2019年1月27日 (日)

拙稿のご案内。

『城館史料学』第10号に投稿した拙稿「縄張り研究の独自性と今後の展望 ‐いわゆる「杉山城問題」によせて‐」」について、許可をいただきましたのでPDFにて配布いたします。
中西「縄張り研究の独自性と今後の展望 ‐いわゆる「杉山城問題」によせて‐」ronbun2018.pdfをダウンロード (文字化けしていたので、ファイルを修正しました)
2005年以来、城郭史研究の界隈を騒がせた「杉山城問題」なるものが如何なるものであったのか?縄張り研究の側に突きつけたはずの「戦国の城の年代観」の問題は、実際は、歴史考古学と文献史学に大きな問題提起を突きつける結果となった、その顛末と今後の展望について整理しています。
長文でファイルサイズが30MB強なのでダウンロードに手こずるかもしれませんが、ご容赦下さい。
76頁の内容の大半を「杉山城問題」の経過と顛末を説明するために割いているため、読みづらい分も多々あると思いますが、どうぞご笑納下さい。
特段、許可などは不要ですので、広く、この問題に関心にある方々にご周知方お願いいたします。

2014年6月 2日 (月)

拙稿のお知らせ

別府大学史学研究会の『史学論叢』第44号に投稿した拙稿が掲載されましたのでお知らせします。
昨年夏の全国城郭研究者セミナーでの議論について、いただいたご反論のうち、文献史学側の分を再反論したものです。

どうぞ、こちらからダウンロードしてご笑覧ください。

「「椙山之陣以来」にある「椙山之陣」は何を指すのか?―竹井英文氏「その後の「杉山城問題」」における批判に応える―」
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/listitem.php?index_id=7476

2013年8月30日 (金)

田向城跡の発掘成果に接して。

千葉県山武郡にあった田向城については、先のセミナーにて私と別に報告があった事例。
シンポの場で、歴史考古学の側から、瀬戸美濃大窯の陶器と曲輪の盛土の中にある鉄砲玉が共伴関係にあったと紹介された事例です。
今回の報告で、私の方では「杉山城問題」の動かぬ根拠とされた、瀬戸美濃大窯編年案(F案)には問題があり再点検が必要と申しました。
その大窯の瀬戸美濃が層位的に鉄砲玉と共伴していた発掘調査が田向城跡です。
杉山城では表土の下にあるとされた鉄砲玉が、曲輪の盛り土の中から共伴してきて出てきた事例。
九州で報告書があるかと思い、探してみると身近なところにありました(^^
おかげで無事に確認することが出来ました。
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002407530-00
当日揚げた諸事例に加えて、田向城跡などの事例も出てきたように
、見直しを進めることで証拠固めが進むと思います。
これにより、縄張り研究の有効性に疑問符を投げかける「
杉山城問題」の根拠となった大窯編年案が
城郭跡の年代比定の尺度足りえない(編年そのものは否定していない)ことは、歴史考古学的にみても間違いないところです。
よって、現存する杉山城跡は、歴史考古学的に遺物からみても、そして従来通りに縄張り分析からみても、
少なくとも永禄期を下る(たぶんに天正期と思いますが)、戦国前期の遺構でないのは間違いのないところでしょう。


「縄張・考古・文献」のテーマを語るには、まず、「杉山城問題」の清算からというのは研究史的に自明のことでした。

この問題の構造を丁寧にみることで、他分野の問題提起についてはむやみやたらに真摯に鵜呑みにせず、まずは一度裏をとりましょう、
という城郭研究者への教訓を導くことができました。
今後は、新たな年代観を手掛かりに、関東の戦国・織豊期の城郭についても進化論型型式学に視点で分析を進めていきたいと思います。

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2013年8月 6日 (火)

駒沢之陣を終えて。

今回の全国城郭研究者セミナーでは、2日目の8/4に「縄張・考古・文献―城郭研究の明日―」というテーマに沿って、
進化論的型式学に基づく縄張り分析を柱とする城郭研究を進める立場から報告しました。
1980年代以後、城郭遺跡の調査と史料的活用から当該機社会の様相を研究することを目指した縄張り研究では、
文献史学や歴史考古学等の隣接分野の研究に対して如何に向き合うかが問われます。

その事例として、2005年の「比企の城」シンポ以来、縄張り研究の年代観批判で
喧伝された「杉山城問題」を取り上げ、
これに関わった文献史学側、歴史考古学側、そして縄張り研究側のコメントと彼らが論拠とした年代観の根拠について
分析を行いました。その結果、この問題が問題ですらないこと、縄張り研究者の側では不用意に議論に参加したことを戒め、
このような年代観や城郭跡に関する視点で提示された論拠については、そのまま鵜呑みにせず、可能な限り、裏取りをした上で
議論しなくてはいけないことを指摘しました。

