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2011年7月 3日 (日)

岡山市で城郭跡からみた織豊期宇喜多氏について報告してきました。

2日は岡山市まで列車で遠征、T先生のお誘いで岡山中世史研究会@西川原の就実大学にて報告してきました。
参加者は15名程度、話したテーマは、『城郭跡からみた織豊期宇喜多氏』です。
城館史料学(縄張り研究ベースの城郭研究)について概説した後で、津山市(旧久米町)にある岩屋城攻囲戦の陣城群などを紹介して話してきました。


1584(天正12)年に築かれたこれらの陣城群において、荒神上陣城、妙福寺上陣城・楽万上陣城などで当時最新の虎口プランが
積極的に採用されていたことと、
文献史料からそれらが羽柴氏主導のもと宇喜多軍主体で築かれた可能性が高いことを踏まえて、
当時の宇喜多氏と大身家臣が織豊系縄張り技術を使いこなす水準にあったことがわかる物的史料となり得ることを説明しました。
天正7年に羽柴秀吉の取次のもと織田方に転じる以前は他の勢力と変わりなく連郭式の曲輪配置と畝状空堀群を用いていた宇喜多氏が、
羽柴氏主導のもと、織豊系縄張り技術を使いこなす豊臣取立大名路線を当主一門・大身家臣で突き進んだことを指摘した上で、
羽柴氏側にとっても、天正16年頃まで不安定な西方の毛利氏への押えとして、秀家の一門化などを通して急速な豊臣取立大名改造路線を宇喜多氏に求め、
宇喜多氏側もその期待に応えて急速に豊臣取立大名として成長をみせたことが、岩屋城攻囲戦陣城をはじめ城郭跡から考えられると報告してきました。

もちろん、後世の小早川氏・池田氏らの改修を踏まえて宇喜多氏段階の城郭跡については慎重に精査し、他の資料で脇を固める必要がありますが、
宇喜多氏段階の可能性の高い城郭跡の事例をみる限りでは、宇喜多氏は積極的な豊臣取立大名路線を歩み政権の一角を担う存在になっていた
と現時点では考えています。
城郭研究では、既に先行研究や調査から宇喜多氏が織豊系縄張り技術を使いこなす存在だったことは今さら言うまでもないことですが、
岩屋城攻囲戦の陣城から、おおよそ彼らが最新の織豊系縄張り技術を使いこなすようになった段階が絞れそうなので、
より詰めた解釈ができたという報告です。

当日の会では、こちらの時間の聞き間違いで当初予定より30分ほどオーバーしてしまいました(愚)が、
フロアから、山城・丘城だけでなく構と呼ばれる平地城館まで含めて岡山県地域の城館について質問をいただき、
こちらもリアクションを含めていろいろと勉強になりました。

いずれは岡山県地域とその周辺の調査を腰を据えてやれるように、足場づくりからしっかり準備を進めていきたいと考えていますが、
とりあえずは当面の「中間報告と見通し」を報告できてやれやれひと段落といったところ。
できれば、ここ数年充実してきた宇喜多氏研究を牽引されてきた方々とも議論できればよかったんですが、それはまたいずれの機会で。
T先生や岡山中世史研究会の皆さんに感謝しつつ、冬から初夏にかけての津山市での調査成果を岡山県内で報告できて充実した会でした
(・∀・)ノ

Photo_2

参考:美作岩屋城の攻囲戦陣城群の配置(高田徹「織豊期を中心とした臨戦下の城郭」所収図に加筆)

追伸:【業務連絡】Mさん、玉稿拝受ありがとうございます。レジュメはコピーしてお送りいたしました(._.)オジギ

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