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2011年12月31日 (土)

村をフィールドにムラを見据える。

2011年はムラ(業界)ではなく、村を拠点に城郭遺構、及び地域資料情報を駆使して調査を重ねた1年になりました。
この経験は、ムラに居るとみえない着眼点を獲得するのに大きく役立ったと思っています。
中・近世移行期研究のフィールドは村落が主な舞台。
研究室の机上や数日のフィールドワークぐらいでは、歴史資料の背景にある基層はなかなかみえてきませんが、
中世以来の人々の営みが続く山村に身を置き城郭調査を重ねることで、そうした一端を体感することができています。

城郭調査では、遺構そのものの調査に加えて、日常何気なく取り扱っている資料情報を歴史資料として取り扱うことがあります。
時折、それらの成果から「あなたの見慣れた景観にはこういった過去の歴史が刻まれているんですよ」とご案内することがあります。
そうした時に、地元の方がみせる驚きの表情に接することが学芸や学業の身にあるものとして仕事冥利の尽きる瞬間。
日頃見慣れたなんでもない景観が、その話を聴いた後では異なってみえてくるような体験を皆さんに提供することも学芸の役割です。

去年も申しましたが、城郭研究そのものは民間学をベースに歴史学・考古学の手法を合わせて積み上げてきた研究です。
古文書や埋蔵文化財を扱う機会を剥奪したら途端に研究ができなくなるようなヤワな分野ではありません。
本年も
天正〜慶長期を中心とした中・近世移行期研究を中心に、休日を利用して西日本の城郭遺跡の調査研究を行い、
併せて、地域で蓄積された資料情報をもとに圃場整備で消滅した城館遺跡の復元的調査も合わせて進めてきました。
それに併せて、11月の南北九州城郭研究会@天草市、12月は倭城研究シンポジウムに参加して報告と議論を重ねながら、
次の年に向けて、さまざまな論点や調査成果を提出できるよう準備を進めているところです。


核の冬の時代にあって、山村に身をおいて学んだ2011年の経験は大きな糧となりました。
2012年は、この研究室の机上では得られないフィールドワークにより着実に成果を積み上げ、
村から既存のムラへ鋭く斬り込む研究活動を進めていきます。

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2011年12月25日 (日)

荻台地の歴史の道。

23日は城館跡の現況調査と併せて、玉来→高城→馬場→藤渡→木下→滝水へ通じる荻台地葎原郷の往還を行きました。
下原城跡と弁当城跡がちょうどこの往還に沿って位置するからです。2つの城跡を考える上で、この往還の性格を考えることが大事だからです。
豊後国と肥後国をつなぐこの往還は、現在も県道や市道となって通ることが出来ます。
岡藩領を描いた近世の絵図に朱色で記された主要な往還ですが、今日ではあまり知られていません。
しかし通ってみて、先史以来の豊肥国境の台地を一体的につなぐ歴史の道だと言うことが理解できます。

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道中には旧万徳寺の妙雲寺や荻神社など葎原郷ゆかりの史蹟があります。
中世に開基された万徳寺は元禄年間に竹田の七里に移転するまで荻の台地にあり、
豊後国直入郡から肥後国阿蘇郡にかけて多くの宗徒を抱えたとされます。
近世になり、豊肥間を宗徒が往来することが問題視されたため、内牧に別院を営んだという記述は興味深く拝見。
一方、荻神社はもともと下荻岳にあったとされる神社。麓の政所の字宮田からここへ移転したとのことです。

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さらに、国境まで走らせるとJR滝水駅に出ます。
滝水集落には、肥後藩・岡藩の境目裁定の際に植えたとされる「御論木跡」の看板がありました。
貞享年間に幕府立ちあいのもと、馬渡川上流の岡藩領滝水村(下滝水)と肥後藩領滝水村が画定された場所。
その際、御論木が植えられ、それより下流の湧水は下滝水が供与したとのこと。
近世初頭の曖昧な藩境が次第に行政区画として画定され、今日の大分県竹田市と熊本県阿蘇市まで続くことがわかる景観です。

