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2009年10月30日 (金)

おーぎ、小城その2

小城市立歴史資料館に寄ってきました。小城鍋島家文書は佐賀大学が所蔵しているらしい。なので佐賀大学と連携事業を組んでいる様子。図録は図版よりも論集&史料集といった案配。どういう案配で予算組みをしているのか興味あるところだが、うらあましい限りである。見習いたいもの。
今回は千葉氏のことで、千葉(祇園岳)城をふくめて佐賀より西部の方面で勢力を持っていた千葉氏がどの段階まで勢力を保持していたのかは興味深いところだったので遠征&図録をゲットした次第。
ところで、千葉城が15世紀の様相を示すという下りが論考にありましたが、さすがにそれはないでしょう(^^ゞ。
地表面の遺構評価からは明らかに戦国後期(天正期)の様相と推察されるものです。もちろん、そこから採集された遺物で年代比定をする立場もありますが、逆に遺跡の評価から遺物からの年代比定を疑う立場もあってよいでしょう。
などと思いながら、中世の仏像や古文書が平気で残る佐賀郡・小城郡・藤津郡の歴史の古さに感銘を受ける。

ついでで、武雄市の歴史資料館のパンフレットがあったのでゲットしてきました(^^ゞ。ここも図書館とセットの設備の整った施設。うらあましい限り。

2009年10月26日 (月)

おーぎ、小城。

25日は午後からの糸島前原での用事の前に佐賀の小城に寄ってました。
小城市の歴史資料館で
知人のO君が絡んでいる「中世小城の歴史・文化と肥前千葉氏」展があったのと、駅前のぎおぎおでこちらは去年ご縁の熊田みどり嬢の絡んでる「小さなお城の3人展」が目当て。
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先に9時から開館の小城市立歴史資料館&中井梧竹記念館で、「中世小城の歴史・文化と肥前千葉氏」展をみる。

同程度の自治体で、当たり前にちゃんとした設備で、当たり前に業者に発注して作り込んだ常設展があり、当たり前に大学連携の自主事業が組める複合型歴史資料館をみると、気分はじっと我が手をみつめる、なり。
展覧会そのものは小さいけれども、「持たざる者」からすれば普通のものでもうらあましい限り。てな感想は別に。

さて、小さなお城の3人展、秋月芸術祭でDMもらったのに持っていくのを忘れる大失態。あちこち迷って何とか駅前らしいということがわかったので唐津線の小城駅へ。
小城駅は大正6年の「どこかなつかしい」駅舎。まちはずれにある停車場然とした感じが往時の国鉄駅を彷彿とさせる。
そのすぐ近くに、赤レンガデコレーションした古い倉庫をリフォームした雑貨屋さん「ぎおぎお」がありました。
倉庫の中は木材で壁面を加工していて、ホントにいいスペースです。ここに3人の作品がうまく配置されてました。

オープンの11時より30分前に到着。みどり嬢に再会。
さらに、アングラさがキテる感じでした。相変わらず足型造形よいです。パーカッションにも鉢植えにもなっていました。
映像作品も写真で撮ったパフォーマンスもよい味を出しています。
もちろん本人のキャラクターもよい味を出しています。
足型は夏の大赤字さえなければひとつ所望したいところでしたが、某所から怒られそうなのでデザインのてぬぐいで我慢する。
抹茶をいただき、大変恐縮。ありがとうございました。
11月1日まで。駅を目指していくと良い。

11時半過ぎにお暇。福岡から田舎を求めるレジャー客でごった返す三瀬越えを逆コースで1時間半で糸島まで行きましたさ。

2009年10月22日 (木)

