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2010年5月31日 (月)

科研費。

平成22年度科学研究費補助金の配分について(文部科学省HP)

本資料は、平成22年度の科学研究費補助金(科研費)のうち、4月1日に交付内定を行った研究種目について配分結果をとりまとめたものです。
 応募のあった約12万5千件の研究課題のうち、ピア・レビューによる厳正な審査を経て、約5万7千件を採択し、総額約1,353億円(直接経費)を交付する ことを内定しました。このうち、新規採択分は、約8万8千件の応募に対し、約2万件を採択し、総額約474億円(直接経費)となっています。
 新規応募件数は、前年度より3,634件(4.0%)の減、採択件数は1,493件(7.1%)の減でした。また、採択率は、前年度より0.7%減の 22.4%となりました。


ボクも採択されるような優れた研究プログラムで研究協力者などに名を連ねるようになりたいものです。

2010年5月30日 (日)

伏見城研究の成果と課題に行ってきました。

大阪歴史学会の見学検討会「伏見城研究の成果と課題」に行ってきました。
午前中は伏見城跡(明治天皇陵宮内庁管理地のぞく)の見学会、午後から検討報告会のスケジュール。

ありがたいことにこの日も晴天。
朝から南海→地下鉄→京阪で丹波橋まで。集合場所の近鉄桃山御陵前駅で降りるとたくさんの人だかり。
をを!と思っていると龍馬の見学会なグループと待ちあい場所が同じだったようです。さすが歴史と文化のまち伏見です。
と、それを差し引いても伏見城見学会は予想以上の参加者に恵まれ、事務局は対応にてんやわんやだったようです。
いつもは大阪歴史学会の会員や参加者が集まって多くても80名くらいだそうですが、

この日は200人は軽く超えたらしく伏見城への関心の高さがうかがえます。
ナビゲーターは午後からの報告者でもある中井均さんと森島康雄さん。たしかに聴きたいですね。
この日は伏見城だけに、歴史・考古・博物館な各分野の方々にお会いできました。皆さんに近況のご報告もしたりして(^^ゞ

昔は京阪特急が伏見に止まらなかったこともあり、私自身は伏見城や伏見界隈には行ったことがありませんでした。
現在の伏見城跡は明治天皇の陵墓が南斜面にあるため、本丸・二の丸などの主要部の立ち入りは制限されています。
それでも、日本史研究会編による『豊臣秀吉と京都』や高田徹氏による調査可能範囲の遺構調査による基礎的考察(中世城郭研究19号)などの先行研究があります。
それらの成果を踏まえて、可能な範囲の城跡を歩き現地の様子を探るのが今回はじめての伏見城跡訪問の大きな目的。
本当は、去年あった16学会による伏見城陵墓内立ち入り調査の報告会に参加したかったのですが、その時は仕事の関係で行けず。
でも、今回は大手を振って土日に参加できました(・ε・)。

木幡山にある伏見城跡はキャッスルランドだった北の長束大蔵曲輪から北堀跡の公園を中心にみてまわることができます。
桃山御陵前駅から御香宮を通って明治天皇陵参道まで登っていきます。天皇陵には行かずに北側の方へ廻っていくコース。
現地を歩いて、予想以上の長い傾斜がかなり印象的でした。ゆるやかな坂が際限なく続いた先に木幡山があります。予想以上の高低差。
城跡は石垣がほとんど抜かれた状態で、遠目にみても切岸らしい地形がみえました。たぶん石垣は抜かれて宇治川の護岸に使われたのでしょう。
治部池などの北側の堀は、自然地形の池を取り込み巨大な遮断線となっていました。
北堀は堀底がそのまま公園になっており、やはり巨大な遮断線を形成しています。
やはり、豊臣秀吉晩年に築城されてから徳川初期まで政治の中心となった公儀の城郭。とにかくでかい。
帰りは、伊達街道から桃山高校を経由してひたすら傾斜の西側斜面地を下って丹波橋まで。

