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2009年10月12日 (月)

12日は秋月の荒平城を歩きました。

12日は秋月のろまんの道界隈でいろんな人たちが集まってワイワイやっている秋月芸術祭にヨメサンも参加しているので前夜から合流。暮待巣(クレマチス)という農家民宿B&Bに滞在。
朝から秋月の真横にある秋月氏の居城と呼ばれる荒平城を見てきました。
昼から秋月芸術祭の作品をみて夕方に片づけをお手伝い。
夜は芸術祭のみなさんのご相伴で
暮待巣(クレマチス)の方からの協賛&サービスのもつ鍋をご馳走になりました。
ホルモンが分厚くてホントに美味しかったです。
大変お世話になりました。ありがとうございました。

で、12日午前中は、連休中なので観光客の多い(それでも減ったそうな)秋月で、麓では戦国祭なる骨董市メインのイベントが聴こえてくる裏山をゴソゴソはいまわって秋月氏時代の戦国期城郭をみてきました。
荒平城は岡寺良さんが図面をとっておられるのでそれを見ながらウロウロ。
時間の都合で国道で破壊されている中腹まで確認してきました。

さすが秋月氏の居城だけあって畝状空堀群が多い。
基本的には緩斜面や侵入を妨げたい位置に築くものですが、秋月氏の場合はパターン化されていて地形に左右されずに帯状に竪堀を斜面に築くのが特徴。
竪堀はけっこう長いものもあり、長短を地形に合わせながらラインのように築いています。
一方、曲輪の方は、西側の曲輪群では連郭式で虎口も平入りのスロープタイプであまりめだったものがありませんでした。
畝状空堀群と比べるとそれほど曲輪の造成に力を入れているわけでもなく地形に沿った連郭式の縄張り。
麓に近い方の主要な曲輪は削平がよいものの中腹になると粗雑な造りになっているのが興味深い。時期差か機能差かは判断が難しい。
これに対して、東側の尾根筋はもう少し削平が良くて、上部には岡寺図にもある面白い虎口をみることができました。
背後の曲輪から両端に土塁が伸び、正面を四角な石塁で2/3程度塞ぐ形で虎口空間をつくっている。この周辺だけ石積みが配されるなど秋月氏にしては(この辺りの有力国衆にしては)技巧的な虎口プランです。
但し、背後の曲輪はあまり大きくないのが興味深い。このような虎口は益富城や古処山城(図でみただけですが)にもあって、いずれも曲輪と連動しない「技巧的な虎口」が城域にポツンと築かれる。
これが秋月氏の虎口プランの到達点のようです。

実は、まだ古処山城には登ったことがないので(..ゞアセ、また暮待巣に滞在して秋月界隈の中世城郭をみたいと思います。
秋月氏は、対立した豊臣政権側から筑前と豊前・筑後半国の領主と高い評価を受けていた有力国衆です。
九州征伐はともすれば対島津氏のイメージがありますが、実際は前半の秋月氏を中心とする豊筑の国衆連合と豊臣政権の対決がメイン。ここが一番の正念場と豊臣政権側は捉えていたようです。
この辺はKさんが既にまとめています。竹田でウダウダしている内に先越されました(ノ_<)。

そんな大勢力と畝状空堀群を用いた技巧的な縄張り技術を展開した秋月氏、秋月種実などは今日の秋月ではあまり関心が持たれていません。
せっかく城跡が良好に残っているのですから、
下手な整備はご遠慮しますが、秋月の方々にもう少し戦国の梟雄?秋月氏と彼らの築いた戦国期城郭にも注目してほしいものです。

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