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2013年4月30日 (火)

南海ホークス展に行きました。

4月最後に、堺市博物館の「南海ホークス展」を観に行きました。
月からしばらく育児でゆっくりするので、節目の意味もあって、
自分
小さい時に応援してきた原点でもある「南海ホークス」を扱った地元近くの展覧会で〆ることにしました。
併せて、かつての関西私鉄文化を知る
展覧会でもありますので、昭和文化史を知るためにも勉強です
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常設展示の一角を企画展示とした南海ホークス展。
関西大学の協力によ
ホークス関係者への長年の資料調査の成果を反映した出品と共に
かつては中百舌鳥球場もあったゆかりのでもある堺市内の関係者からの出品もあり、
多くの資料が展示されていました。
自分が持っている
グッズがケース内にあるのも面白かったです。
興味深かったのは大阪球場の外観デザインが坂倉準三
建築事務所だったこと。
建築家が関与した球場と言えば、西武ライオンズ球場がありますが、
戦後間もなく、当時の現代建築をリードした坂倉準三氏が関与していたことに感慨深いものを感じました。
そして、往時の南海電鉄の
も再認識できたものです。
阪神甲子園球場などが郊外住宅地の
付加価値付け役割を担ったことに対して、
大都市大阪
におけるターミナルのシンボルに球場をもってきた「都市的センス」
阪神
・阪急・近鉄などとは違う、大阪の「南海」の格の違いをファンとしては一方的に感じる部分ではあります。

今回の展示では、ホークスの70年代を支えた野村克也氏の関係資料にも言及した部分がはじめてあったのも感慨深いもの。
これまで等閑視されてきた、黄金期の捕手であり、プレイングマネージャーとして70年代のホークスを担った
野村克也氏の関係資料を含む客観的な
視点で「南海ホークス関係資料」がまとまることを期待したいです。

併せて、近隣自治体でも、同時代の関西私鉄文化の一コマ、近鉄バファローズや阪急ブレーブス、
そして、
パ・リーグ創設のきっかけとなった大毎オリオンズの展示が実現されることも期待したいです。

2013年4月24日 (水)

京都郡の等覚寺城に登りました。

馬ヶ嶽城を踏査した後で、京都平野を北上、苅田町山口にある等覚寺城を観てきました。
山口から登り、本谷・等覚寺・北谷という地区の一角にある白山多賀神社の境内が城域です。
場所は平尾台
から伸びる山塊部分の南東中腹にあたります。
かなり比高差の高いところに元々修験の
僧坊が並んでいた集落と白山多賀神社(修行場)があります。

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白山多賀神社は春に行われる「等覚寺の松会の行事で有名な修験の場です。国指定の重要無形文化財になっています。
しかし、そのぐるりを畝状空堀群+横堀で囲んだ戦国期城郭だと言うことは案外知られていません
(ノ_・。)

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写真のように、谷部分を除く、北側と南東側の緩斜面には何十本もの畝状空堀群が取り囲みます。
ただ、畝状空堀群が囲むのではなく、途中に帯曲輪状の横堀をかませて2〜3段連なっている点が特徴です。

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写真ではわかりづらいですが、横堀が曲輪の周囲を取り囲みます。
現在、曲輪は大半が白山多賀神社の境内として削平されていますが、
周囲は作業道で破壊された部分を除くと城郭遺構が良好に残っています。

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から尾根伝いに続く主要尾根を掘り切る堀切+竪堀です。
多くの土木量が費やされたことがわかります。
等覚寺城は永禄期には長野助盛が居城としていたようです。
京都郡は天正後期まで長野氏の勢力圏ですが、
北側の貫山・平尾台周辺はその後、高橋元種に移った可能性もあります。
いずれにしても、縄張りをみると、横堀+畝状空堀群を南段も斜面に連ねるやり方は、
益富城、戸代山城、長野城など秋月氏系勢力(秋月氏・一万田系高橋氏・長野氏ら)の持城にみられます。
おそらく豊臣秀吉の九州征伐に際して、門司→苅田松山へ周防灘からの上陸を想定して、
最前線を担った高橋元種が前線と詰城の松山城との中間の押えとして整備したものと思われます。

等覚寺城は長野城と同じく天正期の史料が乏しい山城ですが、
修験の場を城塞化した様相を含めて、北部九州の戦国末期の様相を伝える貴重な資料になります。
「等覚寺の松会」と共に「等覚寺城」も文化財としての評価が知られることを期待したいところです。

2013年4月23日 (火)

