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2012年2月27日 (月)

豊後岡城にある織豊系の桝形虎口、三題。

今さらな昔語りはさておき、今日も近戸の寓居から登城し、夕方巡見するのでした。

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みよ、絵に書いたような石塁(一部、土塁)が伸びて嘴状に形づくる、⎾┓のお手本のような外桝形虎口。
城外側へ出入り口を押出すという出撃的な姿勢がそのまま投影されたプランだとわかる好材料です。

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相変わらず、わかりづらいですけど、⎾┓なパターンが続く連続外桝形虎口の下原門跡。

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東中仕切門跡。これも外桝形虎口。横堀を越えて対岸に張り出す、千田Ⅳ期B、木島α系統Ⅶ類な虎口変遷モデルの指標でもある虎口です。
⎿┗┓ な形で、向こう側に土塁+石塁、
手前に土塀の基礎が土塁状に残っています。

今日もなお、良好な状態で織豊系縄張り技術の基本的な要素と教科書的な枡型虎口モデルから彼らの防禦の工夫がダイレクトにわかる点が
この豊後岡城の遺跡としての魅力です。また、その防禦の工夫が社会体制に昇華した姿を伝える点が史料的価値の高さを示しているのです。
高石垣の優れた事例は他にいくつもありますが、全体が残る故に、教科書的な虎口プランと防禦の仕組みがわかる近世城郭はそうそうありません。
なので、約400年前に織豊取立大名の中川氏が整備した虎口プランの的確な評価と保存を何度も指摘するのです。

これらの虎口プランが堪能できるのは、下草が霜で枯れた冬季に限ります。(上2つは伐採によりさらにわかりやすくなりました。)
ぜひ、飲み物持参でいらしてください。

2012年2月26日 (日)

講演会でない研究集会の重要さ。

私が在職していた頃、「近世の山城」というタイトルで全国城郭研究者セミナーを誘致しようと目論んだことがあります。
全国の城郭研究者や関係者に竹田に来ていただき、豊後岡城を中心に議論を開きたいと思ったからです。
城郭跡としては著名な割には、「調査事例」としては研究者の間で共有されていない状況をなんとかしたかったからです。
遺跡の調査成果から研究報告や論文などの公開、研究集会での報告といった研究上の交流を
積極的に展開しない限り、
知られていないのと同じだからです。
もちろん、セミナーを開くのは、これまでの自分が積み上げてきたネットワークや実力が試される機会なのですが、
多くの研究者を呼び集めることのできる研究集会は、講演会を何度も開くよりも遙かに対外的効果が見込めます。

また、セミナーのレジュメは有償頒布されるし、大会成果は翌年の『中世城郭研究』に掲載されるチャンスでした。
さらに、初の九州開催での全国城郭研究者セミナー、皆さんが九州の城郭を観るチャンスとして来てくれるという期待がありました。
会を開くことで、200名近い城郭史・歴史考古学・歴史学などの城郭研究者が集まる機会。
内には城郭研究とはどういうものかを、外には特徴ある縄張りを持つ近世山城、豊後岡城を全国の研究動向に印象づけるチャンスでした。

しかしながら、タイミングが合わない中、ようやく具体化しようとした頃には、
私の環境はそうしたものを受入れる状況にありませんでした。
そのため、2010年セミナーは泣く泣く関西の城郭談話会にお願いすることにしました。
嫌な予感はあたり、姫路大会が開かれる年には私は肩書きのないひとりの研究報告者として別の報告をすることになった次第です。

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一方で、そうした研究集会の重要性を証明するかのように、世界遺産を目指していた平泉町では2010年に町の八重樫忠郎氏が事務局を担い、
長年「学際的研究集会」を開いてきた著名な研究会である、中世都市研究会の平泉大会の開催を実現しています。
全国の中世都市研究の中に、平泉をどう位置づけるかを内外から確認しあう場となったようです。
その研究大会の成果は、2011年に刊行された『中世都市研究、都市のかたち—権力と領域—』で研究者に広く手渡っています。
ちなみに、この中世都市研究会は第9回大会(2001年)に大友府内遺跡を持つ大分市で開催されたことのある研究会です。
その際は、私も参加者としてフロアにて勉強させていただいたものです。