同時に、荻台地の方々が他の直入郡の人々と比べても波野・阿蘇方面との関係の深いことからもわかるように、
今日もなお、台地がひとつの文化圏を構成しており、そうした文化圏を支える役割の一端をこの往還が担ってきたものと思います。
その観点からも、この往還が「荻台地の歴史の道」として注目されれば良いのにと思う次第。
こうした中世以来と思われる主要な往還に沿って、弁当城と下原城が築かれていることがわかったことは大きな収穫。

加えて、こうしたエコミュージアムのような歴史的景観について、ハコ芸や文化財的業務では体得できなかったものが
土地勘を鍛え地理情報の集積から理解を深めることで体得出来たことはなかなか興味深い体験。

2011年12月24日 (土)

三連続外桝形虎口の下原門。

24日は豊後岡城に踏査。
行ってみると、下原門跡の樹木が伐採されて見やすくなっていました。
私が拙稿[2007年、http://ci.nii.ac.jp/naid/110007043710]で、下原門と併せて三連続の外桝形虎口と
申していた豊後岡城の東の城門です。

まずは、拙稿をもとに、2008年の村田修三編『日本名城百選』(小学館、2008年)に掲載した豊後岡城下原門部分の縄張り図。
黄色の連続桝形虎口部分の形状にご注目。おおむね、城郭研究の間では認知していただいている次第。

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24日の昼前に撮影した、伐採した下原門付近の写真です。

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ちょっとわかりづらいですが、『名城百選』で示したような連続外桝形虎口の遺構があります。
奥に┏ 状の「腕」があり、手前から真ん中に┓状の「腕」があるのがわかるでしょうか。

さらに奥には下原門を形成する三つ目の「腕」があり、これらで三連続の出撃路である外桝形虎口を形成します。
以前、公表した縄張り調査の通りに現況遺構が残されていることがあらためて確認できました。

わかりづらいので、手前ふたつの「腕」について、補助線を引いてみます。

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いかがでしょうか。

主郭からの城道と並走して東ノ郭(御廟跡)から押出す出撃路となっています。
全国でも興味深い事例であり、豊後岡城の独特な縄張りプランの特徴が如実に現れた遺構になります。
縄張り調査による外桝形虎口の評価を提示することを以て、今後の整備に際して遺構の性格を踏まえた慎重な遺構保全を要望します。


☆追伸
御廟所跡となっている東ノ郭の北西側に続く第2郭付近では竹薮の伐採が行われています。
ところが絵図にもある水ノ手の虎口と土づくりの櫓台跡(写真、根元の盛り上がり部分)に伐採した竹が積まれた状態にありました。
遺構保全の観点から、現存遺構に配慮した伐採作業を強く要望するところです。

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2011年12月23日 (金)

荻台地の城館、鴫田城と弁当城を踏査しました。

23日は荻台地の城館跡(鴫田城と弁当城)を踏査してきました。
鴫田城は荻台地の南方、柏原郷の台地の先端に位置する丘城。
一方、弁当城は荻台地の北方、葎原郷の西側にあり下荻岳の麓に位置する平城。
なお、前述の下原城跡を含めて、弁当城など葎原郷の城館を考える際には、
玉来→君ヶ園→高城→中行年→馬場→藤渡→政所→木下→滝水→波野と通る往還を踏まえる必要があります。
荻台地の歴史の道とも言える玉来〜滝水間の往還については別途アップします。

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鴫田城跡は現在、周囲が土取りで破壊されていますが山上部分が残されています。
文禄期に中川家の与力となった田原紹忍が入ったとされますが、山上は特徴的な遺構は確認できませんでした。

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一方、弁当城跡は写真にある玉来〜滝水間の往還沿いにあります。
文禄年間に葎原郷に所領を得た宗像掃部(中川家の与力)が拠ったとされます。
写真右奥手の小山か、字「弁当城」のある左側の圃場整備された迫地のどちらかが比定地とされます。
この日は両方とも確認してみましたが、小山の方は目立った遺構はありませんでした。
そこで、字「弁当城」が左奥手にみえる下荻岳の麓であることから、こちらの方が比定地の可能性が高いと判断しました。
類例として、久住の都野方面に割拠した朽網氏が戦国末期に築いた居館も似たような地勢にあり、
宗像掃部が往還沿いに展開した葎原郷の後背地を押える立地に居館を配したものと思われます。