京都郡の馬ヶ嶽城に登りました。

豊前京都郡、現在の行橋市にあたる馬ヶ嶽城に登ってきました。
近くの御所
ヶ谷神籠石が有名ですが、こちらの天正年間に長野氏の居城だった馬ヶ嶽城もなかなかのものです。
九州出兵の際に九州上陸した秀吉
の御座所になったところであり、その後黒田氏が入部した山城でもあります。
但し、
山頂の主郭部・第二郭部分の曲輪群は共に織豊系縄張り技術による積極的な改修は管見の限りみられませんでした。
主郭部・第二郭部分は地形に沿った連郭式で、主郭部には大堀切がありました。

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馬ヶ嶽城で特徴的な縄張りは、第二郭から東側の主要尾根筋に伸びる長大な土塁ラインです。
それは麓まで
伸びるかなりの長さになります。主要尾根からの侵入を防ぐために講じたと思われます。
比高の高いところは尾根筋の東側側面
切岸を加えて帯曲輪状にした土塁状の防塁型ラインになっていました。
(但し、登山道と重なる部分がありシダのブッシュを払い確認する必要があります。)

それに続いて写真のように、帯曲輪状の横堀が次第に掘り込んだ横堀になり、土塁+横堀+畝状空堀群の防塁型ラインになります。
横堀
により外側の掘り残し部分を潰すためにピッチ細かく谷まで下らない短い畝状空堀群が築かれています。

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傾斜も関係なく、麓の尾根筋まで土塁+横堀+畝状空堀群が続きます。なかなかの圧巻な部分です。
但し、麓では登山道が
別に派生する尾根筋に行ってしまうので要注意。
こうした防塁型ラインは秋月氏・一万田系高橋氏・長野氏など勢力圏の主要城郭に共通してみられます。
馬ヶ嶽などの縄張り技術が長野城の縄張りに集約されている点は注目されます。

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馬ヶ嶽城からは京都郡や仲津郡が一望できます。
上の写真が行橋市・みやこ町勝山方面、苅田町側
。遠くに松山城が見えます。
下の写真はみやこ町犀川・豊津
方面。遠くに周防灘が見えます。
馬ヶ嶽
自体はそこまで高くないのですが周囲が平野・低い丘陵なのでかなり見渡せます。
永禄期に規矩郡を退去した長野氏が京都郡に勢力を伸ばしたことがわかります。
そして、防塁型ラインを取ってつけたように築いた点から、最終段階
に駆け込み状態で整備したものと考えられます。
長野氏自身は
緒戦で高橋氏が小倉から撤退すると豊臣政権に服属しますが、
それは結果論であり、当初はかなりの抵抗姿勢を示していたことが
窺えます。

2013年4月22日 (月)

底井野往還と猫城

一日中いい天気でしたので、所用が終わった午後から中間市底井野にある猫城を観てきました。
遠賀川を渡り、筑前垣生駅を通過して上底井野の月瀬八幡宮まで行きます。

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写真の通り、周りは遠賀川沿いに低地な平野が広がるのですが、ところどころにこうした小山があります。
うした独立した小山のひとつを城郭化したものが猫城です。

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山上は月瀬八幡宮の社地となっており、社殿が築かれています。
社殿の造成で土盛りなどの普請があったと思いますが、
周囲をみると、岩盤質の山の頂部を整地した2〜3段の曲輪から成る単郭構造だったようです。
ぐるっと斜面をみてみましたが、急斜面なところが多く緩斜面なところにも竪堀はみられませんでした。

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山上から南を眺めると、東西に底井野往還(赤間〜猿田峠〜中間〜上津役)が走ります。
(底井野往還については
コチラのサイトが詳しいです)
猫城のある底井野遠賀川の渡河点に近く、中世以来底井野郷として史料に出てきます。
佐野
が大宮司職を持っており、往還上の村落を掌握するために背後の小山に城郭が築かれたものとみられます。
遠方には鞍手町の劔嶽城もみえます。さらに右手奥には笠木山城らしき山も臨めます。
北は遠賀郡(御牧郡)全体、南はおおよそ鞍手郡をみることができます。

戦国時代後半
天正年間には猫城は遠賀川下流の低地地帯を押える麻生氏と、
赤間から猿田峠を越えて
方へ勢力を伸ばす宗像氏の係争地になったようです。
天正後期に
なると、宗像氏は遠賀(御牧)郡西部に進出し山鹿城の麻生氏を取り込んでしまいます。
その過程で遠賀川の
渡河点に近い底井野の猫城は宗像方が掌握するようになったとみられます
これに対して、鷹取城主として鞍手郡の遠賀川東岸に入部していた大友方の毛利鎮実が、
糟屋郡立花山城の戸次道雪と呼応して、遠賀川を渡り猫城を攻めたとする記録があります。
の戦闘では宗像勢が撃退しており、西側は立花勢に押し込まれるものの東側の遠賀・鞍手方面は確保したことがわかります。
しかしながら、天正1
1頃とみられる麻生統春が底井野の佐野宮千代名字状を与えており、
この頃には遠賀
川東岸に勢力を持つ上津役の麻生氏が勢力を伸ばしたと思われます

