえに、城郭研究の中でも文献史学を意識したスタンスでは得てして現状遺構をそのまま古くから機能していてもよいと考える傾向があります。

それらのスタンスについては考え方として拝聴するところがありますが、現存する城跡を文献史料に出てくるから古く評価するのは要注意と思っています。なぜなら、文献史料に出てくる城はあくまでもその時期に「○○城」という施設が機能しただけであり、ある程度参考にはしないといけないとしても、現存する遺構とは必ずしも一致するものではないのが当たり前と思うからです。

しかしながら、近年の歴史学・歴史考古学で語られる城郭像では、発掘調査成果をもとに古くする傾向があります。でも、よくよくみると文献史料にある城郭の記述などから遺物の年代観を評価し、それをあてはめて城跡は古くまで遡ると主張することが多くあります。それは、一見モノからみているようにみえて、文献史料に引っ張られた年代観でしかないと思えてなりません。年代比定の決め手とする陶磁器などの編年は基本的に文献史料の成果を参照することが多いものです。それらの相対評価を複数組み合わせておおよその年代を決めるので複数の編年に照合していても同じこと。もちろんそれなりに文献史料の成果や遺物からの評価も勘案しないといけませんが、文献史料や遺物編年よりも、実際の遺跡を形態分析して得た年代観の方が優れていると考えてよいと思いますし、そうあってしかるべきと思います。

以上の点から、ボクのスタンスでは様々な資料・古文書から得られる見地を取り扱う(最終段階の年代観を探るにはもちろん参照します)としても、基本は現存する城跡が最終段階のことしかわからないと考えることにしています。それぞれの城跡を最終段階のものとして相対評価することで城跡から年代観を固めていく。この線は何があっても譲らない。例え文献史料や遺物編年とかみ合わないとしても。。。

その代わり、文献史料にあるものが必ずしも現存の城跡とは限らないと主張するならば、同時に、現存する城跡にみられる遺構が築かれた段階はいつなのか?何が画期なのか?そして、それ以前(文献史料からわかる16世紀半ば以前)はどんな形状をしていたと考えられるのか?という回答を用意しないといけないと考えています。これについては、「わからないものはどうしようもない」と言わざるを得ないかもしれない難しい問いとは思いますが、やらないのは批判ばかりでフェアとは言えないのでちょっとこだわりながら考えを深めてみようと思っています。

感覚的には、戦国期から織豊期・近世城郭と続く築城ラッシュは永禄末期〜元亀が画期で現存の遺構は大半が天正期以降の造作と予見してみるようにしています。今、中国地方の戦国期城郭もみているところですが、だいたい1560年代後半から70年代前半に萌芽的な段階があり、70年代後半〜80年代に一気に展開したのではないかと予想して評価軸を考えているところです。
それから、多少の地域性はあるとして、その画期はどういった要因なのか?何が変わるのか?なぜその時期に縄張り技術が展開し技巧的なプランがあちこちに生み出されたのか?などをどうやって示したら、何を以て証明したらよいのか悩んでいるところ。

この疑問を解決すべく、幾つかの城跡に当たりをつけてあちこちにある当時の人たち「痕跡」を探りながらその辺の課題に取り組めたらと思う次第です。。なんとかライフワークにできないかな?

2009年8月14日 (金)

城下町の空間的特性。

13日は自宅に帰ってから某先生が書かれた雑誌論考を斜め読みしている最中に、ふと別件で気がついたので岡城跡と城下の絵図をひたすらにらめっこ。考古学的手法と歴史地理学的手法を援用する城郭研究では遺構や絵図は常に意識しているものです。


で、アイデアのヒントはテラマチにありました。
うまくまとめて1本できると面白いんですけど、あらためて岡城跡と城下の様相は全国的に見てもヘンチクリンというか他に例をみないと実感。但し、2年前の建築学会大会報告であった城下町の特異性とは別の意味で。(^^ゞ
縄張りと絵図から得た見通しをもとに、裏を取るべくいざ文献調査。

ちなみに、去年別大の史学論叢に投稿した拙稿の中で紹介した3代藩主中川久清による豊後岡城の大改修(家老屋敷の移転と隠居屋敷&御廟造営)の軌跡を追うことが出来る貴重な絵図を知ることができたのは、
師匠?のK先生からご教示いただいた国立国会図書館の貴重書画像データベースのおかげでした(予算に余裕があれば、復元CGにはこうした関連絵図を収集した資料集をつけるのが普通です)。城郭を扱うにはまずは現状遺構の縄張り調査、そして絵図の確認作業と言う当たり前のことをあらためて教えていただいた次第。この場を借りて御礼申し上げます。

2009年8月12日 (水)

【資料】岡城についての拙稿

これまでのご恩返しに参考までにどうぞ。PDFでダウンロードできます。相変わらずへたくそな文章ですが、興味ある方はどうぞ。

「縄張り調査と城郭跡の資料的活用 : 豊後岡城東ノ郭の縄張り調査を通して」
これは、『大分県地方史研究』じゃなくて『別府大学史学論叢』で投稿しました。結果として、こちらの方がウェブ的には有利(^^ゞでした。若手研究者はローカルな学術雑誌より大学系の雑誌に投稿すべきかもしれません。

文献史料からではなく城の遺構そのものからの検証と絵図を組み合わせて新たな「岡城像」を提示したもの。下原門の虎口プランにも言及していますのでよろしゅう。この成果をもとにつくった暫定の縄張り図は小学館の『名城百選』に出しています。こちらもよろしく。


「803 豊後直入郡岡城の縄張り構造 : 縄張り分析に基づく城郭遺構の史料的活用(歴史・意匠)」
もうひとつは、日本建築学会九州支部の研究報告。10年ほど前になりますね。

これ以降しばらくは立場もあって岡城調査はしてなかったんです。理由はその段階で調べていて、本格的に調査したらまちがいなく整備方針と違う見解になるなあと気付いたから。在野の研究者としてはよくあることで大昔はF市教委などとやりあったので困りませんが、よりによって身内とは運のない事でした。。。その後、10年経ってとある事情で「調査解禁」した際に一番見解が相違する「場所」をピンポイントで調査したら、やっぱり違っていました(^^ゞ 

諸般の事情で提出論文には岡城跡の研究が加えられなかったのですが、いずれ手直しする際に加えたいと思います。

2009年8月 4日 (火)

躑躅ヶ崎城と甲府城に行ってきました。

2日にセミナーを終えてみなさんとお別れから、K先生と新宿駅から特急かいじで甲府へ移動。大雨(^^ゞ
甲府で一泊して3日に朝から「武田氏館跡=躑躅ヶ崎館」の武田神社に行ってきました。昼前には甲府駅前の甲府城をはしごしてきました。

武田神社まではバスで駅から15分くらい。途中山梨大学を横目に一直線の道はずーっと坂道。館跡のある一帯はも坂の途中。館跡の背後もずーっと坂。
梅翁曲輪むちゃくちゃ斜面でした。主郭部の正面も大きな水堀でしたが左右の堀は途中から川になっていました(^^ゞ背後はもちろん空堀。
地図からはせいぜい扇状地でも平地だろうと思っていたけど全く違う景観でした。

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武田氏館はあちこちくまなく見て回りました。堀も土塁もむちゃくちゃでかい。神社の裏には石垣普請の天守台まである。正直なところ「これは館か?」と思いました。どうみても武田氏。。。いやいや武田氏滅亡後の徳川氏が大改修した「城郭」です。どこに武田氏の痕跡があるんだろう。馬出しの桝形というのも「ぜったい徳川氏の遺構だ」と思いました(報告書の評価は武田氏時代)。

それにしても、甲府城移るまでこの妙な地形の立地のままで強引に防禦を固めた様子が窺えて面白くありました。特に城郭部よりも高い後背地に向けて、虎口の外に角馬出?を築き、さらに無理矢理に空堀と土塁をまわして緩衝帯を何重か築こうとする涙ぐましい?努力がなんともです。それでも後背地の方が高いのですから妙な立地です。一条小山に移りたくなりますよと思いつつ。これからは館ではなく「躑躅ヶ崎城」と呼びたいものです(^^ゞ

前のお店で風林火山のタオルマフラーを誘惑に負けて購入してから甲府城へ。北側・西側が中央本線と国道・山梨県庁で吹っ飛んでいますが一条小山を石垣づくりの織豊系・近世城郭にしています。天守台がいびつなかたちで有名なのですが浅野長政まで遡ろうかという貴重な400年前の石垣サンプルに落書きすんなよ、山梨のジモティ(´д`;  炎天下で遮るもののない城内で見事に焼けながら撮影に勤しみました。慶長期の普請なのでかなり粗っぽい積み方ですがたくさんの石垣写真のサンプルが入手できました(・ω・)ノ

たぶん、そうそう行く事ない甲府市。炎天下でしたが堪能しました。これで新府城なども行けてたら十分満足でした。

ちなみに、織豊系・近世城郭の石垣は算木積みなどの隅角部の積み方に形式的なモデルをみます。なので隅角部を丹念にみたり石垣の積み方や石のカタチ、矢穴の大きさなどを丹念に写真に収めている人がいたらそのひとは城郭研究に関心のある方の可能性が高いでしょう。

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2009年8月 2日 (日)

第26回全国城郭研究者セミナーに行ってきました!

今年の第26回全国城郭研究者セミナーは東京渋谷の國學院大學で開催されました。
水戸城と甲府の躑躅ヶ崎城と甲府城をセミナー前後の遠征に組み入れての東国遠征。得られるものは大きかったです。

今回のテーマは「大名系城郭を問う」。事前に2回ほど関東に行くことがあり6月には中城研の例会にも顔を出したりあちらの山城・丘城を見学したりと予習たっぷりで臨みました。

各自の事例報告は例年通りに興味深いものも多く、書籍交換会も埋文の報告書が出回らなくなった点をのぞけば例年通り(多少高齢化が進んでいますが。。。これはひとつの課題)。六一書房さんが大学の厳しいチェック?で入構できなかったとかで報告書探索ができなかったのが残念(^^ゞ。
そして、懇親会もボチボチ情報交換できて「夏まつり」的交流会としては面白く刺激的ありました。

しかしながら、正直、シンポジウムは低調な印象を受けました。25回の伊勢でのセミナーにも感想で書きましたが、今回のシンポをみる限りでも「大名系城郭を問う」としながら肯定的でも否定的でも何ら問うてもいなかったし、むしろ主催する側に問うだけの枠組みを持ちえていない(だから隣接分野からの不用意な問題提起に批判せずにストレートに受け止めようとする傾向が強い)印象を強く受けました。まあ、城郭研究者側(というか主催者側)が文献史学や歴史考古学に対してそれに見合う独自の学問領域たる枠組みを築くことにあまり意識していないなあと確信したことがひとつの収穫だったかなと思いました。

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2009年7月25日 (土)

今日は雨です、業務連絡。

ここ3週間は、ここ3年、「窟」の中の人たちにはついぞ理解されなかった「まちと歴史とアートが連携した展覧会」を、つまらないボクの思うところにご理解いただいたみなさんのご協力で実現したアートプログラムにかかりきりでしたが、一段落つきそうなのでたまっていた本業をやらないと(..ゞアセ。

業務連絡ですけど、いただいていた論文への意見は今週中にまとめてお送りします>Aさま。
縄張り論と違って、発掘成果に依拠する考古学の論文では事例が限られるのが難しいですね。ただ、縄張り調査の成果をベースに発掘調査の成果を組み合わせて築城主体の様相を論じるスタイルは既にKさんによって九州は席巻されていますので、今から考古学的立場をベースに縄張り調査の成果を導入して考察するのも困難です。

その辺をまとめております。

2009年7月21日 (火)

さて本業、角牟礼城跡を歩く。

この日は別の用事ででかけていたのですが、今後の下見を兼ねて時折大雨の玖珠町の角牟礼城へ行ってました。せっかくの機会なので石垣写真を撮ろうと思った次第。
お電話いただいたのですが、だいたい城跡ですごしてました(^^ゞ

角牟礼城は、古文書解釈の読み間違いで関ヶ原以前に毛利高政が居城としていたということで国指定史跡になってしまったお城です。実際は慶長期の久留島氏による改修であることが遺構的にも遺物的にも史料的にも立証されています。その遺構を写真に収めてきました。
たった古文書1枚の読み違いで文禄期の城郭としてしまったとは罪深いものです。城郭跡の整備では古文書の取扱いは慎重に(^^ゞ。そして城郭研究の成果をちゃんとチェックしないととんでもないことになりますよ、という教訓を確認。

角牟礼城は『よみがえる角牟礼城』が発刊されたように、かつては城郭整備でさまざまな研究者が絡んだ地、まちもすっかり盛り上がりふもとの森町は町並み整備は進みました。しかし現在は店舗はすっかり疲弊してしまっていました。ポスターにあった「穴太積みの石垣、つわものどもが夢の跡」を実感。いくら文化財的に史跡を整備しても外観を修景しても中身のリノベーションと連動しないと意味がないことをまざまざと見せつけていました。反面教師にしないと。。。

予期せぬ雨で予定変更となった1日でしたが、なかなか興味深く教訓を学んだ一日でした。

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2009年6月25日 (木)

雨の小机城。

月曜日は、中城研のNさんとMさん、Nさんの3名にご案内いただき、藤沢市の大庭城と横浜市の小机城をみてきました。
品川から東海道線で普通。。。って品川→川崎→横浜……と、快速じゃないか。で40分程度車内で城郭研究の現状について話しながら湘南藤沢、辻堂駅に到着。
大庭城は辻堂駅からバスでちょっと行った先。こんもりした舌状台地の上にあります。公園になっています。
一方、小机城は横浜線の小机駅の近く。向こうには時空がゆがんだかのように横浜国際総合競技場(日産スタジアム)がありました。

但し、この日は、天気が悪くて大庭城では空堀跡を探索して巣を踏んで蜂に被弾(^^ゞ、小机城ではとうとう大雨になりました。。。
途中で退散して、新横浜のカフェでまったりと後北条氏の城郭について年代観を語り合ってお開きにしました。

それにしても、関東の戦国期城郭は空堀も土塁もでかい。果たしてここまでやる必要があるのかというくらいに規模が大きい。ボクなどは天正18年から年代を遡及して考えるのですけど、時代が古いとしたらどういった築城主体がここまでつくるのか西日本の人としてはちょっと想像しづらい。。。鹿児島などのシラス系の城郭などに近い感覚かもしれません。
一方、小机城はやや小さめ。それだけに馬出しと空堀の絡み具合などじっくりみたかったので
大雨で撤退は実に消化不良でした。
もう一度、行きたいですね。

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2009年6月24日 (水)

中世城郭研究会例会。

朝4時まで呑んだ日の21日、日曜日は11時前まで宿で死んでました(^^ゞ

そして身支度して、20日と一転して小雨がぱらつく曇天の中、浅草→表参道→駒沢大学と出かけてきました。
この日はたまたま駒沢大学での中世城郭研究会の定例会でした。
ですので、毎年セミナーに参加するお城屋さんとしては、せっかく東京まできてこの未体験ゾーンに顔を出さないわけにはいかない。
はじめて伝統ある中世城郭研究会の定例会に参加してきました。こちらは同じ業界、先日と違い対照的に気安く応対できます。

この日は最初に夏のセミナーの発送作業。600名近くに案内を出すそうです。お城だけで600名とはすごい数です。それを人海戦術で案内状と返信ハガキをいれてこしらえる。ボクも手伝って一番最初に返信ハガキを手渡してきました。

例会のメインは、今回発表されるNさんによる夏セミナーの準備発表。こちらもちょこっと発言してきました。あいかわらずうまくしゃべれないなあ、、、自分。もっと要点をつかめるよう反復練習が必要ですなあ。だいぶ全体像が見えてきたところなのでもうひとがんばり。
それにしても今回のテーマは「大名領国系城郭」。。。いろんな意味でどう転がるかわからない夏が楽しみです。また、ベテランのIさんがネットワークを駆使して多い目に買い集めてくる図録や城郭本のヤミ市?もあり、なぜか東京で小谷城址報告書の復刻版と高知県春野町立歴史民俗資料館の図録をゲットできました。ウハウハ。

この日も懇親会に連れていかれまして、中城研の重鎮YさんとMさんとNさんに囲まれて談笑。
うーん、なかなか体験できない世界で談論風発。いろいろ城郭研究のあれこれについて今回の大名領国系城郭を考えるというテーマについてお話しました。Nさんが容赦なく日本酒を注いで下さるので最後はちょっと朦朧体気味でした。

それでも無事にお開きまで楽しんでから、地下鉄で浅草まで帰りました。
表参道で乗り換えて「では、夏に〜」と銀座線で眠り込んだ私が起きてきづいたときには列車は田原町駅。
を、次が浅草かと思いきや乗っている列車は渋谷行き?……はて(^^ゞ

なんとか無事には宿に帰り着きまして、前日同様バタンQ。

2009年6月12日 (金)

城郭研究の基本は縄張り。

ちょっとおさらいしてみようと、城郭研究について整理してみました。
やっぱり城郭研究の中心には「縄張り」。。。グランドプランが座るとしか思えない。

天守や櫓などの城郭に関連した建造物や御殿、屋敷などは建築史。
建物跡や出土遺物などは考古学。
軍団配置や武器、組織論などは軍事史。
そして、城に絡むひとびと、社会集団の営みは文献史学。

