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2009年12月18日 (金)

髙山右近展で髙山重清の史料に出会う。

Poster_ukon21 11月8日に高槻市しろあと歴史館の中西さんがご担当の「高山右近展」に行ってきました(その後長居に行ったのはナイショだ)。
大阪に所用(長居はオマケ。。。のはず)があったのでその途上。

高山右近はそもそも名前もはっきりしない人(父も高山飛騨守ですし)のように現物資料となるとかなり難しい。
それでも、展覧会は中規模ながら渋いセレクト。
図録もしっかりしていて、小粒でピリリ系な活動の多い高槻らしい展覧会。


高山右近もさることながら、こちらの関心は隣接する茨木城主だった中川清秀、それと神戸大学中川家文書や茨木市から出たキリシタン遺物がいくつか出展されていたので、それらの現物を拝見することも目当ての旅。
大阪城天守閣蔵の賎ヶ嶽合戦図屏風も拝見。城門の前で母衣を背負って闘う清秀が描かれているものです。
そして、茨木市・梅林寺蔵の中川清秀肖像画にもご対面。
岡藩で描かれた碧雲寺・西光寺本では武骨な人として描かれていますが、こちらは割とダンディな感じ。
そして、衝撃的だったのは高山重清の署名が入った古文書があったこと。
ケースの前で思わず「ををー!」とうなる。高槻、GJ!!という感じ(^^ゞ

というのも、高山重清は、中川清秀の実父とされる人。同じ高山氏でも右近の家系とは別のようです。
『中川史料集』の改訂版『中川氏御年譜』などの中川氏系譜では、清秀の祖父、中川清村の子清煕が戦死したため高山氏から婿となった人物とされます。
清村が森田氏(守口の国人らしい)に嫁いでいた実娘を戻して、高山重清を婿に迎えて継承させたとあります。
生まれた子が瀬兵衛清秀と淵兵衛重継。兄が中川氏家督を、弟の重継の系統が高山氏の名跡を継承することになります。
2人して賎ヶ嶽の戦いで大岩山で戦死し瀬兵衛・淵兵衛兄弟として名を馳せたのは有名な話。

その重清の出自、高山氏は常陸国出身とかかなり曖昧なので「この辺で家系操作があったのかな?」と思っていました。
その重清が実在の人物、しかも北摂で代官職などをする土豪かとわかったことが実に大きな収穫でした。

豊後国に転封した中川氏において、高山氏はそれほど高い地位は占めないものの近い関係を保ち続けます。
老職にはならないが中川姓を受け当初は岡城近戸門近くに屋敷を構えていたとあります。
文政年間の『三宅山御鹿(しし)狩り絵巻』にも中川熊之助という当主が出ています。

ちなみに、森田氏に嫁いでいた実母には連れ子が居て、異母兄なのですが、森田氏を名乗って中川家中に加わっています。
豊後国にも従い当初は1000石近くの石高で岡城内に屋敷を拝領するなど近い関係を持っています。
但し、森田氏は老職になったり中川姓をもらったりはしていません。

やはり、中川氏家中は摂津国の在地領主層の同族連合として成長したことがわかって興味深くありました。
北摂の史料をみながら、高山右近と同様に、中川清秀が荒木村重、織田信長、羽柴秀吉らと結ぶことで周辺の国衆たちを糾合しながら大名として成長した勢力であることを確認できました。
摂津国の国衆たちは織田・羽柴氏から同盟勢力になるなどしていますが、荒木氏や高山氏などは改易されたり関ヶ原で没落したりとなかなか生き残ることは難しくあったようです。
その中で中川氏は清秀が秀吉と義兄弟の契約を結ぶなどしぶとく生き残っていったレアな部類にはいります。

岡藩を形成した中川氏家中を把握するには織豊期の摂津・播磨を知っていないといけないということをあらためて再確認しました。
大分だけでは、近世中川家を把握したことにはならないので要注意。きちんとルーツを抑えないといけません。
高槻市の他にも茨木市、三木市からも可能な範囲で抑えてみたいと思っています。

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