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2012年10月23日 (火)

『戦国・織豊期の西国社会』買いました。

関東にある日本史史料研究会から刊行された『戦国・織豊期の西国社会』が届きました。
4人の編者がまとめて電話帳並みの分厚さに32人の論者が執筆したものです。
畿内を含めた西国をテーマにして、ボクと同世代の方々がどのような研究関心を進めているかがおおよその傾向を掴むのに便利でした。
ちなみに、32人の内、西国に生活拠点を持つだろう研究者は、畿内を含めておおよそ半数、含めないと1割程度でした。
もちろん、編者の方々(関東1名、関西3名)の関係から選ばれている面を差し引いたとしても、西国は少ないんだなあと思うところです。
現状としては「出版元と関係の深い中央」と「地方」との「距離感」を感じるところです。
もちろん、そういった距離感を感じるのも、自分も西国を拠点に活動している中で、
他の方々の研究成果にもアンテナを張っているからでもあります。(逆に東国の状況は把握しづらい。)
両方の流れがあることを踏まえながらじっくり読んで、西国を拠点とする自分の調査計画にうまくフィードバックさせたいと思う次第。

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2012年10月21日 (日)

日本考古学協会福岡大会に行ってきました。

21日は、日本考古学協会福岡大会が西南学院大学で開かれたので行ってきました。
いろいろと用事が重なっていたのですが、
協会会員でもないので行く機会がない中、ちょうど近いところでの開催なのでどういうものなのか観てこようと思い行った次第。
そして、4つの部会の内、第4部会が「
解明されてきたキリシタンの実像-キリシタン考古学の可能性- 」だったので、
近年、長崎県のみならず大分県でも活発化しているキリシタン考古学の現状を把握するために参加してきました。
これを逃すと行くことはないだろうと思うので行った次第、その辺の事情はご斟酌下さい>各位。

近年、大分県では大分市での大友府内遺跡での調査成果などに加えて、
臼杵市野津町の下藤キリシタン墓遺跡の調査など活発な議論が起こっています。
竹田市でもサンチアゴの鐘の調査などが行われていますが、今回の議論には関わりなかったのが少し残念。
参加してじっくりと拝聴。
3500円の分厚い報告資料集を仕入れてきました。
府内遺跡や黒崎宿遺跡などでの出土メダイがカラー写真で掲載されるなどなかなかいい報告資料集でした。

かつて2009年に『奥豊後のキリシタン展』をしたことがありましたが、その際の取材で下藤キリシタン墓遺跡を訪れていました。

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覆い屋は「常珎」銘のキリシタン墓碑を保護するためのもの。
北側からパチリと撮影したものですが、少し伏碑状石組がみえています。
現在確認調査では、キリシタン墓とみられる多数の石組遺構や円形・道路状石組遺構が検出されています。

いろいろと情報と資料を仕入れてきた有意義な1日でした。
8~10月まであちこちに出かけて現在を把握することで、2年間の穴を埋めるリハビリを行ってきました。
しっかりと今後の活動にフィードバックさせたいと思います。

2012年10月10日 (水)

鞆の浦と鞆城

9日は修論を書いて以来、16年ぶりに鞆の浦に行ってきました。
あれからいろんなことがありましたが、鞆の浦は相変わらず鞆の浦でした。
でも、以前に増して観光客が増えているのはうれしい限りです。
医王寺からの眺めです。↓

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行きはトモテツ、帰りは尾道行きのクルーズ船に乗りました。
なかなか観れない洋上からの鞆の浦↓

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実は鞆の浦は城下町です。真ん中の山上には福島正則の重臣大崎玄蕃が築いた鞆城があります。
高田徹氏の縄張り調査と論文(『中世城郭研究』第9号)に学びながら修論をやった頃を思い起こします。
現在の西町・道越町の港部分を囲むように福禅寺・大河島まで尾根伝いに城域を伸ばしていたとされます。
そして、石井町や江の浦町、寺町界隈の街路は鞆城と麓の二の丸(後の鞆奉行所)の塁線に沿っていて、
この時の築城で、中世以来の港町から大きく町の構造が整備されたことを物語ります。
写真は歴史民俗資料館のある主郭部の石垣です。真ん中の算木があるのが当時のものです。それ以外は後世のダミー。
なお、西町からも発掘調査で石垣が検出されています。

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鞆城は中・近世移行期を扱うボクの城郭研究のスタートの地です。

2012年10月 8日 (月)

宇喜多氏研究の最前線。

7日は岡山市で開催された宇喜多氏研究会に参加してきました。
前日から夜行バスで倉敷に着いてから岡山へ。momo号の走る岡山電気軌道、まるでどこか異国の街のようです。

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会場は、県庁前電停から、岡山県庁前の岡山県立図書館2階デジタル情報シアターです。
朝から会場に行くと報告者と主催の皆さんが居られましたので合流してよもやま話。
もちろん、合言葉も(^^
会場は、かなりの人数で埋まりました。
ボクラのような研究畑から歴史愛好者の方々まで、さすが宇喜多秀家です。