それぞれは、それぞれのジャンルで個別テーマになるとしても、それらの要素は城郭という器にはいっていることは間違いない。
だとすれば、それぞれの要素は、個々のジャンルで扱う前に、まずは器を介してそれぞれの性格が読み取られねばならない。
だとしたら、器の形状を示す「縄張り」が城郭研究の基本になるのは言うまでもない。だから城郭研究を城郭研究たらしめるのは最低限縄張りがわかること(たとえ縄張り図が書けなくても最低限理解しようという姿勢)でなければならないと思う次第。また、他の研究領域の者が城郭後に関わるならば、最低限「縄張り」を意識してしかるべきではないだろうか。

かくして、最近は城郭研究(城郭史)の基本にあるのは「縄張り」という確信を持つようになりました。


なのに、現在、各地の城郭跡の調査研究は、縄張りは二の次で、城郭にまつわる要素を切り取りそれぞれのジャンルに引き込むかたちでお城という「金になる美味しいテーマ」に群がっているようにしかみえない(特に一部の文献史学などの方たちに顕著)

そこでは、城跡の草をかき分け遺構を読み取り縄張り図を書くものが部外者にされ、城跡調査の名を借りて文献調査などのカタチをとって城主の研究や藩政研究をするものが室内でデスクワークに励んで委員をし、文化財担当者が掘り出したモノを文献で説明づけて彼らに手直しさせて整備する。。。かくして金太郎飴如きの城郭像が各地に生まれる次第。と言う理由と思っているが「ここの城跡はいい整備をしている」と言うのは案外少ない。

城跡にとっても、同時代の研究にとってもこれほどの不幸なことはない。
文献史学も絡めない先史や古墳・古代ならこんなことにはならない。中世城郭では居館や村落、作法を持ち出して自分たちのフィールドへ引き込もうとする。近世城郭はすぐに藩史研究へと化ける。気がつけばお城にかこつけて他のジャンルの議論がなされることはしばしば。

城郭史研究の基本にあるのは縄張り理解、という確信をもって、せっかくいただいた学位ですので無駄にするのももったいない、できうる限りの努力を惜しまず、城跡をサルベージして本来の城郭研究の足場を固めることの一助に、残りの人生を費やしたいと強く思います。そうした姿勢が自然に身に付くように、自分を戒め引き続き精進したいものです。

2009年6月11日 (木)

縄張り研究と考古学、軍事史などなど。

Nさんから玉稿の抜刷りをいただく。
早速読んでみる。とても示唆に富んだ内容に勉強になります。

縄張り研究は、調査方法は考古学的手法をベースにしているのに、研究者は歴史研究者が多く考古学的手法の訓練を受けていない。
確かにその通りで、かつて村田修三氏が縄張り調査の有効性を日本史研究会大会報告で提唱されたことが大きなターニングポイントとされていて、歴史研究として認識される面が強いと思います。ボクはつい最近まで歴史研究と勘違いしてましたし(^^ゞ、考古学的手法をベースにしているのだから、歴史研究の一分野であっても縄張り研究が文献史学の枠組みに迎合しても仕方ないなあと感じる経験もしました。

でも、逆になんで考古学出身の縄張り研究者は少数派なんでしょう。城郭跡は明らかに「古文書」ではなく「遺跡」なんですけど(古文書調査に明け暮れて復元の絵を描こうと言うおそろしいたくらみもありましたが)。石垣の研究や城郭整備の担当者は多いのですけど縄張り調査をやる人は相対的に少ないです。どちらかといえば「遺構」そのもののカタチよりもその遺構に乗っているor出てくる「遺物」に関心が高いからかなあ。最近は悉皆調査事業で調査方法としては広がってきましたが相変わらずなので、その辺は考古学系の方に聴いてみたいものです。

その歴史研究者が「城郭は軍事だけでない」とまるで悪霊退散の呪文のごとく唱えることで、本来軍事施設である特性を二の次にしてしまう傾向があるのも納得。城跡から歴史を語ろうとすると、何やら重要な指摘をしたかのようにここぞと使う常套句ですから、アレは。縄張り研究者の方で歴史研究者の方にはその呪文に過敏に反応する人も多いし(^^ゞ(他に「公」というキーワードもありますが)(^^ゞ。とあれ、城郭は本来は「戦争遺跡」というか、防御施設なことは既に村田修三氏が言われていることですから、
「城郭は、まずは軍事だ」でいいと思います。もちろん軍事一辺倒では、「文書にあるから」と一点張りの歴史屋さんと変わらないので要注意ですけど(^^ゞ。

ただ、考古学でも軍事史やられる方のサイトを拝見すると「ここから攻められる、攻められない」的な単なるシュミレーションではなく、当時の武器や組織編成をもとに考察するようです。そうした議論は縄張り研究などの城郭史研究にはないなあと思う次第。軍事史をもうちょっとどうしたやり方をしているのか調べてみたいし、縄張り研究の原理主義者にその辺は聴いてみたいものです。

あと、関東の事例では後北条氏の縄張り技術は「通路空間」だよね、と思う節があるので、来週の関東遠征の際に中城研例会と小机城跡見学にお誘いいただいたのでぜひとも楽しみにしたいなあと思います。

2009年6月 9日 (火)

チャレンジするスタートラインに立てました。

「……出場権を取ったという事で、ようやく我々の目標にチャレンジするスタートラインに立てたと。これからがいよいよ我々のチャレンジだと。こういう事にチャレンジさせていただける事に本当に感謝したいと思っています。……」

という代表のタイミングにあわせてなんかよくわかりませんが、10年前に福岡に置き忘れてきた「わすれもの」をようやく正式に通知いただきました。「比文博甲第145号」です。これで、ようやく比較社会文化研究科課程を終える事ができました。お世話になりました、ボクの愛しきふるさと「六本松教養部」(・ω・)ノ

「比較社会文化」ですが『城郭の縄張り構造と戦国後期の領主権力−城郭跡の史料的活用を通して− 』と城郭史でやってます。ホントは岡城跡も2本論文をまとめたりして含めたかったのですが、肝心の現地調査が満足にできず(コチラが調査するのは批判だとか、ありえない)、結局福岡県の戦国期城郭だけになったことが残念。平右衛門に申し訳立たんなあ。

それにしても、比文での体験は得難いものが多かったです。工学(建築史)の世界から飛び込んだものの、文系の感覚を理解するのには苦労し続けました。結局、ひどく遠回りしましたが、いろいろな世界をみて結局、工学(建築史)でええな。と思いなおし、ぎりぎり何とかたどりつきました(..ゞアセ。

いろんなカタチで集中する環境をいただき、お世話になったみなさん、ありがとうございます。

もちろん、いただいたと言ってもまだまだ出場権を得ただけの「仮免」のスタートラインにすぎません。全然足りないところばかりなので、日々、城郭研究で精進あるのみです、しっかりとご恩返しをせねばなりません。

さあ、旅の終わり、はじまりの坂道。これからがスタートです(・ω・)ノ

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2009年5月24日 (日)

柳川城跡を90人で歩きました。

アートを仕掛けるひとなんだそうですが、本業はコチラです(^^ゞ

23日はお仕事で柳川市まで遠征。やながわ歴史文化講座で柳川城跡見学会をしてきました。
初回で天候にも恵まれ、90人余り!の参加者に来ていただきました。
拙い解説で恐縮でしたが、本当にありがたいことです。
去年の津山市での岡山県生涯学習大学に続いて、この講座の参加者記録更新となりました。お城に対する関心の高さを感じると共にしっかりとしたお話をしないといけないなとあらためて再確認しました。
本当に感謝する次第です。

柳川市民会館でまずは馬出しの原理とカタチを意識づけしていただいてから出発。坂本小路から中堀を西へ、弥兵衛門橋から北三の丸跡に入り、柳川高校と柳城中学校の間を通って天守台跡、それから三の丸跡へでて西側の西三の丸跡で一服。
後半戦は茂庵小路を通って三の丸跡を横切り、東の福厳寺のある曲輪跡へでて米多比角まで到着。それから福厳寺に戻って高門橋へ北上して1周するコースでした。

陸橋に90人近く登って、その真ん中で往時の柳川城跡のスケールを解説するってのはなかなかできるものではありません。圧巻だったと思いますね。

川下りコースで有名な水路が実は柳川城の水堀跡であると言う「現在でも見える部分」と、今は削られてなくなった土居と言う「見れない部分」のスケール感を米多比角で感じていただくことで、参加者の脳裏に水堀と土塁で囲まれた往時の柳川城跡が復元できれば何よりです。
去年に続いてオファーくださった柳川市教委のTくんほか皆さんにも感謝。

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2009年5月18日 (月)

柳川城跡の下見してきました。

23日にやながわ歴史文化講座で柳川城跡を現地見学をするので、事前にうちあわせと下見に出かけてきました。
柳川市教委で、文化財整備とまちの歴史探訪コースの整備にいそしむ文化財畑に奉職する後輩からのお誘い。去年の座学に続く現地見学会です。
さすがに、現地の感覚がつかめないので実際に同行していただきながら歩いて回りました。柳川城跡と田中氏・立花氏の史跡、田中道・瀬高道を教えていただきました。多謝。

柳川城跡は平城なので、ほとんど地表面には遺構は残っていません。
かなり手が加えられた天守台跡と、米多比角と呼ばれる土塁跡と外堀の堰堤が残る程度。

でも川下りで有名な水路は実は柳川城の水堀跡なのです。
水堀跡で仕切られた平面や区画などを手がかりに、天守台のある主郭部や回りの馬出し状の曲輪、福厳寺、米多比角などの外縁部の曲輪や外囲いなどを歩き、縄張りから往時の柳川城のスケールを体感していただくことが今回のねらい。
川下りがそのまま柳川城の水路跡をめぐるコースとなり、地上を歩いても柳川城跡を訪ねる歴史探訪コースとなることを喚起するのもねらいのひとつ。案外歩くと柳川はフラットなので楽。自転車でもいいかも知れません。

だいたい2時間くらいで、ちょっとハード目に回れるコースをセッティングしてきました。
柳川城跡の主要部をめぐりスケール感を味わう現地見学会です。
土曜日はお楽しみに。

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2009年5月 9日 (土)

美作加茂の高山城へ。

9日はとんぼ返りで参加した登山会にて、岡山県の北部、津山市加茂町の高山(矢筈)城山頂に到達!
中国山地のど真ん中、向こうは鳥取県ですよ(^^ゞ ちなみに写真の背後は崖。眼下の谷は阿波村です。

8日の夜にたけたを発って、9日0時4分に到着。
朝にヨメさんの車で加茂町まで。中世史研究者のMさんと1週間ぶりにお会いし、地元の案内されるKさんの車で知和駅まで乗せていただきました。そこで、津山市郷土博物館のIさんご担当の登山会に同行してきました。

高山城はいわゆる矢筈城と呼ばれる草苅氏のお城。これまで池田誠さんの図面がありましたのでこれがどこまでいけるか踏査してきました。桝形虎口や石垣、烽火台などがあるのですがボクにはどうしてもそうはみえない。2つの峰に曲輪が並ぶ一城別郭型の戦国期城郭と言うのがボクの感想です。

手前の峰の主郭部には写真のように石垣がみられます。しかし、それ以外の大半は露出した岩盤の節理したもの。逆に曲輪に沿っての堀切と横堀、そして土塁などは十分に評価すべきものでした。とにかく城域が広い、そして曲輪の削平が良い。その一方で、織豊系縄張り技術の特徴は皆無に近いものでした。ですので、結論としては戦国期末期にこの地に進出した毛利氏が手を加えて改修した戦国期城郭と考えました。その点ならば毛利氏系城郭の到達点と言う池田さんの見立ては間違いないけど、毛利氏はそれほど技巧的な戦国期城郭を築いたかと言うと「?」な印象です。この辺は大先輩と議論が分かれるところです。

また、高山城は従来、草苅氏の持城とされてきましたが、おそらく草苅景継・重継は毛利氏により改修された拠点城郭を預った城代のような立場だったと思われます。この谷を抑えたとされる草苅氏だけではあまりに城域が広く、むしろ美作と因幡をつなぐ軍事拠点として駐屯軍が派遣されるなどの広域作戦に適した城郭と思われました。

などのことを踏まえてMさんとKさん相手に髙山城の縄張りについて山上でいろいろ語ってきました。帰りは河井方面に下山。14時に美作河井駅にたどり着きました。
スローライフ列車に乗れずに、ヨメさんに来てもらって拾ってもらいました。
ちなみに9日23時40分にはたけたに戻ってました。

一見すると、道楽と言われるような所業です。
いえいえ、これは、29日に医王山城登山会でお会いした加茂町のKさんからお誘いいただいたので、これを逃しては高山城が確認できない、と気合いを入れてのとんぼ返りの遠征。ちゃんと本業の一環です。

ちなみに、この草苅氏の分家が岡藩草刈氏です。ちゃんと関係してるのですよ。経費は全て手弁当だけど(^^ゞ

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2009年5月 3日 (日)

米子城遠征してきました。

3日はガイナーレ鳥取の観戦とタイアップして、関ヶ原の戦い以降、伯耆一国を与えられた中村一忠が入部して改修した米子城をみてきました。
いやあ、すばらしい近世城郭の山城ですね。主郭部は石垣の積み直しなどがあって往時の雰囲気をつかみづらいところがままありますが、高石垣で築かれた縄張りプランはコンパクトかつ技巧的に効果的な防禦を強く意識した優れたプランでした。予想以上にすばらしい城跡でした。
特に、四層櫓(前の天守とされる)を絡めた櫓台と桝形虎口を連続して組み合せた虎口プランなどは、技巧的な極みです。また、内膳丸へ続く石垣列などもかなり崩壊していますが登り石垣の様相を示しており、慶長期の実戦的カラーの強い近世城郭の縄張りプランを彷彿とさせます。
プランだけなら鳥取城よりもはるかに技巧的で防禦の意識が随所に配慮された優れた縄張りです>米子城。
建物の有無はいざ知らず松江城と比べても縄張り技術では遜色ないものです。

加えて、境港から中海、大山まで一望できる眺望は最高です。
もっと米子市さんは、麓の駐車スペースを整備して、米子城跡の城跡としてのすばらしさと眺望の良さをもっと紹介すべきです。
中村氏時代の伯耆の本城・支城については山陰を代表する縄張り研究者のTさんの論考があります。
そうした成果を踏まえて、米子城も精査した縄張り図をとると面白いと思いました。(^^ゞ

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2009年4月29日 (水)

院庄構城もみてきました。

さらに、M&Mさんに案内いただき、夕暮れに姫新線の走る院庄構城跡をみてきました。
吉井川の旧河床が地割に残る院庄館(作楽神社)から少し南側の田圃になっている辺りです。
Mさんからいただいた津山市教委のトレンチによる遺構確認調査の現地説明会資料をもとにウロウロ。

姫新線建設の際に土取りがされたそうですので、かなりわかりにくい。主郭部とされる範囲が高まりとなっています。田圃の地割などから創造する他ありません。
何とか追いながら確認してみますと、印象としては四方を水堀で囲まれた平地居館。南東部の一角の宅地となっている出っ張りな区画が気になるところ。それが出入り口と見立てると、馬出し状の曲輪が東西に並んでいたのかな?という感じ。東側の区画には寛永年間までお茶屋として残っていたと言うことなので第2郭として機能していたかもしれません。
また、現在出雲街道が走る南側にも1区画くらいあったかなという感じです。
残念ながらそれ以上のことは分かりません。

森忠政が当初に入部して築城を試みたとされますが、関ヶ原以降に入部した一国大名の居城としては貧弱な感じです。当初には津山築城は想定していなかったとするならば、吉井川の氾濫原なところにどういった規模の縄張りを展開しようとしたのでしょう。
あえて想像をたくましくするならば八木城から移った丹波篠山城のようなものか。吉井川の流れを取り込んで氾濫原を造成して巨大な横堀と馬出しで構成された平城を考えていたのでしょう。どこまで広がったものか地割の検討からではどこまでわかるか心もとない限り。

本当ならば入部したら神楽尾城や荒神山城辺りを改修するのがセオリーと思えますがその辺の森家の事情はよくわかりません。
規模からみると、構城築城はかなり当初の段階であっさりと断念されたのかもしれません。この辺はもう少し精査してみるのもありかな。

ここの立地でひとつ気になったのは吉井川の対岸に佐良山城がみえること。池田誠さんの縄張り図では単郭に近いプランながらテクニカルな縄張りを持つ城郭。詰の役割でも果たしたのでしょうか。ここも確認する必要がありますね。
いずれにしても、ここを断念して津山城を築いたおかげでここに大きな近世城郭が残ることになったわけです。院庄構城で展開していたらかなり広いまちが展開したと思われますが、城跡はどうなっていたでしょうね。

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神楽尾城をみてきました。

29日は、さらに午後から分かれてM&Mさんと共に津山市上田邑の神楽尾城跡をみてきました。
美作の国府や総社があったとされる津山市街西部の背後、神楽尾公園からさらにもうひとつ奥の山にお城があります。
車を神楽尾公園に停めるとさらにそこからしばらく里道を歩くことになります。

神楽尾城は、主郭から南端のピークまで曲輪を並べる医王山城と異なり、主郭部とそれに連なる曲輪群が集まる主要部と「泥田堀」とする谷を挟んで対岸に東側にもうひとつの曲輪群(別郭)が並列しています。
もちろん主要部が規模では抜きん出ていますが、複数の山地を駐屯軍が占めるような広域拠点的な雰囲気を持ちます。国衆規模の居城とは思えない規模でした。

ここは医王山城とは異なり、織豊系城郭の特徴はまったくありませんでした。既存の図の虎口とされるものはダメでした。畝状空堀群や土塁を配した典型的な戦国期城郭です。
たぶんに毛利氏段階の拠点城郭として機能したのでしょう。美作に進出した駐屯軍が入り、周囲の毛利方勢力が籠城したものでしょう。
文献では大籠城戦をした医王山城と異なり、こちらはあっさりと落城したとありますが、遺構の機能としてはこちらの方が広域作戦の軍事拠点といった印象を受けます。

