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2012年4月30日 (月)

『毛利家の至宝』の図録を仕入れました。

サントリー美術館で5/27まで開かれている『毛利家の至宝』展の図録を仕入れました。
報道ステーションを見ている方なら、毛利庭園というのでなじみがあると思いますが、
東京ミッドタウンは旧萩藩の毛利家下屋敷があったところです。
と言うことで、防府市にある毛利博物館の名品+毛利家下屋敷関係資料のセットで構成された展覧会の様子。

美術史的には、毛利博物館蔵の雪舟筆「山水長巻」などの一連の水墨画でしょうが、
ボク的には山口県文書館の「毛利家麻布御屋敷差図」などが興味あるところ……ですが、基本、美術工芸中心の展覧会ですね。
とあれ、毛利博物館のコレクションがまとまって一冊に仕上がっているので、とりあえずで仕入れた次第です。
これで大方、毛利氏関係はしばらくいいかなあ(^^

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2012年4月28日 (土)

豊後南山城を訪ねる。

28日は竹田市に戻り、白丹のギャラリー・ダルヴィーダで打合せ。
その帰りに白丹にある南山城跡を観てきました。

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戦国後期に稲葉川上流の白丹・宮城地域を統治した志賀氏(下流の志賀城・岡城に拠った志賀氏と別系統、南志賀氏と呼ばれる)の居城とされます。
城域はかなり後世の改変(植林の棚など)が入っているため、曲輪の配置などがわかりづらいところがあります。
下の写真にある正面の針葉樹のあるピーク部分が主郭と考えると、ほぼ自然地形に沿って平坦地が並ぶ配置となっています。
一部に堀切などが確認できますが、後世の掘り抜き道の可能性もあり精査する必要がありそうです。

しかしながら、大友軍主力を為した直入郡衆の主力であると共に、大友氏の重臣クラスの南志賀氏の居城であっても、
この程度の縄張りで十分だったことは注目されます。
豊後国南西部の阿蘇・久住の火山性の台地状地形に拠った国衆の城館はおおよそそうした傾向があります。
直入郡衆の主力を成した都野の朽網氏も同様で、最終段階まで丘陵地に居館を構えており、
背後の詰城、山野城も尾根筋をそのまま城域に取り込んで整備し、大堀切でぶつ切りにしたものです。
北志賀氏(下流域に拠った志賀氏)も大友氏の宿老クラスで大友軍の、志賀城や豊後岡城(中川氏の改修で以前の姿はわかりづらいが)、
騎牟礼城なども地形をそのまま用いて城域に整備したものです。


面白いのは、同じ直入郡でも南部の岩盤質の褶曲山地に拠った入田氏や大野郡緒方衆の持城では、
岩山の痩せ尾根を堀切や畝状空堀群で区切り、岩盤を削平したものが中心になります。
また、北部の下竹田地域では台地状の地形や山頂部でも横堀状の堀切や畝状空堀群でしっかり仕切るようになります。

直入郡では、入田氏と志賀氏や緒方衆・志賀氏は反大友方・大友方などの政治的立場で敵対しますが、
そうした枠組みと別に地勢条件によって選択した縄張り技術に違いがあり、地勢条件がある程度影響を及ぼしていたことが見て取れます。
戦国期城郭では、北東北型・南九州型のぶつ切りタイプの城館が火山灰台地地帯に分布することなどから
各地の地勢条件も在地系縄張り技術を左右する要因のひとつと考えることができると思います。
直入郡の城館からも郡内で異なる地勢条件と縄張り技術の分布が重なっており、在地系縄張り技術の様相を知る興味深い事例と言えます。

南山城跡は縄張り構造からすると大きな特徴は見出せないのですが、直入郡の城館全体で考えると重要な資料群のひとつと評価できます。
このように、城館を考えるときは、単体で考えるだけでなく複数の城郭群から読み解くことも考える必要があります。

2012年4月27日 (金)

