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2009年8月 2日 (日)

第26回全国城郭研究者セミナーに行ってきました!

今年の第26回全国城郭研究者セミナーは東京渋谷の國學院大學で開催されました。
水戸城と甲府の躑躅ヶ崎城と甲府城をセミナー前後の遠征に組み入れての東国遠征。得られるものは大きかったです。

今回のテーマは「大名系城郭を問う」。事前に2回ほど関東に行くことがあり6月には中城研の例会にも顔を出したりあちらの山城・丘城を見学したりと予習たっぷりで臨みました。

各自の事例報告は例年通りに興味深いものも多く、書籍交換会も埋文の報告書が出回らなくなった点をのぞけば例年通り(多少高齢化が進んでいますが。。。これはひとつの課題)。六一書房さんが大学の厳しいチェック?で入構できなかったとかで報告書探索ができなかったのが残念(^^ゞ。
そして、懇親会もボチボチ情報交換できて「夏まつり」的交流会としては面白く刺激的ありました。

しかしながら、正直、シンポジウムは低調な印象を受けました。25回の伊勢でのセミナーにも感想で書きましたが、今回のシンポをみる限りでも「大名系城郭を問う」としながら肯定的でも否定的でも何ら問うてもいなかったし、むしろ主催する側に問うだけの枠組みを持ちえていない(だから隣接分野からの不用意な問題提起に批判せずにストレートに受け止めようとする傾向が強い)印象を強く受けました。まあ、城郭研究者側(というか主催者側)が文献史学や歴史考古学に対してそれに見合う独自の学問領域たる枠組みを築くことにあまり意識していないなあと確信したことがひとつの収穫だったかなと思いました。

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そもそも、主催者側が近年、関東の文献史学&歴史考古学から示された「話題?」のテーマに正面から向かい合うことを掲げた割には、どういった意図でフロアを巻き込んで議論するかといった仕込みやねらいがまるで感じられませんでした。パネラーでは関西の中西さんの方が分布論の成果からどう解釈するかをソツなく整理して関西の動向を俎上に載せてきたのに対して、関東の石田さんと西股さんは申し訳ないですけど明後日の方向へ走られていた印象でした。よって議論にもならず。最後の希望?として司会の問題提起を示した松岡さんと中西さんで東西のやりとりが期待されました(あくまでも期待でしたが。。)が、石田さん&西股さんワールドの前に時間をとられかないませんでした(ノ_<)。
村田修三氏などが何度か発言して議論や問題提起の場を喚起するカタチでフォローしても難しくありました。

石田さんは福島方面の城館を調査された意義は感じますが、築城技術を葦名氏・伊達氏・上杉氏と比定するその「根拠」をまるで示しませんでした。角馬出しっぽい虎口プランを持つ城が片方は伊達氏になりもう片方は上杉氏と平然と並べていたのはある意味「新鮮」でした。年代観を問わないとすると比定する基準は 「調査者のカン」なのでしょうか?フロアとのやりとりも「わたしならこう解釈する」の域を出るものではありませんでした。
西股さんも基本的に年代観を問わないのですが、その補完として軍事史研究(軍事組織の変遷)の成果を持ち込んでいました。持ち込むこと自体の是非は問いませんが、裏付ける史料なり事例が連動しておらず結局は「西股氏が思う軍事論」の中でシミュレーションしているだけにしか見えませんでした。歴史群像系の方々との質疑応答に時間をとっていましたが、こちらも「わたしはこう解釈する」の応酬でしかありませんでした。
どちらも、遺構の年代観を問う文献史学や歴史考古学からの大名系城郭に対する議論に何も答えるものではありませんでした。というかかみ合っていない。城郭研究からの問題提起をするどころか、しまい口に文献史学の側から文献史学の成果からの引用についてチクリと指摘される有り様で何ともお粗末な感じでした。城郭研究ってこの程度の議論しかしてないの?と思われたらかなわないなあといった暗々たる気持ちにさせられました。