それにしても、何とか宮内庁の理解を得て管理地となっている主郭部について縄張り調査をお願いしたいですね。
発掘などは無理ですが、縄張り調査に長けた研究者による調査グループで入れば、4〜5日もあれば現況遺構図ができるでしょう。
考古学的調査法のひとつ縄張り調査を導入すれば、豊臣・徳川移行期の慶長・元和期の政治と社会を知る貴重なデータを得ることができます(^^ゞ。
但し、それは最終段階の遺構がわかるということです。たぶん、現況遺構の踏査と考察を抜きに他の資料を駆使して一足飛びに秀吉晩年の様相を探ろうとしても八方塞がりになると思います。
城郭史料学は「最終段階」を示す現況遺構を踏まえた上で遡及的に考察を深める学問ですので、
文献史料や絵図で状況証拠を固めつつ、現地調査による遺構の読み込みを柱として、モノ(遺構)から歴史を読み解くのがキモであり、
伏見城研究にもそうした有効性を発揮すると思います。

午後からは研究報告会。感想は別途資料を読み直してから(^^ゞ。
あとは懇親会まで参加しました。お城屋さんの密度の濃い会でしたが、皆さんどうもお世話になりました。
Hさん、労作ありがとうございました!と業務連絡(^^ゞ

写真は伏見城治部池を遠くから。冬にもう一度ゆっくり観に行こうと思います。
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2010年5月26日 (水)

渋さ知らズ!@ベップオンガク

仕事を終えて、ひとっ飛び。
行ってきました別府の盛り場北浜通りにある、元すとりっぷなA級別府劇場こと別府永久劇場。
アートNPOのBEPPU PROJECTが進めるPlatformプログラムによるまちなかリノベーションスペースです。
この夜は、そんな別府永久劇場がクアトロみたいなライブハウスになった、渋さ知らズ!のライブ。
福岡居たときから行きたかった、渋さ知らズ!のライブ。
まさかBEPPUで、こんなロケーションで観れるとは。ベップオンガクありがとう!


やっぱり素晴らしいライブでした、渋さ知らズ!オーケストラ。
設備は悪くても最高のロケーションで、お約束に花道と回転舞台も使っての
演劇空間&ビックバンドごちゃまぜライブのような、それでいてとてもエロティックで舞踏でアートな2時間のライブ。
BEPPUならでは!な仕様の渋さ知らズ!のライブ。
当日は完売。来た人は最高の時間を共有できたはず。
2時間弱ぶっ通しで音楽のシャワーと舞踏が入り交じる、酸欠すとりっぷ劇場ライブハウスとなりました。
こちらも負けずに2時間ぶっ通しで飛んだり跳ねたり。。。間違いなく筋肉痛だ(^^ゞ

この空間が開幕後は狂気乱舞の舞台となった別府永久劇場。真ん中の花道は現役時代はすとりっぷ(^^ゞ
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2010年5月25日 (火)

「渋さ知らズ 温泉大作戦・別府編」

久々にアートネタです。

3月に、まだ○芸職だった頃(^^ゞに、アートネットワークで呼ばれて案内していただいたストリップ劇場だった旧A級別府劇場。
BEPPU PROJECTのplatformプログラムのひとつとして、みかんぐみが絡むという大分ネイティブではありえないだろう展開で、
その名も「別府永久劇場」として生まれ変わりました。
そんな元ストリップ劇場(もちろん円形舞台あり)で、あの渋さ知らズが大分、別府に上陸。
これはスゴイことです!オオイタの若い子はぜったいに行け、金を惜しむな、後悔するぞ(^^ゞ
「現代芸術フェスティバル」のコンヨク世界な別府だからこそ実現したと思う「最高のロケーション」でのライブが期待されますね。

渋さ知らズ 温泉大作戦・別府 編
永久劇場(旧A級別府劇場:別府市北浜1丁目1- 12)
2010年5月26日(水)
開場:18時30分 / 開演:19時30分
前売:¥3000 / 当日:¥4000(全席自由)
主催:宇宙図書館
チケット取り扱い:ReNTReC.(別府タワー4F)他
 

べっぷろのサイトが再構築中のようですので、コチラのウェブログが参考になるかも。
2008年にレイハラカミを引っ張ってくるなど数々の奇跡を起こすベップオンガクにつながるプログラムの様子。
うーん、行きたいけど、厳しいかな。ロケーション的には仕事帰りオヤジスタイルで行くだろう、じぶん(^^ゞ。

Akyu

2010年5月23日 (日)

新刊本販促の季節(^^ゞ

まがりなりにも歴史学業界の片隅に居る私。おかげでボー○ス時に合わせて書籍案内が多数やって来る(^^ゞ。
そんでもって、昼休みにネットサーフィン(死語)しながら書籍のチェックしてメモなどとっている(^^ゞ。
最近は皆さん方は書籍を刊行するのが当たり前状態なんですが、公費で買えるわけもないのでもっぱら史料集と城郭系優先。
中には6冊目の論集という猛者も居られますけど、揃えるのも一苦労と思います。

