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2010年4月18日 (日)

美作学講座「中世山城の世界」に出講。

17日は津山市の美作荒神山城跡にて、「美作荒神山城を歩く」と題して現地の史跡で中世山城(織豊系城郭ですが)を案内する講師をさせていただきました。
津山市生涯学習課の地域学事業「美作学講座・中世山城の世界」の4回シリーズの第1回目を担当しました。
10月にある国民文化祭の『中世山城の祭典』のプレイベントでもあります。自分にとっても「史跡からみる地域学」ことはじめです。
週末まで天気が悪くありましたが、当日は新緑もまぶしい快晴!
63名の参加者に来ていただきました。関西からも顔を出していただきありがたいことでした。
津山市・市教委、保存会の方々に誘導していただき、城跡を無事にまわることができました。
実際に歩いて説明する機会を与えていただき、多くのご参加をいただいた津山市の皆さんには感謝するばかりです。

今回のポイントはただひとつ「織豊系城郭の縄張りを理解してもらうこと」です。
これを何となくでも認識していただければ、それ以外の城跡は戦国時代の城跡であるとなります。
荒神山城跡は堀切がある以外は内桝形・連続外桝形虎口やくい違い虎口、横矢の効いた土塁や塁線、櫓台など織豊系城郭のパーツが多くあります。実見するには最適な事例となりました。
現地で実際の遺構を説明しながら、木島孝之氏の織豊系城郭虎口変遷案でキーワードとなる「L字状の腕」となる土塁・石塁線をイメージしてもらうことに務めました。
特に、南東側の虎口と北東側の虎口で丁寧に説明しました。塁線と出入り口に注意してもらいたいことを口酸っぱく言いました。
あと、諸説はありますが、おおまかに分けると中世から安土桃山時代・江戸時代初期の城郭跡は、
1、織豊系城郭 2、武田氏系城郭 3、後北条氏系城郭 4、それ以外の在地系城郭(戦国期城郭) 5、近世城郭(織豊系城郭の発展型、巨大化したもの)
の5種類になります。それぞれの特徴をおおまかに説明しました。

何となくでもイメージしてもらえたら幸いでしたが、参加者は熱心に聴いていただきとても好評のうちに終わりましたので一安心。
説明する私の方も、一般の方々に伝えるのに要点をしぼって簡潔かつ丁寧に説明することはとても勉強になりました。
もちろん、説明の仕方や図の見せ方はまだまだ工夫が必要です。上記の方向性を基礎により良いものにしたいと思いました。
当日の写真は。。。説明している側ですのでもちろんありません(^^ゞ

追伸:後日、主催の美作大学地域生活科学研究所の方から写真や記事をいただきました。ありがとうございます!

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美作学講座「中世山城の世界」に出講。を参照しているブログ:

コメント

興味がありまして、お教え願えますか。

>諸説はありますが、おおまかに分けると中世から安土桃山時代・江戸時代初期の城郭跡は、
1、織豊系城郭 2、武田氏系城郭 3、後北条氏系城郭 4、それ以外の在地系城郭(戦国期城郭) 5、近世城郭(織豊系城郭の発展型、巨大化したもの)
の5種類になります。それぞれの特徴をおおまかに説明しました。

この1~5ですが、どのようにご説明したのかお教えください。

馬念さん、こんにちは。

一般の方々相手に城跡についておおまかな説明をする必要があると思い、かなり大ざっぱに分類しました。
場所が西日本なので、キモは1の織豊系城郭を何となくでもイメージしてもらうこと。
荒神山城は横矢や桝形虎口など織豊系城郭の縄張り技術がふんだんにみられるおおよそ土づくりの城。
ですので、虎口に注目することと、「L字状の腕」(腕については愛城研報告第5号木島孝之氏論文参照のこと)があるかどうかを確かめてみることを、口酸っぱく実物を使って説明しました。
周囲を切岸や石垣で固めるので弱点となる虎口をどのように防御するか、その工夫である「腕」をみつけよ。です。
これで、織豊系城郭とそれ以外の在地系城郭(4)に大別することができます。この織豊系城郭の仕組みが総石垣で巨大化したら(こちらでは津山城を例として)近世城郭(5)です。となります。