この2つの事例を踏まえると、やはり馬場(葎原)から藤渡川を挟んで北東に位置する
新藤の下原城跡は少し様相が異なります(この前、地籍図で復元した城跡です)。

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単郭の丘城である鴫田城跡や平地城館の弁当城跡など荻台地にみられる城館と比べると、
2.5m程度の土塁が台地を直線で区切る下原城跡は「浮いた存在」にみえます。
 

滝水・波野から万徳寺のあった馬場(葎原)を通り玉来に通じる往還に近接して位置したことを鑑みると、
下原城跡はより広範囲の防禦体制のもとで整備された城郭跡ではないかと考える次第です。  

2011年12月22日 (木)

歴史地理学的な方法による城郭跡復元をしました。

城郭研究のバイブル、『城館調査ハンドブック』のⅢ「歴史地理学な方法による調査」では、P75〜86に
地籍図による調査の概要が記されています。
「地籍図とは、一般に役所・役場の税務課や法務局に置かれている、固定資産税や土地登記の台帳に付随する地図であり……」
と説明があって、大学院生の頃24才だった城郭研究やり始めなボクは「ふむふむ」と思いながら読んでいましたが……
それから15年。。。。

城館を研究している自分が、所轄する役場の部署に居る自分に訊ねて、自分で非番に法務局へ行って調査し、
古い閉鎖地籍図を自腹でコピーして、時間外に貼り合わせて作成するとは思いませんでした(爆)
一般事務へ異動の際に、千田嘉博さんに「これで地籍図で調査し放題ですね」と励まされた通りに実践。

ということで、桑原和男さんのようなひとり芸で調査して作成したのがコレ↓

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圃場整備でほとんど破壊されている豊後下原城跡の土塁ラインを地籍図の貼り合わせで復元。
地目の色分けは、土地の担当者さんにルールを訊ねてその通りやりました。
 緑:山林、 黄緑:芝地、 黄色:畑(田含む)、 薄黒:宅地、 道:茶色、 水路:青 です。
 ※この図では、道と水路は塗ってません。
みての通り、左から右へ伸びる台地の先端を、タテに仕切る土塁跡が山林・芝地の地目で浮かび上がりました。

ちなみに、中の人の自分に訊ねてみると、私見ですけど……と前置きつきで。
役場や法務局で地籍図をみることはできるけど、飛び込みは避けて、
事前に問い合わせして何をしたいのか説明して理解してもらうことが大事。
ふつう、そんな目的で来る人は居ませんし、間違えても城郭研究のわかる人が中に居るという「奇跡」は普通起こらないので、
窓口応対の方に何を依頼しているのか認識されない可能性が高いです。
『城館調査ハンドブック』の該当部分のコピーなどを持っていくと、担当が上に諮る際にも使えてよいかもしれません。
また、本業と別に閲覧の手を煩わせるので、
法務局・支局なども登記の人や土地情報を調べる人たちでせわしないので、
週明けや週末は避けて、平日の昼下がりぐらいか朝イチが落ち着いていいと思います。
役場の場合は、賦課業務で繁忙期・せわしない冬から春はできれば避けた方がよいと思います。

ということですので、ご参考までに。

2011年12月19日 (月)

『中世城郭研究』第25号に書きました。

今年はセミナーに行っていませんでしたので、先日倭城研究シンポジウムにて『中世城郭研究』25号を注文したところ、
去年のセミナーで報告しましたので、その概要を執筆した分で1冊、送られてきました。
ということで、去年のセミナー報告を踏まえた概要について、
「西南日本の城郭の横矢掛りから考える-城郭研究と年代観-」を6頁書かせていただきました。
よろしければご一読頂ければ幸いです。

