« 12日は秋月の荒平城を歩きました。 | メイン | 高山城、それから。 »

2009年10月14日 (水)

10年ぶりに高祖城を踏査。

13日は宿泊した秋月から一路、まもなく糸島市になる前原市の高祖城に行ってきました。
天正中・後期に早良下流域から糸島、松浦郡東部まで支配域を広げた有力国衆原田氏の居城、高祖城跡の遺構をふたたび確認するためです。

10年前に高祖城の縄張り図を書いていたのですが、その後に前原市の方から「まだ奥(上ノ城の東側)に遺構がある」と指摘されていたものでした。その頃は古代怡土城のものだろうと思っていました。
でも、北部九州城郭談話会のYさんの報告で、畝状空堀群の見落としもわかったのであらためて高祖城を見に行くことにした次第。

まずは畝状空堀群。。。
確かにありました(^^;)。以前の図で畝状空堀群を書いたところから続く形で谷状地形に何本も刻まれておりました。
なぜ10年前の自分は気付かなかったんだろうと言うくらい、何の迷いもなく畝状空堀群とわかる代物でした。お恥ずかしい限り。
原田氏の畝状空堀群は、飯盛山城にもあったのでどう位置づけようか悩んでいた面もありました。高祖城でも同じく、城域の弱点となる部分を補強するために畝状空堀群が用いられていました。
これで、原田氏の場合には、秋月氏とは異なる畝状空堀群の使い方がはっきりするようになりました。
12日に秋月に滞在した際にみた荒平城のように、地形に左右されず畝状空堀群で斜面に並べる秋月氏のやり方とは違っていました。

次に、東側の遺構。
大空堀の先にしばらく自然地形が続いた後に、ピークの前後をつなぐように土塁の防塁型ラインがありました。
最近測量のためか笹藪を抜開したようで見やすくなっていました。感謝です。
そのままラインで伸びているだけならば、古代怡土城の遺構と評価できたかもしれません。
しかし、登山道を挟んで上ノ城側と外側のピークをつなぐかたちで土塁が走り、外側のピークは今宿上の原からの登山道を睨むように縁辺部を巻いて収斂するプランとなっていました。
明らかに上ノ城を防禦する前線となる防塁型ラインの役割を果たしており、戦国期の遺構と言えます。
この箇所を確認できたことで、原田氏が積極的に用いた縄張り技術がやはり土塁であることがはっきりしました。
また、凹状の部分に開口部があり現在の登山道が走っています。これは破壊でなくて平入りながら開口部として処理されたものでした。
これらの事例から上ノ城の発掘調査でも検証された原田氏の虎口プランの特徴がよりはっきりみえてきたのも収穫です。

10年前は、最終段階の有力国衆の動員力が大きいとは思っていなかったこと、不必要に城域を広く考えることに禁欲的であったこと、この2つの見立てから遺構を読み切れなかったようです。
その後、勝尾城や高鳥居城などの調査で有力国衆の動員力の大きさがみえてくるに連れて気付くようになってきた面もありましたが、糸島地方は遠かったこともありなかなか見直しができてませんでした。
再踏査が遅くなり、大変申し訳ない次第です。

竹田で余計なことに八方美人で脱線してたり、博論に時間を費やしている内にあれやこれやと10年経っていました。。。光陰矢の如しを痛感した再踏査でした。
つまらぬ些事に脱線せず城郭研究をやらねばならないなと再確認させてもらったような感じですね。
糸島の調査は故石橋さんにお世話になったところ。糸島の調査を多く盛り込んだ博論の成果を持っていこうと思っていたところでした。
「ほら、中西さん。言った通りだったろ。あんたはなかなか言うことを聞きなさらん人やから」と言われそうな気分です。
基本的には自分の高祖城の評価は変わらないし逆に補強された面がありましたので、きちんと未確認だった部分を縄張り図に反映させた上で、あらためて高祖城と原田氏の縄張り技術を整理する予定です。

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://app.blogcoara.jp/t/trackback/143624/21964067

10年ぶりに高祖城を踏査。を参照しているブログ:

コメント

コメントを投稿

Foxkeh! フォクすけ!


  • Firefox ブラウザ無料ダウンロード
Powered by Six Apart