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今回のものは、以前から再三城郭研究者の間では指摘されていたこと。それを私が代表するような形で詳細に整理して報告したものです。
今までの流れを踏まえて、今回は杉山城跡の縄張り図も用いませんでした。もちろん、空間論や戦場論も安易に用いず、
淡々と文献史学と歴史考古学の側の手法で、丹念にこれまで提示されてきた論拠の再検証をしました。
そして、論拠には問題が多く、指摘された問題そのものが問題ですらなく、むしろ、問題にしたことが問題であったことを示しました。

さらに、シンポジウムの場を通して、「比企の城」シンポで掲げられた問題提起に関しては、
議論の途上にあった国産陶磁器の一編年案をひとり歩きさせて城郭遺跡の年代観の議論に
安直・無批判に用いられた結果にしか過ぎないこと、それ故、一連の批判は根拠の伴わないものであり、当初からそもそも問題ですらなかった、
このことを縄張り研究、歴史考古学の側の議論で確認されたことで、この「問題」は事実上終止符が打たれたと思います。

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2013年7月16日 (火)

城井谷の豊前宇都宮氏シンポに行ってきました。

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この頃、育児で更新作業はスルーしています。
世の研究者男子はまっとうに育児しとらんやろw。と思う今日この頃です(^^

それはさておき、14日は京築路を南下して築上町の「豊前宇都宮氏と豊臣政権」歴史シンポジウムに参加してきました。
詳細は→
「豊前宇都宮氏と豊臣政権」シンポチラシ表

これまで、竹田市時代には宇佐・下毛郡の国衆は大分県関連史料の枠内である程度押えてきました。
そして、コチラに来てからは北九州市周辺や豊前国北部の国衆は押えたものの、京都郡以南の仲津・築城・上毛郡は未踏の状態でした。
ここ数年、築上町(旧築城町・椎田町)での宇都宮(城井)氏関係調査が進んでいるのは報告書などで目を通していたので、
今回、ようやく現地を訪れて最近の研究成果を伺うことができました。
まずは、船迫窯跡公園の史料展を観てから、会場のコマーレへ。
多くの聴衆が参集し、大分県側からも関係者が来られてましたので久々にご挨拶できたりしました。
そして、パネラーの諸先生方による分厚いレジュメも無事に手に入れることが出来ました。

地元からの豊前宇都宮氏の報告はもちろんのこと、大河ドラマの時代考証をされている小和田哲男氏の基調講演をはじめ、
市村高男さんの下野宇都宮氏
土居聡朋さんの伊予宇都宮氏など多角的に報告は構成されており、さまざまな成果に触れることが出来ました。

京築地域は戦国・織豊期の史料が乏しいところですが、近年考古学の成果をもとに文字史料からのアプローチと絡めて全体像が浮かびつつあります。
そうした成果に学びながら、豊前国衆一揆を起こした豊前中南部の国衆たちの様相や関ケ原以前の黒田氏ら豊臣政権側の動向などについて
文字史料と城跡・考古資料・歴史地理関係資料などを総合的に扱いながら解明することが期待できます。
そうした手応えが感じられる、とても有益なシンポジウムでした。
これを機会にしっかり京築路を極めなければと思いを新たにしました。

2013年6月23日 (日)

駒沢之陣以来

8月3日・4日の第30回全国城郭研究者セミナー「縄張・考古・文献―城郭研究の明日―」
http://www.komazawa-u.ac.jp/~kazov/chujoken/semi2013/
にて、2日目に報告いたします。
タイトルは、「縄張り研究の独自性と今後の課題 1980年代以降の新しい城郭研究が目指すもの」です。
5月〜6月は乳飲み子を抱えての限られた時間の中、ウェブログの更新もさておきで注力していました。

城郭研究を志す皆さんと共に、1979年村田修三氏の報告以来、培われてきた縄張り研究が目指してきた
「進化論的型式学に基づく城郭跡の解釈」と「城郭跡の史料的活用」をあらためて再確認できればと思います。
そして、良き隣人として、隣接諸分野に精通し良き緊張関係を保ちつつ研究を行う城郭研究者として切磋琢磨し、
中世戦国・織豊期研究を進める、真の学際的研究を目指しましょう(^^

2013年5月27日 (月)