あと、東日本の場合には、弱点となる虎口をどのように防御するか?で工夫をした勢力として、3,武田氏系城郭の丸馬出しと4,後北条氏系城郭の角馬出しがありますと、例にあげました。どちらとも理念型として丸馬出しと角馬出しをどう捉えるか示しました。こちらも木島氏からご教示いただいたのですが、未発表な試論だそうなのでここでは「マル秘」です。すみません。
もちろん、関東での年代観の議論は承知しておりますが、虎口を如何に防御したかを理念型としてみた場合、武田氏と後北条氏がこの問題に回答を出した勢力で評価してよいかと思います。

これらのおおまかな分類を一般の方々にはまずイメージしてもらって、その上で、後は各自がいろんな城跡やテキストを読んでそれがホントかどうか実際に歩いて考えてもらえればよいのでは?と考えて説明を用意しました。
そんなところです。

お疲れさまでした。
前日までの大荒れの天気とはうって変わって見事な快晴で何よりでした。

虎口の形状や櫓台、折を設けた土塁、瓦の年代観などから文禄・慶長期の改修が想定されますが、
なぜあんな立地の荒神山にあれだけの設備投資をする必要があったのでしょうか?
今後は直接的に語る文献史料がなくても周辺の歴史的環境から類推していく必要があるように思いました。

やましたくん、こんにちは。
当日はありがとうございました。荒神山城を2回目の登山であれだけ説明したのには生涯学習課の方は驚いていました。
やましたくんをはじめとする先行研究のおかげで予習ができた賜物です。

おっしゃる通りで、あれだけの設備投資をする必要性が何かを考えると、荒神山城はなかなか面白い事例だと思います。
立地や周囲の情勢がわかりづらくても、縄張りが明らかに周囲から抜きん出ている事実は動かない。
美作の山城はどれもいい素材だと思いますが、荒神山城は抜群の面白さでした。
機会があれば岩屋城と陣城群をご案内下さい。

あと、天神山城も行ってみたいと思っています。実に勉強になる地域です。

中西様、早速のお返事ありがとうございます。

荒神山城が、織豊系の典型的な土の城ということのようですが、手元にある山下晃誉氏の縄張り図ではあまり織豊系という感じがしないのです。このような横矢や桝形虎口も関東でもよく見かけられる形態なのですが、やはり城跡を見ないと分かりませんよね。
また、木島孝之氏の論文は見ていませんので「L字状の腕」について分かりませんが、「中世城郭事典Ⅱ」の村田修二氏の「城の発達」で取り上げられている『嘴状虎口』と思ってもよいものなのでしょうか。
武田氏と後北条氏の虎口については、武田氏の両袖虎口形式の桝形や後北条氏の屈曲を繰り返す長大なスロープ状の通路の虎口などを見ますと、弱点となる虎口に工夫を凝らし防御力を高めていたとみてよいかと思います。馬出においては、武田氏が丸馬出で後北条氏が角馬出という図式ですが、他勢力も使っていることからしますと傾向として多用していたというのがよいように思います。

馬念さま

私の図面をご参照いただきましてありがとうございます。
おそらく『16世紀末全国城郭縄張図集成』所収の図をご覧いただいているのだと思いますが、
たしかに私の図を見ただけでは織豊系という感じはしないと思います。

中西さんの遺構評価は私の図よりもより積極的に織豊系城郭として評価されていますが、
このあたりは今後発表されるであろう中西さんの図をお待ちいただいてご確認ください。

ちなみに私は遺構だけで荒神山を文禄・慶長の改修としているわけではなく、
参考文献にも挙げている通り、採集瓦の年代観からも当該期の使用が追認できるため、件の書籍に取り上げた次第です。

馬念さま。
織豊型城郭の虎口プランについては、よろしければ愛城研報告第5号を入手していただいて木島論文に目を通していただければ幸いです。
損はないと思います。
武田氏や後北条氏のプランについては、他勢力やその前の扇谷上杉氏じゃないかという意見は踏まえていますが、仮にそうした勢力が虎口プランに意識していたとしても(私はそうは思いませんが)、理念型としてモデルとなる虎口プランまで昇華させたのは両氏でよいと思います。