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このように、専門職に係わる人々ならば、自分の持ち分から成果を導き各地の研究会に積極的に参加し報告を重ねる中で
研究者同士のネットワークを築き、自分の所属元と全国の研究者ネットワークをつなぐことが求められます。
事業のためのネットワーク以上に、学術的なネットワークを築くことで、
自分の担当する遺跡が知られると共に、多くの研究者から関心をもっていただき、様々な見識に触れることができます。
それは限られたひとたちの中で議論することよりも遙かに有意義なものです。そうした知見を地元に還元する役割が求められるのです。

私のウェブログを見ていただいている方にはわかると思いますが、
中・近世遺跡については、歴史考古学・文献史学・歴史地理学・城郭史・建築史など様々なジャンルの人たちが
関係する幅広いネットワークがあります。
残念ながら、我がすまいの近くに近世初頭の城郭遺跡を持ちながら、その史料的位置づけを伝えることができていない憾みがあります。
それ故に、上記の責務を少しでも果たすべく、これまでに積み上げてきた「豊後岡城とその周辺の遺跡」など初期岡藩の関連遺跡について、
限られた条件下の現地調査とさらに限られた文献調査による研究を重ねてきました。

本年は、それらの成果をまとまった形として世に問う機会と考えている次第です。
もちろん、今の私は専門職的な環境・身分にはありませんので、民間学の立場からそれなりの手段を講じてベストを尽くしたいと思っています。

その一方で、今年は節目の年にあたるコチラに籍のある「専門職」な方には、私よりも遙かに恵まれた環境で専門的業務に従事されているのですから、
単に事業関係者を呼んでの講演会型セミナーではない、高い専門性の研究集会をどんどん企画・実践してほしいと願う次第。
その実現のためにも、担当者自らが研究報告者として積極的に中・近世移行期の学際研究ネットワークに参画し、
これまでの調査成果を全国の研究者に積極的に公表し門戸を開かれることを切に要望する次第です。
そうすることで、いずれ、この著名な城郭遺跡について研究者に認知されるような研究集会を誘致するネットワークと環境が整うと思います。

私自身、長年城郭研究絡みで研究会に参加する中で、重要な中・近世移行期の遺跡を担当された方々にお会いしてきました。。
そうした方々は、何年も係わってきた調査整備事業の成果を研究集会の報告などで発表され世に問われています。私も多くの学びを得てきました。
私の寓居の上にある近世城郭も、その歴史的価値が故に、中・近世移行期を対象とする多くの研究者が現場からの成果報告を待っていることに
もっと敏感になってほしいものです。

2012年2月21日 (火)

豊後岡城の古式と思われる軒丸瓦、城郭遺跡と瓦片についてなど。

最近、委員会さながらに夕方巡見していると、整備のための発掘現場に出くわすことがあります。活発に整備のための調査をされているようです。
おかげで、以前にお茶屋のオバチャンにみせていただいた↓の軒丸瓦以外にも、ボチボチ古式と思われる軒丸瓦が確認できるようになりました。

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↑は既に紹介した今は解体された茶店のオバチャンにみせていただいた軒丸瓦。その際、掲載許可はいただいています。
亡父が地獄谷で採集したとのこと。外縁部が厚くてしっかりした界線と左巻きの巴紋。12コの珠玉があります。

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↑は、年末に関西のKさんと歩いた際に、現在行われている桜の馬場(城代家老屋敷跡)の発掘現場の近くに置いてあった軒丸瓦。
一部欠けていますが、外縁部が厚くてしっかりした界線と左巻きの巴紋。12コの珠玉があるタイプです。
もちろん撮影しただけですのであしからず。