豊前小倉城の馬出し。

豊前小倉城跡と言えば、寛永年間から幕末まで続いた藩主小笠原氏の印象が強いようですが、現存する小倉城の基礎を築いたのは細川忠興です。
城郭跡として考える場合には、慶長〜寛永期に豊前国の国持大名だった細川氏のイメージをもっと出したらいいのになあと思うところ。
忠興が手がけた居城クラスで今日も当時の姿を残す事例は小倉城跡ぐらいなものなので、忠興と小倉城はリンクさせる価値ありです。
幸い?小倉城に入部した小笠原忠真の兄弟が細川忠利(忠興の後継)夫人でもあり、義兄弟の関係。
ということで、細川・小笠原氏という文化面にも精通した著名な武家が小倉城跡でリンクするというのも面白いところです。

そんな小倉城跡は主要部を除いて都市化していますが、それでも今日までなんとかある程度残りが良い状態にあります。
織豊系縄張り技術のひとつである馬出しを重ねて城域を構成するタイプの近世城郭の代表例として評価される重要な城郭遺跡です。

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織豊系縄張り技術ベースの近世城郭については、「外桝形虎口」を重ねて城域を構成するタイプ(熊本城跡・福岡城跡)と、
小倉城跡のように比較的平地の城郭跡で「馬出し」を重ねて城域を構成するタイプの二つの系統があります。
詳しいことは、木島孝之氏の織豊系虎口プラン変遷案や千田嘉博氏の織豊系虎口編年案などを参照していただければと思いますが、

後者の「馬出し」タイプは市街化により破壊されることが多く、今日なかなか良好に残る事例が多くありません。

その中で、縄張り研究では、小倉城跡は開発の手や後世の改変部分が多いものの、当時の縄張りの様相がわかる数少ない事例と評価されています。
例えば、主郭(本丸)周辺では、現在、北九州市役所の議会棟となっている一帯や、八坂神社の敷地、小笠原庭園記念館の一帯、
そして、虎の門口の外にある三方の堀はないもののリバーウォークの敷地を成す街区などはかつての縄張りの雰囲気を伝えます。

いずれも、天守が復元されている小倉城主郭からの門の正面で出撃の足場となる「馬出し」が肥大化して曲輪となったものにあたります。
それらの曲輪化した馬出しの出入り口には石垣塁線が残されたり通路を構成する堀が貫入するなどして、今日も複雑な形状を残しています。
そうした「痕跡」を追いかけることで、現在は城址公園の小倉城跡から、慶長初期の細川氏による縄張り技術の一端が読み取ることができます。

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そうした「現存する小倉城跡」の面白さを伝える「城あるきレク」がいずれできればよいなあと思う次第です。

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毎朝通う道筋が城郭の出撃路であり、目の前のモノが堅固な守りを成す城門跡だとかわかると、明日から日常が違う風景に見えるかもしれません(微笑)

2012年4月23日 (月)

細川忠興と小倉城。

今回、北九州市に拠点を移ったこともあり、通勤の間『江戸城の宮廷生活』を読んでいました。

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北九州といえば、関ケ原後には、豊前国を領した細川氏と筑前国を領した黒田氏が激しく対立したゆかりの地。
ですので細川忠興にまつわる文献史学の成果として読んでいた次第。
何度か読み返していますが、何度読んでも忠興の人物像は自分にはない要素なので面白い。
そんな忠興が築いた
のが小倉城跡・小倉城下町ですので、小倉城跡と細川忠興をリンクさせてうまく紹介できないかなと思う次第。
ご存知の通り、細川忠興はピンで取り扱ってもなかなか面白い人物。史料から人物像がある程度導かれているのは上記の書籍の通り。
短気な武闘派でありながらクールな文化人という忠興の人生に照準を併せて整理したら面白いだろうな。と思います。

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細川忠興の居城クラスでは勝龍寺城を皮切りに宮津・田辺城から中津城、熊本城(厳密には息子忠利が入城)、八代城とありますが、
彼が直接関与した城郭跡で基本形を残すのは小倉城跡ぐらいでしょう。
城館史料学の立場からは、既に木島孝之氏の本城・支城体制の成果が提出されています。
それを踏まえつつ、現存する小倉城跡を丹念に拾い、現存しないけど城下を広く囲い込む外郭ライン(欧州の幾何学状の近代都市のよう)
まで含めて紹介したいものです。

