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2012年4月 8日 (日)

文禄・慶長検地帳の村落、直入郡城後地区を行く。

5月末に近戸の寓居から上津役へ引っ越すまでは週末は竹田市と往来。
4月第一週の週末、
由布院・湯平経由で直入町方面から最初の竹田市入りです。
さっそく、ライフワークとする中・近世豊後直入郡の研究を進めるべく、直入町上田北の城後地区などの下見をしてきました。

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城後地区(城後村)は、城後川上流の城後と下流の荻原から構成されています。
名前の通り、大友氏時代の有力国衆田北氏の居城、田北本城↓の西南に位置します。

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戦国・織豊期の城後村は、田北氏の一族城後氏が割拠し、文禄年間に大友氏改易により帰農して田北氏を名乗ったようです。
その後は近世を通して城後村庄屋として続き、良質の近世文書群(田北家文書)を遺してきました。
昭和40年代に佐藤満洋氏らによる文献調査を経て、
現在は大分県立図書館に所蔵されています。
その中に、400年前の文禄・慶長期の豊臣政権下での検地帳、及び寛永年間の竹中伊豆守による検地帳が伝わっています。

文禄・慶長期の太閤検地をもとに、佐藤満洋氏により大分県地方史で考察が発表されています
しかしながら、それ以来、現地踏査などを踏まえた総合的調査は成されないままに圃場整備も行われてしまいました。

それでも、今日もなお村落景観を残す城後地区は、400年前の様子を文献と現地調査から調べる余地が残されているように思えます。
併せて、近隣の田北本城・松牟礼城の調査も併せてこの際整理しておこうと思い、フィールドに加えることにした次第です。
今後、閉鎖字図の確認や聴き取り調査などを行いつつ400年前の景観復元を試みたいと思います。ご協力よろしくお願いします(私信)。

既に、荻地域では葎原郷の城郭跡と関連資料の調査から近世初頭、400年前の荻台地について調べる準備を進めています。
また、直入地域でも岡藩の支城法螺貝城の調査から当時の境目地域の動向を進める予定です。
これに加えて、親しい荘園研究者や別府大学などで行われている荘園故地調査の手法に学びつつ、
どこまでやれるかわかりませんが、痕跡から丹念に読み解くフィールドワーク系歴史学の「地域学」への有用性を示す意味でも、
上田北に残る400年前の土地家屋台帳(検地帳)から当時の村落景観の一端を読み解ければ、と考えています。

上田北城後地区の場所です↓

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コメント

はじめまして!
荻町の葎原郷に関心を持っていますが、地図で調べてもどこにあるのか良く分りません。城郭跡と関連資料の調査、楽しみです。荻台地は古代から歴史に残る地域ですが、なかなか現地に足を運ぶ機会がありません。楽しみにしております。 別府市占部たまみ

ご返事が遅くなって申し訳ありません。
メールにて回答させていただきました。よろしくお願いします。

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