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2013年2月26日 (火)

生まれ来る子供たちのために。

生まれ来る子供たちのために、何を語ろう
http://www.youtube.com/watch?v=Cjba77_WdXc


何を語ることが
できるだろう。

2013年2月24日 (日)

相方城に行ってきました。

23日に福山市新市町の相方(佐賀田)城に登ってきました。
車で帰省する途中に、山上まで道がついていることもあり、この際きっちりみておこうと思ったからです。
元々、『織豊城郭』などで関ケ原戦以前の毛利氏段階の石垣の
事例として紹介されてきたもの。
しかしながら、縄張り構造
や矢穴の使用といった石垣の様相をみると、慶長期福島氏段階にみえてしかたなかった事例です。
なので、この機会
に実見しようと思ったわけです。

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山上にテレビ塔があるため、麓の工業団地から車で登ることができます。ここからでも石垣がみえます

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山上です。テレビ塔のある方の峰が主郭部(西側曲輪群)です。手前東側曲輪群です。
その間
は馬蹄状の痩せ尾根になっていて土橋状の通路となっています。特に掘りきったというわけではありませんが。
その痩せ尾根
の通路に向けて外桝形の嘴状虎口がグイッと決めていることがわかるでしょうか。
崖になる嘴状虎口の左側
塁線には横矢掛かりが効いていました。
竹田市の豊後岡城を見慣れた眼からは、東西の仕切り門
があって側面に東西をつなぐ城道を配したやり方はそっくりに映ります。
要所に効果的に配置する豊臣系大名の縄張り技術
が感じられます。
防長時代の毛利氏でも岩国城・長府
城など一門級の持城を除く支城群にはこうした技術はみられません。
八ヶ国時代に
はできたのかもしれませんが、普通に考えると福島氏と考える方が妥当な気がします。

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西側の平入り虎口とされるも
の、石垣塁線はほとんど直線的なので平入りに見えます。
でも、縄張りからよく観察
ると、右側の曲輪は左側の上位曲輪からスロープ連結する虎口の溜まり空間になります。
時計回りにグイッと廻してこの位置に出入り口を設け
た縄張りと評価できます。
一見、
溜まり空間が肥大化して曲輪になっているのでわかりづらいですが、模式化して考えると理解できます。
東側に向けた嘴状虎口と併せて
東西に伸びる山上の主郭部東西にグイッ、グイッと外桝形虎口を決める辺り、
豊臣系新興大名ならではの合理的な縄張り構造に見えます。

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石垣の様相をみても、算木積みもしっかりしており、これだけみせたら慶長期でも十分いけますね。
もっとも、石垣の積み方にはおおよその流れはあっても時期を判定する尺度にするにはばらつきが大きいので参考程度ですが。
山上にしては、けっこうな
石垣です。
福島氏の石垣では、亀
城や鞆城などで確認することができます。

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東側の嘴状虎口付近にある石垣の矢穴です。だいたい12センチぐらいだったか。あちこちにありました。

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相方城の立地は、福島時代の支城とされる神辺城と備後府中の中間にあります。
神辺方向に見通しがよく、神辺城の詰め城ではないか、或いは神辺城に代わる山城として整備したのではないかと思うところあり。
この辺は、三次の尾関山城と背後の比
山城とのセット関係との類似性などを勘案する必要があるかなあと思っています。
山城もしっかりした縄張りとのことですので、こちらも調べてみたいです。

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そして、備後府中側。こちらの方が近いです。国府のある平野部を広範囲で押える立地ということがわかります。

相方城については、文献史料がないことから福島氏段階
ではなく毛利氏段階の事例と評価されてきました。
しかし
、縄張り構造からも石垣からも、また周辺の地理的状況からみても福島氏段階でいいのではないかと言うのが私見で、
今回、実際にみてさらに
確信しているところです。
多くの方が既に、これは関ケ原以後だろうと申していますが、そ
の意見に賛同しながら、
福島領の領域構造について城跡からの分析を含め、引き続き調べてみたいと思っています。

2013年2月19日 (火)

千石堀城跡の調査。

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5日間、8時から17時半まで千石堀城跡を調査してました。
よく知られているコンパスと歩測・距離計で測定する縄張り図の調査法ではたいてい1〜2日程度でできる規模です。
しかし、レンザティックコンパスと巻尺でベクトルを取りながら作図する方法ではのべ5日かかりました。
その分、じっくりと城跡に居るので、
遺構を読み込んでいる中で次第に縄張り構造がみえてくるようになります。
不思議なもので、造り手の感覚がみえてくるのです。