この他、現在行われている桜の馬場(城代家老屋敷跡)の発掘現場側に軒丸瓦があり、これをみると、
上2つよりも少し外縁部の厚みがないもの。界線はやや細く右巻きの巴紋。16コの珠玉があるタイプでした。
(もちろん実見しただけですので、持ち帰ったなどと言わないようにお願いします)

さて、現時点ではこの2つのタイプ、どちらも形式だけなら古式なもの(17世紀初頭)と評価できるようです。
豊後岡城は地表面に落ちているものをみた範囲では桟瓦も多くて、余り古い形式の瓦がないと思っていました。
しかし、最近これらの瓦をみるにつけ、あるところにはあるような感じがしています。

ところで、城館史料学会、城郭談話会、織豊期城郭研究会などで報告されてきた城郭瓦の成果は今日、広く認知されており、
城郭跡に関わる調査者ならば近世城郭における城郭瓦の調査とその成果が公表されることの重要性は共有されていると思います。
そのひとつとして、近世の城郭遺跡の瓦片の取扱いについて取上げると、『城館史料学』第三号の木島孝之氏の論文にあるように、
無数の瓦片などが多く含まれる近世の城郭跡の発掘調査では、そのほとんど一層に近い表土を矧ぐ際に、
どういった形式の瓦片がどれだけの分量含まれているか、またどういった状態で散布していたのかを
慎重に調査し記録しつつ作業を進めることの重要性が指摘されています。

瓦片ひとつひとつはたいした資料とはならないものですが、一括の分量として扱うことで、それらの分布範囲の傾向をつかむ材料として、
また瓦片のタイプ別含有割合から、当時の建造物の様相や瓦の使用状況を知る貴重なデータが得られるというわけです。
それを知らずに、礎石などの検出に目がいく余りガサッと表土を矧いでしまっては、こうしたデータ収集はオジャンになり、
史料的価値を秘めた瓦片は残土と共に廃棄されることになってしまうので要注意です。
調査者の見識ひとつで、瓦片が貴重なデータを導く資料となるかどうかが決まります。
これらの見識も、広く城郭関連の研究者・担当者のネットワークの中に入り議論を重ね、先行研究に学ぶ中から得られるものです。

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さて、豊後岡城の城郭瓦の先行成果としては、1988年の近戸門側の普請方近辺の発掘調査があります。
報告書では、その時の担当者さんが検出された軒丸瓦について形式表を提示し、遺物の年代観を提示するなど優れた先行研究を公表されていました。
しかしながら、その後は西ノ丸や大手門の発掘調査が成されたにも関わらず、まとまった報告書(事業報告書ではありません)も少ないまま推移してきました。

ようやくここ数年は西方外曲輪の家老屋敷跡を中心に発掘調査→整備が始まり、まとまった分布を知る重要な機会と思われます。
ですので、上記の写真にて、軒丸瓦などの城郭瓦の存在を外部の研究者の皆さんに紹介すると共に一括資料としての瓦片の取り扱いを含めて、
学術的にオープンな場での検証と幅広い調査成果の活用を広く喚起したいと思います。
その嚆矢として、関係筋には充実した専門職の体制をフルに回転していただくことで、
早い段階に、単なる事業成果報告や文献史料集に留まらない学術的な考古学調査とこれまでの成果を盛り込んだ
本格的な発掘調査報告書を刊行されることをお願いしたいところです。

2012年2月20日 (月)

