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2011年11月16日 (水)

肥後大浦城を観ました。

中世の城郭と近世の城郭を見分けるのは、普通に城郭遺跡に関わる方々ならそれ程難しくないのですが、
高石垣に沿って掘られた大空堀を南北朝時代のものと言うユニークな見解をためらいもなく書くような環境に住んで、
苦笑いする今日この頃。

そんな中、今回、真摯に地域の城館や歴史的景観を整備される天草市さんの案内で興味深く拝見したのは、天草市有明町の大浦城跡です。
天草での合同研究会の初日、見学ツアーの最初の見学コース。
「並河太左衛門覚書」に、関ケ原戦後に天草郡を所領とした唐津城主寺澤広高が置いた6つの支城が紹介されています。
富岡・栖本・斉津(才津)・久玉・河内浦・軍ヶ浦です。その内、「軍ヶ浦は大浦トモ言」とあり、
大浦城は軍ヶ浦城であると考えられています。

有明海に面した大浦集落に隣接した小山に大浦城跡はあります。
小山の背後を堀切り城域としています。頂部には40m四方の方形区画な主郭があり、周囲に石垣列が残っています。
石垣は見ての通り、矢穴痕のある比較的形の整った石を積んで2〜3m高さの石垣列です。
石垣からも寺澤氏段階に改修された支城であることがわかります。

Rimg5833

海岸から切り出した石なども見ることができます。布目崩しな積み方です。

Rimg5831

城域をコンパクトに絞り込み、石垣列で防禦する。南西隅にスロープ状の平入り虎口を設けるシンプルな縄張り。
支城主に必要以上に権限を与えないものの、後詰めが来るまで抗戦する機能は備えて統治を任せる「出張所」です。

もっとも、この地域は石材を積極的に使用してきた歴史的背景があり、城跡は集落にも近いことから、
後世の作為の可能性も無視できませんし、畑作をしていることから一応注意してみる必要があります。

ですので、一応念のため、縄張りと石垣が違和感ないか、積み方に違和感ないか、慎重にみて歩きました。
縄張りからみても石垣からみても、やっぱり寺澤時代の遺構でした。

上記のように、寺澤氏は天草郡に6つの支城を築いています。
富岡城を除くと小規模なものが多いようにみえますが、かなりの密度で築いた点に寺澤氏の天草支配に対する強い意志が見て取れます。
(この辺りのことは木島孝之氏の『城郭の縄張り構造と大名権力』に記されていますので一読ください。)
元和の城割令で富岡城を除いてそれぞれ統治拠点は下城したと思われますが、島原の乱では天草から一揆反乱を起こされてしまいます。
なるほど、この二島に6つの支城を浦々に築いて統治しようとした寺澤氏の過剰なまでの意識もさもありなんと言えますね。
そうした寺澤氏の対応から、狭い地域に海洋領主が横並びに割拠し隠然たる勢力を持った天草二島の潜在的な力を知ることができます。

戦国期から近世初頭の城郭について見分ける中で、大浦城は城郭跡からその地域の中・近世移行期の様相の一端がわかる好例と言えそうです。

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