今回のシンポジウムを通して、なんとなく思ってはいましたが、関東の研究者には遺構の年代観を考える意識が乏しく、きわめてフラットな中での「空間論」の世界で標本採集を楽しまれているんだなと再認識させられました。
村田修三氏や千田嘉博氏が「城郭跡の史料的活用」を念頭に城郭研究の枠組みを模索する中から、織豊系城郭に編年モデルを検討し戦国期〜織豊・近世への時間軸づくりを行った意義がわかっていないんだろうと思いました。
この遺構をどの時代(あるいは築城主体)と比定するのか?という部分を抜きにした空間論や機能論なんて、それぞれの事例を「○○氏のものと解釈する」「○○の戦いで使用された遺構とみなす」論者の主観で組み立てた砂上の楼閣にすぎない。結局、なぜその時代といえるのかと尋ねたら最終的には「文書にあるから事例として取り上げた」でしかなくなる。結局は、古文書>発掘成果・遺物>地表面観察の遺構というヒエラルキー、カタチが合わなくても文字にあることが正しいというパラダイムに甘んじることにならないか?

古文書ベースの文献史学や発掘調査ベースの歴史考古学の方法論に対して、城郭跡の調査から遺構ベースの城郭資料論を組み立てることを模索してきたのが縄張り研究、その中で、遺構解釈から年代比定の可能性が高いものを抽出してモデルを検証する作業を通してある程度の年代観を組み立てることを積み重ねてきたわけです。その意味では、遺物の年代観とのズレを指摘された結果、年代観の議論を棚上げにして空間論や機能論などにシフトする態度を採ることは、城郭研究そのものの枠組みをぶち壊すことにならないかと思いました。あらためて、何とかしないといけないなと再認識させられました。

シンポの後はなんともやりきれない気分(`へ´)。でいっぱいでしたが仕方ありませんです。ここ数年の議論をもう一度咀嚼し直して自分なりに整理して攻め口をはっきりさせようと思いながら帰路につきました。たぶん「じゃあ、きみが議論を組み立ててみたら」と言われるでしょうからね(^^ゞ

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第26回全国城郭研究者セミナーに行ってきました!を参照しているブログ:

コメント

どうも、当日は抜刷を頂き、ありがとうございました。
nakanishiさんのように、「大名系城郭論批判」に批判的な考えをお持ちの方が発言したら、当日はもっとおもしろかったでしょうね。シンポも、「大名系城郭論批判」論文を逐一検証して逆批判する、というような形にすれば、一番わかりやすかったのかなぁ、なんて思いました。
それでは、失礼いたします。

こちらこそ、お会いできて光栄でした。ありがとうございます。

今回のシンポジウムのテーマならば、城郭研究の側から大名系城郭をこう捉えてきた、という研究史整理があって、関東・関西での認識を確認しつつ、各地の事例から「大名系城郭」というものは抽出しえるのか?という組み立てがひとつあったかと思います。
それと、個別の特徴ある城郭跡はどこまで古くなるのか?それとも新しいものと考えるべきなのかという、城郭の年代(編年)観をどう考えているかの対立軸が加味されるとホットな議論になったでしょう。

関東の城郭研究者は年代観にあまりとらわれない姿勢を採ります。そうなると西股さんの議論のような「私ならこう運用されたと思う」の応酬に陥りかねないです。議論を闘わせる前にコケたという辺りが辛いなあと思いました。

次はしっかり場外乱闘?ができるように足腰を鍛えて発言できるように努力したいです。
今後ともよろしくお願いします。

コメントありがとうございました。第一線で活躍されている方々がたくさんいらしてくれるので、とても勉強になります!!
ところで、ちょっと疑問というか、誤解されている部分があるのかな…と思う節がありましたので、こちらに書かせて頂きます。

「西日本の大名には「大名系城郭」にあたるものが見当たりませんです。大友氏も毛利氏もつかみどころがありません。特定の縄張り技術を持たず地域の技術で築いた城を取り立てるのが彼らの特徴です」とのことですが、私の理解では、昨今の関東での大名系城郭論批判というのは、まさにその点なんです。つまり、北条氏や武田氏が「固有」の縄張技術を持つとは断定できないのですね。方向性はあった可能性はありますが、それを遺構から読み取れるかというと、そこまでは読み取れないよ、ということです。

