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2009年12月29日 (火)

痕跡から人の営みを探ること。

「痕跡からひとの営みを探ること」(by CREAMラボスペース・ART LAB OVA

これが2009年、自分の指向することを一番ピッタリ言い当てられたなあ、と思った言葉でした。
本当にありがとうございました。

研究、研究というのも何かひとつ覚えみたいですし、このフレーズを常に意識していきたいなと思います。
一区切りをつけて新たなステップを設定し、またアートと歴史の出会いをかいま見た2009年。

次の課題は、これらの体感してきた事を新たなるフィールドで具体化させること。

さあ、それはどこにある? 足元にあるのか、はまたま見知らぬフィールドが待っているのか?
既に秋から「痕跡歩き」の助走は開始、まずは自分の足元からスタートです。

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2009年12月24日 (木)

積ん読。

これまで、年末で大掃除をしたくても書籍やバインダーの山でどうしようもなかったのですが、一念発起して実家に送ることとしました。
ちょっと悩んだのですが思いきって、城郭史と中近世史&建築史モノだけに絞って後は段ボールに詰めることにしました。
こちらに来てから残しておいた段ボールに詰めていくと、ちょうど14ハコになりました。
あと、展覧会図録が某所に4ケース残っています(ノ_<)。
さて、送り賃はどうなるのでしょうか。。。おそろしや。
10年間買いためた割にはあまり読んでなかった。。。。積ん読ではいけないのですけど。

と、もうひとつの部屋に集めた残り。。。と言っても書籍と論集と報告書で倍以上あるが。コレをしっかりと読み込んで「痕跡探し」に使っていこうと思います。

2009年12月21日 (月)

岡藩の中川氏老職4兄弟。

今年の〆の長文をつれつれ書いてみたが、年末にとっておくことにした。

さて、最近調べているのが中川氏のこと。北村清士『中川史料集』とその改訂版の市教委版『中川氏御年譜』、
それに「金城秘鑑」や「不染斎随筆」を部分的に補いながら編纂史料であれこれ調べている。
豊後岡藩も調べられるが案外摂津の国衆も調べることが出来て二刀流ができる。
原文書では神戸大学中川家文書はウェブでも公開されて(豊後岡藩中川家文書は一般には閲覧が難しい)便利。
でも、かゆいところまで届かせるには、編纂史料は現地歩きや絵図類と重ねて使い方次第で重宝できる。

今のテーマは、3代藩主中川久清のこと。彼が自分の子どもたち4人を老職(家老のこと)にした経過について。
久清が長男の久恒に藩主を譲り、自分の隠居屋鋪として熊田と戸伏の屋鋪を立ち退かせて築いたのが西ノ丸の始まり。
その久清が自分の子どもの内、成長した男子4人に知行と屋敷を与えることにし、没後に自らの隠居領を分割するよう遺言したようだ。
4人の子どもは、中川求馬久豊、中川図書久和、中川右近久旨、中川主馬久周。天和2年に老職となった。
久豊が2000石、久和1500石、久旨1500石、久周1300石。これは久清の隠居領から出たと思われる。
ということは、藩主の蔵入地がそれだけ減ったということになる。この内、図書久和が久恒とウマがあったのか実力者になったらしい。

蔵入地から切り出すカタチで、彼ら4人が岡藩でははじめて中川氏直系の老職となった。
元々、中川氏の家老は田近・古田・熊田・戸伏。この内、熊田氏は勘気を被り脱落。残りの三家が非中川氏系の元々の老職。
これに対して、久恒の代に立った中川老職四家。いきなり倍増で多数派形成という案配である。
しかし四家は早世が多くて結局、右近久旨の系統(中川右近家とでも言えるか)と主馬久周の系統(中川主馬家か)のニ家に統合されることとなった。
蔵入地から割いたこともあり享保・延享頃は断絶したままという場合もあったりしている。

右近家の久休が図書家を相続した中川右近家(1750石)とでも言える系統が幕末まで続いた家のひとつ。
城内西ノ丸横の「民部屋敷」と現在の呼び名になっている場所に屋敷を構えている。
右近家は久旨からこの屋敷を拝領している。その前は久清の娘兼姫の婿になった田近喜八郎良武(田近氏の有力分家)の屋敷。
久旨の代から居るので「中川右近屋敷」とでも呼べば良いのかも知れない。

