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2009年10月22日 (木)

大友氏領国から毛利氏領国へ。

今年は残暑が短くあっさりと秋にはいったおかげで10月上旬から城跡を精力的にまわり準備を進めています。

九州と中国地方の往来する状態も7年目を迎えて、北部九州もある程度整理することが出来たおかげで大友氏領国についておおよその見通しを立てることが出来ました。
もちろん豊前国方面や筑前国宗像郡方面、筑後方面、そして大友氏領国の主要城郭については縄張り図を再度きっちりとらねばいけないものもありますが、今後おおよその目処は立ってきたようにみえます。
その一方で、岡山県を含めて中国地方、特に山陽方面は縄張り研究者が少ないため毛利氏領国の様相をみる研究は余りありません。
大名領国系城郭はあるか?という問いが出されたセミナーではありますが、古典的な大名領国でまだまとまった答えが出せていない大きなヤマいっても良い事例に毛利氏領国があると思います。
既に織豊系城郭の視点からは、毛利氏は豊臣政権に欠かせない旧族大名として両方のカラーを持ち合わせた大名であること、防長転封後もそうした特徴を色濃く残したことが特徴として既に指摘されています。
ところが、戦国期から豊臣政権に組み込まれた時期の毛利氏はどのように城郭を展開させていたのかは曖昧なままです。
結論は単純で、毛利氏も大友氏と同じく城郭の縄張り技術でオリジナルの縄張り技術を成立させていくことが無かった勢力だからです。
それなのにこれまでは「毛利氏の大名系城郭があるはず」としてきたのです。
そうではなくて、毛利氏が支配した中国地方の各領域の在地諸勢力(あるいは天正期に台頭した有力国衆)の縄張り技術をある程度把握しつつ、毛利氏がこれらの技術をどのように消化していったのか(或いは丸呑みしたのか)を検証する二方面作戦を展開する必要があります。

既に大友氏の場合では、大友氏より秋月氏や筑紫氏の方がその地域の水準では優れた縄張り技術を展開させました。大友氏は最終段階まで曲輪の削平も弱く畝状空堀群を採用した防塁型ラインを採用するに留まっていることを指摘してきました。
さて、毛利氏はどうなのか?それよりもう少し優れた展開を示していそうですが、そうした問題意識でピンポイント的に把握することで豊臣政権期以前の毛利氏の到達点(あるいは有力国衆の到達点)がみえてくるように思います。それは、毛利氏領国のなかでどの程度帰属した有力国衆が独自性を持っていたのか、その中でどこに毛利氏は独自の勢力を入植させることができたのか、領国全体を束ねる支配論理はあるのか?といった問い掛けを城郭跡の調査から拾い出していく作業です。

毛利氏領国は大友氏以上に広い範囲にわたります。気の遠くなりそうな作業です。
縄張り研究など城郭史では、秋から冬、春の野山を数日間かけて調査して複数の事例を面的に揃えていかないといけません。
1日で調査する方法もありますが、ある程度5〜10回くらいかけて調査しないと築城主体の意識がみえてきません。
ひとつの断片的な調査事例だけでも築城主体は語れますが、屋外の調査事例に加えて文献史料や絵図など様々な史料にあたるひとり学際的作業を行い城跡を軸に総合的に解釈する作業が不可欠です。
そうした総合的作業を屋外(+屋内作業)で行うことを経て、調査事例から何が描けるかまで問われてようやく1本。
机の上ではもちろん出来ませんので野外作業です。あちこち廻らねばなりません。休みでも雨だとできません。暑いと作業が困難です。

思うに任せない中で時間を確保してやっていますが、大友氏から毛利氏まで考えるようになると本当に時間が足りないと痛感するようになってきました。
そう感づいた瞬間から、八方美人なもの(それぞれやりたいものではあるが人生は有限だから仕方ない)を可能な限り捨てて城郭調査に専念することを意識するようになりました。
大友氏領国から毛利氏領国まで天正期を中心に上位権力から各地の地域領主まで、さまざまな勢力が遺した城跡を把握したい。
そのために、何とか時間を確保して作業を進める準備を。それだけの魅力あるフィールドがそこにあると思っています。

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