高祖城に登りました。

20日に高祖城に登ってきました。
古代怡土城の一角を原田氏が居城とした高祖城。
もちろん、周囲の戦国期城郭の事例を踏まえるならば、最終段階の原田氏が整備した縄張り技術です。
上の城主郭の土塁や私の縄張り図では未調査な南側の土塁ラインなどが稜線上の曲輪群をつなぐように配されています。
防塁型ラインにより上の城、下の城の曲輪をつないで一体化させるような縄張りとなっています。
曲輪の切岸には石垣列もみることができます。瓦も布目叩きを伴うコビキA痕を持つものがみられます。
また、上の城主郭や南側曲輪群には、曲輪の側面に平入り虎口を配したものが確認できます。
この地域の戦国期在地系縄張り技術の到達点がわかる好例です。
登山道に急傾斜が多く登るのが大変ですが、10数年前の調査で取り残した部分を年内に仕上げようと思っています。

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↑上の城主郭部の大土塁

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↑上の城主郭部の虎口プラン。一見桝形虎口にみえますが、側面に開いた平入り虎口です。

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↑上の城から南側に続く尾根筋にある土塁ライン。最終期の軍事動員がうかがえる遺構です。

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2013年5月 1日 (水)

「縄張り研究」を踏まえて、突き詰める。

先だって、『建築史学』59号に掲載された木島論文につい紹介しました。
http://nakatake05.blogcoara.jp/nakanishiyalab/2013/03/post-7467.html
長らく、九州に
て木島さんと議論(うだ話とも)を通して学んできた内容がようやく論文化されました。
また、『海路』11号にて「
九州にとって「織豊」とは 織豊系城郭の様相と近世大名権力」文章化され
こちらは木島さんが長年
進めてこられた研究のダイジェスト版のようになっています。

長年の
議論の中で、いずれ隣接分野(文献史学・歴史考古学)から一部の研究者縄張り研究の方法論に攻勢をかけてくるだろう、
その時にどういった姿勢で臨むかが問われるといった認識を共有し、うだ話を重ねてきました
その中では、非文学部ベースの工学部系研究者
目線を以て、物証である遺跡の史料的活用を突き詰める
して、村田修三氏の提唱以来の城郭研究の研究史(当然、その研究史は特定の地域に偏ったものではなく、
全体を見据えたもので
なければならないのは言うまでもなく)を踏まえて、
「進化論的形式学に基づく年代観」
研究手法の柱として突き詰める。
の上で、そうした「問題」が起きた際には、彼らの拠る研究手法そのもの斬り込むことで問題点あぶり出し
城郭跡の史料的活用から既往の学際的研究の再検証を如何に問うか、この点を常に議論してきました。

今日、
そうした「問題」が提起された中で、上記論文を通してこれまでの議論がようやく文章化されたことは実に感慨深いことです。
別件、これまで一連の議論について批判?も頂戴していましたが、なかなかご回答しなかったのはそうした理由あったからです。
私のように目先の議論で手一杯な若輩と異なり、深謀遠慮を以て研究を進められてきた先達から議論やうだ話の中で学んた視点を
勝手に先に文章化
して論じるわけにはいかないものです。
しかしながら、ようやく解禁みたいなものですので、
少しでも「宿題返し」できるよう、来たるべき「戦線」に備えたいと考えています

ということで、
ウェブログをみればわかりますが、この機会にいろいろ下調べもしてきました。
また、
ちょうどいいタイミングで、『発掘調査のてびき』も既刊+新刊で揃います。
遺跡の発掘調査
の視点と年代比定について、文字史料による歴史学、建築史学との関係がどうなっているかを確認できるいい書籍です
文字
史料の成果に過度に依存せず、進化論的形式学に基づいた遺跡分析から得られた成果をもとに、文字史料の成果を勘案する
そういった自律した「遺跡の歴史学」
を学ぶためにも、今の環境を活かして突き詰めたいと思います。

2013年4月24日 (水)

京都郡の等覚寺城に登りました。

馬ヶ嶽城を踏査した後で、京都平野を北上、苅田町山口にある等覚寺城を観てきました。
山口から登り、本谷・等覚寺・北谷という地区の一角にある白山多賀神社の境内が城域です。
場所は平尾台
から伸びる山塊部分の南東中腹にあたります。
かなり比高差の高いところに元々修験の
僧坊が並んでいた集落と白山多賀神社(修行場)があります。