もうひとつ、主馬家の久屋が求馬家を相続した中川主馬家とでも言える系統がふたつめ。
こちらは3000石とNo.2の地位を保った。
主馬家は城外上角の現在はそうぞうの丘と呼ばれる丘に屋敷を構えた。
これは西ノ丸に居た求馬家の中川氏が上角に移転した屋敷を主馬家が後に相続したものらしい。
幕末に勤王の藩士を支援した中川土佐を輩出した老職の家です。

かなりレアなネタだけど、抑えておくと良いです。2つの屋敷跡(ひとつは城内、ひとつは城外)は何もないけど現在でも訪れることが出来ます。

2009年12月18日 (金)

髙山右近展で髙山重清の史料に出会う。

Poster_ukon21 11月8日に高槻市しろあと歴史館の中西さんがご担当の「高山右近展」に行ってきました(その後長居に行ったのはナイショだ)。
大阪に所用(長居はオマケ。。。のはず)があったのでその途上。

高山右近はそもそも名前もはっきりしない人(父も高山飛騨守ですし)のように現物資料となるとかなり難しい。
それでも、展覧会は中規模ながら渋いセレクト。
図録もしっかりしていて、小粒でピリリ系な活動の多い高槻らしい展覧会。


高山右近もさることながら、こちらの関心は隣接する茨木城主だった中川清秀、それと神戸大学中川家文書や茨木市から出たキリシタン遺物がいくつか出展されていたので、それらの現物を拝見することも目当ての旅。
大阪城天守閣蔵の賎ヶ嶽合戦図屏風も拝見。城門の前で母衣を背負って闘う清秀が描かれているものです。
そして、茨木市・梅林寺蔵の中川清秀肖像画にもご対面。
岡藩で描かれた碧雲寺・西光寺本では武骨な人として描かれていますが、こちらは割とダンディな感じ。
そして、衝撃的だったのは高山重清の署名が入った古文書があったこと。
ケースの前で思わず「ををー!」とうなる。高槻、GJ!!という感じ(^^ゞ

というのも、高山重清は、中川清秀の実父とされる人。同じ高山氏でも右近の家系とは別のようです。
『中川史料集』の改訂版『中川氏御年譜』などの中川氏系譜では、清秀の祖父、中川清村の子清煕が戦死したため高山氏から婿となった人物とされます。
清村が森田氏(守口の国人らしい)に嫁いでいた実娘を戻して、高山重清を婿に迎えて継承させたとあります。
生まれた子が瀬兵衛清秀と淵兵衛重継。兄が中川氏家督を、弟の重継の系統が高山氏の名跡を継承することになります。
2人して賎ヶ嶽の戦いで大岩山で戦死し瀬兵衛・淵兵衛兄弟として名を馳せたのは有名な話。

その重清の出自、高山氏は常陸国出身とかかなり曖昧なので「この辺で家系操作があったのかな?」と思っていました。
その重清が実在の人物、しかも北摂で代官職などをする土豪かとわかったことが実に大きな収穫でした。

豊後国に転封した中川氏において、高山氏はそれほど高い地位は占めないものの近い関係を保ち続けます。
老職にはならないが中川姓を受け当初は岡城近戸門近くに屋敷を構えていたとあります。
文政年間の『三宅山御鹿(しし)狩り絵巻』にも中川熊之助という当主が出ています。

ちなみに、森田氏に嫁いでいた実母には連れ子が居て、異母兄なのですが、森田氏を名乗って中川家中に加わっています。
豊後国にも従い当初は1000石近くの石高で岡城内に屋敷を拝領するなど近い関係を持っています。
但し、森田氏は老職になったり中川姓をもらったりはしていません。

やはり、中川氏家中は摂津国の在地領主層の同族連合として成長したことがわかって興味深くありました。
北摂の史料をみながら、高山右近と同様に、中川清秀が荒木村重、織田信長、羽柴秀吉らと結ぶことで周辺の国衆たちを糾合しながら大名として成長した勢力であることを確認できました。
摂津国の国衆たちは織田・羽柴氏から同盟勢力になるなどしていますが、荒木氏や高山氏などは改易されたり関ヶ原で没落したりとなかなか生き残ることは難しくあったようです。
その中で中川氏は清秀が秀吉と義兄弟の契約を結ぶなどしぶとく生き残っていったレアな部類にはいります。

