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2010年3月19日 (金)

戦国後期の山名氏。

山名氏と言えば、応仁の乱の西軍の持豊(宗全)までで、あとは没落したと思っていませんか?
毛利氏関係(吉川家文書とか特に)とか中国地方の戦国期史料をみてみると、案外天正初期まで但馬の山名氏の存在は大きいものがあります。
毛利氏と但芸和睦を結んだりした山名祐豊・氏政期から、因幡の豊国が絡みながら織田・豊臣政権が併呑していく過程は興味深いところ。

近年は、新鳥取県史に向けた研究蓄積が進みつつあるので、
鳥取県史ブックレットの『尼子氏と戦国時代の鳥取』を仕入れて読みました。
尼子氏よりも、因幡山名氏をはじめとする但馬・因幡・伯耆山名氏の動向が簡潔にまとめられており、
土地勘の弱い私にもすんなり読めてよかった。オススメ。
山名氏の研究動向については渡邊大門氏の『中世後期山名氏の研究』がコンパクトな入門書になっていて、
これまた入手して読んでおおよその動向を把握することが出来ました。

と、なぜ戦国山名氏に関する基礎を仕入れているかと言うと、
織豊期の播但が山名氏という守護系譜の勢力が根強く残った環境から、毛利・織田の対立の中で地域諸勢力が活発に動いたところだから。
そして畿内よりも京都絡みの諸勢力の影響が大きくないと思えるから。
加えて、その後は播但丹の地域は豊臣(羽柴)氏のホームとして豊臣氏直近の勢力が居たところ。
山名氏・赤松氏から豊臣(羽柴)氏への移行期は、膝下のさまざまな勢力の動向が拾えないかと思っている。
最終的には、但馬竹田城までどう至るか。

あの地域は文献史料が少ないから。。。とよく言われますが、
その一方で、この地域も城跡は良好に残っており、縄張り調査などはかなり進んでいます。
後はそれをどうやって資料化し歴史研究と結びつけていくかだと思っています。
実際は年代比定などかなり難しいところですが美作同様に興味を持っています。

写真はMASARUさんからのいただきものです。山名氏とは関係ないですが、但馬竹田城は絶品ですね。
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戦国後期の山名氏。を参照しているブログ:

コメント

はじめまして、こんにちは。

唐突ながら、ようやく探していたブログに出会えました。(感激です。)

『なぜ?』という疑問が当然出てくると思いますが、話すと長くなりますので詳細は一時仮置くと致しまして、
下記の事について是非ともご教授頂く事が出来ないかと思い・・・、綴らせて頂きます。

いま、中世の館として伝承のある遺構が河川改修と砂防壁の計画により、失われるという危機的状況にあります。
(まだ計画前の段階で今から手を打てば何とかならないかという、安易な考え、(^^;))

私は幼稚園の頃より歴史が好きで、特にお城と戦艦には馬鹿が付くほどでした。(それはさて置き)

本題の遺構といいますのは、簡単に言いますと”野面石による低石垣二段積と低石垣積の館跡”というものです。
(田んぼの畦石積み・・・?いやいや、一見あれば御理解頂けるかと思うのですが…。)
詳しく説明したいのですが、見た目による個人的な判断としてとらえて下さい。

①古式穴太積として考えた場合、その時代は天正期~現代に当て嵌めることが出来ますが、築石の中にあものりが
見られる点と野面石を基調とし割石を含んでいないように見えましたので、江戸期以降の穴太積・古式穴太積とは
考えにくいように思います。

②落し積・間知積・・・後世による補修個所が一部見られ、その部分に落し積が見られます。

③低石垣と同二段積・・・野面石のみを使用し低石垣は高さ2m程、同二段積みは、一段4m程×二段総丈8m程。(目測ですので・・・)

④矩方(傾斜)・・・低石垣二段積みにはその意識は若干感じられるが、その他の石垣には意識なしと感じ取れた。

⑤規合(反り)・・・どの石垣に関しても、その意識が見られない。

⑥隅角部石材規格・・・自然石使用の為、規格なしとします。

⑦角石・・・野面石のみを使用し一切加工せず算木積?をしている。角石の稜線に直線性が無く乱れており立石も見られ、
     矩方に対する意識があることから、算木積の未発達が原因とする天正以前の形態と感じられる。
⑧角脇石・・・慶長以降の規格を持った石を使用するのではなく、角石より小さな石を使うという規格性の稀薄な石材を使用しております。

