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2013年4月22日 (月)

底井野往還と猫城

一日中いい天気でしたので、所用が終わった午後から中間市底井野にある猫城を観てきました。
遠賀川を渡り、筑前垣生駅を通過して上底井野の月瀬八幡宮まで行きます。

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写真の通り、周りは遠賀川沿いに低地な平野が広がるのですが、ところどころにこうした小山があります。
うした独立した小山のひとつを城郭化したものが猫城です。

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山上は月瀬八幡宮の社地となっており、社殿が築かれています。
社殿の造成で土盛りなどの普請があったと思いますが、
周囲をみると、岩盤質の山の頂部を整地した2〜3段の曲輪から成る単郭構造だったようです。
ぐるっと斜面をみてみましたが、急斜面なところが多く緩斜面なところにも竪堀はみられませんでした。

R0020823

山上から南を眺めると、東西に底井野往還(赤間〜猿田峠〜中間〜上津役)が走ります。
(底井野往還については
コチラのサイトが詳しいです)
猫城のある底井野遠賀川の渡河点に近く、中世以来底井野郷として史料に出てきます。
佐野
が大宮司職を持っており、往還上の村落を掌握するために背後の小山に城郭が築かれたものとみられます。
遠方には鞍手町の劔嶽城もみえます。さらに右手奥には笠木山城らしき山も臨めます。
北は遠賀郡(御牧郡)全体、南はおおよそ鞍手郡をみることができます。

戦国時代後半
天正年間には猫城は遠賀川下流の低地地帯を押える麻生氏と、
赤間から猿田峠を越えて
方へ勢力を伸ばす宗像氏の係争地になったようです。
天正後期に
なると、宗像氏は遠賀(御牧)郡西部に進出し山鹿城の麻生氏を取り込んでしまいます。
その過程で遠賀川の
渡河点に近い底井野の猫城は宗像方が掌握するようになったとみられます
これに対して、鷹取城主として鞍手郡の遠賀川東岸に入部していた大友方の毛利鎮実が、
糟屋郡立花山城の戸次道雪と呼応して、遠賀川を渡り猫城を攻めたとする記録があります。
の戦闘では宗像勢が撃退しており、西側は立花勢に押し込まれるものの東側の遠賀・鞍手方面は確保したことがわかります。
しかしながら、天正1
1頃とみられる麻生統春が底井野の佐野宮千代名字状を与えており、
この頃には遠賀
川東岸に勢力を持つ上津役の麻生氏が勢力を伸ばしたと思われます

江戸時代に底井野往還として整備された中間で渡河して
平野を横切る猿田峠越えルートは、
現在の鉄道網からはそうみえませんが、遠賀
郡東部の丘陵地から遠賀川を渡り宗像郡入る陸路のショートカットになります。
もう少し南
の植木から犬鳴川沿いに通るルートは永禄年間の毛利氏の筑前攻めルートにもなったように、
篠栗・久山方面から福岡平野・太宰府へ抜ける陸路のショートカット
とも近接しています
中・近世移行期の史料が少ない
鞍手・遠賀(御牧)郡界隈ですが、
戦国後期北部九州の
様相を考える上ではなかなか看過できない交通ルートのようです。

猫城はプランとしては園田浦城や山鹿城などと同じくこれといった特徴はありませんが、
周囲には、土塁・横堀・
石垣を持つ竹尾城や畝状空堀群+石垣の花尾城など東側の城郭群に加えて、
南東側の鷹取城、南西側の劔嶽城や
城など畝状空堀群を多用するものなどがあります。
うした様々な特徴を持つ周囲の城郭跡との縄張り構造の対比からみえてくる知見をもとにすると、
上記の戦国期の様相を
勘案し少ないながらも文字史料を洗い直す過程で、この地域の戦国末期の様相がいろいろみえてきそうな気がします。
そうした辺りをつける夕方下見になりました。

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