大友氏領国から毛利氏領国へ。

今年は残暑が短くあっさりと秋にはいったおかげで10月上旬から城跡を精力的にまわり準備を進めています。

九州と中国地方の往来する状態も7年目を迎えて、北部九州もある程度整理することが出来たおかげで大友氏領国についておおよその見通しを立てることが出来ました。
もちろん豊前国方面や筑前国宗像郡方面、筑後方面、そして大友氏領国の主要城郭については縄張り図を再度きっちりとらねばいけないものもありますが、今後おおよその目処は立ってきたようにみえます。
その一方で、岡山県を含めて中国地方、特に山陽方面は縄張り研究者が少ないため毛利氏領国の様相をみる研究は余りありません。
大名領国系城郭はあるか?という問いが出されたセミナーではありますが、古典的な大名領国でまだまとまった答えが出せていない大きなヤマいっても良い事例に毛利氏領国があると思います。
既に織豊系城郭の視点からは、毛利氏は豊臣政権に欠かせない旧族大名として両方のカラーを持ち合わせた大名であること、防長転封後もそうした特徴を色濃く残したことが特徴として既に指摘されています。
ところが、戦国期から豊臣政権に組み込まれた時期の毛利氏はどのように城郭を展開させていたのかは曖昧なままです。
結論は単純で、毛利氏も大友氏と同じく城郭の縄張り技術でオリジナルの縄張り技術を成立させていくことが無かった勢力だからです。
それなのにこれまでは「毛利氏の大名系城郭があるはず」としてきたのです。
そうではなくて、毛利氏が支配した中国地方の各領域の在地諸勢力(あるいは天正期に台頭した有力国衆)の縄張り技術をある程度把握しつつ、毛利氏がこれらの技術をどのように消化していったのか(或いは丸呑みしたのか)を検証する二方面作戦を展開する必要があります。

既に大友氏の場合では、大友氏より秋月氏や筑紫氏の方がその地域の水準では優れた縄張り技術を展開させました。大友氏は最終段階まで曲輪の削平も弱く畝状空堀群を採用した防塁型ラインを採用するに留まっていることを指摘してきました。
さて、毛利氏はどうなのか?それよりもう少し優れた展開を示していそうですが、そうした問題意識でピンポイント的に把握することで豊臣政権期以前の毛利氏の到達点(あるいは有力国衆の到達点)がみえてくるように思います。それは、毛利氏領国のなかでどの程度帰属した有力国衆が独自性を持っていたのか、その中でどこに毛利氏は独自の勢力を入植させることができたのか、領国全体を束ねる支配論理はあるのか?といった問い掛けを城郭跡の調査から拾い出していく作業です。

毛利氏領国は大友氏以上に広い範囲にわたります。気の遠くなりそうな作業です。
縄張り研究など城郭史では、秋から冬、春の野山を数日間かけて調査して複数の事例を面的に揃えていかないといけません。
1日で調査する方法もありますが、ある程度5〜10回くらいかけて調査しないと築城主体の意識がみえてきません。
ひとつの断片的な調査事例だけでも築城主体は語れますが、屋外の調査事例に加えて文献史料や絵図など様々な史料にあたるひとり学際的作業を行い城跡を軸に総合的に解釈する作業が不可欠です。
そうした総合的作業を屋外(+屋内作業)で行うことを経て、調査事例から何が描けるかまで問われてようやく1本。
机の上ではもちろん出来ませんので野外作業です。あちこち廻らねばなりません。休みでも雨だとできません。暑いと作業が困難です。

思うに任せない中で時間を確保してやっていますが、大友氏から毛利氏まで考えるようになると本当に時間が足りないと痛感するようになってきました。
そう感づいた瞬間から、八方美人なもの(それぞれやりたいものではあるが人生は有限だから仕方ない)を可能な限り捨てて城郭調査に専念することを意識するようになりました。
大友氏領国から毛利氏領国まで天正期を中心に上位権力から各地の地域領主まで、さまざまな勢力が遺した城跡を把握したい。
そのために、何とか時間を確保して作業を進める準備を。それだけの魅力あるフィールドがそこにあると思っています。

2009年10月18日 (日)

美作国の中世城郭資料整理&美和山城へ行きました。

今日は朝から津山市でお仕事。
津山方面で中世城郭の見取図を精力的に調査されてきたYさんの図を紹介するために整理する作業。

Yさんの図は図面としては20年前の感じではありますが、いくつかの城郭では縄張り図が公表されているものの、まだ悉皆的な縄張り調査が進んでいない旧美作国ではかなりの事例を図化しており貴重な先行成果。
今後の調査を喚起すべく貴重な成果を公開するために整理しようという目的の作業です。
来年10月までの長丁場ですがオファーをいただいたのでお手伝いの一員として参加することになりました。

わたしとしては、中国地方においてなかなか魅力ある美作方面の戦国期城郭を把握するよい機会。
全国的にも把握する必要のある岡山県の中世城郭、このような機会を与えていただいた皆さんの期待に沿うよう勤めたいと思います。


