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2013年4月 8日 (月)

新年度は豊前長野城から。

新年度最初のお休みは長野城跡に登ってきました。
大学院時代にはじめた
北部九州戦国期城郭の研究、福岡平野からはじめてここへたどり着くのが目標でしたが、
13年遅れでようやく
下見開始
前年度はこれまでの経過を確認する
作業を進めてきましたが、今年度からは実際の踏査を含めて
長野城跡
を含む豊筑地域の戦国期城郭の到達点について詳細を詰めていこうと思っています。
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長野城跡は麓の緑地公園から登ります。往時は林道から近づけましたが車輌規制され、現在では陥没したりしてました。
写真の凸3つが左から二の城、主郭、そして三の城。
写真中央辺りに沢伝いに以前に地元の方がつけた登山道の目印が残っています。三の城にたどり着きます。
わからない場合は、無理せず林道をテクテク
歩いても30分くらいで着きます。

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長野城跡と言えば、無数の畝状空堀群が有名です。
アタマを横堀でまとめた畝状空堀群による防塁型ラインが主郭、二の郭、三の郭の外周を取り囲みます。
1990年代に村田修三・千田嘉博両氏により縄張り図が作成されていますが、
当時
は、把握されていない城郭跡について遠隔地での調査という制約から速報性が重視されました
それ故、基本的な評価は変わりませんが、
詳細では精査により補っていく部分もあります。
その辺は、今日の地元に在住
する研究者がやるべきことであり、既に北九州市による詳細な測量図もあります。
ですので、せっかく福岡県に戻ってきたし鳥栖市の勝尾城に続いて
追加の縄張り図作成をしようと思っています
この日の踏査はその辺の下見も兼ねたものです。

R0020680

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長野城跡は畝状空堀群だけでなく、通路状に削り残した土塁を用いた長城ラインにより城域の各地区を一体的につなぐ構造特徴的です
通路状の長城ラインで主郭と一体的につながる二の郭・三の郭は縄張り的には同じパターンで構成されていて興味深くあります。
また、上位の曲輪から下位の曲輪の側面に土塁を配し連郭式に曲輪を並べた構造がの郭・三の郭にみられます。
秋月氏や一万田系高橋氏と関連する勢力の拠点城郭にみられる縄張り技術が
随所に組み込まれている点からも、
長野城跡が
北部九州の戦国期城郭の到達点であることが窺えます。

これまで長野城跡は文献史料から永禄年間の長野城合戦に引きつけた評価がされていましたが、実際の城郭遺構を突き合わせた場合、
戦国末期の秋月氏と与同する勢力の持城の分布から、天正後期の高橋元種が整備した企救平野に面した最前線の拠点城郭と位置づけられます
それ以前に、実際の遺構で
積極的な防塁型ラインの採用と膨大な土木量の投下をみれば、感覚的に天正年間とみるのが自然なところです(^^ゞ

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コメント

中西さんこんにちわ
4/8 松牟礼城へ吉弘先生と行ってきました。
目的はもう一つ。城後にある奴留湯左馬助子孫?の墓地。
「抱き杏葉」の家紋入り伏墓を確認しました。
 延享三年丙寅(1746)でした。

井上さん、ごぶさたしています。
城後地区は大友氏改易直後の古い検地帳(土地徴税台帳)が残っている地域です。
ぜひ、掘り起こしをしてください。
怒留湯氏は由布院を拠点とする戦国期の小領主です。その系譜が入ってきたのかも知れません。

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