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白山多賀神社は春に行われる「等覚寺の松会の行事で有名な修験の場です。国指定の重要無形文化財になっています。
しかし、そのぐるりを畝状空堀群+横堀で囲んだ戦国期城郭だと言うことは案外知られていません
(ノ_・。)

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写真のように、谷部分を除く、北側と南東側の緩斜面には何十本もの畝状空堀群が取り囲みます。
ただ、畝状空堀群が囲むのではなく、途中に帯曲輪状の横堀をかませて2〜3段連なっている点が特徴です。

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写真ではわかりづらいですが、横堀が曲輪の周囲を取り囲みます。
現在、曲輪は大半が白山多賀神社の境内として削平されていますが、
周囲は作業道で破壊された部分を除くと城郭遺構が良好に残っています。

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から尾根伝いに続く主要尾根を掘り切る堀切+竪堀です。
多くの土木量が費やされたことがわかります。
等覚寺城は永禄期には長野助盛が居城としていたようです。
京都郡は天正後期まで長野氏の勢力圏ですが、
北側の貫山・平尾台周辺はその後、高橋元種に移った可能性もあります。
いずれにしても、縄張りをみると、横堀+畝状空堀群を南段も斜面に連ねるやり方は、
益富城、戸代山城、長野城など秋月氏系勢力(秋月氏・一万田系高橋氏・長野氏ら)の持城にみられます。
おそらく豊臣秀吉の九州征伐に際して、門司→苅田松山へ周防灘からの上陸を想定して、
最前線を担った高橋元種が前線と詰城の松山城との中間の押えとして整備したものと思われます。

等覚寺城は長野城と同じく天正期の史料が乏しい山城ですが、
修験の場を城塞化した様相を含めて、北部九州の戦国末期の様相を伝える貴重な資料になります。
「等覚寺の松会」と共に「等覚寺城」も文化財としての評価が知られることを期待したいところです。

2013年4月23日 (火)

京都郡の馬ヶ嶽城に登りました。

豊前京都郡、現在の行橋市にあたる馬ヶ嶽城に登ってきました。
近くの御所
ヶ谷神籠石が有名ですが、こちらの天正年間に長野氏の居城だった馬ヶ嶽城もなかなかのものです。
九州出兵の際に九州上陸した秀吉
の御座所になったところであり、その後黒田氏が入部した山城でもあります。
但し、
山頂の主郭部・第二郭部分の曲輪群は共に織豊系縄張り技術による積極的な改修は管見の限りみられませんでした。
主郭部・第二郭部分は地形に沿った連郭式で、主郭部には大堀切がありました。

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馬ヶ嶽城で特徴的な縄張りは、第二郭から東側の主要尾根筋に伸びる長大な土塁ラインです。
それは麓まで
伸びるかなりの長さになります。主要尾根からの侵入を防ぐために講じたと思われます。
比高の高いところは尾根筋の東側側面
切岸を加えて帯曲輪状にした土塁状の防塁型ラインになっていました。
(但し、登山道と重なる部分がありシダのブッシュを払い確認する必要があります。)

それに続いて写真のように、帯曲輪状の横堀が次第に掘り込んだ横堀になり、土塁+横堀+畝状空堀群の防塁型ラインになります。
横堀
により外側の掘り残し部分を潰すためにピッチ細かく谷まで下らない短い畝状空堀群が築かれています。

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傾斜も関係なく、麓の尾根筋まで土塁+横堀+畝状空堀群が続きます。なかなかの圧巻な部分です。
但し、麓では登山道が
別に派生する尾根筋に行ってしまうので要注意。
こうした防塁型ラインは秋月氏・一万田系高橋氏・長野氏など勢力圏の主要城郭に共通してみられます。
馬ヶ嶽などの縄張り技術が長野城の縄張りに集約されている点は注目されます。

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馬ヶ嶽城からは京都郡や仲津郡が一望できます。
上の写真が行橋市・みやこ町勝山方面、苅田町側
。遠くに松山城が見えます。
下の写真はみやこ町犀川・豊津
方面。遠くに周防灘が見えます。
馬ヶ嶽
自体はそこまで高くないのですが周囲が平野・低い丘陵なのでかなり見渡せます。
永禄期に規矩郡を退去した長野氏が京都郡に勢力を伸ばしたことがわかります。
そして、防塁型ラインを取ってつけたように築いた点から、最終段階
に駆け込み状態で整備したものと考えられます。
長野氏自身は
緒戦で高橋氏が小倉から撤退すると豊臣政権に服属しますが、
それは結果論であり、当初はかなりの抵抗姿勢を示していたことが
窺えます。

Foxkeh! フォクすけ!


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