そんな中、とりいそぎ広島の毛利氏関係で押えないと。。。と光成準治氏の『中・近世移行期大名領国の研究』を今ごろ注文(^^ゞ。
2007年の書籍ですが、学会で買おうかと思っていましたが秋まで行く予定がないので某まちなかのツケの効くY本屋文具店に注文。
最近は16世紀の関東は戦国期論集の書籍刊行オンパレード状態ですが、一方西国の毛利氏関係はあんまりなくて東高西低状態です。
そんな中、戦国・織豊期の毛利氏は後半生で必ず押えたい相手ですので仕入れることにしました。

文献出版亡き後西日本で刊行する出版社も少ないですから、i田書院さんとかK志書院辺りから出ないのかな。。。
と思っていますと、
岩田書院から、大西泰正氏の『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』
 が刊行。
これで織豊期の宇喜多氏を押えることができます。一応、岡山県立図書館に進駐して関係論文を拾い集めしてますがありがたいところです。
宇喜多氏は荒神山城に行ってかなり興味を覚えたので、何かの機会に絡むこともあるでしょうから先行投資を検討。
岡山県の戦国・織豊期城郭の研究なら条件さえ整えばすぐでも着手できます(^^ゞ
さらに、渡邊大門さんはくどいくらいにご自身のウェブログでPRしてましたが、『戦国期赤松氏の研究』も岩田書院から刊行。
こちらに届いた岩田書院のDMに載ってました(^^ゞ。こちらも興味あるところ。

と、安芸〜備前〜播磨と山陽道で書籍が続くよ、どこまでもですが、全てを網羅するのは「際限なき軍役」で到底困難。
中田正光氏の『新訂版戦国武田の城』やサンライズのベスト50シリーズ、そしてセミナーと城郭系軍役も増えており優先順位が難しい(^^ゞ。
でも、その内、某1階のカウンターに事務用品配達のついでに頼んだ書籍がいくつかは届けられるでしょう(謎)

ベテランの老先生から新進気鋭の若手研究者まで単行本から新書までたくさん出される昨今、出せることに越したことはありませんが、
歴史ブームに乗って戦国・織豊期研究の隆盛期?となっている近年の出版ラッシュにはさすがについていけません。
そういえば、戦国史研究や城郭研究で高名なM先生はあれだけの影響ある論文を数多く出して居られるのに単著は出しておられません(たぶん)。
ホントなら引く手あまたと思うんですけど、ポリシーなのかもしれませんね。こういうお立場もありだなあ、と思います(^^ゞ。

いずれにしても、皆さん多作だなあと新刊本案内を読みながら、よそのことより自分の研究をしっかり組み立てる努力せなあかんね(..ゞアセ

2010年5月20日 (木)

晴耕作図。

春になり野に放っていただいた上に休日が晴天続きだったので、遅れ気味の調査も快調に進みました。
夜な夜な図面の清書をロットリングでやってます。
今、作成している城跡は小さな事例ですが、ここから大きな成果が生まれるやも知れません。それが城跡の現地調査の醍醐味。

これから雨の季節、現地調査の成果から総合資料学を組み立てていく作業がたのしみ(・ω・)ノ

さて、わたしがハコでつまらん連中相手にかまけていた間に、Kさんは城館史料学の枠組みを固める論考をいくつも出しています。
その理にかなった仕事っぷりをみてると、某S城問題なんて「問題以前」のことだとわかります。
極意を理解してはやく追いついてこい、と言われてますが追いかけるだけでも一苦労(^^ゞ。
でも、この機会を逃さず、城館史料学に専念し自分なりの研究手法を確立させるべく努力に勤しむ初夏の夜です。

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2010年5月16日 (日)

城跡調査に加勢していただく。

過日のニチヨウ城郭跡調査は、BP大の院生くんにご加勢いただきました。
先生のご紹介で知己になったのですが、縄張り調査に関心を持ち自分でもやっているとのこと。
以前にKさんの調査を見学して、レンザティックコンパスと巻尺による縄張り調査をみてから、
さっそくレンザティックコンパスを仕入れたと言うから、熱心な学生さんです(^^ゞ
わざわざ遠路ご加勢いただき感謝する次第でした。
Kさんの立花山城調査に帯同して、一緒に作図することで縄張り調査のノウハウと城跡の見方を習得した15年ほど前の自分を思いだします。
でも若い子と一緒にすると疲れてもサボれないので体力的に厳しいのは年のせいですかね?それともボクが怠け者なせいでしょうか?
おかげで、サボれないのでがんばって集中して取り組んだおかげで、随分とはかどりました。

