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2011年3月31日 (木)

『新「関ヶ原合戦」論』

非常勤講師で出講する機会をいただきお世話になりました、別府大学教授の白峰旬さんから、
新著『新「関ヶ原合戦」論』(新人物往来社)をいただきました。

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従来、西軍・東軍とされてきた両者の戦いを、石田・毛利連合(公儀)軍×徳川主導軍の戦いとして捉えた書き下ろしの論考です。
秀頼を推戴した石田・毛利連合政権が畿内を押えて東海方面に展開した流れを読み解いています。
確かに毛利・宇喜多・上杉と三大老が参加し、反徳川包囲網を敷いた図式があるわけで彼らのビジョンにおいて軍事作戦を展開した経過を
一般書のカタチでまとまって論じられた刺激ある興味深い内容となっています。

一方で、徳川家康の内府としてのカリスマ性が主導軍をまとめたことも無視できません。
そうした両者の均衡が崩れたのが、大垣城近辺における軍事行動の思わぬ展開(小早川軍が松尾山城を占拠した)があったわけですから、
軍事作戦の流動性の高さとひとつの行動が大きな流れを生んでしまう偶然性の高さを再認識させてくれます。
結果論からは簡単には結論づけられない、歴史叙述における軍事を取り扱う難しさがあります。

構成も一般向けに編成されており、歴史愛好者も論点を整理しながら読めるのでオススメです。
じっくり読んでいきたいと思います、ありがとうございます(._.)オジギ


さて、来年度は私も近戸の寓居を根城に、より成果をしっかりと叙述する方向に力をかけていこうと思っています。
これまでの城館史料学の成果を整理しつつ足りないところを補いながら、
博論でまとめた北部九州の大友氏領国と国衆の動向&豊後岡城など近世城郭と初期藩政の研究、
城館史料学概論でまとめた研究史と方法論の整理、
そして、岡山県地方における宇喜多領の論考を加えながらまとめていきたいと思っています。
亡命生活2年目、1年目よりさらに強い足取りで新たなステップに「脱」できるよう、さらなる深化にまい進したいと思います(」゚□゚)」

2011年3月30日 (水)

豊後岡城、夕方巡検。

ノー残業な水曜日の夕方、寓居より徒歩10分で近戸門まで行ける豊後岡城を巡検なりヽ(・∀・)ノ
全国五本の指を目指す縄張り研究者の目線で、テキパキと視察して廻りましたです。

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歩いて10分で近戸門というスバラシイ環境。お散歩感覚で巡検です。ありのままの遺跡を魅せるには草刈りが第一ヽ(・∀・)ノ

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屋敷平面&造園復元が成された中川覚左衛門屋敷の側にある豊後岡城の外郭ラインを形成する大空堀、相変わらず人知れず草むしたまま。

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左手は(おそらく)《岡城真景図屏風》をもとに石垣修補された家老屋敷。月刊文化財でも紹介された史跡整備ツーリズムの場所。
一方、右手に見え隠れするのが豊後岡城の外郭ラインを形成した横矢掛かりの大土塁。城郭跡の性格を明確に示す遺構はどちら?

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正保城絵図に描かれていた旧水ノ手門跡や東ノ郭下位曲輪の櫓台など、一城別郭の特徴を示す遺構は写真奥の薮の先(T高の学有林)にある。

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下原門には、わずかな高まりや根石列が複合型桝形虎口の痕跡として残る。
地表面にむき出しの痕跡は、
縄張りを理解し遺構を読み解く視点を持った上で慎重な取扱いが欠かせない。

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「にっぽんの名城」で千田嘉博氏も申していたように、城郭跡の遺構は防御の仕組みを理解してはじめて評価できるもの。
主郭(天神山)にある外桝形虎口+内桝形虎口な西中仕切門・太鼓櫓門と、
東ノ郭にある二つの城道が重なり合う複合型外桝形虎口な下原門(伝えたいふるさと2月号を参照して下さい)、
そして上記の西方外曲輪を形成する外郭ラインの仕組みが理解されて、はじめて優れて、かつ奇妙?な近世城郭、豊後岡城と大名中川氏の特徴を評価できる次第。
ボクがどこかの委員なら、真っ先に縄張り評価を行う重要性を担当者に指摘します。

この事例に限らず、縄張り研究の視点や成果が現場では加味されないまま続けられる各地の城郭整備の問題点を指摘したのが、日本歴史1月号の拙稿というわけです。(^^

2011年3月27日 (日)

楽万上陣城、調査完了。

26日、27日と楽万上陣城の調査を進めて、無事に終了しましたヽ(・∀・)ノ
調査日数6日で、主要部の横堀をまたぐ土橋のついた外桝形虎口と人枡状の曲輪、長城ラインと図化することができました。
この荒神上陣城と楽万上陣城を押えた上で、池田誠・高田徹両氏の先行調査を踏まえて陣城群の位置づけについて小論をまとめたいと思います。
7月の岡山中世史研究会で報告する予定してます。

