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2011年7月28日 (木)

亜流の織豊系城郭、人吉城

連休は人吉城へ行ってました。
縄張り研究の研究史の1頁となった肥後人吉城。
南九州型の存在を示された村田修三氏の視点を皮切りとして、
早い段階に千田嘉博氏や木島孝之氏により縄張り図が作成され先駆的な研究が進められた城跡です。

縄張りからも、研究史的にも、亜流の織豊系城郭を代表する事例です(´ー`)。oO

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2011年7月27日 (水)

つぶやき。

縄張り屋さんに「考古学の成果を無視するのですか?」「縄張りだけで評価するのですか?」と言う向きが居て、
そんなやりとりを見ながら、誰がそんなこと言ってましたっけ?としばしポカーン。


勝手に縄張り屋キャラをつくってサンドバックするのは、関東では作法のようだ。

無視した覚えはないんですけど、知らないうちに成果が出てて新聞報道観てビックリして苦笑するというのはよくある。


縄張りだけで評価するというレッテルを貼られるのは迷惑な話で、縄張り屋さんがエポックメイクとする
村田修三氏の1979年度日本史研究会報告を読み返してほしいもんである(´ー`)


学術的な縄張り研究の基本を押えるならば、村田修三氏・千田嘉博氏・木島孝之氏、
三氏の研究手法と理念を最低限抑えてないと研究史を理解したとは言い難い。

そもそも。。。。
(´ー`)。oO既に織り込み済みで議論していることをいまさら喧伝するのは勝手だけど、
新府城も徳川となるのでますます大窯編年が苦しくなるんですけど。。。
コチラに発砲するつもりが味方に命中させてどうするんだろ?


な気分ですね(私信)。

縄張り研究をベースとする城館史料学に限らず、本来歴史学とはひとり学際的な総合資料学なことは当たり前。
城郭跡を専門的に取り扱う姿勢を持つのなら、
文献史料に沈潜するだけに留まらず、歴史考古学の手法や理論も理解した上で、
自分でフィールドを歩き図面を作成して、縄張り研究の手法と研究史も、勉強してほしいものです。
実にもったいない。

2011年7月11日 (月)

寓居、夜の顔。

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なんとなく撮影してみた夜の近戸草舎。洋間を占拠した書斎部屋は外からみるとこんな感じにみえますヽ(・∀・)ノ 
夜中は目の前をたぬきが歩き、向こうの崖を鹿や猪がゴソゴソ音を立て、遠くでキジの鳴き声がしますw

明日の成果を楽しみに、今日も限られた時間でせっせと一歩一歩本業に勤しみます。

寓居、昼の顔。

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夏到来、な旧由学館の奥に位置する近戸草舎と書斎部屋。 
外観は似ても付かないが間取り的には近いはず(多分)、
めざせタツオさん生活w (・∀・)ノ 

この先には民家はありません(笑) 左手奥の方に豊後岡城があります。

2011年7月 6日 (水)

倭城研究シンポジウムⅡの案内・申込みリリース。

倭城研究シンポジウムⅡ「倭城 - 本邦・朝鮮国にとっての倭城とは」の概要が内定しましたのでお知らせです。
折り畳んだところにありますので、参考にして下さい。
案内状&申込用紙は↓

案内状・申込用紙をダウンロード

よろしくお願いします!

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※シンポジウム案内の中で、堀口健弐氏の所属に誤りがありました。訂正させていただくと共にお詫びいたします。

続きを読む »

2011年7月 4日 (月)

岡山城跡めぐり。

城下に一泊して、3日は荷物を置いて、岡山城跡を小雨の中歩いて回りました。
2007年に本丸本段〜中の段周辺の石垣はバシバシ撮影したのですけど、今回は行けてなかった御廟・二の丸内郭・西の丸と御対面所(現:林原美術館)
周辺を歩いて市街地に埋もれる石垣跡を中心にみて撮影してきました。
本丸本段・中の段と二の丸・西の丸の間は築城以前に繋がっていた雰囲気がなく、それぞれ独立丘だったことをあらためて体感。
どちらも独立丘なので、本丸と西の丸側が当初から城域として機能していたなら一城別郭?と思いながら歩く。
もっとも、最初から本段周辺が岡山城として成立していたなら、西の丘陵と関係なく本丸単体で十分機能するスケールではありますが。。。
本段はかなりの比高差なのもあらためて再認識。