あと、荒神山城については山下くんや畑さんの図面では織豊系縄張りの特徴がわかりづらいところがあります。
かといって、池田さんの図面も妙なところでは細かいのですが、こちらも織豊系プランの特徴がわかりづらいところがあります。
ボクが図面をとるかはスケジュール次第ですが、荒神山城はバリバリの織豊系縄張り技術です。
わたしをふくめてどなたかいい図面を採られたらよいと思っています。

中西様、やました様、お返事いただきありがとうございました。

荒神山城が、織豊系であるんだなということは御両人の証言としてお聞きしておきたいと思います。
美作には以前訪れましたが、再度訪れまして実際に見てみたいと思います。ただ、いつになるか・・・?です。

すいませんが、もうひとつ質問させてください。
『理念型』という言葉がいまいち理解できませんので、ご解説いただければ幸いです。

城郭跡にはいろんなプランがあり、形態や年代から観ても千差万別です。
パーツ論にこだわりすぎると、それぞれの城郭跡にはそれぞれの特徴があるとなります。
そうではなくて、いろんな要素から抜きだして、築城技術の方向性や指向性を読み解くことが必要になります。

千田嘉博氏の織豊系城郭変遷モデルのように、織豊系城郭のさまざまな要素の中で虎口に注目し、その発達過程をモデル化して全体の指標にしたように、いろんな要素の中で必要な部分を抜き出し、モデルとなる形を探ることで得られたものを「理念型」と考えています。
理念型の丸馬出し、角馬出しは、各事例の多彩な形状の中で虎口プランに注目し、築城主体が出入り口に何を発達させることで防御を固めようとしたのかを見出してモデル化したものです。

面白く拝見しております。今回のように、文献や発掘成果がないところでは、たとえ仮説的でも織豊系城郭の枠組みを検討し、おおまかな縄張りの年代観を提示すべきであると思います。美作の研究状況は、まったく無知なのですが、今後の研究の進展を期待しております。さて、私からも質問なのですが、1の織豊系と4の在地系の差異は、どう説明されたのでしょうか。櫓台や横矢などは、在地の技術でも可能であり、後の織豊系にもつながった部分もあったかと思います。また、中西氏が参考にされている千田氏、木島氏の研究は、在地技術と変らないⅠ類のような「虎口なし」、あるいは「平虎口」の段階から、発展段階的に説明されていることに意義があります(その点が既存の武田系、後北条系の研究と違う点です)。したがって当初(プロトタイプ?)は在地系とあまり変らないのです。今回の城跡のように、文禄・慶長期まで下らせて画期を想定されると、天正10年前後などの城跡は、まだ在地系も織豊系もはっきりしない段階のように位置づけられます。その一方で、中国地方では、慶長期に入っても毛利や福島の支城で、縄張りに限ればかなり多様、かつ古い構造も残すものもあります。縄張りだけでは、両者の区別は難しく、今回、やました氏の指摘されているように何をもって年代を決定しているのかははっきりさせる必要があります。私としては、単に個別的な検討だけで細かい縄張り年代を追うだけでなく、美作全域の織豊系の分布なども視野に入れて、じっくりと取り組まれることをお奨めします(美作のような地域の方が、意外と検討されていない織豊系分布論がやりやすいと思います)。昨今、関東などのように縄張りの年代観は、逆風にさらされています。これは対岸の火事ではなく、私たち(縄張り屋さん)も今後10年間郷土史、地域史からの厳しい批判にさらされる運命なので、来るべき批判を想定した在地系の議論と理論武装が必要です。

中西様、再度のお返事ありがとうございます。また、萩野様ご意見ありがとうございます。

理念型の捉え、ある程度は分かりました。「モデルとなる形を探ることで得られたもの」で発展系列を考えていくということのようですね。以前『戦国の堅城』に西股氏が書かれていた北条流・武田流の虎口・馬出の論に近いものと思ってもよいのでしようか?
そうしますと、後北条氏と武田氏には独自の理念型プランの築城技術が確立していたという風になります。独自の理念型プランの築城技術と言えば、松岡進氏の提唱する伊達氏系も入るのではないでしようか。荻野氏もお尋ねになっている1の織豊系と4の在地系の差異でいえば、、在地系(西日本の在地系か?)は理念型にまで昇華されていないと理解できますので、東日本の後北条・武田(伊達)はかなり進んだ築城技術を保持していたとなると成りますね。と、なると先進的な東日本、後進的な西日本といったことになってしまうのですが、こんな理解ではきっとないだろうとは思うんですが・・・。