全体として公園整備されておりみやすい城跡です。
山頂の周りにある曲輪は土塁が縁辺部を固めるものがいくつかありました。これは毛利氏などの戦国期の築城主体がたどりついた曲輪防禦のあり方を示しています。どこかに開口部をつけて虎口としない辺りがやはり戦国期の縄張りです。
先端の畝状空堀群は比較的大きなものでした。

泥田堀は土橋状のもので塞ぐかたちになっていました。水がわき出て湿地となっていることは間違いないのですが、泥田堀というと眉唾な雰囲気を感じます。縄張りとして堀が人工的に造作したものとはみえないからです。単にふたつの城域の間にある谷部と言えるのではないか。
土橋状の突堤ももしかしたら後世の水利遺構かもしれません。近世後期には高い谷あいなどに突堤を築いてため池にする事例がいくつもあります。
こうした評価は類例をあたりもう少し慎重な方がよいです。

神楽尾城は毛利氏が美作中央部から東部へ進出するにあたって拠点としたであろう城郭と思われます。
吉井川対岸にある宇喜多方とされる荒神山城(これは現地に行ってないので評価は保留)と向かい合うかたちで対峙したのでしょう。
戦国期には津山城はまだなく、院庄辺りが守護所などがあったとされます(実際はどうか未確定だそうですが)。
現在の津山市街地がある吉井川・宮川・加茂川の合流域を挟んで毛利方と宇喜多方が対峙した、真島郡の拠点、高田城から岩屋城、鏡野盆地を通って進出する毛利方の拠点が神楽尾城だったと思われます。
神楽尾城は、これから加茂町の髙山城を経て智頭郡から因幡方面、或いは作東から播磨方面へ展開するための重要な拠点ではなかったのかな、という印象です。

遺構からみるとあっさり落城したと言う割には、けっこう戦国期の最終段階まで毛利方として機能したのではないの?と思う節もあります、その辺は高山城、医王山城と岩屋城の評価と合わせて広域的にみる必要があるでしょう。もうちょっと下調べが必要ですね。

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医王山城登山会に参加しました。

4月29日は、津山市吉見の医王山城登山会に参加してきました。
津山市方面では、中世城郭の保存会があちこちにあって美作の中世山城連絡協議会という組織があります。
その内の、医王山城跡保存会による登山会に、美作をフィールドとする中世史研究者M&Mさんのお誘いで参加してきました。
医王山城は、近年の台風などで登山道が崩壊したりと大変だったようですが、新たに登山道をこしらえ風倒木の除去や伐採など積極的な活動をされています。今年は二の丸・三の丸と呼ばれる畝状空堀群のある尾根筋方向の曲輪群の風倒木を取り払い伐採をしたようです。

おかげで、極めてアプローチの良い山城となっています。また、三の丸隅に石垣の根石列を見つけ出してくれていました。
当日は好天に恵まれ、130人(会の発表では150人だそうで)が医王山城跡に登りました。
文献では毛利方が宇喜多氏相手に大籠城戦をしたことで著名なようですが、規模としては山頂部に常時これくらいの人數が籠るのに適した大きさにみえます。遺構として残る規模ならば神楽尾城(文献ではあっさり落城したとされる毛利方の城)や高山城の方が大きい。
医王山城では全体では2〜300名くらいか。もっとも、臨戦態勢では集まった動員兵力に合わせてあちこち立て籠るので遺構からみた規模で判断するのをひとつの尺度としておきます。

医王山城はこれまで1985年の八巻孝夫さんによる縄張り図(『中世城郭事典』掲載)がありますが、それ以降25年近く縄張り図は作成されていないようです。今回、あらためて現地をみてみますと、主郭部にある石塁は図面では開口部へ向けてハの字に狭まっていますが実際は折れをともなう鉤型の桝形虎口となっていました。石垣列からも確認できます。そこから二の丸・三の丸への通路に向けてわずかながら高まりや石列が残っており、連続した桝形虎口が確認できました。
三の丸と呼ばれる別郭でも既に図化されている石列に加えて、今回伐採で確認された石垣列とあわせて桝形虎口が確認できました。

八巻さんの図は、往時は笹藪だらけだった医王山城を関東から遠征しての確認調査でしたので当時の研究水準からみても十分な成果として意義があります。問題はそれから25年経ってきちんとした確認調査が進んでいない点にあります。
今日の城郭研究の成果を加味した新たな図面を作成する必要があります。そうした点を踏まえると12月にも矢筈城シンポで申したように悉皆調査の計画が待たれるところです。

地元の方々に医王山城の位置付けと、今回確認した部分を意識して保全するようにお願いしてきました。

医王山城は毛利方の立て籠った城郭として著名(もちろん畝状空堀群などはそれらの時代のもの)ですが、遺構をみる限り、最終段階ではそれ以降の可能性も考えないといけないと思います。
はじめての美作の中世山城攻めでしたが、なかなかの収穫でした。ホントにここは天正前半期の戦国期城郭と織豊系城郭を学ぶのにいい地域です。

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2009年4月21日 (火)

GWは美作討入り。

27−30日まで津山市でゆっくりと城郭跡を探訪してきます。
29日は
医王山城跡保存会による美作医王山城の城跡登山会に参加してきます。
その後、美作神楽尾城も登ってきます。院庄の構城もみる予定。

美作の中世城館に初めて討入り。とにかく雨降るなと祈るばかり。
石垣もあるので、それぞれ縄張りを重点的にみてこようと思います。医王山城は1985年の八巻孝夫さんの図面がありますが、今みるとかなり面白い視点が得られると思うなあ。(・ω・)ノ

他に、できれば荒神山城も観たい。高山(矢筈)城は一人はちとリスクなので今回は無理でしょう。

ホント、たのしみ。

2009年4月19日 (日)

負け犬苦行。

この週末は、ミナトナイトにも行けずコンビニコピーなどでお城の図版77枚をこしらえていました(^^ゞ
なんで?

桜組も負けてしまい、今週末の私はすっかり「負け組」です。
きっと大盛り上がりで、もう1回ミナトナイトをクロージングナイトでもやってくださるよね。と祈っておこう(^人^)〜ソンナワケナイ!!

2009年4月 1日 (水)

年度当初のごあいさつ

じぶんのすぐ近くで、ワクワクするような刺激的かつ実践的な実験が行われているかと思うと、何ともじれったい。
とは言え、指をくわえていても仕方ないので、自己投資。
人生は短い。なのに調べなければならない城郭は多い、そしてじぶんは城郭研究では未熟者だ(近くに偉大な猛者が居るからなおさら)。悩みは深い。


さて、今年取り組むテーマのひとつ(もひとつはテラマチアート)に、豊臣政権から初期幕藩制、天正から文禄・慶長・元和・寛永期くらいまでを少しばかり掘り下げてみようかと思った次第。

というのも、昨今、大分市歴史資料館の『松平忠直』展や『大分県地方史』紙面上でもご案内のあった通り、3年前からほぼ毎週「岡藩史研究会」のようなスタイルで豊後岡藩中川家文書の調査が行われていることがあります。
260年分の記録を手弁当の研究会で行う壮大な計画。中川家文書は朱印状などは神戸大学に年譜類などは竹田にあるのですが、まとまった大名家の文書としては単なる郷土史レベルではなく全国史的水準のものとも言えます。本来ならば正規の編纂事業や「大学の研究室」とのグループワークの調査事業として行われるべき代物なのですが、それをどこぞの筋で決めたことだからという理由で、ほとんど古文書片手に「わたしは百まで、おまえ九拾九まで」な手弁当ベースの「愚公山をも動かす」壮大な試みを行っています。

そんな様子をみて、ようやく重たい荷物も下ろして小生も少々余裕もでてきたので、そろそろ少しづつ岡藩の研究をやってみようかと思いたった次第。さすがにボクは机上の文書屋ではなくフィールドのお城屋さんなので、現地調査と文献調査を絡めた総合資料学を試してみようかと。そもそも、岡城跡をはじめ、岡藩中川家も単純に「九州」の視点や近世史だけの単眼的視点だけでは解明は難しい代物。本土の視点と豊臣・徳川政権論が欠かせません。何せ多くの藩士は関西出身なのですから(^^ゞ。ですので、神戸大学の中川家文書もあわせてまとめていかないといけません。それだけに関西と中国と九州を往来する小生にとっては、チャレンジのしがいがあります。。

とりあえず、じぶんの研究に近い文禄・慶長・元和からへしぎって行く所存(^^ゞ。。
うまくいくかわかりませんが、3年もかけずに何か成果が出せればいいなというペースでやりますので、よろしくご配慮ください、各位。(・ω・)ノ

ということで年度当初のごあいさつ。

2009年3月26日 (木)

歴史読本5月号。

月刊歴史読本5月号は、お城屋さんが書いてる特集号。

某織豊期城郭研究会のNさん、Kさん、Kさんトリオの企画で、全国都道府県別城郭ベスト10という特集。
大分・熊本・宮崎・沖縄を担当しましたが、今日届きました。

とは言え、10コ選んでポイント制でランキングして説明するというものなので、ひと苦労。如何にわかる人にわかるか?的な書き方を心がけましたのでお目汚しなものですが、よろしければみてください。1090円です。大分はひいき目なしでもちろん岡城がトップ(ちゃんとアピールしてますヨ)なんですけど、トップ10はけっこう渋くまとめてみたつもりです(^^ゞ。

それにしても、ボクはいつから織豊期城郭研究会に入っていたんだろう(一応、城郭談話会のつもりでしたが)(^^ゞ

2

2009年3月14日 (土)

熊本中世史研究会。

13日は仕事を終えて、雨の熊本へ直行。
竜田口辺りは突風と激しい雨でした。いやあ、大変。大変。
お招きいただいた熊本のAさんたちと談論風発。熊本県の中世史研究とマイブン事情をお伺い。

14日は午前中は本妙寺に行ってセイショコさんにおまいり。
そして、午後から目の前をクマデンが走る熊本市立高校あらため、必由館高校にて熊本中世史研究会。
3時間ほど城郭研究と歴史学・考古学で研究史について報告。そして討論。なかなか充実。
いろいろ資料をいただきました。ありがとうございます。

何にしても、どこも業界は大概ですね。
でも、熊本県に行くと、九州がみえてくる。福岡と熊本と鹿児島のつながりはあるのでいろんな視点がみえてくる。
やっぱり大分は研究者にとってはタコ壺なんだね、と実感。
しばらく、熊本方面に出陣しようと思った次第です。何ヶ所かポイントを絞ってリサーチ開始。

2009年3月 2日 (月)

熊本中世史研究会に遠征します。

荒れた城跡に群がる閉じた人たちを横目に、彷徨の城郭研究者の私。
3月14日(土)は、わたしが13時から熊本市の必由館高校にて、熊本中世史研究会の例会で報告してきます。熊本県のAさんからオファーがあったものです。熊本はけっこう中世城館の調査が近年盛んになってきた地域。但し縄張り研究など城郭を縄張りで読み込む資料・史料学としての方法論(縄張り調査ではなくて)はあまり入っていないところでもある。

もともとは工藤敬一先生による中世史研究会なんだそうですが、熊本県内の文献史学、歴史考古学な方々が参加されている研究会。

そこで、城郭跡の資料論と史料論について報告してきます。
論文の第1章研究史整理みたいな内容を話してくるようなものです。あとは大友氏領国の城郭跡と岡城跡のことかな?

中・近世史研究における文献史学と歴史考古学の間にある城郭研究が村田修三先生がおっしゃるような自立した学問領域なのかディスカッションしてきます。
かみ合うか不安ですが、熊本の研究者の方々と交流してネットワークをつくってくるのが楽しみです。
オオイタじゃなくて、熊本県をフィールドに城郭調査に入ろうかな?

2009年2月24日 (火)

そして、熊本城。

P1000813 P100081223日が後北条氏の滝山城で、24時間後の翌24日は熊本城見学(^^ゞ
熊本城本丸御殿と熊本県立美術館永青文庫展示室をめぐるツアーに同行しました。熊本城について簡単にレクチャーしてきました。

細川家コレクションの永青文庫は小さな展示室。美術品よりも古文書ベースの歴史展示が中心です。
東京の永青文庫に美術コレクションがあるので仕方ないけど、ちょっと惜しい。
熊大に寄託となっている細川家文書は、かの山本博文さんのご研究で『江戸城の宮廷政治』というコンパクトな講談社学術文庫となっている。細川忠興・忠利父子のやりとりをぜひ読んでみて下さい。
その辺の成果が展示に活かされていないのが惜しい。

で。
二様の石垣前で写真を撮っていただきました。
右が加藤時代、左が細川時代の石垣とされています。

左側の増設部分の上に、本丸御殿(昭君の間)が乗っかっているのはナイショだ。

2009年2月23日 (月)

武蔵滝山城を見学する。

P1000746 23日は天候が悪かったのですが、せっかく関東まできたので延泊して縄張り研究者のNさんにご案内いただいて、八王子市にある北条氏照の城、滝山城跡を見学してきました。

草の枯れている冬がいい状態でみれますので、この機会を逃しては!としてご案内いただくことで、「後北条氏系城郭」の真髄を実際この目で見ることができました。
アートのミーティングのあと、歴史研究について意見交換して、そのつぎは城郭研究者として城跡現地踏査とつづく東京遠征。

滝山城は交通の便が極めてよい。京王八王子からバスが1時間に2本以上あるという恵まれた条件。しかもアプローチも容易。こんな身近に後北条氏の縄張り技術を堪能することができる事例があるのは実にすばらしい限り。

Nさんの縄張り図と説明をうけながら3時間半ほど歩き回りました。主郭から馬出しや桝形虎口、そして馬出しも馬出しの連発で城域を構成するつくりや、桝形虎口も馬出しと組み合わせた内桝形虎口や谷へ下るつづら折りな連続桝形虎口など、横堀に土塁に、まあこれだけ使いこなすものだなあと感心しました。まさに百聞は一見に如かず。

築城主体の発想が、横堀で城域を仕切ることに対応して、通路を如何に設定し防禦するか、通路に沿って防禦空間となる馬出しや曲輪空間を重ねて如何に城域を組み立てるかをひとつの基本となる「発想」がベースにあることを実際の遺構から読み取ることができました。また、Nさんとディスカッションしながら歩くので本当に勉強になりました。

滝山城の縄張りに後北条氏の縄張り技術の基本的意識がはっきりみえることを思えば、昨今、「後北条氏オリジナルの城郭技術は見当たらない」って論調がどうして言えるものかなあ。と思うことしきり。
いろんな南関東辺りの城郭をみているのに後北条氏の築城技術に消極的評価が導き出せる感性はちょっと信じられない感じがしてます。(逆に縄張り屋さんの方には後北条氏オリジナルの縄張り技術がココにあるじゃないか、と叫びたくなるような気分。通路空間を使いこなし、通路空間が橋頭堡となる後北条氏の基本意識がみえていると思います。千田嘉博氏のような二次的要素をあえて捨てて理念を抽出する作業ができるのでは?)

