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2010年5月10日 (月)

高良山の吉見嶽城を歩きました。

かつて直入郡衆を率いて天正12年からの大友氏の筑後出兵を担った朽網宗暦よろしく、週末は筑後出兵。
地域で、直入郡衆を率いて各地を転戦した戦国武将朽網宗暦をもっと取り上げてほしいものですね。

とリクエストしつつ、高良山にある吉見嶽城を踏査してきました。
永禄年間には毛利勢の九州出兵に応じて蜂起した高橋鑑種ら北部九州の毛利方勢力に対して、
大友宗麟が出陣し、本営として各地の戦線に対して陣頭指揮を執った城郭として有名ですが、
現状遺構は北部九州の戦国期城郭の傾向からみれば、天正後期
の高良山勢力(或いはそれを援用した大友勢)のものです。
毘沙門嶽城と同じく土塁で囲まれて虎口のよくわからない主郭部(琴平宮のあるところ)が確認できて満足です。
力任せな堀切もあり、北部九州の戦国期城郭としてはオーソドックスな縄張りでした。

ところで、文献史料では吉見嶽城が大友氏の本営となっていたとされる永禄末年。本州では戦国期の後半期にはいるはずの時代。
毛利氏は元就が防府まで出陣し、毛利両川も渡海して毛利軍は立花山城一帯・多々良川まで進出しました。
迎え撃つ大友氏も宗麟が高良山まで出陣し、宿老衆も前線に出て大友軍も立花山城をはさんで一進一退で対峙しました。
大友側の『豊前覚書』や毛利側の『森脇覚書』などでも戦いの様子は詳細に後世に伝えられ、そこでは両軍は陣所を構えて対峙したとあります。
特に『森脇覚書』などでは立花山城を囲んだ毛利勢が「岸を切り」「堀を構え」るなどして大友軍を迎え撃ったとあります。
ところが、今日、立花山城の城外にはそんな遺構はみることはできません。
永禄の大大名同士の長期対陣で文献史料には「陣所」を構えたことがあちこちに記述されているにも関わらず、
彼らの拠点となった場所には、美作岩屋城攻防戦のような陣所遺構らしいものは見当たりません。

同じ毛利氏でも10年ちょっとほど下がった天正期に織田軍と長期対陣でやりあったときには両軍は多くの明確な遺構を残す陣城を築いています。
もちろん織田軍の播磨三木や因幡鳥取での陣城は著名ですが、毛利氏もこの頃には備中戦では各地に足場となる城郭跡を構えました。
それなのに、天正期と同じく激しい戦いが繰り広げられたはずの永禄期の戦いではそうした形跡がまるでありません。
(ちなみに豊前長野城周辺の包囲網とされた遺構は、後世の作業道の読み間違いなのでご注意あれ)

北部九州において永禄期の毛利・大友勢の戦いよりも、天正後期の豊臣軍と対峙した秋月氏など国衆たちの方が激しく築城している事実。
古くから城を築くことがあっても、縄張りを組合せて大規模かつ技巧的にこしらえる段階は、以外に新しい「事態」なのでは?
これが、私が城郭跡の縄張りを現存遺構を最終段階のものとして捉える立場から、編年モデルや年代観を考える理由のひとつです。
ですから、文献史料で何と出ようとも、それに引っ張られて吉見嶽城を永禄期など
と不用意に年代を古くするのは慎む姿勢。
千田嘉博氏と木島孝之氏が明確な指標を立てられた織豊系城郭・近世城郭を柱に、様々な城郭跡の縄張りの相対的比較から検討した
年代観を基礎として、隣接分野の諸史料を勘案しながら考える立場を選択しています(^^ゞ。

写真は吉見嶽城主郭の土塁。虎口に見えるのは後世の破壊道です。場所などはコチラのサイトを参照して下さい。。

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