« 京都郡の馬ヶ嶽城に登りました。 | メイン | 南海ホークス展に行きました。 »

2013年4月24日 (水)

京都郡の等覚寺城に登りました。

馬ヶ嶽城を踏査した後で、京都平野を北上、苅田町山口にある等覚寺城を観てきました。
山口から登り、本谷・等覚寺・北谷という地区の一角にある白山多賀神社の境内が城域です。
場所は平尾台
から伸びる山塊部分の南東中腹にあたります。
かなり比高差の高いところに元々修験の
僧坊が並んでいた集落と白山多賀神社(修行場)があります。

R0020934

R0020933

白山多賀神社は春に行われる「等覚寺の松会の行事で有名な修験の場です。国指定の重要無形文化財になっています。
しかし、そのぐるりを畝状空堀群+横堀で囲んだ戦国期城郭だと言うことは案外知られていません
(ノ_・。)

R0020913
写真のように、谷部分を除く、北側と南東側の緩斜面には何十本もの畝状空堀群が取り囲みます。
ただ、畝状空堀群が囲むのではなく、途中に帯曲輪状の横堀をかませて2〜3段連なっている点が特徴です。

R0020910
写真ではわかりづらいですが、横堀が曲輪の周囲を取り囲みます。
現在、曲輪は大半が白山多賀神社の境内として削平されていますが、
周囲は作業道で破壊された部分を除くと城郭遺構が良好に残っています。

R0020919

から尾根伝いに続く主要尾根を掘り切る堀切+竪堀です。
多くの土木量が費やされたことがわかります。
等覚寺城は永禄期には長野助盛が居城としていたようです。
京都郡は天正後期まで長野氏の勢力圏ですが、
北側の貫山・平尾台周辺はその後、高橋元種に移った可能性もあります。
いずれにしても、縄張りをみると、横堀+畝状空堀群を南段も斜面に連ねるやり方は、
益富城、戸代山城、長野城など秋月氏系勢力(秋月氏・一万田系高橋氏・長野氏ら)の持城にみられます。
おそらく豊臣秀吉の九州征伐に際して、門司→苅田松山へ周防灘からの上陸を想定して、
最前線を担った高橋元種が前線と詰城の松山城との中間の押えとして整備したものと思われます。

等覚寺城は長野城と同じく天正期の史料が乏しい山城ですが、
修験の場を城塞化した様相を含めて、北部九州の戦国末期の様相を伝える貴重な資料になります。
「等覚寺の松会」と共に「等覚寺城」も文化財としての評価が知られることを期待したいところです。

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://app.blogcoara.jp/t/trackback/143624/31448281

京都郡の等覚寺城に登りました。を参照しているブログ:

コメント

コメントを投稿

Foxkeh! フォクすけ!


  • Firefox ブラウザ無料ダウンロード
Powered by Six Apart