さて、当日夕方まで作業した後、同じく作業に関わられているMさんのご案内で夕闇迫る美和山城へ寄ってきました。
美作二宮の近く、国道179号線バイパス沿いにあります。
二宮の社司立石氏の城郭と伝えられています。
国指定史跡美和山古墳群の内、丘陵の一番北側にある前方後円墳の1号墳まで歩くと、古墳の両端に土塁が築かれているのがみえます。
1号墳の北側は川により崖となっています。墳丘の上にも土塁が配され増設された土塁と共に北側の平坦部を囲んで城域とする、俗に言う「後ろ堅固の城」です。
墳丘部の主郭と北側の土塁で囲まれた第二郭で城域が形成されていたと考えられます。
前面の丘陵上には古墳が並びますが、その間に人工的な横堀状の凹みが2箇所ありました。
遠堀かどうかは微妙ですが1号墳より前面の処理が難しいので可能性として考えられそうです。いずれ調査してみて評価を検討するとしてとりあえず保留。
国府のあった神楽尾や津山の総社方面から院庄へ抜ける街道筋をおさえていたのではないかとされる美和山城。院庄の東側を押える要害として機能したと思われます。

興味深い事例をご案内いただき、Mさんには感謝です。

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2009年10月17日 (土)

美作小田草城へ行く。

今回の津山への帰省は、美作国の戦国期城郭についてひと仕事やるための下調べも兼ねたもの。

とはいえ、17日は家族サービスでヨメさんの仕事場で家族見学会。ですのでジャケット来て革靴。
朝8時にヨメさんを仕事場に乗せていって送ってから。。。10時集合まで時間あるな。。

と、その間に鏡野町の戦国期城郭をひとつ探訪しました(^^ゞ
鏡野町馬場にある小田草城。伯耆倉吉に通り抜けるルートから少しはいったところにあります。
城主は斎藤氏だそうで、麓の小田草神社には貞治7年に斎藤二郎の銘を持つ梵鐘が伝わります。
これをそのまま鵜呑みにできるかは別ですが、この地域に影響を及ぼしていたようです。
斎藤氏は戦国後期には尼子氏に従った後に毛利方に参画したとのこと。どうやら戦国後期に地域を支配した国衆のようです。

麓の小田草神社に行ってみると、城跡への登山道が割ときれいに整備されていました。入り口には城跡の説明する看板がありました。
登山道は鉄パイプの手すりやステップを据え付けるなど丁寧に整備しています。時間もあるし登ってみるかとそのまま登城(^^ゞ

登山道は急斜面でしんどいものの比較的楽に登れます。登りついた山頂は眼下に展望できるよう整備されており、城跡も割と楽に見て回れます。なのでジャケットを脱いでシャツと革靴で下草を分け入りながら遺構を確認してまわりました。
曲輪の配置は基本的には連郭式、タテに曲輪が一列に連なります。主郭となる曲輪の前後には空堀があります。単に遮断するだけでなく堀底は掘り抜かない堀底閉塞土塁となっています。これは、かなり興味深いプランです。
城域の先端にある曲輪は土塁が配され、尾根筋には堀切があります。曲輪のひとつには凹んだ箇所があり虎口の可能性があります。
以上、さらっと見たところでは、宇喜多氏以降の織豊系城郭の様相は感じられませんでした。
しかし、在地系城郭としては単に曲輪を並べるだけでなく、空堀で主郭を仕切ったりするなど縄張り技術に工夫をみることができます。
詳細に縄張り図をこしらえるといろいろわかってくるでしょうが、戦国後期の美作国での国衆の縄張り技術を押える上では基準となりそうな事例と思いました。

美作国の戦国期城郭はけっこうバリエーションがあるなと手応えを感じながら下山。
そのままヨメサンの仕事場の家族見学会に参加してきたのはヒミツだ(^^ゞ

ちなみに家族見学会の後も日没までもう少し時間があったので、桝形城と葛下城の登山道を調べにウロウロしてきたのもヒミツだ(^^ゞ

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2009年10月15日 (木)

高山城、それから。

○○先生が科研費をとるので研究員にしろ、と某担当者が錦の御旗のごとく説明に来ました。
科研費は研究者がグループを組んで申請する調査なのですが、研究協力者から組織をあげて全面協力の依頼とは摩訶不思議。
そんな頓珍館な世界とは別の話題。