こちらとしては、近畿・西国の織豊系城郭と九州の在地系城郭ばかり見慣れてきたものですので、あらためて関東の北条氏の城郭を知ることで、とてもいい比較検討ができたことが収穫でした。近い発想と似て非なる発想がみえる後北条氏と織豊政権の城を考えると、後北条氏の縄張り技術はもうひとつの系統を生み出しているのだなあと思う次第。

小雨でしたが、相模より分倍河原まで出陣してご加勢の上、ご同行いただきましたNさんには感謝しますです、はい。

2009年2月16日 (月)

名島城の歴史と文化シンポジウムのお知らせ

北部九州中近世城郭研究会から、下記シンポジウムのご案内。
告知転載オッケーです。


『名島城の歴史と文化シンポジウム』
共催 九州学研究会、九州考古学会、北部九州中近世城郭研究会
日時 平成21年2月22日(日曜日) シンポは午後1時から(受付12時30分)。
場所 福岡市博物館(1階講堂)
入場無料、資料代別途500円 定員は250名。


午前;現地見学会(名島城跡10時集合)/ 午後:シンポジウムとのこと。移動が大変そう(..ゞアセ


福岡市の名島城跡は最近では石垣が出てきたり金箔瓦が出土したりと発掘成果が出ている豊臣時代の城郭跡です。
その一方で、市の方は城跡に「展望台」を造るプランを進めているなど聞き及んでいます。そんなホットな「名島城跡」が、今回のシンポジウムのテーマとなっています。ニュース的には下を参照して下さい。

小早川隆景ゆかりの名島城址公園、来年秋までに整備
福岡・名島城跡の展望台整備計画、歴史家ら見直し要望

詳細はもらっていないのですが、丸山雍成名誉教授がコーディネーター。中野等氏(九州大学大学院教授)、中村修身氏(北部九州中近世城郭研究会長)、木島孝之氏(九州大学大学院助教)による報告とのことです。多分、現地の発掘成果も資料報告であるのではと思います。
中野先生は朝鮮出兵に関する面から名島城と小早川隆景で報告されると思いますし、木島氏は城郭研究(縄張り研究)の視点から報告されると思います。

今まで名島城を取り上げたシンポジウムは皆無でしたので、興味深い報告が聴ける貴重な機会です。
名島城は日本中でも数少ない「関ヶ原以降に改修を受けていない豊臣大名の居城跡」。宅地化と破壊が進んでいますがかなり貴重な遺跡。こんなカタチとはいえ脚光を浴びることになったのは意義あることです。

ぜひ足をお運び下さい。福岡市博物館は「平泉展」の最終日です(・ω・)ノ

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2009年2月15日 (日)

陵墓と城跡、伏見城跡

桃山陵墓地などの調査を許可=考古学協会、20日に実施−宮内庁
陵墓の立ち入り調査認める 宮内庁

ひとつは伝垂仁天皇陵ですけど、まあ、これはよいとして。
お城屋さん的には、明治天皇陵のある伏見城跡に立入りできるようですね。目視や写真撮影はできるけど、発掘はダメとのこと。

いえいえ、発掘なんて必要ありません。
1週間、縄張り屋さんを立入りさせていただいて、若干薮や下草などを払ってよいと許可していただければ十分です。
それで伏見城の縄張り図が取れます。それでしばらくは十分でございます。
あと、できれば瓦の表採もお願いします。

さて、問題は「日本考古学協会など16団体」に縄張り図書ける人いるんでしょうか?
誰か送り込みたいものです(無理か。)


ところで、何かの書き込みで昭和天皇陵も掘るのか?と言う向きもありますが、たぶん必要ありません。
昭和天皇や昭和年間に関することは十分な記録とアーカイブズがあります。わざわざ掘る必要はありません。
本来は、掘らないに越したことはないんです。
桃山御陵は、たまたま伏見城跡に明治時代に造ったので立入りたいというだけです(お城屋さん的には)。

聖武天皇陵のある多聞山城と安閑天皇陵のある高屋城跡はありますが、こちらは陵墓にあとから築城した事例なので大きなことは言えませんが、せめて縄張り図だけでも書かせてほしいものです。

2009年2月 8日 (日)

「縄張りからみた戦国前期の城」ありました。

P1000676 8日は、大山崎町歴史資料館にて、城館史料学会の総会とシンポ。
パネラー発表は福島克彦氏、西股総生氏、多田暢久氏の三氏。

一応、後半の討論の司会をやりました。
テーマは、「縄張りからみた戦国前期の城」
縄張り研究ではとてもホットなテーマ。それの司会(^^ゞ

と言っても、城館史料学会のシンポですから普通のシンポではありません。
シャンシャンなシナリオのあるシンポではなく、テーマに関して発言をどんどん重ねていく「徹底討論」型。
なので、ボクの仕事は「ただの司会」です。今の城郭研究での論点が集まっている場でしたので追いかけるので精一杯。パネラーの方で進めていただいたカタチになりました。。。(..ゞアセ
ということで、テーマに関してどういった流れをつくるかは、パネラーと参加者からの発言で進んでいきました。

16世紀前半の城館についてどうやって検証していくのか、城館の年代観をどう考えるか、関西と関東での城館研究の意識の相違点などのさまざまな論点が3時間つづく「徹底討論」。途中でエキサイトする場面のある、昨今のシャンシャンシンポではお目にかかれない応酬もあって、なかなかヘビーなシンポでした。でも城郭研究者の丁々発止の議論なので、充実。(^^ゞ 中身は『城館史料学』最新号をご期待下さい。


とあれ今回の仕事は立っていただけ(..ゞアセ。じぶんはあたまで追いかけるので精一杯でしたので、ほとんど聴き役でしたがシンポの段取りを知るいい勉強になりました(..ゞアセ。
ホントは司会から絡んでいければよかったのですけど(特に分布論は。。。)、自分も絡むと全体が俯瞰できないなあと思っていたので今回はシンポの流れを把握して学ぶことに終始して自重してました。なので、フロアからは司会が仕切らないなあとご不満があったかもしれませんがボクの能力不足以外の何者でもありません(..ゞアセ。

今まで関東・関西の研究動向を生の声から把握する機会が乏しかったことを如何に埋めるか、研究者の声をリアルに認識するかで手いっぱいでした。でも、本当にいい勉強になりました。お世話になりました!次は発言して絡んでいくように、城郭研究の今の問題関心を自分の研究へつなげるよう務めたいと思っています。

2009年1月29日 (木)

考古学ハンドブックスをみてみた

さて、中世考古学と言うか、歴史考古学をかいま見るシリーズ。

で。城郭研究では、新人物往来社の『城館調査ハンドブックス』(似たようなタイトルがあるが縄張り調査ならコレ)というものがあるが、ならマイブンな世界は?と思ってマイブン系の調査方法についてテキストとして読んでみたのが、雄山閣の『考古学ハンドブックス』。。。。

ひとめみて。。。唖然(´д`;
その他のところに中世の城館址があって、たった2〜3ページ程度。それも城下町とかそんなのといっしょ。1993年段階で縄張りとかの概念もないのです。『築城記』の記述ははいっていましたが。。。うーむ。

いや、ダメダメ、素人さんがそんな本みてては、他にいいハンドブックがあるから。という方、よろしければご教示下さい(^^ゞ
ちなみに縄張り調査は一般調査なんでしょうか。

2009年1月12日 (月)

中世史研究と考古学のコラボな時代。

てなことで、中世考古学では、寺院と城館と都市・集落が主要な対象として挙げられることが多いので、そのインパクトがでかいらしい城館・都市の研究史をいろいろ物色。
あらためて、80年代後半から90年代にかけて、網野善彦氏らと共に多数のシンポ・著作・シリーズを企画された石井進氏のやられたことの大きさを、今さらながらですけど痛感しましたです。さまざまに胎動してきた研究成果が出そろって今の史跡整備のカタチが一気に花開いた感がありますものね。

ひとつは、70年代後半から、あちこちで活発化した中世遺跡の発掘とそれらの成果を得ることで独自領域の「自律化」を模索していた中世考古学に対して、歴史学の側から「学際的」というアプローチでシンポや著作・シリーズものなどを通して編成したこと。

次に、そうした出版物や活動を通して、中世史研究の側から、中世遺跡の重要性と保全・整備を広く啓蒙したこと。

さらに、主に「畿内」ではない地方自治体を舞台に、中世遺跡の史跡整備事業というかたちで、歴史学研究者側がイニシアティブを取りさまざまな実践と国庫補助付きの「公共事業」を行う文化財行政の手法を中世史研究に導入したこと。

等々。そうした動きの中心軸に常にいたんですから、すごいものです。
と、同時に、こうした一連の動きについては、そろそろ総括してもいいんではないでしょうか、と思いました。

学際的研究のもとで参加してきた中世史や考古学分野、文化財の方々が、そろそろ定年近くを迎える時代でもありますし、中世史研究から中世考古学などの学際的連携が何をもたらしどういった作用を及ぼしたのか、また、これまでの各地の事例から何が得られ、何が得られなかったか、などなど。こうした一連の流れについて「客観的に」位置付けておく意義があるのではないでしょうか。そうした整理は、次の世代のためにも大事だと思った次第。また、今後どういった方向へ進むべきか、整備した史跡をどうしていくのかを含めて、ひとつのテーマになると思います。


ついでに、城郭研究者の側からみると、この時代は、中世史研究と考古学のコラボによる城館跡の史跡整備というカタチで城郭研究には大きな影響を与えたけれども、「掘ら(れ)ない考古学」な多くの城郭研究者には、結局縁遠い存在でしかなかったことについても、あらためて考えてみたいと思ったりしました。この80年代後半から90年代にかけての中世史研究と考古学の二人三脚な展開について、その胎動期からの流れをあらためて見直してみたいものです。

ちなみに、石井進さんが大分府内の南蛮都市シンポに来られたときに「府内を南蛮都市とするなら、他の九州の中世港湾都市は南蛮都市にはならないんですか?」とアホな質問したのはわたしです(^^ゞ。

2009年1月 9日 (金)

城郭研究と、城館の考古学

1月の第1週は、県立図書館へ通って、日本中近世の考古学について研究史や状況を文献でリサーチ。

縄張り調査などをもとに城郭研究をしていると、城館跡の埋蔵文化財を扱われる考古学の方々、いわゆる「歴史考古学」や「中世考古学」の業界との議論や関わり方について、考えさせられることがしばしばあります。
そういったこともあり、城館の考古学を含む中世の考古学について、前川要氏の『都市考古学の研究』から手がかりに文献をあさって研究史をみてみたら、元々の先史時代の考古学に対して、古代より新しい中世の考古学自体が70年代以降に急速に発達した分野とのこと。
となると、70年代後半から80年代にかけて、方法論が整備され、全国各地で城郭研究者が調査を行い、そして全国城郭研究者セミナーで議論してきた城郭研究(縄張り研究)の歩みとあんまり変わらない印象を受けました。

これまで、城館跡について「掘らないとわからない」とか『縄張り図は客観的じゃない」とか何だ言われてきましたけど、城館の考古学を含む歴史考古学だって、こちらとほぼ同じ歩みをみせてきた70年代以降の新領域。結局、大学や教委に属さない「掘らない(法律的に掘れない)」フリーランスで在野で居続けた城郭研究者に対して、中世考古学の研究者は70年代後半からの開発行為の増加や80年代後半の財政的に余裕のあった自治体の事業で調査事例が増え、大学や教委に属し国庫補助などによる発掘や整備事業の担当者として活躍の場を得たことで大きな違いが生まれたようです。 

城館跡の限られた面の調査を公共事業として中世考古学研究者が行っている間、縄張り屋はずーっと手弁当で、あちらの山城、こちらの丘城を調査して全体像を把握する縄張り図を作成しつづけてきた。そうした蓄積があるのに、城郭研究者は「科学的でない」「肩書きがない」、そして出張させてもらえない(笑)ということで悉皆調査や城郭の整備事業などの「公共事業」ではオブザーバー的立場に甘んじ、結局、城郭研究者のほとんどは「土・日の研究者」のままで、城の発掘・整備で事例を重ねた方に偏って「お城の専門家」となっているのが現状かと、感慨深いものがありました。

 
何だか、今まで文化財行政には謙虚に応えようとしてきたんですけど、結局、城郭研究者と城館の考古学など中世考古学の違いは、発掘と整備という自治体=「公共事業」にコミットできたかどうかの差だったのかなという気がしてきました(^^ゞ。 

とあれ、研究史的には、歴史考古学の分野もようやく最初の世代が定年なり地位を得てきたくらいなのですね。いろいろ過去の書籍をみてみると、70年代以降の代表的な成果が出てきたのが80年代末。ちょうど「学際的」と言われ、中世遺跡の書籍やシンポが開かれ、ここに城郭研究者も招かれるようになった、そんな時代。その辺から、文献史学研究者がイニシアティブを取り中世考古学研究者と調査事例や資金確保をコラボするかたちで、書籍や報告書、各種シンポ記録も出てきました。その辺で立ち回りが下手だったのか>城郭研究者。

ということで、あらためてその辺から今までの間の中・近世城館の代表的な成果について集めてみたいと思いましたです。

2009年1月 8日 (木)

今さらながら。。。

どうやら、ここ10年間ぐらい、ボクはとんでもない「思い込み」をしていたようです(..ゞアセ。
城郭史とはいえ、城郭の縄張り調査を専門にしているのですから、「史」の世界ではなくて。「資」の世界なんですよね。

気付けばなんてことないけど、今さらながらにアホでした(^^ゞ
まあ、仕方ないね。

どうも居心地悪いと思っていたんですよね、わかってスッキリしました。わかったのでさっそく軌道修正しましょう。

2009年1月 4日 (日)

お城の近くの。。。

年末年始は、年越しを実家で過ごす以外は、まとまって1週間ほど津山に居ました。

で、予定を変えて論文と資料を探してました。
というのも、津山城のみえるアルネ津山・天満屋の上にある津山市立図書館は1日以外は開いていたからです。但しコピー1枚20円(ノ_<)。
そして、岡山城と県庁に挟まれた岡山県立図書館は4日の午後から開館。こちらはコピー1枚10円(^o^)。
ということで、九州から毛利領を挟んで反対側の境目地域、宇喜多氏がらみの先行研究をあれこれ探していました。

年末は津山市立図書館まで歩いて通い、年始は18キップを使って津山線で岡山まで出て岡山県立図書館へ。
岡山界隈は中世から近世城郭まで幅広くそろっているフィールド。なので、どれほどの先行研究があるのかリサーチ。
それにしても、岡山でしか仕入れられないものが多い。これが宇喜多氏研究の特徴かもしれませんね。


P1000480 その岡山県立図書館の帰りに、岡山城では、月見櫓とともに数少ない現存建物の西丸西手櫓を観てきました。内山下小学校の敷地内にあるので大丈夫かな?と思って校門を探して1周しましたが、肝心の学校は既に廃校となっていて自由に入れました(^^ゞ
夕方の旧西の丸にてパチリ。

西の丸からみた感じ、岡山城って旭川から続く高台に横並びに城域を占有したシンプルなプランなのかも。それぞれを織豊系の縄張り技術で改修してぐるっと固めて近世城郭に仕立てたようにみえました。

小学校敷地ですから、市有地でしょうから敷地は発掘して整備するのですかね。

2008年12月23日 (火)

城館史料学会第7回総会とシンポジウムのお知らせ

先日、上坂してきましたが、わたしも参加している城館史料学会の事務局からお知らせがありました。
総会は会員のみですが、シンポジウムは非会員も参加できます(但し事前申込が必要。)ので、ご案内いたします。

◎城館史料学会第7回総会&シンポジウム「縄張りからみた戦国前期の城」
2009年2月8日(日曜日)9時から 大山崎町歴史資料館大研修室

総    会               9時00分〜(会員のみが参加できます)
シンポジウム「縄張りからみた戦国前期の城」9時30分〜16時15分(非会員もOK、但し会員優先) 
 基調報告は、福島克彦氏、西股総生氏、多田暢久氏 の3氏です。

シンポジウムは会場規模が小さいのと議論の充実を重視しますので、事前申込みが必要です。席の確保などは会員を優先しますので、非会員の方は後ろの席か立ち見になる場合がありますのであしからずご了承ください。また、当日の報告と討議の内容については、夏の全国城郭研究者セミナーで販売予定の『城館史料学』最新号に掲載される予定です。

2009年の1月20日までに下記事務局へハガキで申込みしてくださいとのことです。
〒812-8581 福岡市東区箱崎6-10-1 九州大学大学院人間環境学研究院日本建築史研究室内
       城館史料学会事務局(担当:木島)

城館史料学会は公式HPを立ち上げていません(..ゞアセ ので、とりあえず、告知しておきますね。

2008年12月21日 (日)

草苅氏と矢筈城を語るシンポ

P100041420日の土曜日は、津山市加茂町文化センター大ホールで開催した「草苅氏と矢筈城を語るシンポジウム」に参加してきました。朝から市役所前のごんご加茂バスに乗って加茂支所(旧加茂町)まで。。。

戦国期に加茂郷に勢力を伸ばした草苅氏が城主とされる矢筈(髙山)城の県指定史跡に登録されたのを記念して、草苅氏の実像と戦国期加茂郷について討論する内容でした。
今回のパネリストは歴史学中心。肝心の矢筈(髙山)城そのものを扱う城郭史の側からのアプローチはないのが残念でしたが。ボクとYくんがお城屋さんとして参加。そのうち呼ばざるを得ないような成果を出すような活動していきましょうかね(^^ゞ。この会では「美作中世の山城連絡協議会」の方々にもお会いできたことは収穫でした。この地域は城郭の研究は低調でも、中世城館に対する地元の方々のサポートには目を見張るものがありました。活かしたいものです。

城郭史的には、内容には不満があるのはあらかじめわかっていたし、こちらにも準備がないのと、草苅氏研究を郷土史から歴史研究の土俵にもっていくべき、という主催者の意図を争点とすれば、コレはコレで大事なステップ。また、美作北部の山村で全国の研究動向を踏まえた高い水準の歴史系シンポが企画された意義は大きいものがありました。
もっとも、問題はこうした動きが次へつながるか? そのためには、美作地域における研究環境をどう持続させていくかが課題ですね。ローカルで質の高い研究を臨むには、さまざまな分野の研究者が集う「場」が地域には不可欠です。

とは言え、このシンポでは肝心の矢筈城そのものや周辺の遺構との位置付けは何も語られていないことは大きな課題。城郭史の立場からこの地域の戦国期城郭をどのようにとらえるのかを語らずして、少ない文献史料から草苅氏を議論しても平行線をたどるのみです。城郭研究の分野は、岡山県では悉皆調査も進んでいないように中世城館や近世城郭を研究対象とする関心が低い。これは行政も歴史系も考古系の研究者も同じようなもの。それに対して、こうした環境を如何に改善し城郭研究の必要性を示すこと、この地域の中世城館を全国の城郭研究の動向へつなぐ取り組みをやらないといけません。

その日の夜は一泊してみなさんと談論風発。翌日の21日には草苅氏関係の史跡を案内してもらいました。そしてMさんのご厚意で真庭方面の城跡も案内していただきました。ありがとうございます。

機会があれば、岡山県方面の中世城館は腰を据えてやってみたいものです。それだけの魅力のある地域です。

2008年12月 5日 (金)

『戦国の城と年代観』届く。

10月に帝京大学山梨文化財研究所で開催された『戦国の城と年代観』のシンポ資料集を、六一書房で買いました。
本日、到着。

なかなか読みごたえのある内容。。。というか、まあ関東の城郭研究を取り巻く歴史学や考古学の雰囲気がわかる資料。
後北条氏の資料や愛知県史を買ったのもこのためです。
もうひとつ、1989年の清須シンポジウムの資料集も到着。

さあ、勉強、勉強。

2008年12月 4日 (木)

