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2009年10月17日 (土)

美作小田草城へ行く。

今回の津山への帰省は、美作国の戦国期城郭についてひと仕事やるための下調べも兼ねたもの。

とはいえ、17日は家族サービスでヨメさんの仕事場で家族見学会。ですのでジャケット来て革靴。
朝8時にヨメさんを仕事場に乗せていって送ってから。。。10時集合まで時間あるな。。

と、その間に鏡野町の戦国期城郭をひとつ探訪しました(^^ゞ
鏡野町馬場にある小田草城。伯耆倉吉に通り抜けるルートから少しはいったところにあります。
城主は斎藤氏だそうで、麓の小田草神社には貞治7年に斎藤二郎の銘を持つ梵鐘が伝わります。
これをそのまま鵜呑みにできるかは別ですが、この地域に影響を及ぼしていたようです。
斎藤氏は戦国後期には尼子氏に従った後に毛利方に参画したとのこと。どうやら戦国後期に地域を支配した国衆のようです。

麓の小田草神社に行ってみると、城跡への登山道が割ときれいに整備されていました。入り口には城跡の説明する看板がありました。
登山道は鉄パイプの手すりやステップを据え付けるなど丁寧に整備しています。時間もあるし登ってみるかとそのまま登城(^^ゞ

登山道は急斜面でしんどいものの比較的楽に登れます。登りついた山頂は眼下に展望できるよう整備されており、城跡も割と楽に見て回れます。なのでジャケットを脱いでシャツと革靴で下草を分け入りながら遺構を確認してまわりました。
曲輪の配置は基本的には連郭式、タテに曲輪が一列に連なります。主郭となる曲輪の前後には空堀があります。単に遮断するだけでなく堀底は掘り抜かない堀底閉塞土塁となっています。これは、かなり興味深いプランです。
城域の先端にある曲輪は土塁が配され、尾根筋には堀切があります。曲輪のひとつには凹んだ箇所があり虎口の可能性があります。
以上、さらっと見たところでは、宇喜多氏以降の織豊系城郭の様相は感じられませんでした。
しかし、在地系城郭としては単に曲輪を並べるだけでなく、空堀で主郭を仕切ったりするなど縄張り技術に工夫をみることができます。
詳細に縄張り図をこしらえるといろいろわかってくるでしょうが、戦国後期の美作国での国衆の縄張り技術を押える上では基準となりそうな事例と思いました。

美作国の戦国期城郭はけっこうバリエーションがあるなと手応えを感じながら下山。
そのままヨメサンの仕事場の家族見学会に参加してきたのはヒミツだ(^^ゞ

ちなみに家族見学会の後も日没までもう少し時間があったので、桝形城と葛下城の登山道を調べにウロウロしてきたのもヒミツだ(^^ゞ

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