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2012年4月28日 (土)

豊後南山城を訪ねる。

28日は竹田市に戻り、白丹のギャラリー・ダルヴィーダで打合せ。
その帰りに白丹にある南山城跡を観てきました。

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戦国後期に稲葉川上流の白丹・宮城地域を統治した志賀氏(下流の志賀城・岡城に拠った志賀氏と別系統、南志賀氏と呼ばれる)の居城とされます。
城域はかなり後世の改変(植林の棚など)が入っているため、曲輪の配置などがわかりづらいところがあります。
下の写真にある正面の針葉樹のあるピーク部分が主郭と考えると、ほぼ自然地形に沿って平坦地が並ぶ配置となっています。
一部に堀切などが確認できますが、後世の掘り抜き道の可能性もあり精査する必要がありそうです。

しかしながら、大友軍主力を為した直入郡衆の主力であると共に、大友氏の重臣クラスの南志賀氏の居城であっても、
この程度の縄張りで十分だったことは注目されます。
豊後国南西部の阿蘇・久住の火山性の台地状地形に拠った国衆の城館はおおよそそうした傾向があります。
直入郡衆の主力を成した都野の朽網氏も同様で、最終段階まで丘陵地に居館を構えており、
背後の詰城、山野城も尾根筋をそのまま城域に取り込んで整備し、大堀切でぶつ切りにしたものです。
北志賀氏(下流域に拠った志賀氏)も大友氏の宿老クラスで大友軍の、志賀城や豊後岡城(中川氏の改修で以前の姿はわかりづらいが)、
騎牟礼城なども地形をそのまま用いて城域に整備したものです。


面白いのは、同じ直入郡でも南部の岩盤質の褶曲山地に拠った入田氏や大野郡緒方衆の持城では、
岩山の痩せ尾根を堀切や畝状空堀群で区切り、岩盤を削平したものが中心になります。
また、北部の下竹田地域では台地状の地形や山頂部でも横堀状の堀切や畝状空堀群でしっかり仕切るようになります。

直入郡では、入田氏と志賀氏や緒方衆・志賀氏は反大友方・大友方などの政治的立場で敵対しますが、
そうした枠組みと別に地勢条件によって選択した縄張り技術に違いがあり、地勢条件がある程度影響を及ぼしていたことが見て取れます。
戦国期城郭では、北東北型・南九州型のぶつ切りタイプの城館が火山灰台地地帯に分布することなどから
各地の地勢条件も在地系縄張り技術を左右する要因のひとつと考えることができると思います。
直入郡の城館からも郡内で異なる地勢条件と縄張り技術の分布が重なっており、在地系縄張り技術の様相を知る興味深い事例と言えます。

南山城跡は縄張り構造からすると大きな特徴は見出せないのですが、直入郡の城館全体で考えると重要な資料群のひとつと評価できます。
このように、城館を考えるときは、単体で考えるだけでなく複数の城郭群から読み解くことも考える必要があります。

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