縄張りの年代観が逆風にさらされているというのは、確かにあるようです。杉山城問題もあるようですが、以前からある○○城が戦国大名△△氏系のものとは?ということもいわれていることもあったりで、従来の築城時期や築城主体に揺るぎか産まれているのも確かです。萩原三雄氏が『武田氏築城技術と新府築城』(新府城の歴史学)の中で「武田氏が築城した城郭に対して、現段階では「系」という用語を関して系統的に概念図けるほど研究が熟していないと認識している」と述べていることからも分かるように、戦国大名○○系築城術はいえないという認識が強まっています。関西ではこのような傾向見られないのでしょうか。

こんばんは。
今週は飲み会続きで中途半端な書き方はできないので遅筆ですみません。
そして、理念型について「こまかな差異は思いきって切り捨て、特定の群の中から発達する方向性を抽出したもの」という説明で言えばよかったですね。
なので、在地系と織豊系の見分け方がはっきりしない段階をどうするのか?在地系とは何か?武田・後北条氏系というものがあるのか?という従来の議論を誘発することになったのではと思います。

まずは、1と4の差異について。
一般の方に、織豊系城郭の群が示す方向性について認識してもらうことを前提としていますので、1じゃないものは4。というかなり大雑把な説明をしています。1か4の見分けづらい段階の事例などもあるとは思いますが、それを細かに指摘するよりも、まずは織豊系城郭が指向した「直線的な塁線に横矢や櫓台を構えて効果的に防御するか」「出入り口を如何に防御するか」に重点を置きました。
一方、在地系についてはこれも大雑把に、相手より有利な高所を押える立地指向型、曲輪よりも城域を外郭ラインで囲い込むことに重点を置いた防御ライン型、曲輪に出入り口を設けて序列的な曲輪配置を指向した曲輪重視型と分けて説明しました。3番目から織豊系だったり、武田氏・後北条氏系が派生するという図式です。

次に馬念さんへの回答。
理念型の考え方は西股氏の指向する論法とはかなり違うと思っています。該当すると思われる事例からさまざまなパーツの用法を拾い上げた中から、後北条氏のプランにはこういった特徴があると共通項を見出そうとするのが、西股氏などのパーツ論を基本とする立場の方々にあると思います。そうしたパーツ論を重んじる立場の論者と違い、往時の千田氏や、木島氏の論では「細かな差異を大胆に切り捨てて特徴を抽出する」という点で似ているようで異なる方法論だと思っています。
その上で、今回、大雑把に説明するにあたっては、武田氏や後北条氏が関与したとされる城郭で彼らが関与した可能性があるもの(近年の議論のようにその前に上杉が。。。などの絞り込みはしない)を拾い集めて、細かな差異や部分的な特徴は切り捨てて検証してみると、仮説として虎口プランのあり方に注目するとどうやら出入り口の防御に対して一定の指向性がありそうですよ。という観点をもとに、一般の方に出入り口の工夫のあり方を大雑把に掴んでもらうことを意図しました。

ところで。
近年の議論は、杉山城問題とされるもののように特定の個別事例を持ちだして「これまでのモデルは違うじゃないか」と指摘する「○○城問題」というパターンが多くあるように感じています。
これまでの枠組みづくりで大きな役割を果たされた昔の千田氏や、木島氏による理念型の研究スタイルは、そうした個別事例の問題を大胆に切り捨てて特定の群をみた場合に一定の方向性がみえてくるというところに斬新さがあり、多くの事例を集めて傾向を読み解くという縄張り研究の利点を生かしたことに意義があると思っています。
ただ、往時の千田氏が提出したときも、各地の研究者からは「こんな事例もあって、千田編年は成り立たない」といった各地の「桝形さがし」や倭城のような複雑な縄張り技術の使いこなしたものなど、特定の個別事例を持ちだして理念に疑義を示すパターンが多く見られました。
近年の議論や在地系にもっと注目しよう、年代観を考え直そうと言う「問題提起」は、その当時とあまり変わらないような気がします。
さまざまに事例を取り上げて問題提起するのはよいが、肝心の縄張り論の枠組みを打ち壊すだけになっていないか?は常に論じる側は注意しないといけないと思うところです(他領域の論者は違和感の表明でもかまいませんが、それに縄張り論者が真摯に受け止めすぎるのは如何かと思います)。

