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2009年8月14日 (金)

城下町の空間的特性。

13日は自宅に帰ってから某先生が書かれた雑誌論考を斜め読みしている最中に、ふと別件で気がついたので岡城跡と城下の絵図をひたすらにらめっこ。考古学的手法と歴史地理学的手法を援用する城郭研究では遺構や絵図は常に意識しているものです。


で、アイデアのヒントはテラマチにありました。
うまくまとめて1本できると面白いんですけど、あらためて岡城跡と城下の様相は全国的に見てもヘンチクリンというか他に例をみないと実感。但し、2年前の建築学会大会報告であった城下町の特異性とは別の意味で。(^^ゞ
縄張りと絵図から得た見通しをもとに、裏を取るべくいざ文献調査。

ちなみに、去年別大の史学論叢に投稿した拙稿の中で紹介した3代藩主中川久清による豊後岡城の大改修(家老屋敷の移転と隠居屋敷&御廟造営)の軌跡を追うことが出来る貴重な絵図を知ることができたのは、
師匠?のK先生からご教示いただいた国立国会図書館の貴重書画像データベースのおかげでした(予算に余裕があれば、復元CGにはこうした関連絵図を収集した資料集をつけるのが普通です)。城郭を扱うにはまずは現状遺構の縄張り調査、そして絵図の確認作業と言う当たり前のことをあらためて教えていただいた次第。この場を借りて御礼申し上げます。

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コメント

 近世は単に城郭の縄張りだけでなく、町図もないと深いとこは見えてこないと言うのはありますね。
 ところで、城郭の絵図がある程度正確でないと、困ったことがあります。例えば私の実家は米子ですが
昔から多くの復元図・3Dをみて違和感が感じていました。
 本来旧内堀から大天守ならびに小天守までの距離が変わらず、むしろ大天守の左前に飛び出すような形で
小天守が聳えているように見えます。ところが多くの復元図などは、大天守の斜め後ろに聳えるようなものが
多いです。
 理由を考えてみると、元となる縄張図が、宝永6年の「伯耆国米子平図」 もしくは享保5年の「湊山金城米子新府」
ではないかと思うからです。これらの図と航空写真を照らしてみると、本丸全体が時計回りに45度ぐらいずれています。
そのため、上のような事になっているのだろうと感じます。
 江戸時代末期に書かれたと言われる、「米子御城絵図」が曲輪の位置関係がより正確なものだろうと思います。

米子城大天守の基壇と小天守の一層の比高差が3m近くもあり、最初から大天守のところが高いのなら
そこに最初から今の小天守相当の建物を建てたでしょうし、そうでなく盛り土をして高くしたのなら、なぜそのように
したのか、大天守台の下をボーリング調査をしてもらいたいと思います。

某掛川市民さん、ありがとうございます。
先だってご指摘頂いた米子城の縄張りと周囲との兼ねあいではご指摘ありがとうございました。

さて、城郭の絵図はなかなか正確なものは少ないです。この前行った甲府城の城絵図は詳細なものがあり便利でした。
おそろしく詳細かつ正確な図面がある一方で、模式図的な城絵図がずーっと実用で継承される場合もある。近世とは摩訶不思議な一面を感じます。

山陰歴史館で購入した米子城絵図面をみながらなるほどと思いみていました。
学研のCGでは片方は飛び出したかたちで、遠景合成はひっこんだかたち(大きさと比高差の違いからか)でした。
米子城は追々考えていこうと思いますが、当初建てられたとする小天守があおの位置にあの規模のものを設置したとするなら、全体の縄張りからみてどういう役割を想定したのか、その際主郭はどうだったのか気になります。大天守台にトレンチ入れることは出来ないのでしょうか?

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