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2012年6月28日 (木)

戦国期の大名系城郭と地域性。

先週に竹さんから玉稿を賜りありがたいことです。
しっかりとご返事を出したいところなのですが、今回のテーマは十分に準備しないとと思うところがあります。
というのも、近世につながる織豊系城郭と戦国期の大名系城郭についてかみ合っていないところがあるからです。

詳細はこれまでのやりとりを整理するとして(なにしろ以前のことを忘れっぽいので読み返して整理しないと。。。)、
とりいそぎ、2つのポイントだけ。
(文意が変なところを修正しました。基本的な内容は変更ありません。)

1)城郭跡は最終段階の様相を示す資料として捉えること。

私は、杉山城を後北条氏系城郭として考えているのですが、最終段階を評価するなら、

それ以後の織豊系城郭として考えないのはなぜかという問題。

↓

杉山城に限らず、関東の城郭では徳川氏以降の可能性を考える必要が常にあります。

つい最近まで扇谷上杉氏まで遡らないと!と言っていた関東の戦国史研究も、最近は逆に徳川も考えなければと言っていますが、

以前に齋藤慎一さんもご指摘されていますが、城郭跡の評価において徳川氏段階から暫時考えるのは以前から当然のことと考えてきました。


私は、後北条氏系城郭の特徴として、角馬出しの前にさらに角馬出しを重ねる、或いは、角馬出しの空間が肥大化して曲輪化しその前にさらに角馬出しを重ねることで、
次の曲輪を再生産し城域を形成するモデルパターンを創出した、

この点が、後北条氏系城郭が戦国期城郭として卓越した縄張り技術と評価しているところです。

以前に歴史読本で書いたように、杉山城の縄張りは瀧山城などと同じく角馬出しを重ねることで曲輪の再生産するモデルパターンそのものである。

それ故に、後北条氏系城郭の中でも最終型に近いタイプ(つまり天正期頃)と評価している次第です。


ただ、「次の曲輪の再生産」というモデルパターンは織豊系城郭も同様です。
しかし、後北条氏が角馬出しを重ねるのに対して、織豊はL字の腕(石塁・土塁)を重ねることで連続した桝形虎口・馬出しが一般曲輪化する。という案配で基本となるパーツが違います。

中井均さんが織豊系城郭説を挙げたのもその辺の似た感じにピピンと来たのかもしれません……?

でも、縄張りからみれば、上記の通り、
後北条氏系にみられる角馬出しを重ねるモデルと、
織豊系にみられるL字の腕を振り出すモデルでは似て非なるものです。

その見極めから、杉山城跡は徳川氏以降のものではないと評価している次第です。

これまでの縄張り分析の蓄積を踏まえて事例の比較検討を行ってきた成果をベースに、文献史料・考古資料や研究成果を勘案しつつ、

遺構の読み込みを基本に城郭跡のおおよその年代観を地道に鍛えてきたのが村田修三先生以来の城郭研究です。

その手法で得られた上記の見極めをもとに、縄張りから考えた場合、杉山城跡は後北条氏の最終段階のものと考えるのが妥当と評価しています。

おそらく、文献史料を突き合わせていっても状況証拠でおおよそその辺に落ち着くのではないかと思っています。

一応、段階を追って可能性を検討しながら、新しい方から遡及させておおよその年代評価を行っています。


逆に、関東にみられるアゴ石のある門を持つタイプ、後北条氏段階と評価されていますが、すべて後に徳川氏が関わっているものばかり。

新しい方から考える側からすると、後北条氏に行く前に徳川氏段階の遺構の可能性を無視できないと思います。



2)大友氏系城郭がないというのに、後北条氏系城郭はあるとするのはなぜか。

↓

大友氏系城郭の否定=戦国期大名系城郭の否定と言うつもりはありません。
私の書き方がわるいのかもしれませんが。
全国に大名系城郭があるなんて、縄張り研究者の間で共通認識でも何でもありません。

各大名にそれぞれ「系城郭」がある、と探している方は居られるかもしれませんが、なかなか難しいと思います。

こちらの議論では、今のところ、はっきりした「大名系城郭」モデルは、台地状地形の多い中部・関東に偏っていると考えられています。

それが、織豊系城郭、武田氏系城郭、後北条氏系城郭です。

このいずれもが、天正期以降爆発的に縄張り技術を発達させたのではないかと推察できる点でも興味深い共通性を示しています。


それ以外の地域では、畝状空堀群や土塁、横堀などのパーツを組み合せて曲輪の外縁部を囲む防塁型ラインを造るのが主流です。
もっとも曲輪を並べて堀切や簡単な空堀がある程度の何の特徴もない城郭跡が大半ではありますが。。。

