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2010年12月20日 (月)

城郭跡を史料としてみること。

既存の城郭史研究と、縄張り研究から広がりを見せて今日に至る城館史料学では、城郭跡に対する姿勢が異なります。
既存の城郭史研究では、文献史料の記述や絵図・考古資料等から得られる見地から城郭の復元や考証、研究を行います。
これに対して、縄張り研究以来の城館史料学では、城郭跡そのものを歴史研究の資料として捉えて調査を行うことが中心にあり、

文献史料・絵図・考古資料等で状況証拠を固めた上で、城郭跡そのものの分析から得られた見解を以て結論づける歴史研究を行います。

文献史学の人が古文書の記述を決め手として重視されるように、
考古学の人が遺物から得られる年代観を決め手として考察されるように、
城館史料学では、城郭跡そのものからわかることを決め手として研究を進めます。
もちろん学際的な研究ですから、様々な資料を同等に取扱い総合的に捉えて状況証拠を固めます。
その上で、
文献史料と比べて、城郭跡は史料として恣意性が介入することが少なくストレートに当時の様相を残すこと、
考古資料と比べて、地表面観察故に、当時の物証である城郭跡について複数の調査者により何度でも再検証が可能であることから、
文献史料や考古資料で結論づけるよりも、相対的に「確からしさ」で優れていると判断する故に、城郭跡を以て結論づけることを選択するのです。
よって、広義では城郭史専攻でやっているのですが、既存の手法と区別するために意図的に「城館史料学」を用いているわけです。

こうした研究手法が可能なのは、ケバ図表記の縄張り図を確立させ各地で精力的に調査してきた在野の城郭研究者の成果があって、
その上で、1979年の村田修三氏による日本史研究大会報告での提唱からはじまり、
千田嘉博
氏による虎口プランのモデル化と織豊系城郭の形成過程の研究や、
木島孝之氏による虎口モデル編年案、城郭跡で結論づける織豊・近世初期の学際的研究に代表される、
城郭跡の年代観(縦軸)を固める研究とモデル化等の理論的研究の進展、その上で史料として用いる具体的実践の蓄積があるからです。
そういった成果を半ば受売り的ながら自分なりに構成したのか、今回の別府大学で行った「城館史料学概論」の講義なわけです。

と言うことで、
これまで過去3回で、縄張り研究からの研究史と千田・木島両氏のモデル案の理解、実際に城郭跡を歩いて縄張りの解釈を学習した上で、
18日の4回目は、実際に歴史研究において城郭跡を活用する手法として、1つの城郭跡の調査から重要な結論を導くための着眼点と方法、
複数の城郭群を調査対象として類型論と分布論を以て結論を導くための着眼点と方法の2つをレクチャーしました。

変な理屈や理論でこねくり回すわけではないので、話してみれば実際はシンプルなものです。
城郭跡を何かで説明するのではなく、城郭跡を史料として捉えることで当時の社会を明らかにする城郭研究の手法を伝えることを目指しました。
もちろん、城郭跡のアレコレについて考察するのも研究のひとつですが、その際でも城郭跡そのものを史料として捉えた上で行うことが城館史料学の要点です。
去年に史学・文化財学では九州で代表する大学からいただいたオファーに応えるべく、ヨソにないだろう内容で進めてきましたが、
遺跡を史料としてみる姿勢や研究に対する着眼点・手法を、歴史学・考古学を専攻する学生に認識してもらえれば、この講義をやった甲斐があるというもの(^^ゞ

後は、受講してくれた院生・学生や別大城郭研究部の学生たちが見よう見まねでも実践してくれるかですね(^^ゞ

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コメント

最近、改めて斎藤慎一『戦国大名城館覚書』を読み直しました。
あの論文の主眼としては、大名系城郭の存在にどうこう言うのではなく、①地表面観察(=現在)と築城年代の歴史的背景(=過去)を安易に接続する危険性を強調しているよう面が強いなぁと感じました。
文献資料や考古資料であれば、「基本的」には史資料が直接過去と繋がるわけですが、そこでワンクッション開いてしまう縄張図では、そこをしっかりと繋ぐ理論というか、方法論の整備が不十分だと思います。
故に、竹井批判が出現するのかなぁと。
縄張からできるのは、あくまで築城主体の究明であって、そこから先の議論はかなり気を付けなければ、「牧歌的」に過ぎてしまう。畝状空堀群や桝形虎口などの年代の鮮明なものが無い限り、分布から同時代的に扱うしかない。。。逆に杉山城問題は少し洗練されすぎた縄張に振り回されているのかと。

すみません、なんだかまとまってませんが、セミナー以来考えていることをつらつら述べました。

播磨っ子さん、こんにちは。

文献資料は文字がある分直接的ですが、本来あった数からすると微々たるものという過去と現在との断絶があります。
考古資料は掘ればいろいろと解明できる、だから掘りたいという魅力があると思いますが結果的に現在において過去との断絶(遺跡の破壊)を代償とします。しかも得られた成果は調査者の力量に左右され再検証できない。
もちろん、地表面観察も万能ではありませんが、上記のことを思うと、文献資料や考古資料による研究もコチラに言えるほどしっかりした研究手法なのか?という感がしています。
城郭跡は、当時のかなりの残りの良い資料群であると共に、遺構は何度でも再調査できるメリットがあります。
そう考えてきたので、ボクは九州で調査を重ねて、今回岡山県界隈の城郭跡を調査することで、ますます城郭跡の地表面観察による調査は過去とダイレクトに結びつく優れた研究だと感じています。

縄張り研究はこれまでの草創期は当時の城郭跡の構成原理を突き止める方向で開拓されてきました。
それは、千田氏や木島氏の織豊系城郭のモデルで2000年頃までにおおよその方向性と方法論は出来上がっていると思います。
後は、それをもとに可能なところからどんどん歴史叙述を進めていけばよい段階と思います。
それを皆さんが躊躇しているのが問題と思います。
確かに、例にあげているような批判はありますが、必要以上に真に受けて、城郭研究の本来のメリットを自らの手で封印することは止めにしましょう。
城郭跡の地表面観察をやることに魅力を感じることは、「古文書が読めるか、掘ることが出来るか」が研究者の条件である歴史学で業界の「殿上人」となることとはどうしても両立しません。
ですので、それらの批判に真摯に応えるカタチで議論に参画することで歴史学サロンの末席を拝してもあまり意味がないと考えています。
所謂、学際的議論に関わる暇があるなら、むしろ、野山を駆け回り悪党として振舞い、城郭跡を決め手とする(手法として)学際的な歴史研究(城館史料学)を磨く方に勤しむ方が良いです。
なぜなら、最終的には隣接領域は城館史料学の成果に無視できなくなりますから、たぶん(^^ゞ

ということで、九州方面は木島さんが主要な部分はやっておられるので、中国地方から関西方面は切り取り次第で豊かな歴史叙述は可能だと思って自分の幅を広げる意味でも遠征して調査しています。
近畿方面へ上洛戦を進める際はご加勢下さい。

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