以前に津山市加茂町の高山城に登った際に保存会の方々にあれこれこの図面はダメだとかこの評価はダメだと申したことがありました。
過日、M先生が保存会の方々に招かれ登られたようで、さっそく解説つき縄張り図と共に書簡が送られてきました。
「木を見て森を見ないようではいけない」と言われたとか。至極明言です。
これからこのフレーズは使わせていただこう(^^ゞ
縄張り図と共に解釈が記されており、とても興味深く拝見させていただきました。ありがとうございます。
やはり岡山になると関西に近く、城郭研究最前線の空気が伝わってきます。
そうした体験の乏しいまま九州で根を張ってきた私にはあまりなじみのないことだけにありがたいことです。

週末は津山。美作の城郭調査を続けてこられたYさんの調査成果を拝見させていただく。
実に、楽しみです。

2009年10月14日 (水)

10年ぶりに高祖城を踏査。

13日は宿泊した秋月から一路、まもなく糸島市になる前原市の高祖城に行ってきました。
天正中・後期に早良下流域から糸島、松浦郡東部まで支配域を広げた有力国衆原田氏の居城、高祖城跡の遺構をふたたび確認するためです。

10年前に高祖城の縄張り図を書いていたのですが、その後に前原市の方から「まだ奥(上ノ城の東側)に遺構がある」と指摘されていたものでした。その頃は古代怡土城のものだろうと思っていました。
でも、北部九州城郭談話会のYさんの報告で、畝状空堀群の見落としもわかったのであらためて高祖城を見に行くことにした次第。

まずは畝状空堀群。。。
確かにありました(^^;)。以前の図で畝状空堀群を書いたところから続く形で谷状地形に何本も刻まれておりました。
なぜ10年前の自分は気付かなかったんだろうと言うくらい、何の迷いもなく畝状空堀群とわかる代物でした。お恥ずかしい限り。
原田氏の畝状空堀群は、飯盛山城にもあったのでどう位置づけようか悩んでいた面もありました。高祖城でも同じく、城域の弱点となる部分を補強するために畝状空堀群が用いられていました。
これで、原田氏の場合には、秋月氏とは異なる畝状空堀群の使い方がはっきりするようになりました。
12日に秋月に滞在した際にみた荒平城のように、地形に左右されず畝状空堀群で斜面に並べる秋月氏のやり方とは違っていました。

次に、東側の遺構。
大空堀の先にしばらく自然地形が続いた後に、ピークの前後をつなぐように土塁の防塁型ラインがありました。
最近測量のためか笹藪を抜開したようで見やすくなっていました。感謝です。
そのままラインで伸びているだけならば、古代怡土城の遺構と評価できたかもしれません。
しかし、登山道を挟んで上ノ城側と外側のピークをつなぐかたちで土塁が走り、外側のピークは今宿上の原からの登山道を睨むように縁辺部を巻いて収斂するプランとなっていました。
明らかに上ノ城を防禦する前線となる防塁型ラインの役割を果たしており、戦国期の遺構と言えます。
この箇所を確認できたことで、原田氏が積極的に用いた縄張り技術がやはり土塁であることがはっきりしました。
また、凹状の部分に開口部があり現在の登山道が走っています。これは破壊でなくて平入りながら開口部として処理されたものでした。
これらの事例から上ノ城の発掘調査でも検証された原田氏の虎口プランの特徴がよりはっきりみえてきたのも収穫です。

10年前は、最終段階の有力国衆の動員力が大きいとは思っていなかったこと、不必要に城域を広く考えることに禁欲的であったこと、この2つの見立てから遺構を読み切れなかったようです。
その後、勝尾城や高鳥居城などの調査で有力国衆の動員力の大きさがみえてくるに連れて気付くようになってきた面もありましたが、糸島地方は遠かったこともありなかなか見直しができてませんでした。
再踏査が遅くなり、大変申し訳ない次第です。

竹田で余計なことに八方美人で脱線してたり、博論に時間を費やしている内にあれやこれやと10年経っていました。。。光陰矢の如しを痛感した再踏査でした。
つまらぬ些事に脱線せず城郭研究をやらねばならないなと再確認させてもらったような感じですね。
糸島の調査は故石橋さんにお世話になったところ。糸島の調査を多く盛り込んだ博論の成果を持っていこうと思っていたところでした。
「ほら、中西さん。言った通りだったろ。あんたはなかなか言うことを聞きなさらん人やから」と言われそうな気分です。
基本的には自分の高祖城の評価は変わらないし逆に補強された面がありましたので、きちんと未確認だった部分を縄張り図に反映させた上で、あらためて高祖城と原田氏の縄張り技術を整理する予定です。

