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2009年9月 8日 (火)

「文書」に記された城と現存する城跡は違うことから考える。

午前中はお仕事のスケジュールの都合で立ちあい、昼間はテラマチあります。の段取り、夕方は県立図書館で資料探しというひとり3役な1日。。。

さてさて、最近そろそろ城跡調査と論考の準備に入っているところです。そんな中で自分なりに考え方の基本姿勢として、現存する城跡は、戦国期や織豊期でも天正年間より遡らないと思っています。逆に下限は可能性だけなら慶長・元和くらいまで下がる可能性を常に意識してみることにしています。つまりは、天正期〜文禄・慶長期には断続的にかなりの手が入ったのではないかと予想して遺構をみることにしているわけです。

ところが、例え目の前に「城跡」が残っていても縄張り図と「俗称」される簡易測量図による資料化よりも「文献調査」で城に関する記述探しを重んじる傾向のある大方の中・近世史研究では、16世紀前半でも15世紀でも文献史料に城という文字があればその時期まで遡るのではないかと考える節があります。それゆえに、城郭研究の中でも文献史学を意識したスタンスでは得てして現状遺構をそのまま古くから機能していてもよいと考える傾向があります。

それらのスタンスについては考え方として拝聴するところがありますが、現存する城跡を文献史料に出てくるから古く評価するのは要注意と思っています。なぜなら、文献史料に出てくる城はあくまでもその時期に「○○城」という施設が機能しただけであり、ある程度参考にはしないといけないとしても、現存する遺構とは必ずしも一致するものではないのが当たり前と思うからです。

しかしながら、近年の歴史学・歴史考古学で語られる城郭像では、発掘調査成果をもとに古くする傾向があります。でも、よくよくみると文献史料にある城郭の記述などから遺物の年代観を評価し、それをあてはめて城跡は古くまで遡ると主張することが多くあります。それは、一見モノからみているようにみえて、文献史料に引っ張られた年代観でしかないと思えてなりません。年代比定の決め手とする陶磁器などの編年は基本的に文献史料の成果を参照することが多いものです。それらの相対評価を複数組み合わせておおよその年代を決めるので複数の編年に照合していても同じこと。もちろんそれなりに文献史料の成果や遺物からの評価も勘案しないといけませんが、文献史料や遺物編年よりも、実際の遺跡を形態分析して得た年代観の方が優れていると考えてよいと思いますし、そうあってしかるべきと思います。

以上の点から、ボクのスタンスでは様々な資料・古文書から得られる見地を取り扱う(最終段階の年代観を探るにはもちろん参照します)としても、基本は現存する城跡が最終段階のことしかわからないと考えることにしています。それぞれの城跡を最終段階のものとして相対評価することで城跡から年代観を固めていく。この線は何があっても譲らない。例え文献史料や遺物編年とかみ合わないとしても。。。

その代わり、文献史料にあるものが必ずしも現存の城跡とは限らないと主張するならば、同時に、現存する城跡にみられる遺構が築かれた段階はいつなのか?何が画期なのか?そして、それ以前(文献史料からわかる16世紀半ば以前)はどんな形状をしていたと考えられるのか?という回答を用意しないといけないと考えています。これについては、「わからないものはどうしようもない」と言わざるを得ないかもしれない難しい問いとは思いますが、やらないのは批判ばかりでフェアとは言えないのでちょっとこだわりながら考えを深めてみようと思っています。

感覚的には、戦国期から織豊期・近世城郭と続く築城ラッシュは永禄末期〜元亀が画期で現存の遺構は大半が天正期以降の造作と予見してみるようにしています。今、中国地方の戦国期城郭もみているところですが、だいたい1560年代後半から70年代前半に萌芽的な段階があり、70年代後半〜80年代に一気に展開したのではないかと予想して評価軸を考えているところです。
それから、多少の地域性はあるとして、その画期はどういった要因なのか?何が変わるのか?なぜその時期に縄張り技術が展開し技巧的なプランがあちこちに生み出されたのか?などをどうやって示したら、何を以て証明したらよいのか悩んでいるところ。

この疑問を解決すべく、幾つかの城跡に当たりをつけてあちこちにある当時の人たち「痕跡」を探りながらその辺の課題に取り組めたらと思う次第です。。なんとかライフワークにできないかな?

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「文書」に記された城と現存する城跡は違うことから考える。を参照しているブログ:

コメント

 つまりは・・・
但馬竹田城が20年位前まで「山名宗全(太田垣氏)が築いた戦国の石垣の残る城」といっていたようなことですかね・・・ちょっと極端ですが。

 ただ、ぼくはどうも角牟礼城は毛利(森)氏のような気がしてなりません。城館史料学も読みましたが、自分の両肩がマットについた、フォールされた感がありません。木島先生が文中でおっしゃっておられた『勘』のようなものです。
 まあ、わたしはシロウトですし、木島先生やお城屋さんのような研究者ではないので軽く流していただければ幸いです。

 それと遅くなりましたが、拙宅ジオログにこちらをリンクさせていただきました。どうぞよろしくお願いいたします。

なぐり書きで書いたらひどい文章でした。文意が通るように整理しましたのでよろしくお願いします(^^ゞ
ぶっちゃけ、但馬竹田城の例えの通りです。
ただ、新しいんだというだけでなく、なぜ新しいといえるのかをしっかり説明できるような手がかりないかなあと思っている次第です。

19日はぶっちゃけトークします。都合があえば来竹よろしくおねがいします。

私もこの考えに同意ですわ。うちの実家ですら30年で2回改築をしましたから
長年使っていれば、いろいろと増改築するのは当然だと思います。

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