岡藩を形成した中川氏家中を把握するには織豊期の摂津・播磨を知っていないといけないということをあらためて再確認しました。
大分だけでは、近世中川家を把握したことにはならないので要注意。きちんとルーツを抑えないといけません。
高槻市の他にも茨木市、三木市からも可能な範囲で抑えてみたいと思っています。

2009年12月16日 (水)

安楽平城に登ってきた。

今日は寒波到来の福岡へお出かけ。途中、長湯〜湯平越えは雪が積もっていた。
10年ぶりの安楽平城へ下調べに行ってきました。いやあ、博多湾からの風が寒いを通り越して冷たい。
高祖城に続いて、10年前の縄張り図に書きもらしや見落としがないか確認に行く、まさに「清算行脚」(^^ゞ

ラジオを聴きながらひとり図面とカメラを片手にウロウロ。
他の人が指摘していた主郭部の石垣ラインの見落としも無事確認(ノ_・。)。あと谷の小曲輪を2つほど確認。
高祖城の畝状空堀群と同じく、安楽平城の石垣もおそろしくわかりやすい位置に見つけることができました。(´д`;
10年前の自分はあちこち堀切はくまなく踏査したのにこんなわかりやすい石垣を見落としていたのか。。。(´д`;
あちこち精査したはずが、足元の初歩的な遺構を見落とすなんてアホか、コイツ。
と、10年前の自分を叱っても意味がないので、さっそく図面の一部手直しにかかりますσ(^_^)


高祖城に続いて、結果オーライでこれまでの持論を補強する確認作業にはなりヤレヤレですが、高祖城に続いて宿題が増えました。
安楽平城の縄張りは基本的には小田部氏段階で主郭部と防塁型ライン、堀切といった大枠はできたと思います。
しかし、今回遺構を再確認してまわって最終段階には筑紫氏の改修がかなり入っているなあ。と確信してきました。
石垣の辺りは多分筑紫氏のものと思われます。
筑紫氏時代の城主は、筑紫大炊助。彼の出自は大村氏。。。大内氏研究の方ならピンときますね。惟門の姉婿が大村氏でその子辺りかと考えられる人物です。
近々、図面を手直しして、もう少し資料を整理して論文にまとめます。

ちなみに写真はちゃんと図面には書いてある著名な防塁型ラインの石垣。
これも小田部氏か筑紫氏か微妙?と思っていましたが、結果、筑紫氏の可能性大。あらためてみると勝尾城と似てますよね?
もうひとつは早良平野の遠景。遠くに飯盛山城と柑子嶽城まで観えます。
対岸の防塁型ライン上の曲輪には、地元の方がイスを置いたり木を刈ったりして下さっていて、見晴らしがよろしくなっています。。
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2009年12月15日 (火)

『西国城館論集 1 』入手しました。

城館史料学会査読基準検討会&城郭談話会に出席した際に、
中国・四国地区城館調査検討会編の『西国城館論集1』(
河瀬正利先生追悼論集)を関係筋から2000円で入手できました。

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注文される方は、ちょっと割高になりますが六一書房が手堅いかと。または八雲立つ風土記の丘展示学習館の高屋さんまでとのこと。
http://www.book61.co.jp/book_html/N04328/
中国・四国地区の中近世遺跡を担当される埋文担当者による報告や論考が集まったものです。
この方面の最新の成果を総覧することができ重宝しています。

岡山県関係では、岡山市の乗岡実さんの採集瓦からみた小早川氏段階の支城網の考察を興味深く拝読。
医王山城の現地見学で縄張りを下見した段階で、毛利氏以降、小早川氏か下手したら森氏段階まで下がるのでは?と思っていたので、縄張りからも証明しないといけないなと思った次第。
これはひとつ取り組みたい大きな宿題です。

2009年12月14日 (月)

城館史料学会の査読検討会。

12、13日は城館史料学会の総会&査読基準検討会に参加してきました。
場所はいつもの大山崎町立歴史資料館。
いつもは委員としての参加でしたが、今回は自分が投稿する側(..ゞアセ。