小田原の北条氏。

最近は、あまり今の活動と関係ないけど戦国期から織豊期、近世初頭にかけての史料集を意識的に集めています。
『萩藩閥閲録』や『多聞院日記』『綿考輯録』『浅野家文書』など。それと『太閤史料集』などの昔の新人物往来社が出した編纂史料モノ。

それで、中世小田原城の関係で『小田原市史』城郭編を仕入れようと古書店を(ウェブで)訪ねると、城郭編と別に『小田原市史』の史料編の中世編がまとまって4冊でていました。
中世編2が品切れだったのとほぼ原価に近かったので、思いきって注文しました。

後北条氏の関係は、豊臣氏の小田原攻めに関連したことをいずれ調べて関東の城館の年代を考える材料にしようと思っていたこともあり、遠隔地ゆえに図書館ではまずないだろう後北条氏の基礎史料集『小田原市史』が手に入ったのは実にありがたいことです。やっほー!
ついでに、某サイトで紹介されていた神奈川県立歴史博物館の『戦国大名北条氏とその文書』展の図録を入手。こちらは900円とは思えない分厚い内容で収蔵の後北条氏関係文書が多数掲載されていました。ウハウハ。

結果オーライですが、後北条氏の基礎史料集を揃えることができたのは収穫。『戦国遺文』はたぶん県立級の図書館ならあるので手元にあればよいのが揃ったのはありがたい。
現地に行って中世の小田原城を見学すれば、とりあえずは準備完了。後北条氏の動向についておおよその勉強をしておこうと思います。

あとは『毛利家文書』や『吉川家文書』など毛利氏の基礎史料集をそろえておきたいところです。今のうちに買い集めましょう。

とは言え、ホンモノの城跡を調査しないと行けません。まもなく攻める準備に入ります。

2008年11月19日 (水)

美作加茂、矢筈城跡シンポジウムのお知らせ

わたしのもうひとつの拠点、津山市に合併した岡山県加茂町でのシンポジウムのお知らせリリースが来ましたのでご案内。

岡山県でも著名な中世山城の矢筈城が県指定史跡になったのを記念して、
来る12月20日(土曜日)13時から、津山市加茂町文化センターで特別シンポジウムが開かれることになりました。
主催は矢筈城跡保存会、そしてこの企画をコーディネートしたのは、美作を拠点に中世史(前期)研究で縦横無尽にかけめぐる「悪党」な方々(^^ゞ。報告者は歴史系メインで考古系、地元の研究者を含めて揃っています。果たして、どんなつぶてが飛び交うか乞うご期待。
今回は縄張り屋さんがいませんが、縄張り屋さんのわたしが会場へ参加してきます。


公共期間で行くのはかなり大変ですが。。。
関西からは中国ハイウェイバスで7時半の超特急か8時の特急バスで大阪梅田から津山まで高速バスで飛ばして、津山駅から因美線11時37分発で12時04分に美作加茂駅到着です。津山からの鉄道はこれしかありません(^^ゞ。但し、駅から徒歩20分!(^^ゞ

7時半の超特急バスは10時に着くので、10時20分発のごんご加茂バスに乗れば会場に近い加茂支所へ行きます。
このバスは、駅の隣の広域バスセンターから出ますが、何のアナウンスもない不思議なバスセンターなので係の人やバスの運転手をつかまえてしっかり乗りましょう。このバスしか加茂に行くのはありません(^^ゞ。

がんばって行きましょう(・ω・)ノ

ちなみjに、ボクは津山からバスか列車で行く予定。
できれば前後に城跡へ登りたいんですけど、季節的に難しいかな。

以下、詳細。

◎矢筈城跡岡山県史跡指定記念
特別シンポジウム開催のお知らせ
 岡山県最大の中世山城、矢筈城(やはずじょう/津山市加茂町)が2006年、岡山県史跡
に指定されました。従来から、矢筈城はさまざまな形で注目されてきました。しかし、
大規模で先進的な構造をもつ城郭遺構や、城主・草苅氏については、まだまだ未解明な
部分が残されています。このシンポジウムでは、近年、新たに明らかになってきた事実
をもとに、矢筈城研究をめぐるさまざまな問題点と可能性について、最新の研究成果を
もとに縦横無尽に語り尽くします。専門的見地を保ちつつも、一般の方にも大変わかり
やすい内容にしますので、どうぞ気軽にご参加下さいますよう、お願い申し上げます。

*日時  2008年12月20日(土) 12:30受付開始〜、13:00開会
*会場   津山市加茂町文化センター大ホール (専用駐車場もあります)
*参加費  無料      
*申し込み 不要(直接会場にお越し下さい)
*主な内容
(報告)
①中世草苅氏の権力構造——系譜と家臣団 前原茂雄氏(福岡市史編集委員会)
②近世史料からみた中世草苅氏の動向   森 俊弘氏(岡山地方史研究会)
③中世城郭としての矢筈城の特質     草苅啓介氏(矢筈城跡保存会)
④戦国期草苅氏の周辺          渡邊大門氏(美作大学地域生活科学研究所)
⑤戦国期因幡国の政治情勢と草苅氏    岡村吉彦氏(鳥取県公文書館県史編さん室)
(シンポジウム)草苅氏と矢筈城を語る——課題と展望
         長瀧薫氏(美作の中世山城連絡協議会)及び報告者5名
(イベント) 舞踊《矢筈城懐古》

主催:矢筈城跡保存会   
共催:美作の中世山城連絡協議会
後援:津山市・津山市教育委員会・美作大学地域生活科学研究所
   山陽新聞社・津山朝日新聞社
助成:福武教育文化振興財団
問い合わせ先:矢筈城跡保存会(0868-42-3347 児玉方)  以上。

2008年10月10日 (金)

古唐津と唐津城

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9日は古唐津を拝みに、佐賀県立九州陶磁文化館まで。「土の美、古唐津」展を観に行きました。
すばらしい、門外不出な古唐津の名品まで拝むことが出来て、多いに満足。
前日は夜更かし作業していたのでグロッキーな状態で朝5時に出立したのでヘロヘロでしたが、じっくり観賞。

別に陶磁器愛好家になわけではなくて、縄張り屋さんの中近世の城郭研究とも関係の深い、歴史考古学で用いられる遺物編年と対峙するには、古唐津、備前、瀬戸、美濃の勉強が欠かせないということで、今年にはいって意識的に足を運んだり文献を仕入れたりしています。

というか、一般的「学芸屋さん」の素養として勉強しておけよと言われそうだけど(..ゞアセ

帰りに寺沢広高が築いた織豊系城郭の唐津城を見学。ちなみに、復元天守は、建築史の大家、藤岡通夫氏が既存の天守台跡の事前調査もせずに上から建ててしまったおかげで、ホントに天守が建っていたのか永遠に検証できなくしてしまった驚異の「復元作品」です(´д`; 。てなことはさておき、写真の通り、城周りをはじめ周囲に石垣がしっかり残っているのが新鮮でした。海辺をぐるっと回ること、そして浜沿いに二ノ丸の石垣ラインもしっかり残っているいて、歩いて廻るのは城好きならばオススメ。

今回は、主郭部から海周りの石垣をみてまわり、二ノ丸から城内閣のある薩摩堀をめぐって再び駐車場まで石垣ラインを歩いて見て回る。圧巻でした。
お土産はもちろん、大原松露饅頭(^^ゞ

2008年9月29日 (月)

お城あたま

あちこち八方美人な性格と、(中山理論で言うところの)学力不足な平凡人のアタマなので、論文などを書く時には「お城あたま」に戻さないといけません。

——なんせ大阪府育ちで広島へ学習に行きしっかり平和と人権の「道徳」を副読本で学び、その上現在は大分県住まいという、中山理論の王道を行くオツムパッパラパー低学力人間の極み(・o・)ですので、城跡をかけまわりハコもの指導要領よろしく「武の道」で鍛え直さないといけません(謎)。
とあれ、あの業界でまじめに活動している人は太郎くんより冷たいメシを食べ慣れてばかりな方々です。
あの手の人事に関われる人やその周りに絡んでる人たちは、通過儀礼のように組合活動して上意下達と人間つき合いを学んでから、成彬くんのように拝礼したり歌ったりできる「転びキリシタン」として「長いものにまかれる」術を身に付けてご出世されるのは、地元でおつきあいもあるでしょうから知らんわけないとは思いますけど。
オノレらの護持と保身のためなら前途ある若者を本格採用直前に取り消しすることも辞さない姿に、拝礼したり歌うニッポン男児の「愛するもの(組織)の護持のために逝ってくれ」精神のゆるぎない伝統を感じるのですけど、いかがなものでしょうか。
まあ、野党=組合の政党という20年前の図式を煽りたいのでしょうが、いまの党首はトンチャンじゃなくてイッチャンなように根っこで同じ「わたしが右なら、あなたは左」の役割分担制が戦後の姿だったことはもうバレバレですよ(微笑)——

というように、すぐにポンコツ館のマネージやあれこれアート、スタジアムの世界、「太郎と一郎のつばぜり合い」などにかまけてしまいます(..ゞアセ
なので、昨年からリハビリを兼ねて、意識的に城跡をめぐり、集中して過去の城郭研究や研究誌の縄張り屋さんの論文を読み直してきました。だいぶアタマが戻ってきましたけど、精進が足りないのか他のことに夢中になると、すぐになまってしまいます。

なので、たびたびそんな作業を繰り返し反復させることで、あたまの記憶を目覚めさせてから仕事に入ります。所謂「お城あたま」にするわけです。学研や新人物往来社などのムック本から研究誌まであれこれ必要な範囲を読みあさります。
そうして感覚を磨きなおし、段々とあたまのなかにお城の図面が描けるようになって縄張りを組み立てられると、ようやくなめらかな文章が書けるのです(..ゞアセ
あとは山に行くだけだな。行けない間は城跡めぐりで感覚を鈍らせないようにしてきましたけど、やはりブッシュに行って体を動かさないといけません。今年は福岡県と岡山県で調査する予定。


それと、前からほしかった辞典をようやく3冊揃えました。最近は日本の古本屋やAmazonとかで仕入れられるので田舎に居てもありがたい。
前○運送さんが長期不在でもボクの家に投げ込んで下さるので大変ありがたい(謎)。
角川の『日本地名大事典』の福岡県(ホントは平凡社のがいいんだけど高いので手が届かず(ノ_<))をてはじめに、小学館の『国語大辞典』、それと今頃かい、な山川出版社の『日本史広辞典』と徐々にそろえていきました。(日本史広辞典いいですね、読んでて厭きません。)そうそう、岩波の日本史年表もありましたね。

まあ、これだけあれば、どこでも何とかなりますね。

2008年9月24日 (水)

福岡日和、その3 黒田武士の世界@福岡市博

さすがに、3日目はちゃんと打ち合わせ。これが本来の目的。

六本松でこれから6ヶ月の打合せあれこれ。
麗しの六本松、大学院旧「比較社会文化研究科」もあと6ヶ月で伊都キャンパスへ移転ということ。
ラストサムライよろしく論文の段取りあれこれ。。。

で、午後は師匠と合流して、福岡市博物館の「黒田長政と二十四騎、黒田武士の世界」を堪能。いい展示でした。福岡藩の黒田如水・長政・忠之と黒田家二十四騎の武将たちを柱とした展覧会。いい味だしてました。入り口の演出はなかなかカッコいい。
意外にオススメなのが、朝鮮陣屏風のそろい踏み。黒田家文書も甲冑も多数展示。
その後6時間はだらだら談笑。いい感じで締めくくり。

でも、、前日のヴァルト・前々日の北キューでのシンポジウムの次が黒田武士なの?って具合だよね(^^ゞ お前のアタマの構造はどうなっているのかと。。。
まあ、「黒田武士」の方が本業に近いので、あと6ヶ月はコチラの世界でくたばってもいい具合にトコトンやります。

2008年9月21日 (日)

ビジュアルワイド『日本名城百選』

61c12irum2l_ss500_「お城好きの夏まつり」の関係で、小学館のビジュアルワイド『日本名城百選』の4つ程書かせていただきました。
その、ビジュアルワイド『日本名城百選』は、9月25日発売で定価3,990円(税込)と案内が来ましたのでお知らせしておきますね。

ウリは「カラーで縄張り図が入っていること」なんだそうです。
その辺が写真などが中心の、他の「日本の100名城」みたいなのとは違うぞ、という意気込みとのこと。

チョイスは私どもは関係していないのであしからず。代表でM先生となっていますが『よみがえる日本の城』シリーズ監修のMさん&Nさんと中城研の方とで選考したそうですので、M先生の意向がどれほど通っているのかは不明(..ゞアセ。ですけど、まあ百選となるとだいたいお約束が多いと思いますのでご期待ください。
税込み3,990円とちょっと高い目ですが、よろしく手に取ってみてください。

ちなみに、ボクが担当した4つのうちひとつは岡城。そして鳥栖市の勝尾城(ボクの調査図)と佐伯市の佐伯城(Tさんの調査図)は最新の図面が掲載されています。あとひとつは人吉城です。
この内だと、中世城郭の勝尾城が意外かも?

個人的には、新たな踏査の成果を加えた岡城の図面をみてやってください。だいぶ印象が変わりますよ。それだけでも価値ある。。。。かな?

2008年8月14日 (木)

夏の城めぐり、その3

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14日は広島。朝6時過ぎに起きて、広島市民球場近くのホテル(前日、カープ戦みたわけではない、念のため。)から市民球場ヨコを歩いて広島城を探索。
デジカメで188枚バシバシ撮りました。想像以上に広かった外濠の周りを歩いて城内に入って一筆書きにぐるぐる。
歩いて縄張りを確かめて石垣を確かめてウロウロ。

小雨が降っていたのでちょっと暗くて撮影にはむいてなかったけどスナップなので気にしない。
一応、復元天守があると見栄えが良いので載せていますけどほとんどが縄張りと石垣に関係したものばかりです。
右の写真は、福島正則が普請をとがめられて詫びの代わりに崩した石垣なんだそうですけど、実際は違うんだそうです(^^ゞ
わりと時代が下がりそうですもんね。

百聞は一見に如かず。いい勉強になりました。
2時間歩いて8時半にホテルに戻って朝食バイキング。
やはり、歩いたあとの朝食はうまい(・ω・)ノ

2008年8月 5日 (火)

夏の城めぐり、その2

5日は、案外行きそうでなかなか行く機会のない姫路城の縄張りを見学してきました。姫路城は来年度から天守などの大修理を行うそうでしばらくは美しい天守の姿も拝めません。いそいで、いそいで。

午前中に姫路市立城郭研究室を訪問する。
それから、午後にかけて師匠の「講釈」もとい講義を聴きながら観光客に混じって姫路城をくまなく歩いて石垣と縄張りプランを丹念に観察してきました。

ちなみに城郭研究室のTさんの書かれた姫路城の解説によると、姫路城は姫山の地形に制約された縄張りプランに織豊系城郭のパーツを継ぎ接ぎしたかのような体裁なので、スマートでない「迷城」とのこと。

歩いてみて実感。
それ故に、城を読めない専門家さんはその継ぎ接ぎさ加減をあれこれ「名城」的に解釈してしまうとか(^^ゞ

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2008年8月 4日 (月)

夏の城めぐり、その1

セミナーの前後は、開催地周辺の諸城を見学するのがお約束なので、2日と4日はK師匠の車に便乗して三重県内を中心に織豊系城郭を見て回りました。

九州でいると、なかなか現地に行く機会はないですからね。
もちろん、単なる見物がてらの「実見」や「見学会」ではなく、縄張り図を片手に実際に遺構を観察していくのです。
夏とは言え、多少の薮でもはいって観察。
古文書と違って城跡は「閲覧申請」がいらないのがありがたい(^^ゞ

2日間で伊賀上野城、伊勢亀山城・神戸城・津城・宮山城&城山城・田丸城・松坂城、近江水口岡山城をみてきました。
織豊系城郭の縄張りプランにおける外桝形虎口と馬出しを連続させることで城域が構成される様をつぶさに体感する。
まさに百聞は一見に如かず。

松坂城では、R大城郭研究部の若き諸君と遭遇。。。。。すると、コピーした縄張り図をみながら炎天下の談義となります。

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2008年8月 3日 (日)

第25回全国城郭研究者セミナーに参加しました。

夏まつりの伊勢路。
8月2日・3日の第25回全国城郭研究者セミナー@三重大学に参加してきました。
下の写真のように、中近世城郭というワンテーマだけで、全国の大学、公的機関・教育委員会、仕事の傍らフリーランスで研究する200名近い研究者が集う研究集会。各地の報告があり、テーマを設けたシンポがあり、懇親会では全国の研究者と情報交換や議論を交わし、各地の研究会の会誌・研究論集などを扱う書籍交換会が開かれるという密度の濃さが、全国城郭研究者セミナーのキモです。

これだけは、他のどの分野にも負けない充実ぶりがあると思います。
今回のテーマは伊勢中世史研究会がぜひともと名乗りを上げた「中世後期の方形城館と地域」。
まあ、これがうまくいったかはなんともなので割愛して。。。。
ところで、城郭研究において歴史研究の史料として用いることを提起した1980年の村田修三氏のフィールドは伊賀から大和国の中世城館でした。それからほぼ30年近く経って再び伊賀・伊勢の地で方形城館と地域がシンポジウムのテーマとなるのはなかなかな巡り合わせです。

しかしながら、シンポのやり取りを見るにつけて、城郭研究の枠組みにおいて、縄張り研究がこうした200人もの研究者を集める「学問領域」に押し上げた功績は言うまでもないのですけど、果たしてそれに見合う学問領域としての仕組みが築きえているのか甚だこころもとない気分になりました。