但し、それは○○系城郭といった独自の特徴を持つには至らず、防塁型ラインのパーツに地域的な違い(軍事的文化圏)がみられる程度です。

私が以前に大友氏系城郭がないといったのは、防塁型ラインのパーツの選択から地域的な違い(軍事的文化圏)の存在を指摘した上で、

「なんでも大名系城郭に結びつけてはいけませんよ」と警鐘を鳴らす意味で大友氏に独自の縄張り技術の規範がないと論じた次第です。

その代わり、地域の軍事的文化圏の枠組みの中から、技巧さや複雑さから秋月氏や筑紫氏など軍事的エリートが輩出されること、

彼ら後発組の有力国衆の方がさしたる共通性に乏しい大友氏などの「戦国大名」より高度な縄張り技術を使いこなす存在と位置づけたものです。

それにより、従来、大文字の「戦国大名」ばかり注目していた西日本の戦国史研究に対して、

城郭遺構からみると、後発組の有力国衆に天正中・後期の国衆の爆発的な発達が読み取れます、もっと注目してくださいと喚起した次第です。


以上のことから、私は大友氏系城郭の否定=戦国期大名系城郭の否定という考えではありませんのでよろしくお願いします。

逆に、これらの他の地域にまっとうな大名系城郭が見当たらない故に、

中部・関東の織豊系城郭、武田氏系城郭、後北条氏系城郭の卓越ぶりが浮かび上がってくると考えています。


以上、とりいそぎ、ウェブログに書いているつれづれなので齟齬がある点はご容赦ください。

きちんと整理してご返事を用意したいと思います。

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コメント

お忙しい中、御返信ありがとうございました。こちらも間違えている点が多々あるかもしれませんので、ご指摘の点を受け止めて、もう一度考えてみたいと思います。アゴ止め石の件はごもっともだと思います。非常に微妙だと思います。

すみません、ずーっと前から気になって仕方がない点があるので、以前にもうかがったかもしれませんが、これだけは是非お聞かせください。いつも大名系城郭の話になると、織豊系城郭・後北条氏系城郭・武田氏系城郭、そして在地系城郭、という分類をされますが、松岡さんがご著書の中で詳細に論じておられる「伊達氏系城郭」はどうなるのでしょうか? あれも2折れ1空間⇒食い違い虎口+連続虎口⇒枡形・馬出を含む連続虎口+2折れ1空間、というような発展段階とおおよその年代観(天正10年代)を提示していて、東国では後北条氏系・武田氏系と並ぶ、典型的な大名系城郭論だと思うのですが、御説では「他の地域にまっとうな大名系城郭が見当たらない」ということなので、松岡さんの伊達氏系城郭論は成り立たないというお考えでいいのでしょうか? 近年の大名系城郭論批判でも取り上げられている議論なので、その位置づけは重要だと思うのです。もしよろしければ、で結構ですので。

さっそく、ありがとうございます。
基本的には木島孝之さんの織豊系虎口変遷案(愛知城郭研究会報告第4号に収録)に沿って理解しています。
後北条氏系城郭と武田氏系城郭の理解も木島さんからのご教示がもっとも納得できるのでそれに沿って理解しています。
すると、身もふたもないのですが、織豊系、後北条氏系、武田氏系、その他と考えるのが説明しやすいのでその説を採っています。

伊達氏系城郭についても木島さんとお話する中でたまに議論にあがるのですが、その都度、横堀などとかみ合って機能する特徴的な虎口プランが伊達氏オリジナルとは限らないことから「何とも言えない」というか厳しいのではないかと言う結論になります。
というのも、伊達氏系城郭が分布する南奥は、竹さんが指摘する「年代観がどうして決まるのか?」という問題を抱えている地域だからです。松岡さんは戦場論から伊達氏と考えておられますが、前後して葦名氏ら在地の諸勢力→伊達氏→蒲生氏→上杉氏・伊達氏(関ケ原戦時)→蒲生氏→加藤氏と頻繁に入れ替わっています。この内、蒲生氏、転封した上杉氏、加藤氏が技巧的な虎口プランを使う織豊系大名です。
よって、新しいところから遡及する立場からみた場合、彼らの可能性がないことを遺構論から証明してはじめて伊達氏のオリジナルと立証できます。精査しないといけませんが、個人的には「2折れ1空間」「食い違い虎口+連続虎口」「枡形・馬出を含む連続虎口+2折れ1空間」などは織豊系縄張り技術(亜流を含む)の可能性がないのか、常に疑っています。そこがクリアしづらい地域での立論なので何とも言えないというのが今の考えです。