せっかく関わりを持ったので、これまでの先行する諸成果を踏まえつつ、もうひとつのライフワークなテーマとして
城郭跡から小倉城跡と築城主体である細川忠興と近世初頭細川家の様相を整理しつつ勉強できればと思います。

細川忠興ゆかりの小倉城跡と言われるように、ひとつひとつ資料を積み上げていければ幸い。

2012年4月22日 (日)

旧福岡城表門(崇福寺山門)を訪ねる。

21日はお城仲間の方にアニバーサリーな所用があったので福岡行き。
たまたまfacebookにて、黒田家菩提寺の崇福寺山門(旧福岡城表門)が公開されていることを教えていただいたので、
それに合わせて見学してきました。
今年の春から、住処を筑前国御牧郡へ移し&13年ぶりに福岡県復帰なので、筑前国52万石の黒田家にご挨拶も兼ねて?のご挨拶です。

この山門は、大正七年に石垣に挟まれるように築かれた本丸表門を崇福寺が譲り受けて移築したものです。
城門の左右部分を切り離して門構えの部分で再構成されているので少し不格好な感じがします。
黒田家菩提寺ながら明治以降は衰退していた崇福寺でしたが、明治半ばに住職となった玄外和尚が再興に務めて再建事業を進め、
その一環として福岡城本丸表門を譲り受けての山門整備だったようです。
一部には福岡城跡に戻そうという動きもあるようですが、近代の崇福寺再興を物語る歴史資料もあることを鑑みれば、
移築された事実を重んじて、この山門は崇福寺にあった方がいいのではと思います。
今回の公開では、門の二階も入れました。中では台風被害で葺き直した江戸期の鬼瓦や古瓦も展示されていました。

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黒田家墓所も公開してましたので、訪問しました。
墓所は後に整備されたようで、思った以上に整然とパターン化されたものでした。
少し拍子抜け(^^

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さて、次の機会は豊前側の細川家、小笠原家関係も訪れないといけませんね。

2012年4月 8日 (日)

文禄・慶長検地帳の村落、直入郡城後地区を行く。

5月末に近戸の寓居から上津役へ引っ越すまでは週末は竹田市と往来。
4月第一週の週末、
由布院・湯平経由で直入町方面から最初の竹田市入りです。
さっそく、ライフワークとする中・近世豊後直入郡の研究を進めるべく、直入町上田北の城後地区などの下見をしてきました。

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城後地区(城後村)は、城後川上流の城後と下流の荻原から構成されています。
名前の通り、大友氏時代の有力国衆田北氏の居城、田北本城↓の西南に位置します。

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戦国・織豊期の城後村は、田北氏の一族城後氏が割拠し、文禄年間に大友氏改易により帰農して田北氏を名乗ったようです。
その後は近世を通して城後村庄屋として続き、良質の近世文書群(田北家文書)を遺してきました。
昭和40年代に佐藤満洋氏らによる文献調査を経て、
現在は大分県立図書館に所蔵されています。
その中に、400年前の文禄・慶長期の豊臣政権下での検地帳、及び寛永年間の竹中伊豆守による検地帳が伝わっています。

文禄・慶長期の太閤検地をもとに、佐藤満洋氏により大分県地方史で考察が発表されています
しかしながら、それ以来、現地踏査などを踏まえた総合的調査は成されないままに圃場整備も行われてしまいました。

それでも、今日もなお村落景観を残す城後地区は、400年前の様子を文献と現地調査から調べる余地が残されているように思えます。
併せて、近隣の田北本城・松牟礼城の調査も併せてこの際整理しておこうと思い、フィールドに加えることにした次第です。
今後、閉鎖字図の確認や聴き取り調査などを行いつつ400年前の景観復元を試みたいと思います。ご協力よろしくお願いします(私信)。

既に、荻地域では葎原郷の城郭跡と関連資料の調査から近世初頭、400年前の荻台地について調べる準備を進めています。
また、直入地域でも岡藩の支城法螺貝城の調査から当時の境目地域の動向を進める予定です。
これに加えて、親しい荘園研究者や別府大学などで行われている荘園故地調査の手法に学びつつ、
どこまでやれるかわかりませんが、痕跡から丹念に読み解くフィールドワーク系歴史学の「地域学」への有用性を示す意味でも、
上田北に残る400年前の土地家屋台帳(検地帳)から当時の村落景観の一端を読み解ければ、と考えています。