今回の説明をするにあたっても、まずは「こまかな差異は思いきって切り捨て、特定の群の中から発達する方向性を抽出する」ことで得られる枠組みを重視する立場は譲らないことを念頭に考えています。大雑把に捉えるとどう説明できるかということから入ってみました。
もちろん、それぞれの指向する研究スタイルはあることは踏まえた上で、私としては、今こそ理念型の研究から得られる枠組みの再確認が周囲の「雑音」に対する一番の理論武装と思い、理念型の先行研究から得られた視点をもとに、一般の方向けにおおよその「見取図」を整理してみた次第です。

nakanishiさま

毎度ながらコメントによる議論、大変興味深く拝見しております。

ところで、ツイッターにて『城郭史研究』の件、つぶやいておられましたが、拙稿のみですが先日コピーを送付させて頂きましたので、いちおうお知らせいたします。良くも悪くも噂になっているようで…ありがたいのやら恐ろしいのやら…

それでは、失礼します。

竹さん、ありがとうございます。
城郭史研究もきちんとフォローしないといけないな。と思っていた矢先、大分県立図書館にもありませんので助かります。

返信ありがとうございます。千田氏の織豊系城郭論やそれに対する批判についての認識では、私も中西さんとまったく共有するところです。ただし、千田氏の論文を充分に咀嚼せず、金科玉条することも、これはまた問題があったと思います。中西さんは在地系と織豊系を対立概念として捉えておられますが、「在地系」を地域性と置き換えると、両者は結びつく側面があったように思います。たとえば、(今更私が言うのも何ですが)木島氏の評価については、千田氏と同じく編年の議論で.まとめられていますが、彼の最大の成果は、こうした豊臣権力の技術が、豊臣大名と、九州の旧来の大名の間で受容のあり方がまったく違ったという点を炙り出し、縄張りが地域の権力構造を考える史料に成り得ることを示したことにあると思います。ですので、千田氏が東大の本で織豊系城郭の発展の先に「地域性」が喪失していくと記すのに対して、木島氏は九大の本で地域性が残る意味を問いていると思います。これは、正否が問題なのではなく、問題意識の差異であり、たぶん両者も認識しているところだと思います。重要な事は、当初の織豊系の議論は、こうした地域性や機能(たとえば恒久的な石垣の城、臨時的な土の城といった二系統ある議論など)を充分含みこむ柔軟性を持っていたと考えます。ところが、その後は、仰るとおり、地域性や機能(陣城は標準化石として不適という批判など)から千田編年そのものを批判されていく動向になっていきます。本来は、その次に新しい編年案が模索されるべきなのですが、千田氏の問題意識は木島氏以外は継承されておりません。最近は、戦国の城そのものが、臨時的だといわれるようになり、恒久的な城と臨時的な城の差異も問われなくなりました。さらに城郭研究者が縄張り図では年代もわからないとも言われるようになり、研究史がいよいよ個別化、溶解化し始めたと観があります。こうした状況で、私は、やはり地域性の問題を問うべきだと考えており、それは決して織豊系の議論を否定するのではなく、多田暢久氏が横堀の議論のように両者の境界を考え、織豊系の輪郭を問う意味でも重要と思います。ちなみに、私は、昨今の竹井英文氏論文の城郭研究批判などは、80年代~90年代前半の研究史をもう一度読み直すことで、打開のヒントがあるのではないかと考えています。
あと、瑣末な事ですが、中西さんが「在地系」の「防御ライン」とされていますが、この表現は関西では「防禦ライン」(複数の曲輪を囲繞する横堀、石垣の設定)と記され、中井均氏による織豊系の指標になっています。その意味で、両者の区別は意識すべきではないでしょうか? 千田氏以前の織豊の議論も大事です。
最後に、城郭研究者は、私も含めて、官学を批判し、自分の個性を出すことに没頭してきましたが、これからは同業の他者との共通項を探ることが研究者に求められていると思います。これは、他分野や若手から厳しく評価されることでもあり、手弁当でやってきた民間研究者にはたしてなじむのか、いよいよ問われているように思います。むかし、千田氏が戦前の城郭研究を純粋な郷土史であったと主張したのに対して、橋口定志氏は「郷土史」にとどまっていたことが問題だったと喝破されました。あの批判は現在身に染みています。自戒を込めて、今後若い研究者と改めて過去の研究史の掘り起こしに期したいです。