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上が北。主郭部は虎口櫓台の配置、微地形の評価などで
縄張りを読み込むのにけっこう難儀し
ました。3日経ったところ。

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4日目。1重目の空堀と2重目の空堀半分を終えたところ。

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5日目の午後過ぎに終わったところ。
これから清書し
て完成します。

じっくり取ることで、この城跡のテクニカルな面がみえてきます。
読み取るには
それなりに修練が必要になります。
幸い、
わたしは九州にいたことで、縄張りの読み込み方をいろいろと耳学問ながら実地で学ぶことができました。
その感覚を手掛かりに、造り手の性格や組織社会的背景を考えながら、うまく図面上に表現できるかが腕の見せどころになります。

2013年2月14日 (木)

深堀氏の俵石城。

1月の年明けに長崎旅行をして、長崎市深堀にある俵石城に登ってきました。
長崎市からすぐの長崎湾の入口にある深堀は
、戦国期には海賊として名を馳せた深堀氏が拠点を置いた場所。
その背後
山上に俵石城があります。

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中腹の善長谷カトリック教会から登ることができます。西海の眺めがとてもよく、
成程、海の領主が居城にしただけのことはあると思った次第。

は高く登るのが大変かと思いきや、案外比高差を稼いでいたのもあり楽に登れました。

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登ると、曲輪ではなくぐるりを横堀と石塁・土塁が囲む巨大な単郭構造の奇妙な縄張りでした。
ぐるっと廻りましたが、本当に巨大でした。その代わり、内部は自然地形のまま。
一時は、牧
場ではないかという説もありましたが、この地域特有の松浦型城郭の巨大版と考えられているようです。
※松浦
城郭:真ん中にポコッと高いを残して周囲を土塁で囲んだ縄張りを持つ城郭。西海に多く分布するとのこと。
 →木島孝之さんの「九州における織豊系城郭」(『中世城郭研究』第6号、1992年)を参照して下さい。

そして、斜面には
大きな竪堀が何本も走る畝状空堀群がありました。竪堀の間隔は微妙に広いのが特徴です。
これを見ながら「畝状空堀群としてどうなんでしょうね?」とあれこれ。

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深堀氏は全国的にはあまり有名ではないですが、天正期の深堀純は兄西郷尭と共に長崎氏や大村氏と激しく争った人物
最終段階では長崎氏を圧倒し長崎湾を押え
て通行税収入など莫大な富みを得ていたようです。
九州国分けでは
自領を確保したものの、直後の天正16年に南蛮船からの徴集を豊臣秀吉から海賊停止違反として改易されています。
その後、鍋島氏に帰属
することで深堀に復帰し近世を通して深堀を拠点に深堀鍋島氏として続きます。
海賊
停止令については村上水軍などで多くの研究がありますが、その一方で、深堀氏に対する停止令について関心が払われていません。
しかし、
俵石城の規模と投下された土木量をみるにつけ、文字史料の歴史学では全く以て扱いの悪い深堀氏について、
豊臣政権による海上勢力の掌握策併せて、城郭遺構から深堀氏の再評価が必要だろうという話しを聴きながら見て回りました。

その辺の詳細は、24日に長崎市の深堀公民館にて、木島さん講演会「俵石城の縄張り構造と深堀氏  で話になられるとのこと
15日までに申し込まれた方は、お楽しみに
(^^

2013年2月13日 (水)

岩波新書『信長の城』

村田修三さんの1979年の「城郭遺構を地域史と在地構造分析の史料として活用する」とする縄張り研究の提唱と共に、
新生城郭研究の
重要な理論的枠組みとなった織豊系城郭編年案」(通称、千田編年を1987年に提示された千田嘉博さん
このたび、
岩波新書から新刊を出されました。

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岩波新書にしては、チャラい(^^ 帯ですが、
内容は主著の
『織豊系城郭の形成』(2000年)以来、幾つかの論文などで書かれてきた
千田さんの織豊系城郭論が信長のライフヒストリーに沿ってコンパクトに語られています。
我田引水的な論を展開される「お城の論者」さんの監修や編集本が氾濫する中で、
縄張りの
視点からのものは少ないので、千田さんのこれまでの論点の一端を押えるためにもご一読を。