第24回でも少し触れましたが、近年は東西で縄張り研究に対して歴史学・考古学サイドからの切り崩しは厳しいものがあります。
さすがに村田修三氏が90年頃に受けたような「研究姿勢」を問うような直接的なものは千田嘉博氏以降の枠組みが固まると共に影を潜めましたが、今は縄張り研究者を「学際的領域」に取り込むかたちで、歴史研究者や考古研究者が新たな視点という声で城郭研究のイニシアティブを採り既存の縄張り研究の成果を換骨奪胎して取り込んでいこうと言う動きに変わりつつあります。

東国のSさんや近畿で積極的な学際領域を構築されているNさんなどはそうした側の代表格とも映ります。これは縄張り研究者を元々の属性である歴史学・考古学の研究者として取り込み、歴史学・考古学の枠組みの中で城郭を扱う研究者に位置付けると共に理論的方向性はコーディネーターよろしく歴史学研究者が担い成果をまとめるという、いわば殿上人と武士団の関係のような役割分担を築こうとしているように映ります。

悩ましいのは、そうした動きに対して年齢を重ねた縄張り研究者が城郭研究者がとるべき方法論的立場を自覚した討論ができていないことにあります。それどころか在野学的スタンスから積み上げた学問領域の枠組みを解体させて机上のアカデミズムに無批判に取り込まれるような動きも見受けられます。縄張り研究者は歴史学者・考古学者の道案内や事例を提供する「北面の武士」ではありません。「城郭遺構を史料として扱う」研究者として、古文書を扱う歴史研究や、なぜか遺物編年にやたらこだわりをみせる考古学研究との間で対等な立場で学術的に斬り結ぶスタンスであるはずです。あえて乱暴な言い方をすると、多くの労力を要する遺構の解釈が紙片の文字面や動く遺物の解釈に引きずられる理由などないのです。

なので、このセミナーでもそうなんですけど、城郭に関わる活発な議論が成されるのは良いとして、なぜに歴史研究で文献史学の領域で活躍されるI先生に「新たな城郭研究の正念場である」とか「新たな城郭研究の方向性が求められている」と総括されにゃならんのかと思ったわけです。逆に日本史研究会などで「城郭の遺構からこうした見解が得られている。君たちも新しい歴史研究へ踏み出す正念場だ」なんて言ったら総スカンでしょ? そうしたコメントを受けるばかりで独自のスタンスで総括もできない縄張り研究者側の役不足と「自律性のなさ」に失望した次第です。
未だにそうした隣接領域からの声に向かうのが御代の村田修三氏では情けない次第。その意味では、年輪を重ねて未だに隣接分野に対して城郭研究のスタンスがブレない村田修三氏の立ち位置には学ぶところが大きいわけですが。

とあれ、村田氏のようなパラダイムを指し示す部分を引き継ぐ役割、オピニオンリーダーが今の縄張り研究者の中に不在なのが大きな課題なのだろうと思った今回のセミナーでした。
と、23回の城郭談話会主催の「自律したテーマ設定」時に空気を読めずすべった人が言うなよという批判をわかりつつ思う次第です。

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2008年7月13日 (日)

『戦国大名大友氏と豊後府内』

Sengokudaimyo 鹿毛敏夫さんの大友氏研究会に参加していたご縁で、氏編著の『戦国大名大友氏と豊後府内』(高志書院)に縄張り論で参加しました。
7月刊行で、11日に本が届きました。

8500円+税ですけど、今の大友氏研究がわかる一冊になっています。近年三重野誠さん、鹿毛敏夫さんが出されるまではかつての黄金時代以後は長い間大友氏研究の研究本はありませんでしたので、買って損はないです、多分。
高志書院は東日本の研究者で出す傾向があるんですが、今回は九州の研究者だけのめずらしい?ラインナップです。

拙稿は「戦国期城郭の縄張構造と大友氏領国」です。《大友氏の領国支配と九州》というカテゴリーに入っています。
年度末のひさん?な状況で泣きながら書いた代物です。。。つまらないものですがよろしゅう(^^ゞ

2008年7月12日 (土)

縄張りからみた柳川城とその時代

というタイトルで、12日は柳川市三橋公民館で話してきました。
お城がテーマということか、想定していた60人以上の参加者で盛況でした。多謝です(*´∀`*)。

90分をオーバーしましたが何とか収める(..ゞアセ。
前半は、城跡を理解するのには、城の平面プランというかかたちである「縄張り」を知ると面白いことを説明してから、戦国期城郭から織豊期・近世城郭までを概念的に把握してもらうのに充てる。
休憩後、後半は近世柳川城の縄張りについて、柳川市史編さん室が刊行した地図編の城絵図を用いて説明しました。

市街地化している上に平野でありみわたせないこともあって、近世柳川城をまちなかで意識することはあんまりありません。
しかし、空撮するとお城の原形はしっかりと残っています。川下りのクリークがお城の水堀ですし地割もけっこう残っています。
城絵図を片手にクリークを目印に城跡から城下町までウォークしてもらえればと思いながら話しました。

一見すると特徴のないように映る近世柳川城は『馬出し」がわかれば当時の最新トレンドで築かれたテクニカルな要塞であることがわかります。城が築かれた関ヶ原以降の大築城ラッシュの様相を説明し、水堀をめぐらして平城を築き外構えで城下町まで囲い込んだ田中吉政の並々ならぬ筑後統治の意気込みを知る史跡として解説しました。
相変わらず拙い話しながら、みなさん熱心に聴いていただきありがたいことでした。

以外に柳川城跡の全体像を確認できることに気付いてもらえれば今回のねらいは果たせたといえます。
資料が良好に残る観光地柳川だけに「城跡」の縄張りを理解することで、自分たちの歴史と文化を営んできた基礎の部分を知ること、そして自分たちのまちのランドマークとかたちを知ってまちづくりに活用していただければ言うことないですね。

2008年7月10日 (木)

柳川の歴史を学ぶ歴史文化講座

週末の7月12日土曜日は柳川市三橋公民館で、「柳川の歴史を学ぶ歴史文化講座」でしゃべってきます。
時間は14時から。タイトルは
「縄張りからみた柳川城とその時代」です。

基本的には、『柳川市史地図編』に書いた10年前!の小論をベースに、柳川城跡を地域史の中にもっと位置付けることと、筑後柳川藩の田中吉政がもたらしたインパクトの大きさを伝える予定です。
ちょうど市史編さん室から中野等先生の『柳川の歴史3 筑後国主 田中吉政・忠政』が出てて、文献史料からみた田中吉政と城郭遺構からみた田中吉政を対比させるにはいいタイミング。ボクは『柳川市史 史料編Ⅲ『蒲池氏・田尻氏史料』を買いますけどオススメです。

何かと縁のある柳川市。
柳川城跡は現在は市街地となりほとんど遺構を残していませんが、一方で、天守台付近と川下りの水堀、そして地割からある程度の原型は残っているので、今のうちにどの辺りが城郭部のどの機能を担っていたのかをプロットしてまちあるきの目印にしたらいいのです。
名所はよくコース設定されていますが、近世城郭の大半が今の都市の基礎を成しているのは案外知られていない。そこで、城郭の縄張りを理解することがまちを理解することにつながるということを伝えるのが今回のミッションとなります。

うまくいくかな?


2008年7月 4日 (金)

柳川城の歴史講座をします

ということで7月。
5〜6月の月末は「北」のアートな場所をウロウロしていましたが、7〜8月は「福」の方へウロウロします。。。
今シーズンはあれこれ吸収し現場へ行くことを課しています。福岡のアートの現場を学んできます。

とは言え、もちろん城屋の仕事がメインです。
7月12日(土)は柳川市の歴史講座で『柳川城とその周辺』を話してきます。
まちが成立した背景に近世の城郭あり。
まちを理解するには城郭の理解が欠かせないのです。

しかし、まちのことや史跡は古文書からあれこれ調べ上げていても、都市の骨格を規制した城跡の評価と理解は「白紙」のまま「放置」という都市の多いこと多いこと。
福岡城もそのひとつです。石垣や縄張りだけでなく櫓まで現存しているなんて知らない人がほとんどです。鴻臚館や博多もいいけど福岡城の絵図資料集成を発行して、すぐれた「城跡」として市民に広めてあげてください。。。ってヨソのこと言えませんが(´д`;

柳川城跡は現在ほとんど残っていません。でも川下りのクリークは堀跡だし地割もそこそこ残っています。
それに立花家や柳川の人々、伝習館高校が散逸させずに残した藩政文書と良質の城絵図があります。
そして、それをきちんと整理する県立市営の柳川古文書館を建て、すぐれた市史編さん事業を行う中でそれらの絵図・地図資料を地図編としてまとめた柳川市の仕事があります。

そうしたすぐれた市史編さんとアーカイブズ体制を誇る柳川であっても、柳川城の位置付けは市民に広められているとはいえません。川下りの場所が城跡のどこなのか、どういった機能を果たしていた場所を通っているのか理解するだけで川下りも楽しくなるというものです。そうした理解の基礎となる柳川城の縄張り構造について、城絵図を用いながら、現在の城郭研究の視点から柳川城跡が現在の柳川市街地の基礎構造を成していることを提起する2時間になる予定です。

2008年4月26日 (土)

岡山県生涯学習大学で話しました

0426001 26日は美作大学にて、岡山県生涯学習大学委託講座「教養専門コース」にて「中世山城の世界—築城技術と政治・社会」の一回目を担当しました。金曜日に仕事を片づけ17時52分の列車に飛び乗り(豊後竹田駅では上客ですなあ)0時10分に津山駅に到着。
津山城近くの自宅で一眠りして追い込みをかけてから、土曜日午後から歩いて美作大学へ。。。

岡山県は生涯学習大学事業はとても盛んな様子で県が積極的な事業展開をしている様子。
その中でもこの講座は、参加者が110人余りととても反響があったようで、100人超えはこの事業ではめずらしいそうです。
その先頭バッターというのは少々プレッシャー?

ということで、なぜか九州からやってきた関西出身、津山にヨメさんが居る?私が、中世山城から近世城郭までの流れを縄張論を軸に2時間弱語らせていただきました。

前半は、城跡を探訪する上で、お城の縄張を知ることがとても大事であり、縄張について重点的にレクチャーする内容としました。後半は戦国期城郭から近世城郭への流れを「桝形虎口」と「馬出し」の概念と、そうした虎口が曲輪化し城域が再生産される仕組みが織豊系城郭、近世城郭の縄張りである、ということを解説しました。

従来の城郭関連の研究は周りの出来事や城に関わることを以て城跡を説明しようとする傾向があり、肝心の城跡そのものから読み解く研究が表に出ていないことが問題であることを説明した上で、縄張を知ることで城跡は身近な歴史を知る「生きた史料」として雄弁に語ってくれる、縄張を知ることが城跡を知る近道であるという、縄張研究に基づく城郭史研究を伝えることに重点を置きました。

今回は中世山城がメインでもあったので、時間の都合で慶長期以降の近世城郭について具体例で説明することができなかったのが心残り。津山城は桝形虎口が曲輪化して城域を構成する典型的な縄張りなので、ぜひとも紹介したかったのですが次の機会に。。。

会場では、城跡トレッキングの達人森本基嗣さんにお会いできたのはうれしかったです。
おかげさまで、はじめて岡山で話しする機会をいただいた渡邊大門さんにはありがたく思います。
少々疲れていましたので打ち上げではストンと落ちてしまいまことに申し訳ありませんでした。。。もっと体力をつけます(笑)

次は、岡山の中・近世城郭でぜひとも呼んでください(微笑)。喜んでお伺いさせていただきます!
縄張論の解説と津山城の現地見学はやってみたいプログラムです。

2008年4月20日 (日)

「岡の里城郭史講座」

12月から5回連続第三日曜に開催した「岡の里城郭史講座」は今日で無事に終わりました。

去年は仕事と絡めてボランティアガイドさんと連係した、ミュージアムと地域をつなぐ「まるごと博物館めぐり」で旧竹田荘編と城下町竹田編をやりました。しかし、いろいろ入場料の面で調整がややこしいのに加えて内部の調整が不発(苦笑)だったのと、城下町や地域を語るにはまずは岡城跡をきちんと理解していただかねば始まらないと言う観点から、仕事と切り離して岡の里事業実行委員会と言う、ふるさと創生以来の伝統ある?まちおこし事業の一環としてやらせていただきました。
念のため、講師料などはもらっていませんのであしからず。

当初は少ない人数で考えていたものでしたが、だいたい20〜30人規模で参加していただくものまで大きくなりました。広報もフルに活用できたので仕事でやるよりも反響が大きいのはさすが岡の里事業の伝統がなぜる技かな?
基本は、第三日曜日に決めて、来れない人のためにボランティアガイドさんを対象に予備日を設けて平日対応もしました。

日程的には当初の予定と異なって、天候の都合もあり行き当たりばったり形式(笑)になりましたが、講義形式3回と現地見学2回を無事に済むことが出来ました。
わたしが話すことに専念できたのも、場所の提供から事前申し込み、レジュメの印刷、広報、現地での下準備のお手伝いなどなど、みなさんのご助力あってのことです。

講座の内容は、城跡を探訪し、歩き、生きた資料として楽しむには、「縄張り」を知らないといけませんよ。ということ。
これをひたすら解説と実際の遺跡見学を組み合わせながら念仏のように繰り返す内容です。
お城にまつわる話しではなく、お城から何が読み取れるか、わかるかと言う内容を、しっかりじっくり何回でも復唱するような内容にしました。また、単体の岡城跡のウンチクや歴史を語るのではなく全国の城郭との比較検討する尺度としての城郭史と縄張り論のイロハを伝えながら、岡城跡の縄張りがわかり、他のお城との比較が出来る視点を養っていただくことを目指しました。

近場での連続講座ならではの5回分割形式でやりました。

内容は以下の通りです。
第1回 「縄張り」=城のかたち、からみた近世のお城とその時代   
  2007年12月16日(日曜日)  
※岡城をはじめとする近世のお城の成立について、日本列島の城郭史から紹介。
お城のカタチである縄張りと虎口などの概念を解説し、虎口に着目した城跡の見方について説明。

第2回 縄張り、城門(虎口)のプランをみてあるく
  2008年 1月20日(日曜日) 
※雨天のため、岡城跡を事例に縄張りと虎口の概念についておさらいをして、岡城跡の縄張りを分析することで初期岡藩と中川氏家中の動向がわかることを紹介。

第3回 近世のお城、縄張りをみて歩く① 城門(虎口)のプランをみてあるく
  2008年 2月17日(日曜日) 
※岡城跡の中心部と御廟所跡(東ノ郭)を見学。桝形虎口による岡城の防御の仕組みを紹介しました。

第4回 近世のお城、縄張りをみて歩く② 石垣・空堀の守りをみてあるく
  2008年 3月16日(日曜日) 
※岡城跡の西側半分を見学。大手門、近戸門一帯の重臣屋敷を囲んだ岡城の外郭ラインの防御を紹介しました。

第5回 まとめ〜近世のお城から地域をみる〜
  2008年 4月20日(日曜日) 
※中川土佐屋敷跡の「そうぞうの丘」で開催。お城を地域支配のフォーマットとした豊臣政権の意味と地域に与えたインパクトについて、城郭と石垣技術、建物(御殿など)との関係性、そして城からみた城下町、地域史の視点を説明しました。
後で、岡城跡をみなさんで見学しました。

お城の案内は、ともすればお城と関係ない話しになりやすいもので。歴史学や考古学の方々がしゃべっても城の縄張りそのものの話しはほとんどありません。
ですので、城郭研究者が、実際に城の遺構をもとにどのように防御したのかどのような意図で構築したのかを学術的ベースで縄張り論から解説する講座をすることがう遠でもする必要があると思います。
勉強会形式でレジュメを配って解説し、実際に城跡を探索し、竹薮の中になぜか埋もれている遺構を紹介し、なぜか図化されていない桝形虎口を縄を張って紹介したりとあれこれ手法を尽くして岡城跡を舞台に「城郭史講座」をいろいろ試すことが出来ました。
会期中にデザインで相談を受けていた岡城マップ改訂版も出来ましたのでこれも配布。
参加者の中に、前は気にならなかったが、話しを聞いてからは城跡に行くと縄張りに注意しながら見学するようになったという方が居られまして実にうれしいことでした。

本当に城跡を公開し活かしていくには、こうした地道に回数をこなすことで、ボランティアガイドや市民のみなさんにお城をヨソの方々に語っていただくような土壌をつくる教育普及的な作業が大事です。単に広報出してオモシロ講座をしても意味ないんですよ(微笑)。

5回にわたり参加していただいたみなさん、拙い私の話におつきあいいただき本当におつかれさまでした。
話すコツや内容の精査について、よりいいものにしていけるよう見直ししながら努力していきたいと思います。

今後のこうした活動を行う上でとても勉強になりました。
本当に、ありがとうございました!