2009年10月12日 (月)

12日は秋月の荒平城を歩きました。

12日は秋月のろまんの道界隈でいろんな人たちが集まってワイワイやっている秋月芸術祭にヨメサンも参加しているので前夜から合流。暮待巣(クレマチス)という農家民宿B&Bに滞在。
朝から秋月の真横にある秋月氏の居城と呼ばれる荒平城を見てきました。
昼から秋月芸術祭の作品をみて夕方に片づけをお手伝い。
夜は芸術祭のみなさんのご相伴で
暮待巣(クレマチス)の方からの協賛&サービスのもつ鍋をご馳走になりました。
ホルモンが分厚くてホントに美味しかったです。
大変お世話になりました。ありがとうございました。

で、12日午前中は、連休中なので観光客の多い(それでも減ったそうな)秋月で、麓では戦国祭なる骨董市メインのイベントが聴こえてくる裏山をゴソゴソはいまわって秋月氏時代の戦国期城郭をみてきました。
荒平城は岡寺良さんが図面をとっておられるのでそれを見ながらウロウロ。
時間の都合で国道で破壊されている中腹まで確認してきました。

さすが秋月氏の居城だけあって畝状空堀群が多い。
基本的には緩斜面や侵入を妨げたい位置に築くものですが、秋月氏の場合はパターン化されていて地形に左右されずに帯状に竪堀を斜面に築くのが特徴。
竪堀はけっこう長いものもあり、長短を地形に合わせながらラインのように築いています。
一方、曲輪の方は、西側の曲輪群では連郭式で虎口も平入りのスロープタイプであまりめだったものがありませんでした。
畝状空堀群と比べるとそれほど曲輪の造成に力を入れているわけでもなく地形に沿った連郭式の縄張り。
麓に近い方の主要な曲輪は削平がよいものの中腹になると粗雑な造りになっているのが興味深い。時期差か機能差かは判断が難しい。
これに対して、東側の尾根筋はもう少し削平が良くて、上部には岡寺図にもある面白い虎口をみることができました。
背後の曲輪から両端に土塁が伸び、正面を四角な石塁で2/3程度塞ぐ形で虎口空間をつくっている。この周辺だけ石積みが配されるなど秋月氏にしては(この辺りの有力国衆にしては)技巧的な虎口プランです。
但し、背後の曲輪はあまり大きくないのが興味深い。このような虎口は益富城や古処山城(図でみただけですが)にもあって、いずれも曲輪と連動しない「技巧的な虎口」が城域にポツンと築かれる。
これが秋月氏の虎口プランの到達点のようです。

実は、まだ古処山城には登ったことがないので(..ゞアセ、また暮待巣に滞在して秋月界隈の中世城郭をみたいと思います。
秋月氏は、対立した豊臣政権側から筑前と豊前・筑後半国の領主と高い評価を受けていた有力国衆です。
九州征伐はともすれば対島津氏のイメージがありますが、実際は前半の秋月氏を中心とする豊筑の国衆連合と豊臣政権の対決がメイン。ここが一番の正念場と豊臣政権側は捉えていたようです。
この辺はKさんが既にまとめています。竹田でウダウダしている内に先越されました(ノ_<)。

そんな大勢力と畝状空堀群を用いた技巧的な縄張り技術を展開した秋月氏、秋月種実などは今日の秋月ではあまり関心が持たれていません。
せっかく城跡が良好に残っているのですから、
下手な整備はご遠慮しますが、秋月の方々にもう少し戦国の梟雄?秋月氏と彼らの築いた戦国期城郭にも注目してほしいものです。

2009年10月11日 (日)

小早川家文書と秀吉。

戦国・織豊期の西国をやる上で毛利氏の基礎史料は欠かせない。
毛利氏は、大日本古文書で毛利・吉川・小早川とあり、萩藩閥閲録などの書上げ史料など基礎資料は充実している。
その一方で、毛利氏領国の城郭像はなかなか全体像が描けていないところがある。
この辺はこれまでやってきている大友氏領国と似ていて常々比較対象として興味を持ってきた。
どちらも戦国大名としての城郭像がみえない一方で有力国衆(戦国領主?)が地域性に富んだ縄張りを展開する。
自らが手を加えた城は特に共通点をもたないのに、それより優れた各地の拠点城郭を無節操?に取り込んでいく軍事編成も似ている。
この辺は、自らが手を加えた拠点城郭に何らかの共通性を持つ後北条氏など東国の戦国大名とは違うところ。

