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2010年2月16日 (火)

シンガの地。

拙ウェブログは、私的な時間を惜しむように使っているあれこれラボの研究活動を報告するために書いているのであって、
それ以外の大半の時間を費やしている稼業はパブリックな「業務」ですから、私的なページに事細かに書くことではない。
せいぜいあれこれの研究活動に絡むことくらいしか言及しませんですよ。。。
って一応断りしておくか(..ゞアセ。

さて、今日は天気が悪いということだったんですけど、非番&晴れてたので予定を変更して志賀城へ行ってきた。
天正の豊薩戦争で岡城を守った志賀親次の本拠地です。
宣教師の報告やフロイスの『日本史』には、爺さんとは違って熱心なキリシタン武将だった「期待株」の親次くんを事細かに書いています。
それをみると、九州国分けによる豊後一国体制になるまでの彼の居場所は「岡」ではなく常にシンガとなっています。
シンガには教会を建てたり、臼杵など宗麟や義統の近くに詰めない時は居たりしています。
このシンガですが、親次が島津勢の北上に備えて岡城に籠るので、彼を岡城主とする考え方から、このシンガを「岡」と解釈されています。

でも、稲葉川と大野川が合流する地点にある中世岡城から下流に行くと、
大野郡のかつての朝地町・緒方町に分かれて大野川沿いに志賀という地域があります。
ここは元々、志賀氏の本貫地になります。今日も志賀城跡が遺ります。
素直に読めば、親次はこの志賀に普段は居て非常時の詰城として中世岡城を構えていたと考えるべきです。
但し、九州国分け以後は大野・直入郡に居ることが多かったようで中世岡城にも頻繁に滞在しています。
それでも、宣教師の報告や『日本史』をみると、志賀と岡を併用していたようです。

そんな志賀城跡を見て来ました。
志賀地区の南側、大野川に面した小高い独立丘が城域です。大野川から貫入する谷や迫地、斜面を利用した田畑が周囲に広がります。
予想通り、志賀城はただの平坦地が連なる丘城でした。主要部は平坦地のままでしたが切岸もほとんどありませんでした。
周りは、江戸時代から墓地になっていたり、山仕事や畑仕事の手が入った状態になっていました。
堀切や竪堀などは確認できませんでした。
伝承などがなければ、城跡かどうかも悩むような、地形をそのまま利用して構えたタイプの丘城でした。
立地的には岩盤があるわけでもないのでやろうと思えばできたと思うのですが、そうした造作が加えられていないことがわかったことが収穫でした。

下竹田を除く直入郡や大野郡西部の戦国期城郭はほとんど手が加えられない平坦地を利用したものが多くみられます。
両志賀氏や朽網氏、一万田氏などがそうした同じようなタイプの城を築いています。
直入郡の場合なら溶結凝灰岩の地勢故にできなかったという可能性もありますが、大野郡まで来ると丘陵地はそこまで影響しない。
なのに、親次段階の天正後期でも細かな造作を加えないで城郭施設を運営していたわけで、大友氏領国の性格を考える上でも興味深い資料が得られました。
築城技術は現地の技術を採用していたという、自前で積極的にあれこれ造作しない点も志賀氏の特徴として興味深いですが、
南志賀氏や朽網氏、一万田氏などが居館跡が比定できるのに対して、北志賀氏は天正後期の親次まであまりこの地域の足取りがわかっていないことを踏まえると、
他の南郡衆に比べて、宿老級の北志賀氏は臼杵や府内に詰めていてあまり在所には居なかったんじゃないのかな?という気もします。
この辺をうまく整理したいと思います。

普段は周囲の迫が入った村落の中に屋敷を構えていたのでしょう。
写真にある風景のどこかに教会もあったのやもしれません。
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