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2009年8月 4日 (火)

躑躅ヶ崎城と甲府城に行ってきました。

2日にセミナーを終えてみなさんとお別れから、K先生と新宿駅から特急かいじで甲府へ移動。大雨(^^ゞ
甲府で一泊して3日に朝から「武田氏館跡=躑躅ヶ崎館」の武田神社に行ってきました。昼前には甲府駅前の甲府城をはしごしてきました。

武田神社まではバスで駅から15分くらい。途中山梨大学を横目に一直線の道はずーっと坂道。館跡のある一帯はも坂の途中。館跡の背後もずーっと坂。
梅翁曲輪むちゃくちゃ斜面でした。主郭部の正面も大きな水堀でしたが左右の堀は途中から川になっていました(^^ゞ背後はもちろん空堀。
地図からはせいぜい扇状地でも平地だろうと思っていたけど全く違う景観でした。

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武田氏館はあちこちくまなく見て回りました。堀も土塁もむちゃくちゃでかい。神社の裏には石垣普請の天守台まである。正直なところ「これは館か?」と思いました。どうみても武田氏。。。いやいや武田氏滅亡後の徳川氏が大改修した「城郭」です。どこに武田氏の痕跡があるんだろう。馬出しの桝形というのも「ぜったい徳川氏の遺構だ」と思いました(報告書の評価は武田氏時代)。

それにしても、甲府城移るまでこの妙な地形の立地のままで強引に防禦を固めた様子が窺えて面白くありました。特に城郭部よりも高い後背地に向けて、虎口の外に角馬出?を築き、さらに無理矢理に空堀と土塁をまわして緩衝帯を何重か築こうとする涙ぐましい?努力がなんともです。それでも後背地の方が高いのですから妙な立地です。一条小山に移りたくなりますよと思いつつ。これからは館ではなく「躑躅ヶ崎城」と呼びたいものです(^^ゞ

前のお店で風林火山のタオルマフラーを誘惑に負けて購入してから甲府城へ。北側・西側が中央本線と国道・山梨県庁で吹っ飛んでいますが一条小山を石垣づくりの織豊系・近世城郭にしています。天守台がいびつなかたちで有名なのですが浅野長政まで遡ろうかという貴重な400年前の石垣サンプルに落書きすんなよ、山梨のジモティ(´д`;  炎天下で遮るもののない城内で見事に焼けながら撮影に勤しみました。慶長期の普請なのでかなり粗っぽい積み方ですがたくさんの石垣写真のサンプルが入手できました(・ω・)ノ

たぶん、そうそう行く事ない甲府市。炎天下でしたが堪能しました。これで新府城なども行けてたら十分満足でした。

ちなみに、織豊系・近世城郭の石垣は算木積みなどの隅角部の積み方に形式的なモデルをみます。なので隅角部を丹念にみたり石垣の積み方や石のカタチ、矢穴の大きさなどを丹念に写真に収めている人がいたらそのひとは城郭研究に関心のある方の可能性が高いでしょう。

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躑躅ヶ崎城と甲府城に行ってきました。を参照しているブログ:

コメント

 失礼いたします、躑躅が崎館で検索かけていたらここにたどり着きました。
 躑躅が崎館ですが、まさに「城」と呼称を修正すべきものでしょう。松岡進氏の論文によりますと、そもそも江戸時代までは「古城」と呼ばれていたそうで、それを柳沢氏が入府後「館」に改めたそうですから。つまり昔の方は皆さん城と思っていたわけですな。
 ちなみに現在見る石垣の大半や天守台等は当然武田滅亡後だと思いますが、大手から新たに発掘された丸馬出し、枡形虎口等大まかには「ぜったい」勝頼時代には完成されていたと思っています、個人的には。根拠としては甲府城に移るまでの期間に何度も改修するか? という疑問と、同じ山梨の勝沼氏館が発掘により単郭館どころか外郭を伴う平地「城郭」であったことが確認された事実、何より新府を見ても武田氏の本拠城郭ならこれくらいの規模あっても不思議じゃないだろう、という個人的印象です。今日の新府城が「天正壬午による徳川氏の改修によるものである!」と言われたらそれまでですが…
 館というと、つい防御的に一段劣る印象がありますが、近現代「館」と改められたものが多くあり、その言葉に引きずられて誤った評価を受けている平地の「城」が多くある可能性があり注意せねばならない、という松岡氏の指摘は大いに注目すべきと思います。そもそも「城館」という文字も適切かどうか、という点も含めて。
 以上、突然失礼いたしました。

遅レス(死語)ですみません。
ありがとうございます!

松岡論文の指摘もさることながら、呼称に左右されず実際の遺構で評価しなければいけませんね、という好例と思います。文字に引っ張られない視点が大事かと。
もっとも板塀などで囲まれた邸宅以外は城ではないかという気がしますので、では「館」とは何か?虚像なのかという点が検証される必要がありそうです。

さて、これを武田氏末期のものとみるか、徳川氏段階以降とみるかは今まさに議論の真っただ中の年代観の問題になるでしょう。基本的プランは武田氏でよいとして、これを現状のようなカタチに再編したものが徳川以降とみるとして、その線引きをどこにするかで喧々諤々すればよいでしょう。
甲信地方から東海にかけての縄張り技術の分布をもとにやらねばならない作業です!

個人的には勝沼氏館の発掘による年代観は慎重にみていますので、徳川氏よりの線引きを想定してみてます。統一戦期の1583〜92年に徳川領という事実はお城を考えるときは看過できないなあ。。。思っています。

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