江戸時代に底井野往還として整備された中間で渡河して
平野を横切る猿田峠越えルートは、
現在の鉄道網からはそうみえませんが、遠賀
郡東部の丘陵地から遠賀川を渡り宗像郡入る陸路のショートカットになります。
もう少し南
の植木から犬鳴川沿いに通るルートは永禄年間の毛利氏の筑前攻めルートにもなったように、
篠栗・久山方面から福岡平野・太宰府へ抜ける陸路のショートカット
とも近接しています
中・近世移行期の史料が少ない
鞍手・遠賀(御牧)郡界隈ですが、
戦国後期北部九州の
様相を考える上ではなかなか看過できない交通ルートのようです。

猫城はプランとしては園田浦城や山鹿城などと同じくこれといった特徴はありませんが、
周囲には、土塁・横堀・
石垣を持つ竹尾城や畝状空堀群+石垣の花尾城など東側の城郭群に加えて、
南東側の鷹取城、南西側の劔嶽城や
城など畝状空堀群を多用するものなどがあります。
うした様々な特徴を持つ周囲の城郭跡との縄張り構造の対比からみえてくる知見をもとにすると、
上記の戦国期の様相を
勘案し少ないながらも文字史料を洗い直す過程で、この地域の戦国末期の様相がいろいろみえてきそうな気がします。
そうした辺りをつける夕方下見になりました。

2013年4月 8日 (月)

新年度は豊前長野城から。

新年度最初のお休みは長野城跡に登ってきました。
大学院時代にはじめた
北部九州戦国期城郭の研究、福岡平野からはじめてここへたどり着くのが目標でしたが、
13年遅れでようやく
下見開始
前年度はこれまでの経過を確認する
作業を進めてきましたが、今年度からは実際の踏査を含めて
長野城跡
を含む豊筑地域の戦国期城郭の到達点について詳細を詰めていこうと思っています。
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長野城跡は麓の緑地公園から登ります。往時は林道から近づけましたが車輌規制され、現在では陥没したりしてました。
写真の凸3つが左から二の城、主郭、そして三の城。
写真中央辺りに沢伝いに以前に地元の方がつけた登山道の目印が残っています。三の城にたどり着きます。
わからない場合は、無理せず林道をテクテク
歩いても30分くらいで着きます。

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長野城跡と言えば、無数の畝状空堀群が有名です。
アタマを横堀でまとめた畝状空堀群による防塁型ラインが主郭、二の郭、三の郭の外周を取り囲みます。
1990年代に村田修三・千田嘉博両氏により縄張り図が作成されていますが、
当時
は、把握されていない城郭跡について遠隔地での調査という制約から速報性が重視されました
それ故、基本的な評価は変わりませんが、
詳細では精査により補っていく部分もあります。
その辺は、今日の地元に在住
する研究者がやるべきことであり、既に北九州市による詳細な測量図もあります。
ですので、せっかく福岡県に戻ってきたし鳥栖市の勝尾城に続いて
追加の縄張り図作成をしようと思っています
この日の踏査はその辺の下見も兼ねたものです。

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長野城跡は畝状空堀群だけでなく、通路状に削り残した土塁を用いた長城ラインにより城域の各地区を一体的につなぐ構造特徴的です
通路状の長城ラインで主郭と一体的につながる二の郭・三の郭は縄張り的には同じパターンで構成されていて興味深くあります。
また、上位の曲輪から下位の曲輪の側面に土塁を配し連郭式に曲輪を並べた構造がの郭・三の郭にみられます。
秋月氏や一万田系高橋氏と関連する勢力の拠点城郭にみられる縄張り技術が
随所に組み込まれている点からも、
長野城跡が
北部九州の戦国期城郭の到達点であることが窺えます。

これまで長野城跡は文献史料から永禄年間の長野城合戦に引きつけた評価がされていましたが、実際の城郭遺構を突き合わせた場合、
戦国末期の秋月氏と与同する勢力の持城の分布から、天正後期の高橋元種が整備した企救平野に面した最前線の拠点城郭と位置づけられます
それ以前に、実際の遺構で
積極的な防塁型ラインの採用と膨大な土木量の投下をみれば、感覚的に天正年間とみるのが自然なところです(^^ゞ

Foxkeh! フォクすけ!


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