これでひと通り現地歩きは終わったので、これまでの発掘調査成果などを読み返して岡山城についておさらいしてみますね。

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御廟跡からみた岡山城本丸。2つの丘陵地の間はそこそこ離れていて地続きな感じはしないですね。

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御対面所跡周辺の石垣、こんな感じで市街地に埋もれています(^^ 、それでも御廟や西の丸・御対面所跡辺りはけっこう残っている。

2011年7月 3日 (日)

岡山市で城郭跡からみた織豊期宇喜多氏について報告してきました。

2日は岡山市まで列車で遠征、T先生のお誘いで岡山中世史研究会@西川原の就実大学にて報告してきました。
参加者は15名程度、話したテーマは、『城郭跡からみた織豊期宇喜多氏』です。
城館史料学(縄張り研究ベースの城郭研究)について概説した後で、津山市(旧久米町)にある岩屋城攻囲戦の陣城群などを紹介して話してきました。


1584(天正12)年に築かれたこれらの陣城群において、荒神上陣城、妙福寺上陣城・楽万上陣城などで当時最新の虎口プランが
積極的に採用されていたことと、
文献史料からそれらが羽柴氏主導のもと宇喜多軍主体で築かれた可能性が高いことを踏まえて、
当時の宇喜多氏と大身家臣が織豊系縄張り技術を使いこなす水準にあったことがわかる物的史料となり得ることを説明しました。
天正7年に羽柴秀吉の取次のもと織田方に転じる以前は他の勢力と変わりなく連郭式の曲輪配置と畝状空堀群を用いていた宇喜多氏が、
羽柴氏主導のもと、織豊系縄張り技術を使いこなす豊臣取立大名路線を当主一門・大身家臣で突き進んだことを指摘した上で、
羽柴氏側にとっても、天正16年頃まで不安定な西方の毛利氏への押えとして、秀家の一門化などを通して急速な豊臣取立大名改造路線を宇喜多氏に求め、
宇喜多氏側もその期待に応えて急速に豊臣取立大名として成長をみせたことが、岩屋城攻囲戦陣城をはじめ城郭跡から考えられると報告してきました。

もちろん、後世の小早川氏・池田氏らの改修を踏まえて宇喜多氏段階の城郭跡については慎重に精査し、他の資料で脇を固める必要がありますが、
宇喜多氏段階の可能性の高い城郭跡の事例をみる限りでは、宇喜多氏は積極的な豊臣取立大名路線を歩み政権の一角を担う存在になっていた
と現時点では考えています。
城郭研究では、既に先行研究や調査から宇喜多氏が織豊系縄張り技術を使いこなす存在だったことは今さら言うまでもないことですが、
岩屋城攻囲戦の陣城から、おおよそ彼らが最新の織豊系縄張り技術を使いこなすようになった段階が絞れそうなので、
より詰めた解釈ができたという報告です。

当日の会では、こちらの時間の聞き間違いで当初予定より30分ほどオーバーしてしまいました(愚)が、
フロアから、山城・丘城だけでなく構と呼ばれる平地城館まで含めて岡山県地域の城館について質問をいただき、
こちらもリアクションを含めていろいろと勉強になりました。

いずれは岡山県地域とその周辺の調査を腰を据えてやれるように、足場づくりからしっかり準備を進めていきたいと考えていますが、
とりあえずは当面の「中間報告と見通し」を報告できてやれやれひと段落といったところ。
できれば、ここ数年充実してきた宇喜多氏研究を牽引されてきた方々とも議論できればよかったんですが、それはまたいずれの機会で。
T先生や岡山中世史研究会の皆さんに感謝しつつ、冬から初夏にかけての津山市での調査成果を岡山県内で報告できて充実した会でした
(・∀・)ノ

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参考:美作岩屋城の攻囲戦陣城群の配置(高田徹「織豊期を中心とした臨戦下の城郭」所収図に加筆)

追伸:【業務連絡】Mさん、玉稿拝受ありがとうございます。レジュメはコピーしてお送りいたしました(._.)オジギ

Foxkeh! フォクすけ!


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