城跡を調査して論文をするというので、時間的に秋から春しかないことを踏まえて、
戦国期城郭よりも織豊系城郭一発狙いから歴史学研究に絡める事例を攻めるべきとアドバイスしました。
また、若いときには戦国期城郭よりも、ある程度縄張り技術が理解しやすい織豊系城郭を一度触れておいた方がいいと思うところもあります。
時間があればボクのように秋月氏や筑紫氏を網羅するのもアリですが、修論なので「労少なくて功多し」事例を薦める。
城郭研究を柱にして歴史研究をがんばってほしいものです。

さて。
今年度後期にBP大大学院の集中講義に出講します。内容は「城館史料学概論」、もちろん時間外の出講です。

たぶん本邦初?の城館史料学オンリーの15コマ集中講義です。研究史から現地踏査、城郭跡と城郭跡を介した総合資料論で構成します。
城郭跡と城郭跡を媒介にさまざまな資料解釈を通して地域史を総合的を読み解く城館史料学の
面白さを伝えることができれば幸い。
Q大からいただいた学位で地域社会のお役に立てる機会ですからありがたいことですし、城館史料学の方としても責任重大(・ω・)ノ
城郭研究を知りたい、学びたい人なら誰でも参加できる「次世代を育成する」場にしたいものです。

どなたかに講義をUst中継してもらえたらいいですね。

2010年5月15日 (土)

「城跡調査と戦国史研究」

今日はBP大にお伺いしてあれこれ打ち合わせ。その後、城郭研究部の若い学生さんたちに縄張り研究についてお話してきました。
大学の城郭研究部と言えば、往時は関西・東海・関東などで多くの城郭研究者を輩出したものです。
今でも立命館大学で城郭研究部がありますが、九州ではほとんどない状況で、BP大にあるというのはうれしいことです。

その中でいの一番に紹介したのが、村田修三氏が1979年の日本史研究会大会報告で発表された「城跡調査と戦国史研究」です。
翌年の日本史研究211号に掲載され、
縄張りベースの城郭研究では、エポックとなった論文と位置付けられています。
歴史学において、城跡を歴史研究の「史料」として活用する営みの重要性を紹介し、縄張り研究を提唱した論文です。
東京堂出版の『展望日本歴史12 戦国社会』に再掲されています。(もちろん国会図書館のコピーサービスでも可)

「中世の城郭遺跡を地域史と在地構造分析の史料として活用すること」は、しばらくは縄張り研究者の間で「お念仏」のように唱えられたものです(^^ゞ
また、はじめに—中世城郭とは— に書かれている、城郭の概念と考察の視点、調査法(文献・伝承調査と現地調査)についての概説は
当時の様子をうかがい知ると共に、今一度、目を通したらいろいろと示唆に富むところがあると思います。若い人も当時の雰囲気を想像しながら読んでみて下さい。
論文の中にある「城郭遺跡を歴史研究の史料として活用する営み」は、
現地調査を通して城郭研究を行う目的を端的に示しているとも思っています。

30年近く経ち
「城郭遺跡を歴史研究の史料として活用する営み」は、紆余曲折・さまざまな立場を含みつつ広がりをみせています。
その中で、城郭史から城館史料学への展望が開けるように努力できればと思っています。

2010年5月11日 (火)

縄張り調査ベースの城郭研究の研究史。

縄張り研究の研究史について、全国的な流れについて把握する上での基礎文献としては、

千田嘉博氏の『織豊系城郭の形成』1城郭研究の視点と方法 と、
木島孝之氏の『城郭の縄張り構造と大名権力』序章

は少なくとも目を通すとよいと思います(^^ゞ。

村田修三氏『城跡調査と戦国史研究』は入手が難しいですが、東京堂出版『展望日本歴史12、戦国社会』に再掲されています。
しかしながら、80年代の村田修三氏の業績を整理して批判を加えた上で、城郭跡のさらなる史料論的可能性を述べた松岡進氏の
「戦国期城館遺構の史料的利用をめぐって」(1988)は、入手の難しい『中世城郭研究』第2号掲載の上に、
論集などに再掲されていないので入手が難しくあります。けど目を通すとよいと思います。