伝えたいふるさとで400年前を探る。

岡城・城下町もいいけど荻台地もね、というわけではありませんが、
伝えたいふるさと2月号にて、「400年前の荻台地の城館」と題して、旧荻町指定史跡の下原城と弁当城・鴫田(峰)城を紹介しました。
11〜12月の調査成果をもとに作成した下原城跡の復元図を掲載し、下原城跡が中川領の支城として整備されたとの見解を示したものです。
加えて、別府大学の調査成果をより精査し自らの現地踏査を加味して弁当城の位置もおおよそ比定することが出来ました。
中川秀成入部時に荻台地に所領を得た与力の田原紹忍・宗像鎮続の持城、弁当城、鴫田(峰)城と、
葎原郷の統治拠点として機能した平地城館の弁当城と、軍事的機能が前面に出た下原城を対比することで、
これらの城跡が関ケ原戦時の荻台地における緊張状態が読み取れる重要な史料であることを紹介しました。

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今回は法務局にて行った閉鎖図面の調査から、400年前の下原城跡の復元図を作成しました♪( ´θ`)ノ
そうした成果を盛り込み地域をあるく眼差しから400年前の荻台地を紹介する、「伝えたいふるさと2月号」は、殿町の竹田創生館に置いてあります。
興味ある方はお問い合わせ下さい。

旧荻町の下原城に続いては旧直入町下竹田地区にある法螺貝城を紹介したいと思っています。こちらはバリバリの織豊系縄張り技術の土づくりの山城です。
このように、日々、着実に作業を進めていますので、できるなら専門職にあられる関係筋からも岡城築城前後、400年前の地域の文化財から
包括的な視点の歴史像を市民に示していただき議論できれば幸いに思います。

2012年2月 8日 (水)

寒暮登城。

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近戸谷の一番奥の光景。真上には西方外曲輪(西ノ丸)の外郭ラインを構成する櫓台が睨んでいます。
わざわざ谷のおおよそ真ん中の位置に合わせるように櫓台が
配置されている点が豊臣大名らしいテクニックです。

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どなたかが説明板を掲げているのに気づきました。拙稿の内容を踏まえた解説文になっていて面映ゆい限り。
豊後岡城の縄張りの特徴をいかんなく発揮している東ノ郭から下原門跡周辺について、先行研究とどう向き合いながら整備するのか、衆目がみています。

前にも紹介しましたが、城郭跡を扱う専門の方々なら下記の遺構が連続外桝形虎口にみえないようでは困ります。
400年の時を刻む遺跡に対して、城郭跡の縄張り理解という専門的な力量が問われる瞬間です。

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2012年2月 6日 (月)

豊後岡城主郭の軒丸瓦をみせていただいた思い出。

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写真は、豊後岡城の二ノ丸茶店のオバチャンに以前に見せていただいた軒丸瓦です。
はっきりとした年代はわかりませんが、瓦頭の様式的には古式な部類に属するもののようでした。
文禄慶長期とまでは言いませんが、様式としては寛永より遡る近世初期と言ってもよい部類の軒丸瓦でした。
オバチャンは亡父が地獄谷側の斜面で採集したと申してました。その際、今後の紹介についてご快諾をいただいています。

豊後岡城の地表面で確認できる古瓦は桟瓦など近世後半のものがほとんどです。
その中で古い様式の古瓦がいくつか確認されています。
20数年前の西ノ丸公有化に伴う普請方の発掘調査では、出土瓦から瓦編年表が作成されています。
その中でも近世初頭に遡るだろう軒丸瓦の瓦頭が記録されています。
残念ながらその後は古瓦についての調査成果もなく、まとまって表面採集された報告もないようです。
とある方が瓦について問い合わせたところ、その20数年前の軒丸瓦はまだ整理できていないのだとか。もったいないことです。

その意味では、上記の軒丸瓦は主郭に近いところで採集されたものとして貴重な遺物と言えそうです。
茶店にあったのを撮影させていただきましたが、去年の秋に茶店は取り壊されてしまいました。
その際、この軒丸瓦はちゃんと引き渡されたのか、どこへいったのかは今の身分では知る由もないのですが………。

四百年前の近世初期の息吹を知るやもしれぬ貴重な資料ですので、確認できているならぜひ公開してほしいですね。

2012年2月 5日 (日)

