« 戦国後期の山名氏。 | メイン | 戦国期美作の史料集。 »

2010年3月20日 (土)

院庄を考えると夜も眠れない。

先だって、津山市弥生の里文化財センターさんのお招きで、第28回文化財報告会に参加してきました。
ボクの役目は院庄館跡と構城跡について城郭史から評価してほしいと言うもの。
前原茂雄さんと森俊弘さんのお2人が院庄館跡・構城跡と周囲の歴史的動向について説明されて、ボクが補足的に固めるという感じでしょうか。
既に津山市さんの方でどちらも発掘調査が行われているので、それを踏まえて、全国的な城郭史研究の中で2つの事例を位置付けてみてはどうかという提案型の報告にしました。
下記の通り、なかなか難しい事例なので報告の構成はやや課題が残りましたけれども、当日は盛況で、多くの方にお会いすることが出来、とても有意義な場になりました。

現在の城郭史研究では平地居館跡で土塁を持つ事例は発掘調査などから早くても14世紀くらいからと考えられています。
近年は土塁があったとされる守護館でも当初は築地塀などで土塁を持つようになるのは16世紀初頭からと年代観が下がっています。
それ以外の土豪や国衆の館跡でも土塁は15世紀後半にならないと広がらず、それでもあんまり多用されないと考えられるようになっています。
それに対して、院庄館跡は、土塁が現存して残る上に遺物や関係資料(と言っても太平記ですけど)から
14世紀以前の守護勢力の館跡ではないかとされています。
なので、そうした研究事例に真っ向から反する希有な事例となるわけです。
史料的には、鎌倉〜室町前半には院庄に何らかの中心的機能があった可能性は高いので、
守護勢力の館跡ではあるだろうが、果たして土塁はいつのものか?という問題提起をしてきました。
土塁は研究動向に合わない。ならばどう評価するのか?と、なかなか解釈の難しい事例です。

これに対して、構城跡は中世後期に機能した平地の城館跡で調査事例からも史料からも研究史的にもすんなりいきます。
大きさも周辺にある構と呼ばれる平城・居館とあまり大差がありません。
それ故、森忠政が美作入部の際に最初に腰掛城として入った割には小さいという評価ができます。
こちらは、森忠政が院庄に入った際に本格的な改修を構城跡にはしていないという証拠と言えるでしょう。
どうも院庄への入部は、最初から鶴山に新規築城するまでの腰掛城だったようです。
そしてにらみあいの松で有名な家中紛争はその築城過程で生じたものと思われます。

今回はいくつかの仮説を立てて、今後の課題とするに留めました。
とりあえずは、周囲の事例から地域の傾向を明らかにしつつ、再び問い直す機会を得たいものです。

いずれにしても、今回、山城から平城・居館まで興味深い事例が多数残る美作国の戦国・織豊期城郭について、
勉強する機会と報告の場を提供してくださった、弥生の里文化財センターの津山市教育委員会文化財課の関係各位には感謝する次第です。

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://app.blogcoara.jp/t/trackback/143624/23663294

院庄を考えると夜も眠れない。を参照しているブログ:

コメント

コメントを投稿

Foxkeh! フォクすけ!


  • Firefox ブラウザ無料ダウンロード
Powered by Six Apart