2007年10月22日 (月)

豊前佐田城、再発見。

071022_11050001 秋は大友氏関連の城郭をおさえるために現地を回っています。
先々週の栂牟礼城に続いて、月曜日は豊前佐田城をみてきました。

安心院インターから近くの佐田集落から登山道ができていて楽に登れました。
戦国期豊前の有力国衆佐田氏の居城とされています。佐田氏は佐田家文書が良好に残されているので、文献史料から佐田城は佐田氏の城となっています。
それにしては県の悉皆調査報告書の図は技巧的だなと思っていたので今回の踏査と相成りました。

で、これは大堀切をすぎて最初にでてくる主要部の南西側にある石垣。
この石垣をひとめみて、即、結論。
                   ↓
佐田城主要部の遺構は、文禄〜慶長年間の黒田氏によるもの、或いはそれ同等の豊臣系大名による改修を受けたものです。

悩むまでもありませんでした。その後踏査しましたが、かなりよくできた織豊系城郭でした。
南西部の石垣は馬蹄状の石塁ラインでしたし、崩れていましたが栗石もあり、北東隅にも石垣ラインと石塁で形成された塁線がありました。
また、主郭は南側の両隅は空堀で直角に厳しい切岸になっており、堀切を隔てて北側に馬出状の曲輪がありそこから通路を通って北東隅に石垣で固めた虎口がありました。北側の石垣塁線上には横矢掛りもありましたし。。。
そして、特徴的な横堀と竪堀の組合せも横の遮断と堀底道に利用した技巧的な遮断線を形成しており、何より直線的かつ直角に折れる横堀は在地系ではありえません。というくらい直線的に仕上げられていました。

てなわけで、在地系城郭に間違いようのない織豊系城郭でした。というかどうみたら在地系城郭にみえるのか?と言いたくなるようなよくできた織豊系城郭でした。まあ防塁ラインの中身の曲輪は削平があまいため見極めが難しい面もありますけれども。。。

佐田城のこれまでの解釈は、文献史料に引っ張られる典型例と言えます。とは言え、遺構の指摘だけでは文献史料にひきづられた解釈へ異論をしても相手にされない場合が多いので、要、再調査リストに加えました(笑)
縄張り図をつくり文献史料を再読してみようと思います。別府から遠征かな?

2007年10月13日 (土)

栂牟礼城シンポジウム

P1110267 ということで、佐伯市弥生町にある栂牟礼城を国指定史跡にするためのシンポジウムにパネラーとして参加してきました。
佐伯市教育委員会から本職の「城郭史研究者」としてお招きいただきましたので、喜んで仕事してきました。
ちなみに佐伯市の埋文担当者は合併しても1名だったとのこと。内実はよくわからないけど九州一広い市域で一人はどえらいことです。
来年ようやく2名になるとのことです。

シンポジウムというのは難しいものです。栂牟礼城を国指定史跡にもっていくことは何の異論もないのでよいのですが、妙にもちあげても白々しいですけどきちんと論じても他のパネラーさんが居るので浮いてしまうといった具合です。司会の飯沼先生(いつお会いしても中近東っぽいダンディさが魅力?の先生です)が記念講演&コーディネーターでうまくまとめられていました。

ポイントとしては、栂牟礼城の現存遺構は十六世紀後半の佐伯惟定段階のものであり、豊後国南部における戦国期城郭の到達点としては一定の評価すべき史跡であること、遺構の残り具合もよく中世佐伯庄を知る史跡として有効である点。麓に居館推定地と古市という城下集落らしき短冊状地割がセットになっている戦国期九州ではめずらしい事例である点などを説明しました。

ただ、難点は麓を東九州自動車道が通ること。ルート上の発掘で佐伯氏居館跡が見つかるかも知れないけど、景観的にはちとまずい面もあります。
とは言え、中世一貫して佐伯庄を支配した佐伯氏の栂牟礼城と、近世一貫して佐伯藩として支配した毛利氏の佐伯城の両方をピックアップすることで、佐伯市の歴史文化の「看板」ができることと拠点整備が望まれますね。
以前、勝尾城縄張り図を調査して鳥栖市教委に提供したことがあって、その勝尾城も国指定史跡になった経過があって講演会に呼ばれたら、おかげさまで鳥栖市から半径数キロ圏内に固定ファン?ができましたけれども、今回の佐伯市の栂牟礼城も国指定史跡になるといいなあと思う次第。

で、午前中は北部九州中近世城郭研究会の方々と栂牟礼城を見学。
思ったより山頂の曲輪の削平がよかったこと、そして曲輪からの虎口の形状がとても気になったので、一度縄張り図をとってみたいと思いました。一応個人的にOKをもらいましたので余裕ができたら縄張り調査を実施したいと思っています。
鳥栖市の勝尾城に続く、頼まれもしないのに縄張り調査、乞う御期待。

ウチも津賀牟礼城と山野城があるので、中世城郭つながりでネットワークづくりをしようかと思う今日この頃。

2007年8月 6日 (月)

第24回全国城郭研究者セミナー@千葉

P1100441 8月3日〜5日で千葉大学で開催された『第24回全国城郭研究者セミナー』に出かけてきました。
ウサギ台風のおかげで、ゆっくり寝台のはずが乗り継ぎ乗り継ぎで出かけるのに往生しましたので千葉ではヘロヘロでした。

前日に乗り込んだものの「御茶屋御殿跡」見学ツアーしそびれて何しに来たのかわからない状態(つД`)。仕方ないので、初日の各地の調査・研究事例の合間をぬって出かけてきました。
そのせいでつかれてしまい、懇親会は何となく受け身な感じで流してしまいました(-ι- )。

全国の城郭研究者が集う夏祭りなんだからもっと気合入れて懇親会出ればよかったかな?と思いましたがさすがに気力が続かなかった模様。この辺はちょっと後悔してますが堅実にセミナー参加をこなしたのでヨシとします。
帰りの寝台富士では18時に乗ったら最後、翌朝8時半まで爆睡してましたしねぇ。

今回のテーマは「海城」。。。
正直、今時「海城」するんですかという印象があったシンポですが、トータルで縄張り論から「海城」と呼ばれるものを吟味しようという意味では発表はともかく、「なわばり屋」さんから「海城というカテゴリーは意味がない」と言えた意義のあったものと感じました。

わたしは知らなかったのですが、海賊城が海城として学界に評価を得たのは網野善彦さんのおかげだそうで。
海関などを提起し、海運や海の民をどうとらえるのかという問題提起の意味があったそうです。てなことだから、海賊衆や瀬戸内海地域史を扱っていた山内譲さんに平凡社から出版することを勧めたそうで、山内さんの著書『海賊と海城』が大きな影響を与えた様子。

その一方で、実際の「城跡」から海城と呼べる特徴があるのかどうかという点では、どうも海城と分類する特徴を見出せないというのが体勢であることを確認できた(主催者が意図したかは別として)のが今回の成果かな?

発表・パネラーは、千葉城郭研究会の柴田龍司氏「海城の様相と変遷」、愛媛県教委の日和佐宣正氏「瀬戸内海の海城—伊予の「海城」を中心に—」そして高知大学の市村高男氏の「『海城』論と城郭史研究」の3本。

柴田発表は概論っぽくて、もっと江戸湾と海城という攻めを期待したのですけど通史的概論に終始した感がありました。日和佐発表は海城探しを経て、これまで海城ありきで考えてきた枠組みを外して、海洋領主と瀬戸内海地域のあり方を城跡を含む遺構から吟味していく段階という現状がわかって興味深く拝見しました。いずれも明確な「海城」イメージの再定義や点検を意識して、直接海城の事例を通して概念を強く定義するという感じではありませんでした。
市村発表は、その再定義や再点検の方向を歴史学を軸とする「学際的分野」に目を向けようという感じでした。討論でもいつも常連で参加されている会場の藤木久志さんとの「ボケ」と「ツッコミ」なやりとりからもその辺の静かな「意気込み」が伝わってきました。

個人的には、学際的領域というのは、歴史学者が、掘り屋さんや縄張り屋さんといった事例を集めるのは得意だがロジックの足りない人たちを、自分たちが理論的指導で被官化する場という認識がありますので、簡単に乗るのはどうかな?と思いますけど、そうした「問いかけ」に対して遺構論の立場から違う歴史像をもって対峙する努力が掘り屋さんや縄張り屋さんに必要なのですけどね。

もちろん、市村さんや藤木さんがおっしゃる海での交通や流通の問題、海の民をどう捉えるかという問題はあります。それに対して、海と海に近接した山城・丘城などとの関係性を問う中で城郭研究者はさまざまなアプローチを試みるべきだろうと思えてきます。
だとすると、今回のテーマは「海城」ではなくて、「海城を見直す—城郭からみた海の様相—」という議論の立て方が企画側に求められたということかもしれません。

2007年7月 3日 (火)

史跡鉢形城跡。

以前に全国城郭研究者セミナー前泊のお城旅行で、埼玉県寄居町にある北条氏邦の居城鉢形城を観に行ったことがありました。
そこが2年前に史跡公園として整備され、鉢形城歴史館を建設したそうで、早速史跡公園整備と発掘報告書を兼ねた報告書『史跡鉢形城』が有償頒布されていたので購入しました。4,000円なり。

ちょっと造りすぎかなぁ?と思う部分もありますが、37,500人の寄居町で埋文センター兼の歴史館まで建てるとはおどろき。周辺整備も進み、後北条氏特有の馬出もキレイに整備されています。報告書は城郭研究者にとっては解説が弱いなぁと思いますがなかなかの読みごたえ。
ここは生涯学習課の中の1セクションで文化財保護係と歴史館がある様子。まぁ町なので係にそれ相応のスタッフがいるようですけど。

で、国指定史跡は昭和7年だそうで、おやおや我等が岡城とあんまり変わらないじゃないですか。人口は1〜2万人ほど小さいけど。。。まぁこちらは市だし。
で、似たような時期に公有地化がはじまり、文化財課もあって地道に石垣の補修を勤しむものの、未だ岡城の解明もままならないのとは対称的。何だか一気に抜き去られた感じですね( ̄□ ̄;) 。

とあれ、報告書をみるときはどういった方々が保存整備委員会に関わっているのかみるのがお勧め。
鉢形城の場合、東京に近いのもあって、中世考古学や歴史学、城郭史の方々が委員や指導に入られているのが特徴。委員会には地元の方も加わり、都市計画の枠組みの中で歴史公園として整備しようという動きが、教委ではなく首長部局から予算を引き出させたコツかなぁとしみじみ。。。

まぁ、仕事場に持っていってみせてみようかね。

2007年6月13日 (水)

城郭を語らずして藩は語れない

近世史研究の政治史などの悩みとして、諸藩の中で自分たちのテーマとする藩の特徴を見出しにくいということがあります。
政治史的には、転封の多寡はあるものの歴代藩主の動向はだいたい将軍家の動向と類似してきます。
1〜3代が草創期の名君、8代くらいが最初の養子で復興の名君、そして10代前後が養子が続き藩政改革期。下手すると領内に一揆が起こされる。そして行き詰まった藩政を立て直そうとする11代くらいが出て幕末へ向うか、養子ばかり乱立してわけわからないまま幕末を迎えるかのパターンです。文化面でも後半期に藩校ができて儒学者のスクールか学者、あるいは芸術家が出てくると言うのがお決まりです。

わたしの扱っている岡藩も歴代藩主のパターンではだいたい上記の傾向を示します。また後期には田能村竹田らの文化人が多数輩出されていますが、多分、古文書からでは岡藩中川氏の独自性はわからないでしょう。

違いを見出そうとするなら、藩の確立期にその大名がどのような出自から成立したのかを考えるしかありません。その答えは岡城にあります。
岡城は1594年から10年間の間に基本形が完成した山城です。豊臣・徳川政権の中枢にあった大名が築いた近世城郭の多くが関ヶ原以降の大規模な転封後に成立しているのに対して、岡城の成立期は朝鮮出兵の最中、豊臣政権下ではじまることが大きな違いです。
類例は蜂須賀氏の徳島城や加藤清正の熊本城、加賀の前田氏などかなり少ないです。加藤氏は関ヶ原後に版図拡大しますし、蜂須賀氏はもともと大大名ですからそうなると本当に数少なくなります。
(ちなみに、南部氏や島津氏といった中世以来の勢力は土着性が強く織豊系の影響が小さいので割愛しています。これらの藩は近世以前からの流れを受けているグループとしてじゅうぶん特徴的ですから。。。)

なぜなら、1600年の会津出兵から関ヶ原戦を含む「慶長の乱」は、豊臣政権のもとに従っていた諸大名が二派に分裂して起こった全国的な戦争だからです。この戦いで豊臣政権の中枢を担った豊臣氏にとっての譜代大名はほとんど改易されています。また徳川方についた豊臣系大名は全体から見れば少数派ですが新たに加増されて転封しています。豊臣政権の中枢に参加していた大名はかなりこの段階でやられたり動いたりしているのです。

その中で、中川氏は京都に近い西国街道沿いの摂津の領主としてスタートし、清秀段階の天正半ばで織田信長と同盟関係を結びそのまま服属しているように、かなり早い段階で織田・豊臣政権に参加しています。しかも多くの豊臣系大名が子飼い衆からの出世組ばかりであるのに対して、信長・秀吉の同盟勢力として参加した点で大きな違いがあります。
清秀は、山崎合戦と賎ヶ嶽の戦いで陣頭で戦ったように、秀吉と同盟の摂津衆の陣頭に立つ活動をしています。そして討ち死にしているわけで、秀吉天下取りの先陣を切った名声を得るに至っています。
子の秀政は丹波・山城、摂河泉・播磨支配期の初期羽柴政権で外縁部を担う勢力として一定の地位を獲得しています。羽柴領の拡大に従い、摂津から播磨の三木に転封するのもそのせいです。そして、毛利氏と同盟関係になってひと足飛びに四国・九州を抑えた豊臣政権下では、朝鮮出兵の立て直しとして加藤清正・小西行長が領する肥後に隣接する豊後南西部(この段階での豊臣政権の外縁部)に入部するわけです。
このバリバリの豊臣譜代大名だった中川氏が築いたのが岡城です。

その岡城は、関ヶ原以降の大名によるスマートな縄張プランに対して、基本は押さえながらもどこか生々しい細かなテクニックを多用する特徴があります。
摂津の在地色を抱えた初期段階で織田・豊臣氏に参加した中川氏ならではの特徴が出ている部分です。

この中川氏は関ヶ原戦では黒田・加藤と共に東軍として参加しようとしたものの、周囲が西軍だらけの立地にあってかなり家中統制に苦慮しており、最終的には大きな戦果をあげそびれています。
ですから、そのまま岡の地に据置きで。結果として豊臣政権下のテイストを残しながら江戸時代に突入していく結果となっています。

早い段階で織田・豊臣政権に参加した独立勢力として京・伏見・大坂と深いコネクションを持つ豊臣譜代大名としての顔と、徳川政権下で江戸に藩邸を構えて参勤交代し、江戸で多くの大名家と交流した近世大名の顔を持ち合わせた中川氏。
それ故に、京・上方テイストの文化と江戸テイストの文化の両方が岡・城下町竹田に流れ込むことになったのです。
その早い段階からの独立系豊臣譜代大名のカラーが面白いくらいに出ているのが岡城です。

岡城知らずして岡藩は語れません。だから竹田市の歴史と文化、特に城下町の竹田市街地を語るには岡城からはじめないといけないのです。(もちろん熊本藩領、天領部分も別のアングルから抑えるのは言うまでもありません)
ところが今の岡城は、公園整備としては合格でも、城郭の持つ資料性、どのように位置づけるかといった城館史料学のアプローチからみればはまったく説明できていません。

竹田を竹田たらしめている中心が真っ白なままなのが、竹田の史跡活用における最大の壁なのです。

2007年6月10日 (日)

岡山城を訪れる&縄張評価と城跡整備についての雑感。

結婚一周年を記念して倉敷に行ったのですが、その途中で岡山城を見学してきました。

岡山城は、織豊・近世城郭の石垣形式を一挙にみることのできる「石垣ミュージアム」
天守付近の字喜多時代の遺構から、小早川・池田まで野面積、布目、打込みハギ・切込みハギなど多種多様な石垣の形状を何周もぐるぐる回りながら見学。そして写真撮影。


P1100099_2P1100021 建造物は戦災で連合軍(米軍)の空襲で焼けてしまいました。天守内に書院式の部屋があったのを写真で知り実に残念な気分になりました。戦争で文化財が焼けてしまうのはなんとも残念なことです(と言っても、城は要塞そのものですから戦争がなければこれもなかったわけで。。。実に難しい(´〜`))。
とは言え、これらの失われた遺産を如何に復旧させるのかは国内だけでなくユネスコに訴えないといけませんね。復元が必ずしもですけど。
(そうそう、変形平面に天守をこしらえた特徴的な岡山城天守のペーパークラフトが販売されています。)
それでも城内には唯一のこる当時の建物、月見櫓があります。
とふりむけば‥‥すみっこでひっそりと置かれています、月見櫓(つД`)。
たいした説明板もないので、もっと目立たせてあげてください。。。

一方、岡山城中心部の縄張プランは、古風で単郭的な大味な主郭部から下ノ段を経て二方向に門を持つ感じ。主郭部の裏からもうひとつ門があって、字喜多・小早川時代までのプランだと若干、豊臣大坂城や郡山城テイストな感もあるのですけど、やっぱり工夫?が少なくよそと比べるとあんまり面白みがないなぁと。。。

でも岡山城の魅力を考えれば、字喜多秀家時代の豊臣政権梃入れの基本的な縄張プランは主郭部を中心に読むことが可能ですし、それから内部に御殿と藩庁を建てるスペースをとるために拡張していく、内桝形虎口を整備していくさまは、発掘成果を縄張評価を結びつけることで岡山城の資料的価値を高めてくれます。それに従来から有名だった石垣を追うだけで16世紀末から17世紀に至る石垣技術の変化を追える種類の豊富さを合わせて、岡山城の史跡の意味付けがより重みを増してきます。


P1100005ここは以前の織豊城郭セミナーで訪れた場所ですが、その時には岡山市教育委員会が本丸下の段を発掘整備、石垣の積み直し作業を行っている最中でした。
今回訪れると、池田時代の現在の下の段の下に出土した字喜多時代の石垣部分が観れるように階段で降りる展示コーナーができていました。それと下の段には池田時代の藩庁の間取り図が地面にタイル貼りで整備されていました。
うーん、わかりやすい??