日曜は上角鬼ヶ城の縄張り調査。

〆の日曜日、5日は曇天→夕方から小雨の中、上角鬼ヶ城の縄張り図の調査を完了しました。
西側の隅櫓と石塁は調査していましたが残りをしていなかったのを一気に仕上げました。

その結果、下図の調査図のように、左手(西側)に隅櫓と石塁、東側に隅櫓と外桝形虎口を構えた出城であることを確認できました。
既出の報告書にある測量図では石垣列は真っすぐになっていましたが、今回竹薮に分け入って石垣列を確認して調査したところ、
石垣列は少し内側に食い込んでから、東南隅の虎口を構成する方形状の高まりで張り出す形になっていました。
方形の主郭から東南隅の外桝形虎口がしっかり張り出している様が明らかになりました。

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これで、豊後岡城周辺の櫓屋敷については、上角鬼ケ城、木戸の城、菅作之進屋敷跡櫓場の調査を完了しました。
また、支城については、これまでの小牟礼城跡に加えて、下原城跡・法螺貝城跡の調査を完了しました。
これらの材料を整理して「豊後岡城と近世初期中川氏の支配体制」の一連のシリーズにてまとめる予定です。

幕末の藩体制を強く規定した近世初頭の様相について現存遺跡からわかることを着実に押える作業を進めています。

※K氏から外桝形虎口と評価してよいのではないかと指摘があり、確かに櫓台状に東南隅が効いているのでそう解釈しなおしました。

2012年2月 4日 (土)

週末の城郭跡踏査。

先週・今週と豊後と筑後方面の気になる在地系城郭(織豊系城郭も確認できましたが)を集中して踏査してました。

先週の週末は国東方面に遠征、以下の城郭跡を見て回りました。
副城(宇佐市院内町)、立石城・日指城(杵築市山香町)、御所の陣城・小城(国東市国東町)、吉弘城(国東市武蔵町)、真嶽城(日出町)
その内のワンカット↓ 御所の陣城です。

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そして、今週末の土曜日4日は筑後方面に遠征、以下の城郭跡を見て回りました。
住厭城・毘沙門嶽城(久留米市)、山隈城(小郡市・筑前町)
その内のワンカット↓ 住厭城の畝状空堀群です。

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2012年2月 3日 (金)

豊後岡城の御城外櫓場と竹田城下町

城下町とは、文字通り城郭が築かれてはじめて成り立つもの。
ですので、城郭の縄張り構造を踏まえず切り離して語られる城下町論や都市論はあんまり意味がありません。
今日の多くの都市のルーツとなった城下町は、織豊期の豊臣系大名や関ケ原戦以降の諸大名が新たな領土に入部し、
織豊系縄張り技術ベースの近世城郭を築城してはじめて成立したものがほとんどです。
城郭が築かれなければそこには町は成立しなかったと言い換えることも可能でしょう。
よって、都市のルーツを語る際に城下町論を行うならば、主体たる城郭の理解を抜きにはあり得ないと言わざるを得ません。


既に示した豊後岡城の縄張りの特徴を踏まえて、城外の上角台地・竹田城下町をみるとその独特な風景がみえてきます。
その一端を示すのが、『中川氏御年譜』にも収録されている「岡城中櫓場城外櫓場之覚」です。
この内、下記の城外櫓場13ケ所が設置されたことを抜きにして、竹田城下町の性格は捉えられないと思います。

一 菅作之進屋敷 吉村五藤治屋敷
  願成院山 惣役所重門上 村上臺四郎屋敷
  中川大三郎揚屋敷 小河弥右エ門屋敷
  室十右エ門屋敷 中川平右エ門屋敷向
  吉田峯之進屋敷 大勝院山 烏嶽
  下石勘右エ門屋敷  左十三ケ所