なお、別件。巻末の一言は、私を現在の立場へ追いやった方々に対する布告です。
今日の城郭に関する活発な研究を直視せず、地方において史跡整備を自分たちの仲間内で仕切る人たちに向けてのもの。
現場から外せば何もできないだろうと館運営の「禁じ手」に手を染めた方々ですが、在野学をベースとする城郭研究者には無意味。
こうした手合いは幾重にも包囲した上で、必ずや攻め落とすつもりで居ます。

そういった思いを汲んでいただければ幸いです。
今後ともご支援いただいている皆様からのご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします。

2011年12月18日 (日)

法螺貝城を調査しました。

週末は、竹田市内の下田北須郷地区にある法螺貝城跡を調査しました。
芹川ダム湖の南方、芹川と馬門川の合流点に面した小高い山上にあります。
須郷集落を抜けた先に作業道があってアプローチできます。

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写真は作業道の入り口。城跡は中央の山ではなく、写真より左手奥です。

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土づくりながら、しっかりした切岸と直線的な塁線。南側は3m幅の土塁があります。

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笹を刈って虎口の形状を確認。両側に土壇を持つ両袖桝形です。

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2日間調査して、夕方には仕上がりました。次は清書です。
平成14年頃に大分県悉皆調査で一度見学したことがありましたが、
今回、自分で調査してみて、織豊系縄張り技術による城郭であることを確認。

公領と岡藩領の境目に位置する法螺貝城は立地からみても岡藩の支城と言って良いでしょう。
これで
小牟礼城に続いて2つ目。どちらも今のところ文献史料には記述はないものの縄張りから裏付けることのできる城跡。
岡藩初期、関ヶ原前後の緊張関係を今日に伝える貴重な遺跡になりそうです。
確認調査して材料を揃えてから、岡藩初期の支城について一本にまとめます。

2011年12月15日 (木)

豊後岡城の縄張り調査と報告を進めています。

自宅裏の一番身近な城郭跡、豊後岡城を中心に直入郡の城郭と中・近世移行期研究も暫時進めています。
特に、最近はリボジトリから拙稿がダウンロードできるようになりありがたいなあと思っています。

今春に投稿した別府大学『史学論叢』41号の拙稿「豊後岡城と鬼ヶ城・木戸の城について : 近世城郭と城下の関係を考える手がかりとして

は別府大学のリボジトリからダウンロードできます。

http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg04101

こちらは、豊後岡城の城下に広がる武家地にある2つの出城について論じたものです。
なかなか興味深い事例ですのでご意見いただければ幸いです。

その前の38号に投稿した拙稿「縄張り調査と城郭跡の資料的活用 : 豊後岡城東ノ郭の縄張り調査を通して」も同じくダウンロードできます。
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg03804
こちらは、豊後岡城が主郭(天神山)と東ノ郭が一城別郭的な曲輪配置になり主要部を形成する独特な縄張りをもつ近世の織豊系城郭である
ことを指摘したもの。
併せてご意見いただければ幸いです。
また、要点については、小学館から刊行された『日本名城百選』の豊後岡城の項にもまとめています。
この他、『日本歴史』752号
(新年特集 史跡・景観の保存と活用)に寄稿したものとして、
「中・近世城郭の構造分析と城郭跡の保存・整備--城館史料学の視点から」でも触れています。


これに、城館史料学に投稿した「豊後岡城と竹田城下の櫓屋敷について—織豊取立大名中川氏と近世城郭・城下の考察—」が掲載されれば、

豊後岡城の縄張り構造と初期藩政の要点をまとめた論考シリーズはとりあえず取っ掛かりの目処はつきそうです。

今後も、H町のYさんのように、豊後岡城なら○○さん、と言っていただけるよう精進したいものです。

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2011年12月14日 (水)

1979→1999・2011→

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倭城研究シンポジウムに前後して、1976年に当時軍政下の韓国に倭城址の調査をした
中世城郭研究会を母体とする倭城址研究会の『倭城址Ⅰ』が古書に出ていたので仕入れました。
事前に九州大学の某研究室で読みましたが、帰ってからじっくりと再読。