縄張り研究をする場合には、村田修三氏の初期の年代論や千田嘉博さんの織豊系城郭編年案、木島孝之さんの織豊系虎口変遷案のような理念的研究や、九州で論じるようにある程度しっかりした下限を押えておくなど、おおよそでも年代観を遺構から固めておく必要があります。それを曖昧に論じてしまうといつの時代でも説明できてしまう矛盾を抱えてしまいます。
その意味で、竹さんが以前に中井さんなどを批判して城郭研究者は年代観に一貫性がない→城郭から論じているのではなく、自分がそう思う時代が念頭にあって解釈しているだけではないかという素朴な疑問と批判はごもっともだと思います。

そういう「何とでも言える」矛盾に落ち込まないように、木島さんからは常々、村田・千田・木島各氏が組み立ててきた理論的研究を理解して、遺構から年代観が絞れる範囲の事例を根気よく積み上げて、複数の立論に矛盾が生じないよう論じることを教わってきました。ですので、曖昧に年代観が絞れないものについては「これに関しては、遺構からでははっきりとわからない」と留保することにしています。わかるところから類推して可能な限りで絞り込みは試みはしますが、無理して立論して矛盾を来すのは研究ではありませんので不必要な踏み込みは慎むようにしています。

他の方はともあれ、城郭研究の中で自分たちは真の学際的研究において城郭跡を扱う縄張り研究の利点を最大限活かすべく、年代観を常に意識して資料論を鍛練するよう留意してやっているつもりです。その辺はよろしくご理解ください。

なるほど、ありがとうございました。いつもズケズケ聞いてすみません。う~ん、やっぱり縄張研究は難しいですね…

 縄張りと考古学の二刀流を自称するものの独り言です。
 杉山城の問題に関してですが、発掘調査で鉄砲玉が出土している事実は、あまり注目されていないようですが…。中学・高校の歴史の授業で、鉄砲伝来は「銃後の良さ(1543年)」と教わりましたが、これは文面通りに受け取れば、16世紀中頃になるのではないでしょうか?。
 それから用語設定自体にも、問題があったかもしれません。最初に誰が「後北条系城郭」と言う用語を使ったのか私は知りませんが、最初から「関東系城郭」とでも行っておけば問題はなかったのではないでしょうか?事実あの手の縄張りは、関東地方にしかないのですから。
 同様に丸馬出に関しても、武田か徳川かと議論されていますが、これも「甲信系城郭」とでも言っておけば問題はなかったはずです。
 そう言えば、かつて八巻孝夫氏が『読売新聞』の文化欄の記事で、「近世城郭ではなく畿内風城郭と呼ぶべき」と言った趣旨のことを書かれていたのを思い出しました。
 城郭史(いわゆる縄張り)研究者は、中世・戦国史出身の方が多いせいか、すぐに遺構(縄張り)と有名な戦国武将とを結びつけたがる傾向が無きにしも有らずですが、確実に押さえられる事実(例えば縄張り文化の地域性など)から押さえていく方が良いと思うのですが。
 でも近時では、中世土器研究の世界でも「○○氏系かわらけ」などと言う概念も飛び出していますが、ああ言うの如何思われますか?
 

ごぶさたしています。12日から竹田市が被災していましたのでそちらに注意があってご回答が遅れて申し訳ありませんでした。
鉄砲玉の件ですが、日頃、遺物を年代の決め手とするのに、年代の合わない鉄砲玉は遺構面が一層しか検出されていないと言うにも関わらず、地表面にある(それでも表採遺物ですが)ものとして評価に入れないのは理解できません。最初から瀬戸美濃編年ありきでやっているからではないかと邪推するところがあります。
次に、用語の問題ですが、初期には戦国大名が独自の様式を持っているのではないかとする仮説からも調査研究が進んでいったと思います。その中で後北条氏系城郭、武田氏系城郭が想定され、織豊系城郭という枠組みも生まれてきたと思います。ボクが九州で論じたのは、必ずしもそうでなくて地域の縄張り技術の文化圏に規制される地域も多くあるという点でした。ただ、イコール大名系城郭否定ではなくて、それでもやはり大名系城郭として評価されるべき事例もあるのではないか、そのレアな事例が織豊系城郭と武田氏・後北条氏とみています。健弐さんのおっしゃる地域性でみるべきではないかというアプローチもあるとは思いますが、私は上記三つの系城郭は成り立つと思っています。
最後に、かわらけのことですが、ただでさえ地域性の強い中世地場の土器を後北条氏などがどう規制するのか理解できません。こちらこそ地域経済圏や都鄙の交易などから検証されるべき性格のものと思われます。

すみません、こんなところでいかがでしょうか。

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