字喜多時代の石垣展示コーナーは確かに観れて面白いのですけど、これが縄張でどの辺りの位置になっていて当時の塁線ではどういった縄張プランが意図されていたのか?などといった解釈があるとよいです。せっかくの遺構の位置づけを説明することなくあれば、見学者はただ石垣があることを確認するに過ぎません。お約束の検出面の断面図はあっても縄張評価がないのが残念でした。

岡山市教委の整備は全国的にレベルが高く考古学的メスがはいって重要な成果とされていますが、その優秀な岡山県の岡山城整備においても、縄張を踏まえた遺構の説明などの城跡整備に至っていないのがなんとも頭の痛いことです。
合わせて、豊富な種類の石垣の案内解説もあるとなおさらいいんですけど、お願いしたいところです。せっかく税金をかけて整備したのに魅力的な岡山城を説明するのに画竜点睛を欠く様子がなんとももどかしい。。。

ところで、日頃、身近な岡城整備で縄張研究を理解できない城跡の整備担当者による縄張評価の伴わない城跡整備の無知ゆえの迷走を間近にみているのですけど(竹田市に大規模な整備する予算がないのがせめてもの救い)、今回の岡山城訪問でも縄張評価の伴わない城跡整備が、城跡の性格づけを説明できていないかをあらためて痛感した次第。
全国的に縄張調査の成果を組合せた城跡整備って本当にないですね。。。

「城跡調査は縄張調査だけでは不十分である」とよく考古学サイドや歴史学サイドから言われますが、
「縄張評価の伴わない城跡整備は、いくら精緻にやったとしても城跡を語ったことにはならない。」

と「縄張調査のない城跡調査は不十分である」という立場の縄張屋サイドから言ってもいいよね(・ω・)ノ
古墳で言うなら、前方後円墳といった形状の説明をせずに出土遺物や土盛りだけの解説をするようなものですからね。縄張と言うベースマップを軸とした学際的位置づけと、縄張評価の伴う城跡整備の推進を図らねばと思いをあらたにしましたです。
とりあえず、岡城に立て籠る在地土豪の誅伐からですかね(´〜`)。

P1100050 P1100066_2P1100080P1100120P1100104_2

2007年5月30日 (水)

岡城・城下絵図をみてて

かつて竹田市教育委員会(文化財課)で刊行した図書で『岡藩絵図』ってのがあります。
竹田市立図書館蔵の「岡城本丸平面図」「西御郭御絵図」「岡城城下家中図 天明七丁未年三月日」「城中より各屋敷への道筋の絵図4枚の分割写真が冊子になったものです。図はたいていが2〜3メートルサイズなので広げたらオオゴトです。当時の元課長が文字がみえなくなるので分割したと言ってましたが、文字は読めるのですけど妙なところで切られているので全体像が把握しづらいのが玉に瑕。折り込みで一枚物を用意してくれてたらよかったのですけども。また、1991年頃のものなのでモノクロなのも残念ですけど、非常に大事な絵図資料です。
しかしながら、報告書的なものなので有料配布はしておらず、ウチの仕事場は去年までなぜかありませんでした(笑)

で、去年末に、とある方のご配慮で大量に以前に刊行された調査概報などの報告書の在庫を入手できまして『岡藩絵図』も蔵書となり今回貼合せてみることにしました。ねらいは4枚目の
「城中より各屋敷への道筋
これだけ年代不詳なんですが、天明年間の図に比べると城内の櫓や城門が記号的ながら細かく描写されていてなかなか使える代物。
そして、よくよくみると二つの点で面白いことに気づく。。。
ひとつは寛文4年(1664)完成の「西御郭」ができていない点。それ以前は幕府提出の正保城絵図にもあるように家老屋敷などの敷地になっていました。それと同じように屋敷割が確認できます。ということは1666年以前の様子を描いたと考えられる。
もう一点は、城下の光西寺の位置。光西寺は寛文6年(1666)に火災にあって現在の御客屋敷がある位置から現在地に移転したと伝わっています。絵図の中ではその光西寺が現在の御客屋敷の位置に描かれています。これから1664年頃と、西の丸健造以前を描いた絵図である可能性が高まります。

そして、絵図の中では清水門が現在の位置に描かれており、正保城絵図で描かれた位置から移動しており、この点を踏まえて絵図の上限は正保城絵図のできた1640年頃より以後と考えられます。
ちなみに今回の東側の縄張調査で明らかになった清水門の移転と下原門の虎口プラン。そのうち課題となっている清水門の移動時期が、1640-60年代の久盛統治末期から久清統治期の間ということになります。
面白いことにこの絵図には下原門の調査で明らかになった、整備されていたら確実に飛ばされていたであろう平右衛門側の桝形虎口の腕部分も記号的に描かれていることです(笑)。

となるとですよ。
この年代不詳とされてきた
「城中より各屋敷への道筋の絵図。
なんと17世紀半ばの岡城と竹田城下を描いた最も古い城・城下絵図である可能性が出てきました。
もしそうなら、市史などで知られているのは天明年間の絵図なんですけど、それより100年ほど古い様子が描かれた絵図というわけです。もう少し慎重に確認してみますが多分間違いないような気がします。

整理すると、岡城・城下絵図では。。。。
内閣文庫所蔵の正保城絵図「豊後国岡城」が1640年代で最も古く、
ついで
「城中より各屋敷への道筋」が1650年代前後。
岡城だけなら、「岡城真景図屏風」が宝暦年間で1750〜60年代
天明七年の岡城城下家中図、天明七丁未年三月日」の1787年前後の一群。
そして幕末期の明治2年の「竹田町繪図」となります。
あと、未確認で延享年間の1740年代後半期の絵図があるようですので確認してみます。

「城中より各屋敷への道筋の年代比定も普通にやれば気づくようなものですが、どうしてこれまでできてなかったんでしょう。きっとウチの仕事場に来ないくらいですからもっとウィキペディア式に広く作業チームを編成していればよかったんでしょうけどね。
ハイアマチュアはたくさんいるが、マスター・Dr.クラスの学業のプロが少ない田舎ならでは。美術も考古もマスターに任せてようやく腰を据えて岡城調査をしていますが、これまでの見落としが多いので実に収穫ある「見直し作業」となっています。

2007年5月28日 (月)

岡城縄張調査、第一期(東地区)の調査

P1070321 4月末から5月にかけて、岡城主郭部より東側の清水門・御廟所(平右衛門屋敷跡)・下原門一帯の縄張調査を完了させました。
竹薮などの障害があったためレンザティックコンパスによる簡易測量では若干の誤差はやむを得ないところでしたが、現状の整備計画にある測量図とは全く異なる遺構評価の縄張図が仕上がりました。
加えて、それは単なる「見落とし」ではなく、新たに判明した遺構が、岡城の位置づけ、岡藩の独自性の原点、そして近世大名中川氏の性格を読み取る上で欠かせない点において大きな問題提起につながる収穫となりました。

元々調査は、岡城跡は大きな城域であること、いくらひとりでする作業とは言え、片手間仕事ではすべての遺構を調査するのは厄介であること、そして既に整備成果をあげている現場かつ有料区域内故に他者の調査が難しい事情から、まず部分的に遺構確認を行うことを目的としました。
そのため、比較的に人の往来が少なく未整備部分の多い東地区の調査をサンプルに現状遺構の作図というカタチで進めました。

ところが、フタを開けてみると、竹薮などで覆われている一帯に未確認の遺構が多く確認され、東地区の評価だけでなく岡城そのものの位置づけを再考するものが出てきたわけです。
幾つか挙げると、平右衛門屋敷跡の曲輪が主郭に対して一定の独立性を持つ縄張構造であること、下原門が外桝形虎口を構えた独特のプランを持っていること、それが岡藩の藩政確立期に大きな意味を持ち岡藩の独自性の原点を証明する遺構であることが明らかになりました。

これまでの整備では、航空測量で制作した測量図をもとに、岡城の整備は担当課と整備委員会により進められてきました。しかしながら、そこには縄張調査をいれていないために、実際の遺構の踏査による縄張の読み込み作業がありませんでした。
現地での縄張調査は、石垣ラインや地表面の微地形をさまざまな類例をもとに丹念に拾いながらそこにある遺構の評価を慎重に行って図化する作業です(いわば、発掘の際の層位学的読み込みのようなものです)。ところが、実際に測量図と縄張図での乖離から、従来は読込みなしに整備してきたわけで、石垣の積み直しや屋敷地の整備を行ってしまうことでそれらの微地形という「痕跡」を無意識に破壊している危険性が懸念されます。

今回調査した東地区は、藩政後期から機能が低下していたため主郭部や西地区に比べて比較的整備が進められていなかった範囲にあります。
確かに、屋敷跡は御廟所になったり廃城後に音楽堂などになったりして破壊を受けていますが、周辺や下原門一帯には良好な痕跡が残されていました。そうした痕跡は整備が優先されなかった故に今日読み取ることが出来たことは皮肉と言うしかありません。おそらく整備されていたら今回の下原門の虎口プランの「発見」はなかったでしょう。

事前調査なしに専門領域外の委員を選び埋文担当者の思い込み作業で城跡の整備をすることが如何に危険なことなのか、今回の調査を通して明らかになったと言えます。
この問題は、例えるなら、医師というだけで分野違いの治療について、他の医師に相談もせず問診なしにいきなり開腹手術するようなものです。
たまたま岡城で判明したのですが、単に岡城整備だけではなく、全国の近世城郭跡の整備にも縄張調査なしの整備の危険性について警鐘を鳴らすものです。

今回の調査結果をもとに、城館研究者による事前調査なしの城跡整備が如何に危険なものが警鐘を鳴らすと共に、引き続き第二期(主郭部)、第三期(西地区)の縄張調査を行い、手遅れになる前に可能な限り現状遺構の把握を進める必要を痛感しています。

2007年2月10日 (土)

朝カルでお話しました

P1060787_1 10日は朝日カルチャーセンター福岡で、岡城について90分話してきました。
場所は、博多駅前の福岡朝日ビルの8階です。このビルはけっこう古株の建物で大博通りと住吉通りの交差点に沿ってゆるやかに建物がカーブしています。
で、地下街から迷路のようなテナント通路もゆるやかに曲っていて、その通路を抜けてエレベーターで上ると朝カル福岡に到着します。

講座は「日本の城跡・城郭をめぐる〜近世編〜」の5回目を担当。1600年前後の戦国城郭から近世城郭へ移行する「大築城時代」についてとその中での岡城の位置付けを話しました。レジュメは4枚、図版は11枚という大容量の準備をして説明しました。

たいてい城郭のことについて話すときは年齢層が高いのですが、今回の聴講生の方々は多彩でした。さすがは朝カルといったところです。
予想よりも専門的関心の高い層が中心でしたので、それなりに準備した甲斐がありました。説明と枚数をかけたレジュメで後からでも振り返れるようにしておいたのは正解でした。

とはいえ、実際に話してみて毎度のことながら痛感するのが時間配分。
前段に、岡城についての基礎的な知識と城郭の概論を踏まえないといけないのでどうしても尻切れトンボに悩まされます。前段をおろそかにすると岡城の面白さが伝わりにくく、前段にかけすぎると面白さの中身を伝える時間が足りないというのが悩み。

加えて、けっこうしゃべるのが早くなりやすいのと、あまり声が大きくない(しゃべっている本人は脳内に声が響くので外部にどれくらいの音量が出ているのか把握できていない)ので、聴き手にどれくらい伝わったのか悩ましい限りです。以前に連続講座で毎週の日本建築史講義をやりましたけれどもなかなか勝手がつかみにくいものです。

岡城の現状遺構を軸に、どこまで初期の近世岡城と中川氏・岡藩の形成過程を話すことができるかに挑戦した今回の講座でしたけど、プレゼンとしてはまだまだ未熟なものです。
とはいえ、勝手がわかったので、機会があればもっと聴き手を意識した講義ができると思います。

関西や関東に比べて、九州では歴史学などの分野で体系だった講義ができる中堅アカデミシャンが少ないのか、この分野での連続講座が少ないようです。歴史学は体系だった講義を聴く方が個別事例を重ねるよりも面白い面も多々あるので、九州だけでないテーマに沿った教養部的な連続講座が充実したら面白いように感じました。経済史・科学史や都市史、美術史や建築史なんかは是非やってほしい分野です。
いずれにしても、都市部のカルチャーセンターをはじめて体験してみましたけど、いろいろ勉強になりました。竹田ででも何かしらの講座をする上での参考にできそうです。

2007年2月 7日 (水)

2月10日は岡城の話しします。

Okajo8 2月10日(土)は、朝日カルチャーセンター福岡である連続講座『日本の城跡・城郭をめぐる(近世編)』で、近世岡城について1時間半話すことになっています。
九大名誉教授の丸山雍成先生からの紹介なのですが、志摩町史といいリハビリ作業中としてはありがたいことです。

カルチャーセンターといえば、ちょっとした内容かと思いきや、かなりしっかりした文化講座という感じです。大阪や東京の「朝カル」は現役ばりばりの先生方も講師をされており市民大学的性格が強いようです。福岡もそんな感じなので、そこでお話できるのはありがたいことです。

逆に、それから思うと地方での文化講座はどこか甘く内容を構成してしまうと思った次第。田舎だから敷居を下げてしまっては面白くないということは気をつけねば成りません。
ですから、単純に岡城と岡城にまつわるあれこれを案内をしてもつまらないので本腰入れた内容にしました。
近世岡城について現状遺構の紹介と、16・17世紀の「大築城時代」という時代背景を踏まえた位置付け&近世岡城の縄張構造から岡藩中川氏の特徴を読み解く面白さを絡めて、複合的に語る内容にしようと思っています。

今回は、最近ようやく門外不出?らしい岡城の調査報告書をまとめて館蔵にできたのと、冬場の現地踏査で初期近世岡城の縄張構造についてほぼ把握することが出来たのが重なったので、この機会にそれらをまとめる下敷きとなるノート作成を行いました。
別の機会でも話せるようないいレジュメが仕上がりました。近世岡城の位置付けを紹介したいものです。

後は説明用のスライドを作成すれば準備万端です。

2006年12月18日 (月)

「学者貧乏」の道

お金がはいると「書籍」に突っ込むのが、学者の矜持。
嫁を質に入れても。。。です。
昔は大分県立図書館に出ていた諸先生方の「論文集」をよく買っていましたが、最近はもっぱら史料集を中心に揃えるようにしています。けっこう高いのですけど、最近は自転車操業気味な出版社による「論文集」を追いかけるよりも、史料集を揃えた方がリーズナブルと思うようになりました。

とは言え、最近は仕事で学者されている先生方もあんまり書籍を買え(わ)ないので、歴史学系出版社は青色吐息のよう。これさえあれば文章が一生書けそうな『群書類従(正続116冊)』『史料纂集』も完成会が倒産してしまった次第で。。。
日本史や世界史は大学受験と無関係な学問と文部官僚の子分たちから冷や飯食らっていますが、肝心の大学研究者でも、研究費でしか本を買わない「教員」な方もいるとかいないとか。。(つД`)。
まぁ、置き場所の問題もありますが、

研究者たるもの、嫁を質に入れても生活費から買わなければいけません (`・ω・´)シャキーン!
家を傾けても、書物を買わねばなりません (`・ω・´)シャキーン!

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2005年6月13日 (月)

これが本業で&夏のセミナーの話

うーむ、すっかりサッカー系ウェブログと化していますが、
本業は城館研究者なんだよな(苦笑)。そして、稼業がコレ

10月〜5月までこんな遺跡が残る佐賀県鳥栖市の勝尾城を調査してました
katuojo2katuojo1.jpg

ようやく終わったので、5・6月は原稿を仕上げていました。
原稿は、毎年、全国城郭研究者セミナー会場で販売する「城館史料学」に投稿中です。
順調にいけば今年の8月に出ると思いますが、私の文章がダメならば却下されます〜(+_+)。

tool.jpg
お城の現地調査をするのですが、これが商売道具です。
図面を書く画板と方角を見極めるレンザティックコンパス(東急ハンズで買いました)。分度器・定規などなど。これに寸法を測る巻き尺が加わります。
1:1000で方眼紙にケバ図法で描いていきます。ケバ図法でないと細部を表現することができません。
平板測量を応用したやり方なのでこれが一番誤差なく正確に録れます。しかし、その分思いっきり時間がかかるので緊急調査・速報性には向きません(苦笑)
簡単な調査方法については、『城館調査ハンドブック』を参考にしてください。地形図を下敷きにしてコンパスと歩測で測る方法が紹介されています。但し在庫僅少。
仕上げると、こんな感じになります。福岡県糟屋郡須惠町にある高鳥居城です。

takatori-jo.jpg


現在、勝尾城の図面を清書にかかっています。お楽しみにあれー。

それで、毎年8月に全国城郭研究者セミナーという縄張研究などの城館研究者フォーラムってな感じのカンファレンス?があるんですが、今年の22回目は早稲田大学であります。今回のテーマは「陣城について」。
九州から不肖ながらわたしがコメントすることになりました。陣城といっても古典的な城館研究ではいろいろ注目されてきたカテゴリですが、近年は戦場論や運用論とどうかみ合わせるのか、そもそも数多くの城館遺構の中でどれが陣城たるものなのか?そもそも陣城というカテゴリが有用なのかなどなど、遺構論との兼合いでも興味あるテーマです。

「臨時性」や「陣」という言葉に括られずに遺構論からどう料理できるのか考えてみたいと思っています。

Foxkeh! フォクすけ!



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