« 書斎な書棚に書籍を入れる。 | メイン | 安楽平城跡・菟道嶽城跡登りました。 »

2011年4月13日 (水)

梅ヶ峠からはって場まで踏査。

過日、岩屋城攻め陣城の北西半分を歩いてきました。
春の日差しの中、たっぷりと外気に触れながらの踏査です。
裏の谷から尾根に上がり、柿の木上陣城から石蕨陣城、そして尾根伝いに歩いて、岩屋城攻めの付城である梅ケ峠陣城とはって場陣城を観てきました。

Rimg3496

一見すると、ただの山の中の写真にしか見えませんが、わかりますか?
左半分のY字に伸びる木々の根元の周りに注目。写真真ん中奥から手前左にかけて盛り上がって続いているのがわかりますか?
これが谷部分などを除いて、迫畑上陣城の南尾根筋から荒神上陣城・妙福寺上陣城、往還の上陣城から柿の木上陣城と続き石蕨陣城の斜面まで続く長大な土塁ラインになります。
岩屋城の南半分をグルッと包囲するおそろしく長大な土塁ラインが、今日も山中にほぼ完存しているのです。
ほとんど文献史料に出てこない1582年の岩屋城包囲戦の様相を如実に示す一級史料がここにあります。
実に驚いた次第です。

Rimg3550

そして、石蕨陣城の斜面へ上る「登り土塁」となっている長城ラインです。
写真右下から左上にかけて一直線に走ります。
稜線の上を土づくりで築いていますので、地形に沿って走りますが可能な限り直線に仕上げています。
稜線から尾根筋が枝分かれするところは直角に仕上げて尾根筋からの攻め込みを遮断するなど、技巧的に仕上げられています。
その点でも実に感慨深い遺構です。

興味深いのは、南半分は土塁による長城ラインの包囲網を敷き、ほぼ一定距離に9m×8m程度の「人枡」な陣城を配置していること。
そして、石蕨陣城より北半部では土塁ラインがなくなり、岩屋城に尾根で直到する位置を占める梅ケ峠陣城とはって場陣城を中心として、
稜線に沿って一定距離を置いて人枡を配置する「付城」包囲網となっています。
同じ包囲網でも、城に近い北側と一定距離を開けて包囲する南側では囲み方が異なる点も、かなり組織的であり技巧的なセンスが窺えます。
こうした攻め方を考えても、織田・羽柴(豊臣)系勢力による遺構であることは明らかだと思います。この段階の宇喜多氏の到達点も知ることの出来る重要な遺構です。

Rimg3614

やはり写真ではわかりづらいですが、右奥の遠方にみえるのが梅ケ峠陣城です。そこから岩屋城に続く尾根筋へ出撃する桝形虎口と下位曲輪を撮った写真。
前面へ向けて少しコチャコチャした実戦色の強い桝形虎口を構えています。
これと土塁・空堀で囲んだはって場陣城(倒木と下草が多かった)が岩屋城へ続く尾根筋の左右のピークを押える付城となっています。

この付城は岩屋城の守備側にかなりのプレッシャーを与えたことは、岩屋城側から尾根筋に向けて大堀切と巨大畝状空堀群を構えたことからも明らかです。

土塁上に陣城と人枡を配置した包囲網を構えて付城を喉元に突きつける攻城戦を仕掛けた羽柴(豊臣)方の宇喜多氏と、
山城に立て籠り、大堀切と巨大な畝状空堀群で阻塞する毛利方の美作国衆との激しい戦闘の様子を伝える遺跡が残ることが、
岩屋城跡と陣城群のスゴイところと言えます。

この遺構の性格を考えつつ、先行研究と関係資料を整えて7月の報告に臨みたいと思う次第です、乞うご期待。

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://app.blogcoara.jp/t/trackback/143624/26305291

梅ヶ峠からはって場まで踏査。を参照しているブログ:

コメント

コメントを投稿

Foxkeh! フォクすけ!


  • Firefox ブラウザ無料ダウンロード
Powered by Six Apart