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2010年4月 4日 (日)

美作岩屋城跡。

去年に高山城、医王山城、神楽尾城、院庄構城、小田草城とみて、2月からは荒神山城、林野城、三星城、そしてようやく岩屋城をみることができました。
なかなか美作の戦国・織豊期城郭は興味深い事例が多い。
おおよそ毛利方が築いた拠点城郭の特徴もなんとなくわかってきました。
それと対称的な羽柴・宇喜多方の城郭も、もちろん在地系城郭の特徴もです。感じだけですけどなかなか勉強になる。

毛利氏は高田城→岩屋城→桝形城→(医王山城)→高山城→[因幡]と展開します。
大規模な軍団を押し出して併呑するような展開をみせます。
それを、篠向城や荒神山城を足がかりにピンポイントに寸断しようとするのが羽柴・宇喜多氏側という感じを受けます。


さて、美作岩屋城跡。城跡そのものは特にコレといった縄張り技術があるわけではない。
城域が広く曲輪も大ぶり。水源を持つ谷を2つ城域の中に抱えてその上の稜線に曲輪を連ねるプランです。
これは神楽尾城にも通じるプランです。どちらも毛利氏が軍団を駐屯させる拠点タイプです。
城域の縁辺部には稜線を区画する堀切が築かれています。
虎口は平入り虎口と下位曲輪に土塁を延ばしてスロープにして用いるタイプがあります。桝形虎口などの凝った虎口プランはありません。
なので縁辺部には要注意。

折れや喰い違いをみせるようなプランがありますが地形上そうなったもので織豊系とは言えないものです。
その一方で、大堀切やてくのぼりと呼ばれるハーブバイブのような巨大な畝状空堀群が8本も刻まれるなど、後背からつながる稜線に対しては神経質なまでに防御が施されている。
おそらく陣城群で囲まれたときの籠城戦で徹底的に遮断する意識が反映されたものだろうかと思う。

また、麓の慈悲門寺跡とされる曲輪群は谷あいに曲輪が広がるもので、往時は籠城に使用されたものでしょう。
寺跡とされる広い曲輪には古瓦や備前の破片がたくさん落ちていました。

これと合わせて、土塁によるスロープの評価をしっかりして岩屋城跡の縄張り図をきちんと取ると面白いのではないかと思いました。

美作岩屋城跡は単体としては大味な縄張りと言えます。他の城郭跡と比べてもこれといった特徴を見出しにくい部類にはいります。
でも大味な縄張りの美作岩屋城跡に毛利方の美作国の国衆が籠城し、麓に土塁ラインとコンパクトに織豊系城郭の縄張り技術を用いた陣城を築いた羽柴・宇喜多勢が対峙する。
この構図がそのままセット関係で今日も遺構として残っていることにこそ、この史跡の歴史的価値があると思います。
攻守両方の城郭跡の縄張りの違いは、戦国から織豊期への移行期たる天正10年代の時代を証言するもの。どちらも欠けてはいけないものです。
美作岩屋城跡・陣城群は、織豊系城郭の縄張りを使いこなす両勢力のぶつかった賎ヶ嶽陣城群など陣城のある事例と並んで、
この時代を端的に示す物的証拠、そして、境目たる美作国の地域性が如実に出ている事例と思います。

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