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2013年2月24日 (日)

相方城に行ってきました。

23日に福山市新市町の相方(佐賀田)城に登ってきました。
車で帰省する途中に、山上まで道がついていることもあり、この際きっちりみておこうと思ったからです。
元々、『織豊城郭』などで関ケ原戦以前の毛利氏段階の石垣の
事例として紹介されてきたもの。
しかしながら、縄張り構造
や矢穴の使用といった石垣の様相をみると、慶長期福島氏段階にみえてしかたなかった事例です。
なので、この機会
に実見しようと思ったわけです。

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山上にテレビ塔があるため、麓の工業団地から車で登ることができます。ここからでも石垣がみえます

Img_1267

山上です。テレビ塔のある方の峰が主郭部(西側曲輪群)です。手前東側曲輪群です。
その間
は馬蹄状の痩せ尾根になっていて土橋状の通路となっています。特に掘りきったというわけではありませんが。
その痩せ尾根
の通路に向けて外桝形の嘴状虎口がグイッと決めていることがわかるでしょうか。
崖になる嘴状虎口の左側
塁線には横矢掛かりが効いていました。
竹田市の豊後岡城を見慣れた眼からは、東西の仕切り門
があって側面に東西をつなぐ城道を配したやり方はそっくりに映ります。
要所に効果的に配置する豊臣系大名の縄張り技術
が感じられます。
防長時代の毛利氏でも岩国城・長府
城など一門級の持城を除く支城群にはこうした技術はみられません。
八ヶ国時代に
はできたのかもしれませんが、普通に考えると福島氏と考える方が妥当な気がします。

R0019636
西側の平入り虎口とされるも
の、石垣塁線はほとんど直線的なので平入りに見えます。
でも、縄張りからよく観察
ると、右側の曲輪は左側の上位曲輪からスロープ連結する虎口の溜まり空間になります。
時計回りにグイッと廻してこの位置に出入り口を設け
た縄張りと評価できます。
一見、
溜まり空間が肥大化して曲輪になっているのでわかりづらいですが、模式化して考えると理解できます。
東側に向けた嘴状虎口と併せて
東西に伸びる山上の主郭部東西にグイッ、グイッと外桝形虎口を決める辺り、
豊臣系新興大名ならではの合理的な縄張り構造に見えます。

R0019661
石垣の様相をみても、算木積みもしっかりしており、これだけみせたら慶長期でも十分いけますね。
もっとも、石垣の積み方にはおおよその流れはあっても時期を判定する尺度にするにはばらつきが大きいので参考程度ですが。
山上にしては、けっこうな
石垣です。
福島氏の石垣では、亀
城や鞆城などで確認することができます。

R0019611
東側の嘴状虎口付近にある石垣の矢穴です。だいたい12センチぐらいだったか。あちこちにありました。

R0019630

相方城の立地は、福島時代の支城とされる神辺城と備後府中の中間にあります。
神辺方向に見通しがよく、神辺城の詰め城ではないか、或いは神辺城に代わる山城として整備したのではないかと思うところあり。
この辺は、三次の尾関山城と背後の比
山城とのセット関係との類似性などを勘案する必要があるかなあと思っています。
山城もしっかりした縄張りとのことですので、こちらも調べてみたいです。

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そして、備後府中側。こちらの方が近いです。国府のある平野部を広範囲で押える立地ということがわかります。

相方城については、文献史料がないことから福島氏段階
ではなく毛利氏段階の事例と評価されてきました。
しかし
、縄張り構造からも石垣からも、また周辺の地理的状況からみても福島氏段階でいいのではないかと言うのが私見で、
今回、実際にみてさらに
確信しているところです。
多くの方が既に、これは関ケ原以後だろうと申していますが、そ
の意見に賛同しながら、
福島領の領域構造について城跡からの分析を含め、引き続き調べてみたいと思っています。

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