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2012年4月 6日 (金)

『戦国の軍隊』を読む。

西股総生さんから新著『戦国の軍隊』をいただきました。ありがとうございますヽ(・∀・)ノ

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さっそく4月2日から通勤の西鉄バス内で読みました。
西股さんが以前に城郭研究者セミナーで報告された際の「兵種別編成方式」の視点をより進化させて論をまとめられています。
後半の織田・豊臣軍の性格とそれにまとわりつく兵站線の問題も興味深く拝見しました。

とあれ、「兵種別編成方式」については、今日の動員でも見られるような現場での単発的な編成ではないのかと思いつつ読みました。
方式といえるまで恒常的に機能したかは疑問ですが、史料からはある程度それを見越した動員要請(実際にできたかは別)まで到達したという印象です。
また、戦国期の城郭跡はその大半が防塁型ラインで囲い込むスタイルが主流だったことを思えば、野戦で組織戦が出来たのか少し疑問を感じます。
などと言う前に、負けぬように、西股さんの提示された視点を検証して城郭跡や史料からどうなのかを考えたいと思います。
一方、兵站線の問題は、豊臣軍の西日本進出の際にフロイスが指摘しているところですが、
他の軍隊では兵站線の限界を前提に作戦展開を図ったのに対して、多大な兵力を投入し、兵站線の問題も押しきるだけの実践力こそが、
朝鮮出兵に至るまで振り切れるほどの軍事性を極めた豊臣政権の特徴が出ているのではないかと思う次第。

いずれにしても、春から興味深い成果と刺激をいただき、ありがたいことです。

2012年4月 1日 (日)

13年ぶりの復帰。

2012年、4月から竹田市を離れて、福岡県北九州市に拠点を移しました。13年ぶりの福岡への復帰です。
九州大学の学生・院生時代を過ごした福岡市から離れて竹田市役所に就職したのが13年前。
そこで、行政職の基本と学芸職であれこれ経験させていただきました。
しかしながら、稼業の部分で行政職の経験を踏まえた上で専門的な場所で学びを深めるラストチャンスを得たので、
再び福岡県内(福岡市じゃないもうひとつの方だけど)に拠点を移すことにしました。
大学院時代、福岡市周辺の城館調査からはじめて豊前国まで調査範囲を広げる準備をしている最中に竹田市に採用されたのですが、
稼業以外の本業の分野では、その続きを再開することが出来そうです。
その一方で、これまでお世話になってきた竹田市に対して自分の専門領域できちんと成果をあげることができないのは心残りな部分です。
その分は、ひきつづき竹田市も重要な研究フィールドとして外部の専門家として関わりを持っていくつもりです。
稼業なことは書けませんが、それ以外で進める本業のアレコレはこの「あれこれラボ」に綴っていきますね(微笑)

竹田市では、研究する身分が常に紙一重なことを体感しました。辞令ひとつで専門の先生と呼ばれたり、市井の「お詳しい」方になったりします。
そうした体験を経て、専門的な属性に甘んじることなく、そうした身分が外れたときにも本業で「これが自分のライフワーク」と言えるものを持っているのか?
これを常に問いかけながら、今後とも自分の研究をまとめていきたいと思います。

新たな場所に拠点を移すとは言え、竹田市内の方々に「竹田の人より竹田に詳しい」と評価していただいていただけに、
市外では城郭研究の分野で専門性を評価していただいた部分で、市内でも同様に自らの専門性を認めさせることが出来ていたならば、
このすばらしいフィールドを全国に伝えることができたという無念さは変わりません。
今後は、竹田市内では「外部から来る専門家」として幾許とも研究を進め、皆さんの恩義に報いたいと思います。
また、今後も屋根のないあおぞら博物館づくりという岡の里事業実行委員会以来のプロジェクトに在野から支援と関わりを持ちながら、
研究者として竹田市=岡藩・熊本藩豊後領・天領=豊後国直入郡この素晴しいフィールドをモノにしたいと思います。
引き続き、ご理解とご支援をお願いいたします♪( ´θ`)ノ

ということで、14年目の稼業もがんばります。

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Foxkeh! フォクすけ!


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