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今回は宇喜多秀家に照準をあわせてのリレー報告。順番は以下の通りでした。
10:05~10:55  「宇喜多秀家像の現在」  大西泰正氏(日本史研究家)
11:05~11:55  「宇喜多秀家と城下町岡山の成り立ち」  森 俊弘氏(岡山地方史研究会・真庭市教育委員会)
13:00~13:50  「宇喜多秀家と鷹」  畑 和良氏(倉敷市総務課歴史資料整備室)
14:00~14:50  「宇喜多秀家の分国運営」  森脇崇文氏(岡山地方史研究会・徳島城博物館)
15:05~15:55  「文禄の役における宇喜多秀家」  しらが康義氏(岡山県立記録資料館)
16:05~16:45  徹底討論 宇喜多秀家の実像を語る!

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今回のリレー講演会、主催などは研究会組織ではなく主催者と報告者でつくった手づくりのものとのこと。
今日の宇喜多氏研究の嚆矢となった1984年の論文
「戦国豊臣期大名宇喜多氏の成立と崩壊」(『岡山県史研究』第六号)
「宇喜多氏関係史料目録」まとめられたしらがさんを筆頭に若手研究者まで揃えたラインアップはさすがです。
そして、近年の宇喜多氏研究の厚みを感じさせるものでした。
全体としては本国での宇喜多秀家の実像がテーマに偏ったきらいがあり、豊臣政権下での宇喜多秀家の位置づけなどが少なかったのが難点。
それを除けば、宇喜多氏研究の現在を知るのに最適な研究報告会だたっと思います。
宇喜多秀家の領国経営や城下町整備、宇喜多騒動などの評価について報告者の微妙な違いから議論を深めることも期待できる内容でした。
ボクも美作国をフィールドとする(備前国は小早川・池田氏時代の改変が大きい)城郭遺構から見た宇喜多氏を
テーマのひとつに考えて進めていますのでじっくりと拝聴しました。
直家時代からの織豊政権との絡みについても今後聴きたいテーマのように思いました。

懇親会ではしらがさんが30年前には議論する相手が居なく寂しい思いをしていたが、今回は夢のようだと申していたのが印象的でした。

また、九州での森山恒雄さんたちの太閤蔵入地の研究などに刺激を受けて宇喜多氏でもできないかとコツコツやってきたと申しており、
当時の西国における豊臣政権期研究のいぶきを感じさせるお話の数々を伺えたのも大きな収穫でした。
できれば、今回のリレー報告を深めた論集ができることを期待したいと思うところです。

2012年10月 5日 (金)

合馬の小三ツ嶽城を臨む。

北九州市は臨海部は近代以降、工業都市となっていますが、
山を越えて急峻な山地の南側にある紫川上流には田園地帯が広がります。
香月氏の拠点香月・畑から峠を2つ(筑前・豊前の国境石のある田代が途中にある)越えるとタケノコで有名な合馬。
ここは中世の規矩郡大野庄の故地でもあります。
そこにある小三ツ嶽城の登り口へ寄った際の秋晴れの写真。
写真左手の山は、三ツ嶽城。永禄11年に毛利軍に攻められ落城した長野氏の拠点です。
遺構的にも永禄期の基準となる遺跡と思っています。
その内、登りたいと思っていますがとりあえず今回は遠くからパチリ。

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2012年10月 3日 (水)

豊前松山城からの眺め。

16世紀には、大内・大友、毛利・大友間の抗争の舞台となった豊前松山城。
北九州の戦国・織豊期の重要な舞台となった城郭跡です。
防長の勢力が周防灘から上陸する場合、豊前松山城は押えないと行けない要衝の地になります。
よってここを押えると、西の筑前国遠賀郡や南西の豊前国田川郡、南の同国京都郡に進出することができます。
逆にここを押えられると防長勢には門司城と門司六郷に押し込められることになります。
それ故、門司城と共に激しい争奪戦が繰り広げられました。
現在は土砂採集でかなり破壊を受けていますが、山上周辺が城跡としてが辛うじて残っています。
もっとも、現存する遺構は黒田氏時代の改修によるものです。石垣列と櫓台跡、外桝形虎口が確認できます。

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ということで、現在は草刈りがしっかりしていて登りやすい(但し、雀蜂の巣あり、要注意でした)豊前松山城。
そこから豊前国規矩郡(現:北九州市小倉南区・小倉北区・門司区)と同国京都郡・仲津郡(現:行橋市、みやこ町)
が一望できます。この眺めをみると資料に出てくる天正10年頃の高橋元種と長野助守の抗争がイメージできます。

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↑北側の、豊前国規矩郡の眺め。左手に長野城が見えます(たぶん)。

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↑南側の、豊前国京都郡の眺め。真ん中奥に馬ヶ嶽城が見えます。

背後の山地が迫り南北に分けると共に周防灘に突きだす半島状の立地にある豊前松山城、
まさに、東西南北の陸海をつなぐ要衝の地です。

Foxkeh! フォクすけ!


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