写真は、金曜日の雪が残る楽万上陣城の人枡状の曲輪跡です。

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とりあえず、今回で津山にベースのある間の調査は一旦終了。
引き続き、遠征基地を設定してから荒神山城調査に入る予定です。

という案配で、岡山県を含む近畿地方西部〜中国地方の城館調査を進めていきます。
この地域で腰を据えて調査できる環境を構築したいと強く切望してますので、今回の調査を皮切りに各方面に働き掛けていきます。
引き続き、ご支援よろしくお願いします。

2011年3月26日 (土)

歴史読本2011年5月号に書きました。

金曜日、近戸の寓居に、新人物往来社の老舗歴史雑誌こと、歴史読本5月号『日本全国名城の条件、この城がすごい!』が届いていました。
今の仕事場に持っていって昼休みにニヤニヤしつつ自分の文章の下手ッぴさにチェックしながら読んでました。

この号は、縄張で6つの事例を書くという軍役を拝命仕り、うんうん唸って執筆させていただいたものです。
6つは、ご指名で杉山城跡・滝山城跡・本佐倉城跡の関東の戦国三城と姫路城跡、赤穂城跡、五稜郭です。
西国に住むボクとしては、せめて熊本城跡か福岡城跡を。。。と思いましたが適わず(^^ゞ、上記の城について書きました。
今、思えば「岡城跡にしてください」と言えばヨカッタかもσ(^_^)

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書いた文章は一般向けに書こうと思わずに書いたので、「???」なかもしれませんが、ご容赦下さいませ。
杉山城跡・滝山城跡・本佐倉城跡の関東の戦国三城は、基本的な理解を含めて準備に苦心しました(西国ですのでリサーチも難しい)が、
おかげで関東の後北条氏系城郭の基本原則と最終段階での外郭ラインの創出について見通しを立てることができ、収穫多しでしたヽ(・∀・)ノ
姫路城跡も今回じっくり縄張を読み直すと共に、某所からいろいろと頂いたアドバイスを活かしてまとめることができました。
赤穂城跡もしかり。
そして、五稜郭跡は近年楠葉台場などの稜堡式城郭の調査成果を下敷きに、稜堡式の持つ意味について単なる見せかけや時代遅れの産物でないことを示しました。
いずれも、あらためてじっくり学び直す機会になり、非常にあり難かった次第です。
来年はお呼びがあるか不明ですが、いい勉強になりました。
ありがとうございます(._.)オジギ

ということで、
歴史読本5月号『日本全国名城の条件、この城がすごい!』1090円ですのでお手に取ってみて下さい。
ぜひ、よろしく(・∀・)ノ


追記:去る筋から馬出し理解がわかりづらいという感想がありましたので、再度、杉山城・滝山城などで述べた後北条氏系城郭のスゴイ点についてまとめてみると……
関東によくみられる台地状地形を横堀で区画して主郭を形成する。その際、対岸の削り残しの内、足場となる膨らみの部分を馬出し(角馬出)として整形し土橋(木橋)をつないで出入り口を固める橋頭堡とする。
角馬出しが大型化するタイプが出現し馬出し曲輪となることで第2郭を形成する。さらにその外側への出入り口に角馬出しが構えられる。
それをくり返すことで、主郭→第2郭→第3郭と主郭を頂点とした求心的な曲輪配置を持つ城域が構成される。
角馬出しの一般曲輪化(馬出し曲輪)により同じパターンをくり返し城域が再生産されること&主郭を中心とする求心的な曲輪配置を生み出した点に、後北条氏の成熟した優れた築城技術がみられるでしょ?というお話です。

そういう目線でみると、後北条氏により築かれた滝山城は、主郭からの求心的な曲輪配置+技巧的な惣構え的外郭ラインの組み合わせで解釈できます。
一方、千葉氏→後北条氏の本佐倉城は、ぶつ切り型の在地系城郭+技巧的な惣構え的外郭ラインの組み合わせ、
その差異からも、角馬出しによる求心的な曲輪配置は後北条氏の成熟した軍事編成の賜物と推察できます。
これを基本として考えると、杉山城は滝山城から技巧的な惣構え的外郭ラインがないタイプ。逆に八王子城は技巧的な惣構え的外郭ラインのみが突出したタイプで解釈できるわけです。
そもそも、関東以外でも主郭への求心的な曲輪配置を達成した勢力は織田・豊臣政権くらいなものですから、滝山城や杉山城にみられる縄張りプランが如何に優れたものであるかは理解できると思います。