中西様、返信ありがとうございます。
どうも素人には難しいお話になってきているようで、横矢も難しいですね。
理念型が、西股氏とは「細かな差異を大胆に切り捨てて特徴を抽出する」という点で似ているようで異なる方法論ということのようなのですが、どうもいまいちわかりません。
一般の方々を対象にした城跡訪問での説明という但し書きでの5つの分類でした。なので大雑把な分類にならざるをえないとは思うのですが・・・。
1の織豊系城郭は、中世城郭を乗り越えた存在(こんな言い方ですいません)で、別格という認識としてとらえていると感じます。小生もその点についてはさほどの違和感はありません。そして、2武田氏系城郭と3後北条氏系城郭は、虎口(あるいは馬出)に一定の志向性があり理念型として成立するというご意見と理解しますと、疑念として「武田・後北条氏が関与した可能性のあるものを拾い出して」というくだりが気になります。「可能性のあるもの」となりますと、かなり主観的にならざるを得なくなるのではないでしようか。主観的判断で取り上げたことから特徴を拾い上げても大名系あるいは在地領主系の説明はできにくいのではないかと思っています。
さらに言えば、東日本の戦国大名の中で、武田・後北条と並んで取り上げられるのが伊達氏です。中西氏が評価する後北条氏の虎口に類似する連続虎口(桝形・馬出を含む)を完成させています。(松岡氏の研究より)中西様は、この伊達氏の城館についてどのように考えられますか?
4のそれ以外の在地系城郭(戦国期城郭)ですが、地域の特性は認められますが、築城技術は領域を超えて伝播していったものと思えます。最近、「石見の城館跡」を見ていましたら連続竪堀のある城跡が多くあり、福岡の城跡に多用されるそれとの関連が気になっています。大友・大内・毛利等の戦国大名や在地領主層の切磋琢磨がもたらしたものとではないかと邪推しています。

拙稿へのコメントありがとうございました。縄張のことをよくわかっていない「若者」の戯言として温かい目で見守って頂ければ幸いです。九州では年代比定がどのように行われてきたのか、興味があるので、ぜひ研究史整理をどなたかにやって頂きたいと思います。荻野様も、80・90年代の研究史を読み直すことによって打開が可能との見通し、それも是非活字化して頂いて、批判して頂ければこちらとしては幸いです。M・S・Kはあの方々ですね、たぶんわかりました!あと、「様」の件、了解しました(苦笑)。本当に、非常識人間で申し訳ございません…。

しかし、伊達氏系は気になりますね。あれも虎口の話ですもんね。あと、関東だと虎口に注目はしていませんが、一応里見氏系城郭論もあります。両方とも在地系として処理した方が良いのでしょうかね。

木島さんの後北条氏・武田氏系の理念型の話は、是非活字化して頂きたいです。活字化されれば、昨今の関東の城郭研究の諸問題が一挙に解決するかもしれませんし、文献史学の方でも、かつての「北条氏=戦国大名の典型」説とも関わってくるような感じで、各方面に議論を巻き起こすかもしれません。それに、上杉氏系がなくて、武田氏系があるとなると、築城術から上杉謙信と武田信玄という両大名権力の質的な差というのも見通せるのでしょうか。武田の方が優れている?という話になりそうで、これも面白くなりそうですね。

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