今年の〆の長文をつれつれ書いてみたが、年末にとっておくことにした。
さて、最近調べているのが中川氏のこと。北村清士『中川史料集』とその改訂版の市教委版『中川氏御年譜』、
それに「金城秘鑑」や「不染斎随筆」を部分的に補いながら編纂史料であれこれ調べている。
豊後岡藩も調べられるが案外摂津の国衆も調べることが出来て二刀流ができる。
原文書では神戸大学中川家文書はウェブでも公開されて(豊後岡藩中川家文書は一般には閲覧が難しい)便利。
でも、かゆいところまで届かせるには、編纂史料は現地歩きや絵図類と重ねて使い方次第で重宝できる。
今のテーマは、3代藩主中川久清のこと。彼が自分の子どもたち4人を老職(家老のこと)にした経過について。
久清が長男の久恒に藩主を譲り、自分の隠居屋鋪として熊田と戸伏の屋鋪を立ち退かせて築いたのが西ノ丸の始まり。
その久清が自分の子どもの内、成長した男子4人に知行と屋敷を与えることにし、没後に自らの隠居領を分割するよう遺言したようだ。
4人の子どもは、中川求馬久豊、中川図書久和、中川右近久旨、中川主馬久周。天和2年に老職となった。
久豊が2000石、久和1500石、久旨1500石、久周1300石。これは久清の隠居領から出たと思われる。
ということは、藩主の蔵入地がそれだけ減ったということになる。この内、図書久和が久恒とウマがあったのか実力者になったらしい。
蔵入地から切り出すカタチで、彼ら4人が岡藩でははじめて中川氏直系の老職となった。
元々、中川氏の家老は田近・古田・熊田・戸伏。この内、熊田氏は勘気を被り脱落。残りの三家が非中川氏系の元々の老職。
これに対して、久恒の代に立った中川老職四家。いきなり倍増で多数派形成という案配である。
しかし四家は早世が多くて結局、右近久旨の系統(中川右近家とでも言えるか)と主馬久周の系統(中川主馬家か)のニ家に統合されることとなった。
蔵入地から割いたこともあり享保・延享頃は断絶したままという場合もあったりしている。
右近家の久休が図書家を相続した中川右近家(1750石)とでも言える系統が幕末まで続いた家のひとつ。
城内西ノ丸横の「民部屋敷」と現在の呼び名になっている場所に屋敷を構えている。
右近家は久旨からこの屋敷を拝領している。その前は久清の娘兼姫の婿になった田近喜八郎良武(田近氏の有力分家)の屋敷。
久旨の代から居るので「中川右近屋敷」とでも呼べば良いのかも知れない。
もうひとつ、主馬家の久屋が求馬家を相続した中川主馬家とでも言える系統がふたつめ。
こちらは3000石とNo.2の地位を保った。
主馬家は城外上角の現在はそうぞうの丘と呼ばれる丘に屋敷を構えた。
これは西ノ丸に居た求馬家の中川氏が上角に移転した屋敷を主馬家が後に相続したものらしい。
幕末に勤王の藩士を支援した中川土佐を輩出した老職の家です。
かなりレアなネタだけど、抑えておくと良いです。2つの屋敷跡(ひとつは城内、ひとつは城外)は何もないけど現在でも訪れることが出来ます。