遺構の比較検討からも自明ですが、主郭を頂点とする組織的な軍団編成ができた勢力が天正後期の後北条氏であると考えるのは至極当然のことと言えるでしょう。
近年の文献史学の成果でも、沼尻合戦や天正壬午の乱以降の畿内・東海の織豊政権と向かい合うかたちになり、極度の緊張と絶え間ない戦闘、激しい外交戦が繰り広げられたことが論じられています。
これらの成果も、天正期の関東のエリート大名後北条氏による築城技術の展開を補強する材料となるでしょう。
(もっとも、一方で15世紀末とは物量共にケタ違いの天正期の争乱を論じておいて、もう一方で杉山城を15世紀末〜16世紀初頭の戦闘の産物としてそれ以降発展がないとする「関東流文献史学」の変幻自在さも何ですが)

以上のように、シンプルに縄張りを読み解くことで関東の戦国期城郭の法則性を見出す作業は、何度も杉山城や滝山城を歩かれた方ならそう難しくないはずです(^^。

2011年3月25日 (金)

亡命先の1年。

さて、まもなく1年ですよ。
早かったですが本当に充実した365日でした。

それまでのハコに群がる難儀な人たちが持ち込むいろいろな思惑にまみれた企てに呆れ果て(疲れ果て)、
これではいかんと脱出を考えて準備していたところ、多分やるだろうと踏んだ通りに仕事場が統合され専門から解かれたのが1年前。
学位取得も済み準備万端、このチャンス逃すものか。これまでの借りを返すぞ!という湧き上がる希望が昨日のように思い返します。

接収した方は、目の上のタンコブが無くなったんだからすごい成果をみせてくれるだろうと1年間楽しみに観察しておりますが。。。。さて?
まあ、10〜20万都市クラスの大所帯をフル回転して、まち全体が史跡という壮大な実験に全力で事業を推進し、
年度末の成果報告会のための古文書読解に励まれているんだとは思いますが。。。

あらためて、歴史文化に群がる「専門家」手合いの顔も見なくなり心から清々しております。
真の学びの世界に身を置いて切磋琢磨し、カレンダー通りにまとまった日数を動ける幸せを体感した1年でした。
いろいろと成果を出したり新たな準備を着々と進めることができました。

ということで、田能村竹田よろしく退隠してから広く各地の人たちと交遊し、新たな航路を求め城館史料学に磨きをかけていく所存です。

一方で、この1年間、各地の調査や往来に過分のご理解をいただいた、律令制以来の根幹を担う一般職な現場の皆様に感謝いたします。
これまでの10年よりも着実な研究成果を収めることができましたのも、地元に根ざし今の生活を営み歴史を刻まれている各位のご理解の賜物です。

ありがとうございますヽ(・∀・)ノ

2011年3月23日 (水)

美作岩屋城を囲む陣城群、柿ノ木上陣城まで。

20日は曇天の中、津山市西部にある美作岩屋城の陣城群を踏査してきました。
雨になるので午前中に、往還上陣城を通って柿ノ木上陣城まで歩きました。
稜線上に岩屋城側を切岸にした長城が走り、ほぼ均等な距離をもって要所に9メートル×5メートル程度の人枡状の土塁囲みの曲輪が配置されています。
その中の幾つかは、囲みの外側に向けて虎口を設けています。

柿ノ木上陣城まで歩きましたが、遠くにみえる石蕨やはって場が思ったより距離が遠かったのでそこで一旦引き返し。
出直して石蕨に登る谷あいの道を登ってアプローチしようと思いましたがぬかるみの未舗装道なので車で近寄れずじまい。
天気も悪くなってきたので次回を期して撤退してきました。

あらためて、陣城群と長城ラインで固めた岩屋城包囲網の想像以上の大きさに面食らった一日でした。

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2011年3月22日 (火)

名島城跡へ行く。

さて、無事に豊後御討入も終わり、往時の豊臣大名中川氏よろしく豊後岡城の麓、由学館跡にも近い近戸谷に居を構えた小生。

既に、豊後岡城の縄張りについては全国的にも特徴的な点については、余すところ無く論じております。
また、そうした城郭研究の成果や全国の動向を見据えない整備が城郭遺跡の価値を損う破壊行為になること、
なぜ、そうした不幸が起きるのかについても、『日本歴史』2011年1月号にて余すところなく論じております。
今回、もう一本、やはり豊後岡城に関連して論考を出す予定にしています。
城内だけでなく城外でも豊後岡城が全国の近世城郭の中で極めて珍しい事例となることを論じております。