千田さんは以前に
ちくま新書から『戦国の城を歩くを出されていますが、
戦国期城郭を語るよりも、織豊
城郭を語られる方が活き活きしていて、
千田さん
研究の特色である「理念先行型研究」のよさが出ていて読みごたえがあります。

2013年2月12日 (火)

お城屋さん、故郷に帰る。

2月第1週まで原稿のヤマでしたので、ここまでウェブログを控えてました(^^

ということで、三連休は実家に帰省してお城の図面を書いていました。
場所は、和泉国日根郡にある千石堀城跡です。

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二重の横堀に比べて内部はだらっとした感じですが、よーくみてみると……。
周囲の切岸は弱いのですが、対称的に主郭はしっかりしたものです。

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主郭の周囲にある曲輪はゆるっとした感じに切岸が流れていますが、丹念に拾うといろいろみえてきます。

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よくみると、虎口プランもみえてくる、そんな千石堀城跡です。

これまで15年間、九州の在地系城郭と織豊系城郭を主戦場にやってきました。
美作国で宇喜多氏の山城と陣城を調査した以外では、なかなか関西で城郭調査をする機会はありませんでした。
1〜2日程度でちゃちゃっと調査するスタイルではないので、何度も往来するのが資金的に厳しいのが理由です(^^
今回、三連休があって天気が良かったのと、正月明けにこの城跡を案内していただき、その際「はっ!」と気づいたのもあって、
はじめて実家に帰省して腰を据えて調査に出向くことにしました。

故郷は、天正13年の岸和田合戦から根来攻めに続く戦場の地です。
紀州街道・熊野(小栗)街道・粉河街道・水間道など小さな頃から見慣れた歩いた古道と、土地勘と、
これまで自分が勉強してきた城郭史の調査法と視点、
そして、これまで岸和田城シンポなどをみて、和泉の中・近世史移行期研究の動向と史料を押えてきたこと。
これらのいろいろなあれこれが、ようやくボクの中でつながってひとつの叙述が紡ぎ出される。
長いことかかったけど、縄張りを読む力と土地勘なら関西の他分野の研究者と十分にわたりあえる。

というわけで、お城屋さん、故郷に還る。
少しは親孝行になるかなあ。そして市史編纂の事務方だった亡き祖父も喜んでくれるかな?(^^

2013年2月 3日 (日)

8年ぶりの糸島。

2000年前後には頻繁に通って当時の前原市・志摩町・二丈町(現在の糸島市)の城館を調査していました。
その頃、地元の郷土史研究にいろいろとお世話になりました。
それから竹田市に13年奉職している間になかなか訪れることもなく往く年月

今回、久方ぶりに地元の若手歴史研究
家氏に糸島の城館を案内することになり、2月の最初の週末に糸島を訪れました。
案内したのは自分が10数年前に調査した有田城。
前の県道が少しショートカットした以外は以前と様子はほとんどかわりませんでした。

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現在の熊野神社の背後にある有田古墳。以前はその奥の竹やぶが最高点なので城跡かなあと調査しました。
今回、訪れてみて、どうも有田古墳を再利用して詰めに
使用していたのではないかと思い当たりました。
麓の熊野神社は永禄年間に国衆有田
氏に原田了栄が建立させたとのこと。その後、天正12年に再建させたとのことで、
造寺隆信が戦死した後、原田了栄・信種が怡土郡から松浦郡東部にかけて自立的な動きを示す時期と重なるだけに興味深い。

その後、ボクがせっかくなのでと二丈嶽城に行きました。
10年前の記憶では途中まで作業道が通っているのですんなり行けたと思っていましたが、
10年の歳月作業道もすっかり変わっていて、何度か道に迷って難渋して山頂までへとへとになって辿り着きました。
しかし、10年前にボクが苦労して取った岩山の石塁変わらずそこにありました。

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国見岩に代表される岩盤の山頂に石塁や石垣が残っています。
10年前に岩盤と石塁・石垣を丹念に書き分けたそのままに健在でした。
あらためて、草野鎮永(宗楊)はよくこんなところに拠点を築いたものだと感慨深く思いつつ、
城跡を廻って縄張りについてあれこれ案内しました。
10年前は糸島の郷土史家の方に案内して見識を重ねた自分が、
10年後に次世代の地元の歴史研究家に、地元の城跡を案内する。
糸島地方の月日の積み重ねの一コマに自分も関わったのだなあと感慨深い思いがしました。

それにしても、二丈嶽からの糸島の風景は絶景です。

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Foxkeh! フォクすけ!


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