⑨築石(平石)・・・野面石のみ使用で、加工の痕跡は一切なし。また、横目地が乱れているが通っているのを感じられる。

以上の点から、天正及び慶長頃の可能性を含むものと見ており、さらに言うと規合(反り)の意識が見られないが矩方(傾斜)は意識
される点から天正~文禄頃、加えて低石垣・低石垣二段積という点から天正期でも比較的前半の技術を使用しているように思います。

この地は、天正期に小一郎のご一行が入って来ており、某書に『大事のところゆえ・・・云々』の記述も見られます。

このような遺構が存在するのですが、誰も目を向ける事無く消え去ろうとする現実があり、何とかする方法はないものかと常々思って
おりましたところ、城郭跡に限定された研究だけではなく館についても深く携わって、地域の振興にも深く関わっておられる。
その経験から何とかお知恵を拝借し、歴史の一端に一分の光明をさして頂けたら幸いに思います。

まことに唐突で勝手きわまりない内容とは存じておりますが、何卒、何卒、ご理解頂けたらと願っております。

てらさん、はじめまして。
すみません、どこのどういった館なのか書いてありませんので何とも判断しかねます(..ゞアセ
場所だけでもご案内下さい。

こんばんは、
こんなに早くご返事を頂けるとは感激です。

>どこのどういった館なのか・・・
場所は兵庫県養父市です。津山からですと1時間40分ほどかかります。
伝承では、地侍・〇〇家ノ館跡となっておりますが・・・時代錯誤? 現在は寺院が建っています。
(八木氏の八木城まで車で10分ほどの所にあります。)

本来でしたら、私個人の詳細や写真等も含めて書き込みたいのですが、
このような場である為控えさせて頂きました。
申し訳なく思いますが、御理解頂けたらと思います。
もし、直接メールを頂けるようでしたら写真等添付することも可能ですし、
その他詳細もお伝えする事が出来ます。宜しくお願い致します。

こんにちは。閲覧になってました、失礼しました。
八木城の近くの平地の居館なんですね。

プロフィールをごらんください。メールを送っていただいて構いませんのでどうぞ。

この度、様々な事情が折り重なる事により、ご連絡を差し上げるのが遅くなり、
大変申し訳御座いませんでした。
御腹立ちの事とは存じますが、何卒ご理解して頂きたく思います。

さて、本日予てよりのメールを送らせて頂きました。サーバーの都合上添付1のみとなり
若干の参考にしかならないと思いますがご覧いただければ幸いです。

厚かましく重ねてお願い致しますが、何卒ご検討のほど宜しくお願い致します。

こんにちは。
写真を送っていただきありがとうございます。

正直、石垣の写真からでは何とも言いようがありません。
算木も甘く乱雑な積み方ですが、落としがないので古式ではあります。
でも、古式だからといって古いとは限りませんので、その他の情報を勘案してしか判断しようがないと思います。
天正期かどうかの判断は難しいと思います。館跡かは周囲の遺構との関連から地域性を考えないとなんとも言えません。

ただ、寛永期以降なら石垣積みは各地で採用されるので、素直に勘案すると寺の創設期以降でいいのはないかと思います。
寺の移設されたとする寛永期でも、また、元禄期でも、近世の在地の技術を知る上では重要な遺構になると思います。

その程度で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

お忙しい中、お時間を割いて頂き有難う御座います。
この度の河川工事の改修が前向きに進んでおり、歴史的遺構であれば改修方法も保存を視野に入れる形となるのでしょうが、寺とするのであればそれも絶たれました。また、写真の石垣についても県の急傾斜災害工事にかかり、私的な保存が困難な状況であるため、この際取壊しも検討しなければなりません。どのような結果であれ、物事を進めて行く上で一歩前進した事には間違え御座いません。重ねてお礼申し上げます。        

そうですか。
ご期待に添えなかった回答だったと拝察いたします。

中世居館の故地に築かれた近世期寺院において、古式な石積みは、歴史的価値はあると思います。
中世の館の石垣ならよし、近世寺院の石垣ならそうではないという尺度はあまり含意できるものではありません。
また、現状の保全に関しては、自治体の文化財行政の判断するところです。
ご期待に添える回答を求めるならば、遠方の一研究者に一枚の写真で判断を求めても、保全には何の効果もありません。
市教委や県のえらい先生を現地に招聘して実見してもらい回答を引き出す方がよいと思います。

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