場所に示すと下記の図の
通りです。

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豊後岡城を中心として、上角丘陵の要所に櫓場が築かれていることがわかると思います。
櫓場の覚書を手掛かりに現地を踏査すると、櫓屋敷と呼ばれた櫓台を持つ屋敷跡や櫓場跡を確認することが出来ます。

この中で、西端の阿蔵口を押える茶屋の辻に築かれた下石勘右エ門屋敷(上角鬼ヶ城)は隅櫓を複数構えた方形の出城。

Rimg3285◀上角鬼ヶ城の隅櫓

北側の近戸口を押える村上臺四郎屋敷(木戸の城)↓は両袖桝形を持ち、石垣で囲まれた出城となっています。 

Rimg4128◀木戸の城の石垣塁線。

そして東側の菅作之進屋敷には、当初は屋敷の直下を通っていた十川町ヘ下りる城道を押える位置に櫓台が遺されています。
また、眼下に十川町を見据えることが出来ます。

Rimg4102◀下原門から十川町へ下る旧城道を見据える櫓台跡

この配置をみると、出城や櫓場は豊後岡城の三口(下原、上角、近戸)から伸びる尾根上の武家地に築かれており、
城外で攻め手を牽制し先制攻撃を加える役割を期待されたことがわかります。
また、西側の竹田城下町をすっぽりと囲むように背後の尾根に櫓場が整備されていたことがわかります。

城外櫓場の現地調査をもとに、次の4タイプ(A:出城型櫓屋敷(櫓台が一体化した武家屋敷)タイプ、
B:屋敷内などに単体の櫓台が配置された櫓屋敷・櫓場タイプ、C:櫓台が伴わない見切場タイプ、
D:後世の改変等により特定できないもの)に分類して、分布をみると
下記の図のようになります。

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これをみると、豊後岡城の尾根筋に築かれた出城・櫓場は明確な土木構築物を備えたものが多く、
本城部分の防御を第一義として築かれたことがわかります。
城下の中でも家臣団が居住する武家地は本城部分と一体的な役割が期待されたことが見て取れます。

一方、城下町側は外縁部に櫓場を構えているものの、こちらは物見台のような簡単な構造が多かったようです。
櫓場で囲まれていたことは、竹田城下町が本城を核とする求心的な秩序の中に位置づけられていたことがわかります。

竹田城下町が本城と武家地を構える大名家と家臣団を支える供給基地として位置づけられたものと思われます。
しかしながら、櫓場の形状が若干劣ることから、本城と武家地より城下町はワンランク下の位置づけが成されていたことも見て取れます。
つまり、いざという時には本城・武家地に比べて城下町は放棄もやむなしという位置づけだったと思われます。

幸い、豊後岡城で激しい戦闘が起こることはなく竹田城下町を捨てて本城・武家地に立籠ることはありませんでした。
多くの城下町と同様に、350年余りの平穏な時代には豊かな城下町文化が栄え、近代に引き継がれることになりました。

他の城下町ではそうした本来の基層構造を知る手掛かりがないため城下町の位置づけは見落とされることが多いのですが、
全国でも珍しい城下町の外側を囲む櫓場の存在がわかる竹田城下町は、本来の城下町の役割を知るとても貴重な物証と評価できます。

このように、全国の最前線の城郭研究の現場に足を運び城郭の縄張り構造を読み解く目線を鍛えることから、豊後岡城のみならず、
竹田城下の櫓場が貴重なものであることや、原初の風景を遺す竹田城下町の資料的価値、独特な景観を持つ町の履歴がみえてきます。
それは、縄張り研究ベースの城郭理解を以て現地を丹念に踏査し、その知見を以て文献史料にも当る姿勢で臨むことで得られるものです。

近世初頭の本来の本城と武家地・城下町の関係性を遺跡として遺す豊後岡城・竹田城下の重要性を指摘すると共に、
主たる城郭を取り扱う縄張り研究の理解と実践を抜きにしては城下町論を語れないことを認識していただければ幸いです。

Foxkeh! フォクすけ!


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