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2011年10月 4日 (火)

豊後臼杵城。

Rimg5620

(先週書く予定が風邪でダウンして書いているのは18日。日付を遡及させてますのであしからず。)
さて、写真は崖崩落予防の吹きつけたところでちょっと模型っぽい雰囲気ですが臼杵城。
岩盤状の丹生島に位置するので石垣のイメージが弱いですが、豊後岡城同様に岩盤の上に総石垣で普請し、
さらに要所要所に多くの櫓台を並べるなどかなりの土木量で城域を固めています。

大友氏時代の丹生島の海側1/3くらいのところを石垣で固めた横堀で仕切り、主郭部を創出し北隅に下の写真の天守台を構えています。
天守台周辺は最近調査が行われ整備されています。
隅石がないので、すわ、破城!と飛びつく方もいそうですが、
以前に訪城の際、ちょうど居られたKさんに明治期に日鉱佐賀関工場建設に運び出されたことがわかったことをご教示賜りました。 
この主郭部、天守のある主郭(本丸)から海岸部に下りる卯寅門と第2郭(二の丸)に通じる鉄門櫓へ通路を振り分け、
押出すように縄張りされています。そして現存する卯寅櫓など要所に櫓台を築いて防禦を固める、なかなか面白い縄張りです。
鉄門櫓の部分は食い違い虎口になっており、そこからまっすぐ土橋が空堀を渡ります。土橋は天守台や武具櫓から牽制される位置にあります。
既存の地形を強引に近世城郭に仕上げようとする意識は織豊そのもの。太田氏か稲葉氏時代の大改修が見て取れます。

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西側の第2郭(二の丸)はかなり広い空間ですが、ただ広いだけでなく周囲は石垣塁線で固め要所要所に櫓台を配するなど
長大な防禦ラインが構築されている点は看過できません。
歩いていると公園化した広いだけの場所にみえるのですが、縁辺部を歩いて石垣塁線や横矢掛り、櫓台跡をしっかり確認したいものです。
この辺は豊後岡城の西方外曲輪と同じパターンです。
城内に屋敷地を確保するために曲輪取りが広くなる一方で、総石垣に櫓台を配することで堅固な防禦ラインで塁線を固める。
この第2郭からの出撃路が西側の大門櫓と北側の上ノ門になります。
どちらの門も地形の制約から平入りですが、その分、近接して櫓台を構えたり城道に横矢掛りを構えるなど出入り口の防禦はしっかりしたもの。
その内、大門櫓から畳櫓、鐙坂から古橋口へ出る大手は圧巻です。
豊後岡城の大手門はかなり地形に制約を受けていますが、それより制約のない地形に
つづら折りの通路と櫓台、麓の桝形を組み合わせた
なかなか面白い虎口プランです(技巧的かというよりも試行錯誤の様子が見て取れる)。
三の丸側に向けて橋頭堡のように構えた鐙坂、臼杵の城下町から登る時はここから健脚コースが面白いです。

二王座など城下町で有名な臼杵ですが、臼杵城は制約の大きい既存の地形に対して、豊臣系大名がどのように織豊系縄張り技術で処理したか
を読み解くのが面白い近世城郭です。
豊後岡城と合わせてパズルを解く気分で縄張り図片手に歩いてみると面白いと思います。

※個人的には主郭部や空堀跡周辺の草木が刈られていると臼杵城の要点がわかっていいのになあと思います。
周囲は市街地なので難しいところもありそうですが、ぜひとも。

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コメント

もう十数年前に天守台跡や本丸に石垣が無くなっていて愕然とした記憶があります。
桑名・柳川・亀岡等のように港湾や鉄道建設資材に流用されたのだろうと
思っていましたが、やはりそうでしたか。

ご教示いただいたところでは、発掘前は天守台の周辺が土盛りされた状態にあったのですが、取り去ったところ隅石の欠いた状態がはっきりしたそうです。
明治期には産業育成で隅石を取り去った後、大正期以降城址公園整備の声が大きくなり「いざ整備」と思ったところ隅石がない状態だったので土盛りをして見えなくしたそうです。
その時代の歴史的価値や認識への変遷がわかって興味深くありました。

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