縄張り調査ベースの城郭研究が80年代以降起こってきた背景や城郭跡の地表面観察がどういった面で有効なのか?
が伝わっていないのではないか。と去んぬる筋で話しになったので、あらためて再確認。
ボクも当時の現役世代ではないので、研究史をしっかり読み直すことで下半期の講義に活かしたいと思っています。

2010年5月10日 (月)

高良山の吉見嶽城を歩きました。

かつて直入郡衆を率いて天正12年からの大友氏の筑後出兵を担った朽網宗暦よろしく、週末は筑後出兵。
地域で、直入郡衆を率いて各地を転戦した戦国武将朽網宗暦をもっと取り上げてほしいものですね。

とリクエストしつつ、高良山にある吉見嶽城を踏査してきました。
永禄年間には毛利勢の九州出兵に応じて蜂起した高橋鑑種ら北部九州の毛利方勢力に対して、
大友宗麟が出陣し、本営として各地の戦線に対して陣頭指揮を執った城郭として有名ですが、
現状遺構は北部九州の戦国期城郭の傾向からみれば、天正後期
の高良山勢力(或いはそれを援用した大友勢)のものです。
毘沙門嶽城と同じく土塁で囲まれて虎口のよくわからない主郭部(琴平宮のあるところ)が確認できて満足です。
力任せな堀切もあり、北部九州の戦国期城郭としてはオーソドックスな縄張りでした。

ところで、文献史料では吉見嶽城が大友氏の本営となっていたとされる永禄末年。本州では戦国期の後半期にはいるはずの時代。
毛利氏は元就が防府まで出陣し、毛利両川も渡海して毛利軍は立花山城一帯・多々良川まで進出しました。
迎え撃つ大友氏も宗麟が高良山まで出陣し、宿老衆も前線に出て大友軍も立花山城をはさんで一進一退で対峙しました。
大友側の『豊前覚書』や毛利側の『森脇覚書』などでも戦いの様子は詳細に後世に伝えられ、そこでは両軍は陣所を構えて対峙したとあります。
特に『森脇覚書』などでは立花山城を囲んだ毛利勢が「岸を切り」「堀を構え」るなどして大友軍を迎え撃ったとあります。
ところが、今日、立花山城の城外にはそんな遺構はみることはできません。
永禄の大大名同士の長期対陣で文献史料には「陣所」を構えたことがあちこちに記述されているにも関わらず、
彼らの拠点となった場所には、美作岩屋城攻防戦のような陣所遺構らしいものは見当たりません。

同じ毛利氏でも10年ちょっとほど下がった天正期に織田軍と長期対陣でやりあったときには両軍は多くの明確な遺構を残す陣城を築いています。
もちろん織田軍の播磨三木や因幡鳥取での陣城は著名ですが、毛利氏もこの頃には備中戦では各地に足場となる城郭跡を構えました。
それなのに、天正期と同じく激しい戦いが繰り広げられたはずの永禄期の戦いではそうした形跡がまるでありません。
(ちなみに豊前長野城周辺の包囲網とされた遺構は、後世の作業道の読み間違いなのでご注意あれ)

北部九州において永禄期の毛利・大友勢の戦いよりも、天正後期の豊臣軍と対峙した秋月氏など国衆たちの方が激しく築城している事実。
古くから城を築くことがあっても、縄張りを組合せて大規模かつ技巧的にこしらえる段階は、以外に新しい「事態」なのでは?
これが、私が城郭跡の縄張りを現存遺構を最終段階のものとして捉える立場から、編年モデルや年代観を考える理由のひとつです。
ですから、文献史料で何と出ようとも、それに引っ張られて吉見嶽城を永禄期など
と不用意に年代を古くするのは慎む姿勢。
千田嘉博氏と木島孝之氏が明確な指標を立てられた織豊系城郭・近世城郭を柱に、様々な城郭跡の縄張りの相対的比較から検討した
年代観を基礎として、隣接分野の諸史料を勘案しながら考える立場を選択しています(^^ゞ。

写真は吉見嶽城主郭の土塁。虎口に見えるのは後世の破壊道です。場所などはコチラのサイトを参照して下さい。。

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Foxkeh! フォクすけ!


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