村田修三氏の1979年報告が出る直前の時期に、今日でも遜色ない調査成果が提出されていたことに感銘を受けました。
そして、当時の倭城址研究会メンバーの年齢が30代前半なことにも驚き。
今日、ボクでも簡単に倭城址を見学できるほどに韓国は近い国になっていますが、当時の困難さを思うとあらためてスゴイと思う次第。
そうした感慨の中でじっくりと拝読。この倭城研究が端緒となり、90年代後半からの城郭談話会による『倭城の研究』に続きます。

1979年の『倭城址Ⅰ』から、1999年と2011年の倭城研究シンポジウムまでの道程は縄張り研究ベースの城郭研究の歩みと重なるもの。
シンポでも問いかけられたように、本当に研究は深化しているのかと常に問いかけながら精進しないとと思います。

2011年12月13日 (火)

シンポとロールプレイ

今回の倭城研究シンポジウム、来られた方はおわかりかと思いますが、討論は通常のシンポジウムとは違い白熱するスタイルでやりました。

普通にシンポジウムならば、テーマに対して各パネラーの意見を出し合って→それぞれの見解がありますね。で留めます。
でも、たまにテーマがその時にホットな議論になっているものならば、ハプニング的に論者が応酬する場外乱闘が起こることがあります。
しかし、それはホントに偶然です。

今回の倭城研究シンポジウムでは、司会(と言うか、コーディネートされた)Kさんの持論をベースに構築されています。
即ち、これまでそれぞれ持っている論点をレジュメ資料集に開陳した上で、
今日の倭城研究シンポで設定したテーマ(本邦・朝鮮国にとって倭城とは)に応じて、司会者からどんどん厳しい質問が飛び、
さらに議論となる要点では関与する複数のパネラーにどう考えるのか、どう認識しているのかを質すことで議論を闘わせる。
そうしたガチンコなスタイルで臨みました。

それは城館史料学会の準備打合せの段階から共有されたことで、当日も事前にこういう質問するからと司会から前振りがあってのこと。
なので、話すパネラーも準備しておかないといけないし、それ以上にコーディネーターが各論を咀嚼して次々とテーマに応じて料理するという、
かなりハードなものになりました。
そうしたシンポが3時間。聴かれた方にはその勢いに圧倒された感想も拝聴することができ、目的通りの結果だったのかなと思っています。

コーディネーターの構成もさることながら、パネラーも議論の幅を広げるために「あえてこの役で責める」というロールプレイの質が問われます。
今回、ボクは「武断派」的な立場から軍事的視点で朝鮮出兵を評価、読み解くロールプレイ。
これに対して、隣のTさんは逆の立場から「豊臣政権が抑圧してきたもの」を前面に出す従来の解釈ベースから斬り込むロールプレイ。
といった案配。
ボクはまだまだ未熟で熱くなったりしながら論点を逃すまじと何とか食らいつくようにこなしましたが、
一方のTさんはボクと司会のKさん相手に見事なロールプレイをこなされていて、その頭の回転の良さにスゴイなあと脱帽。
私のような何とか土俵に立つような未熟な論者に胸を貸す的な感じで、それを受けるのにかなりしんどかったですがとても勉強になりました。

もちろん議論は生もの。予定した内容の2/3もできなかったようでしたが、とても充実したものになりました。
一見すると殺伐感が強い印象を持たれたかも知れませんが、
白熱した議論は、ロールプレイを踏まえた上で、相手の持論と論旨の軌道の読みと臨機応変な切り返しの連続から成り立つもの。
しゃんしゃんシンポが多い昨今、城郭研究からしっかりした議論が組めた倭城研究シンポジウムは有意義なものでした。

最終日を終えて帰宅して風呂に入った時に思わず大声でうなるくらいに気を張って臨んでいた倭城研究シンポジウム。
昨夏の姫路市でのセミナーと併せて、Tさんの学恩には重ね重ね感謝する次第です。

Foxkeh! フォクすけ!


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