専門職から外れて一般職に居られる世界遺産候補・平泉のY氏に負けぬよう、フィールドから全国を見据えて精進したいものです(`・д・´)ノ

ということで、3/19は大分道をひとっ走り、福岡へ出て打ち合わせ。
その後、K先生に名島城跡を案内していただきました。

名島城跡は市によりすっかり歴史公園に整備され、南側にある神社の前の駐車場(帆柱石の浜)も有料になるなど商売づいていました。
歴史公園と言っても、主郭部分の出土した櫓台跡の石列は埋められてその上にある擬石はまったく見当違いに配置したものとのこと。
本丸跡周辺はほとんど往時の痕跡がわからないどころか擬石でかく乱されています。
写真撮る人は要注意ですよ。
ちなみにホンモノの遺構は神社敷地の裏の主郭部斜面にある根石
と、神社の北側にある歴史公園の東側斜面の桝形虎口の石列があります。

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内桝形虎口の石列は出土した様子がそのまま残されています。大ぶりの表面を整えた石が現地に保存されています。

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往時はまだまだ遺跡が丘陵上にあったようですが、すっかり宅地化してしまいこの「?」な整備だったらしい歴史公園に史跡部分が残されています。
古代ばかりに目を向けずにもう少し近世城郭にも目を向けて下さってたら、全国に希有な文禄・慶長期の豊臣系城郭の最前線がわかったのに
勿体ないことです。

小早川隆景ゆかりの名島城跡では、公園化された主郭部の片隅に残る内桝形虎口がポイントです

2011年3月15日 (火)

無事に、御討入しました。

東日本大震災において、近年稀にみる大きな被害を受けたみなさまに謹んでお見舞い申し上げます。
また、869(貞観11)年以来の大規模な地震と津波により、想像を遙かに超える多くの方々がお亡くなりになられたことに謹んで哀悼の意を表します。

 ※869年の貞観地震については、保立道久氏の研究雑記ウェブログでの「9世紀の地震史料」をご参照下さい。


3/11に1000年来の未曾有の大規模な東日本大震災が起こり大混乱のはじまりとなった週末のさなか、
九州の片田舎で、何とか市内の会々から竹田の近戸谷に引っ越しすることができました。
岡城跡の麓、前方に由学館跡があり後背に名城を擁す立地で、風通しの良く水清らかな谷あいの地に
借家を得て、新たな寓居を構えた次第です。
困難な局面を迎えていますが、その中でも自らと後進のために、着実に城館史料学の道を探究して参る所存です。

来月までに引っ越しのご案内を関係者各位に郵送する予定です。
しばらくは転送してもらえるとは思いますが、よろしくお取り計らい下さい。
下の写真(右上側は岡城跡)のどこかに寓居があります。

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2011年3月 8日 (火)

御討入、斥候なう。

13日にお引っ越しに備えて、新たなベース (借家)のカギをもらって斥候。
さっそく詰めとなる背後の御城を遠くから拝見して、新居にちょっと荷物を収めてきました。
近くには、春に私の調査した出城もあります。

自分が調査し論文にした城郭跡の麓に、書籍や資料の段ボール約50箱、生活用品約5箱を持って、いざ、討入ーっ(」゚□゚)」

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2011年3月 3日 (木)

「城郭研究 亜流から本流へ」

ただいま、NHK教育では千田嘉博さんによる「体感、実感!にっぽんの名城」がオンエアーされていますが、
この度、産経新聞関西のウェブ版に中井均さんの連続インタビュー記事がアップされてました。

米原町教委を退職されてNPOを立ち上げ、現在は長浜城博物館館長でもあられます。
村田修三さんに続いて、現在の城館史料学会会長もお願いしています。
考古学において中・近世城郭研究を牽引されてきた中井さんのロングインタビューです。ただいま4回まで来てますがもう少しあるみたい。

部将ブーム追い風「城郭研究 亜流から本流へ」(1)
 http://source.yeeyan.org/view/215096_dfd/武将ブーム追い風%E3%80%80「城郭研究」亜流から本流へ

「城郭研究 亜流から本流へ」(2)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110301-00000132-san-soci

「城郭研究 亜流から本流へ」(3)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110302-00000133-san-soci

「城郭研究 亜流から本流へ」(4)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110303-00000131-san-soci

「城郭研究 亜流から本流へ」(5)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110304-00000127-san-soci

……ただ、あくまで出土品が対象で城の構造、防御の工夫などは今だに考古学では受け入れがたいものがあります。本来はこちらが日本の城の研究テーマであるはずです。……
などは、考古学の分野における城郭研究のこれまでの位置づけがわかるかと思います。
その他、学際的研究時代を駆け抜けてこられた中井さんのインタビュー、若い人はぜひご一読下さい。

ちなみに、ボクは城郭研究は亜流ではなく、歴史学・考古学では常に王道を走る分野と思っています。
ボクラ研究者ですら、城郭遺構の持つ資料としての有効性にようやく気づいてきたくらいですから、まだまだこんなもんじゃない(^^

Foxkeh! フォクすけ!


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