大友氏関係は増補訂正編年史料以外はコピーできているので、随時毛利氏関係の史料を集めている。
萩藩閥閲録は2年前に、今年は小早川家文書と吉川家文書を仕入れた。あと毛利家文書を何とかしたいけど大穴開けたので厳しい(ノ_<)。
毛利氏関係では大日本古文書は東京大学史料編纂所にはデータベースがあったりして便利と言われるものの、Mac環境では見づらいので古書で仕入れた。

さっそく、小早川家文書を読んでいるけど面白いのは、小早川隆景に宛てた豊臣(羽柴)秀吉の書状がまとまってあること。
豊臣政権の基礎史料と言ってもよいですね。
秀吉が仕えた織田信長も何かと荒っぽい文言を出す人だったようですけど、隆景に出す秀吉の書状ははるかに物騒な表現が多い。
秀吉は関白になっても戦線へ出す書状には撫斬りや干殺し、誅罰とか○○奴原など「布武」な荒っぽい文言が随所にあってなかなか興味深い。
一応、関白なんですけどすさまじいものです。彼の方が世間に流布する信長像よりもよっぽど「絶対君主」に近いような気がします。
日本史上で、彼ほど残虐さを備えた強権を振るう絶対君主的存在に近づいた人は他にいないと思います。
中でも、反抗する奴原は城に押し込めて干殺しとか、干殺しは初期の中国国分けや四国・九州の国衆一揆討伐でひんぱんに出てくる。
それを見てると、播州三木や因幡鳥取など何だか「干殺しの秀吉」なんてキャッチフレーズのような気がしてくる。
きっと備中戦でも秀吉が岡山入りしたのを受けて、毛利勢では「あの干殺しの羽柴秀吉が来た」と浮き足立ったのか?と邪推する。

そんな秀吉が毛利氏領国の窓口に指名したのが小早川隆景。毛利本家と豊臣政権の間にあって苦慮するわけですがその辺を目を通しています。
どうでもよいですけど、毛利両川の隆景と毛利からの養子秀包、秀吉からの養子秀秋など戦国・豊臣期の小早川氏を題材に歴史小説つくったら面白いと思います。
小早川秀秋は若死していて肖像画をみると優柔不断の貴公子っぽいですが、実際はかなりキーマンな動きしている様子。関ヶ原で恩を売って宇喜多領をもらうくらいですから軽視してはならないのかも。
豊臣政権は毛利に始まり毛利に終わるは、Kさんが城郭研究の視点から唱えられていますが、そのキーマンに計らずもなった隆景とその周辺。いろんな史料を押えながらどなたかトライしません?

2009年10月10日 (土)

城跡を調査する季節。

あれこれと見積もりなき「気持ち」に対応していたら、当初の予算計画はどこかへ行ってしまいすっかり軍資金が底をついてしまった。
これ以上引っ張っても出費とリスクが増えるだけなので、断腸の思いで事業を取りやめて清算。

得難い経験といろいろ学べた「授業料」と考えるようにしていますが、これだけあれば、MacBook Pro&iPhoneへの買い替え(実際PB永眠したし)とか、絵図集・史料集(毛利・島津&戦国遺文とか群書類従正編・続編が買えるくらい)揃えて研究環境整えられたのになあ。。。としばし凹む。
まあ、また働いて取り戻せばいいかと言い聞かせるが、何とも笑えない実験結果でした。

気を取り直して、そろそろいただいた博士号仮免を磨くべく、本格的に論文づくりのために机の上ならぬ山籠りへ。
学位論文づくりで止まっていた調査も再開です。
幸いなことに今年は秋の入りが早く調査にはいいコンディション。
連休は最終日に秋月。秋月氏の荒平城をみてくる予定です。天気が良ければ、畝状空堀群を書き漏らしている高祖城と、谷あいの平坦地が気になる安楽平城、それから空堀をひとつ書き漏らしている岩門城の再調査と続きます。
来週末はヨメさんのもとに帰省して津山で戦国期城郭の調査資料の確認に行ってきます。
こちらは春にいくつか下見して以来の再開。ちょっとした大仕事で楽しみ。

Foxkeh! フォクすけ!


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