今回は、豊後岡城に関する論考。近世初頭の岡藩成立時の豊後岡城とその周辺のことについてまとめていく作業。
11月下旬からずーっと原稿の準備と構想、図版を用意しての準備に費やしての状態。
ギリギリまで原稿をつめてから朝イチの列車に飛び乗って関西へ。
総会は13時、査読基準検討会は14時から。

3月の完成原稿に対する査読する基準を決める会です。内容を報告し参考意見を次々いただきます。
日頃、大分界隈ではなかなか城郭研究者同士のやりとりができないので、こうした場はかなり貴重。
厳しい意見もたくさん受けましたが、ひとつひとつが参考になるもの。いろいろ反論も思いましたがまずはしっかりと異見に耳を傾ける。
この検討会では、よっぽど明後日の方向に行かない限りは、論文の内容の是非や異なる考え方であっても「そんなのはダメだ」とか否定したりイチャモンつけて介入しないのが基本。
論旨が通っているか、研究史を踏まえているか、図版資料の解釈にミスはないかを確認。
その上で、指摘された修正点を踏まえてどう改善されるべきかをあらかじめ決めておくスタイルです。
その上で査読を受けて、基準に適応した完成原稿への修正意見などを踏まえて採否が問われることになります。

まずは最初の関門をクリアしました。3月までに仕上げる予定です。前回の別府大学史学論叢に出した小論をさらにバージョンアップさせた豊後岡城の論考になるはずです。おたのしみに。

終了後は、恒例となった城郭談話会へ参加。
今年も12月はコネタ集。村田先生が美作高山城の報告があってビックリ(^^ゞ。
今日の縄張り研究を積み上げてきた老先生のご報告にも、容赦なくミサイルを撃つフラットさがこの会のいいところ?というか村田先生のご人徳かもしれません(^^ゞ
終了後は高槻市内で忘年会に顔を出してきました。
このご時世に、若手の就職もチラホラ決まり勢いづく関西の城郭研究会の空気を吸ってきました。
彼らとも談論風発。彼らのような城郭を知る人材が中近世遺跡のある自治体にはいっていってもらいたいもの。

とあれ、今年まで比文の博論に足をとられてきましたが、ようやく荷物を降ろしたところ。
いよいよ来年は、豊後岡城の論文をあげて「ご恩返し」を皮切りに、城郭研究関係のプロジェクトにいろいろ絡んでいきます。
次世代の若手に負けず、上の人たちに一太刀浴びせるように腕を磨かないといけませんので、30代の数年が正念場とがんばります(^^ゞ。

2009年12月 2日 (水)

『福岡県の城郭』

北部九州中近世城郭談話会の方々の編集による『福岡県の城郭—戦国城郭を行く—』が銀山書房で出版されました。
3,500円です。小出版社なので650部だそうです。急いで、急いで。

けっこう図版が載っています。。というかもっと載せた方がよかったのでは(^^ゞ
廣崎篤夫氏の『福岡県の城』『福岡古城探訪』に比べてリーズナブルではないけど、今の事例が多く収録されているので「福岡方面の城を把握しておきたい」向きには一冊は抑えておいて良いと思います。

古代の考古研究は盛んな福岡県にも関わらず、九州で最後に「中世城館悉皆調査」をしてない県という不名誉な事態になっています。
その分を、ボランティアで研究者がやったというものです。ボクも含めてみなさんたくさん書いているんですよ。
しばらく福岡方面はそんな動きもないし、九州方面では報告書は販売されないことを思えば十分に仕入れる価値アリと思います。

091115hukuoka

2009年12月 1日 (火)

さあ、走れ!

12月になりました。
先月は船、飛行機、列車を駆使していろんなところへ出向きました。
仕事も追い込みでドタバタ。
その合間をぬって準備も怠らず、ベストまではいかないまでもミッションを遂行してきました。

残りのゴールも見えてきた。仕分け作業もほぼ完了、あとは整理整頓残すのみ。
20年先に造り上げるものを見据えて、一時も準備も怠らず、
クリスマスプレゼントを楽しみに今年のラストスパートをひた走ろう。

もちろん、年越しの準備もね(・ω・)/

200912

Foxkeh! フォクすけ!


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