シンポでも取り上げられていた、齋藤慎一「戦国大名城館論覚書」(高志書院、2003年)はお読みですよね?nakanishiさんも「築城技術を葦名氏・伊達氏・上杉氏と比定するその「根拠」をまるで示しませんでした。角馬出しっぽい虎口プランを持つ城が片方は伊達氏になりもう片方は上杉氏と平然と並べていたのはある意味「新鮮」でした」とおっしゃっていますが、齋藤論文でも、北条氏系、武田氏系と言われてきた城館も、その築城技術を北条氏・武田氏に「固有」のものと比定する「根拠」がない、あるいはあやふやであることを指摘しているのであって、だからこそ地域性や地域を超えた技術を考えるべきだ、と批判しているんですね。それこそが関東における大名系城郭論批判、だと私は理解しています。なので、関東での大名系城郭論批判は、単に縄張と遺物のズレのみが問題なのではなくて、まさにnakanishiさんが指摘されていることが問題になっているんです。もともとは縄張論の内部批判なんですね。しかも、織豊系城郭論は否定していない点も、ポイントです。

杉山城もそうでして、杉山城の縄張をいくら分析しても、北条氏「固有」の縄張技術はこれだ!これがあるから永禄年間だ!と指摘できないはずなんです(『城館史料学』でどう反論されているのかは知りませんが)。だから、シンポでも結局取り上げられませんでしたし、杉山城は北条氏系城郭とはいえないと。大友氏系城郭が成り立たないのと同じ構図だと思います。そのうえで、発掘したら古い遺物と1面のみの遺構面が出てきて、さらに文献も出てきた、という流れです。なので、杉山城問題も、単に古い遺物が出てきたこと、文献が見つかったことだけから、短絡的に縄張研究を批判しているのではありません。ここがポイントだと思います。

なので、nakanishiさんのお考えと、私の考えはかなり重なる部分が多いのではないかな…と思うに至り、なぜnakanishiさんが大名系城郭論批判に批判的なのかがよくわからなくなってきたのですが…そのへんどうなんでしょうか…。nakanishiさんがおっしゃる、「一連の大名系城郭論批判」の論文とは、具体的にどの論文を指しているのでしょうか。

竹さん、長文コメントありがとうございます。
しっかり回答しないといけませんので、読み返してみますのでしばらくご猶予を。
あらためて懇親会で語ることができなかったのが残念です。とても有意義な時間を過ごせたでしょう。

とりあえず泥縄的に書いてみますと。。。。

齋藤さんに代表する一連の論文の批判の矛先は大名系城郭ではなく元々参加していた中城研にあると思っています(特に覚書など)。その直後に、杉山城跡の調査成果がシンクロし、埼玉の『戦国の城』、齋藤&浅野両氏による『戦国大名北条氏』、山梨の『戦国時代の城』とコラボが続いたと思っています。個人的にはこれらの問題提起は、縄張り研究に対する文献史学と歴史考古学の抱く縄張り研究への潜在的不信感の顕れたものとみています。
齋藤さんの論考は後北条氏末期について書かれた新書などは興味深く拝見していますが、こと城郭研究がらみになると我田引水な印象を受けます。大名系城郭論を、「一個の大名で完結する築城術」と80年代以降の研究史では誰もしていない概念規定を立てて批判する辺りなど特に。また、仮に杉山城がその年代として地域性や地域を超えた技術を考えるべきとするならば、文献に扇谷上杉氏が築いたとあるからそこから検討すべしと、職人伝播論では、いつの時代の議論なのか?と先祖返りの思いがします。吉川の著作などは多いに参考にしているのですが、今回の中城研をコテンパンに批判した後のパラダイムとしては弱いと思います。
竹さんとかみ合わないのはこの辺の評価の差と思います。

これに加えて、「仕掛けられた」カタチの中城研の方々が反論なり更なる論点を築きえていないのは多いに不満です。後北条氏の縄張り技術なり武田氏の縄張り技術なりを、例えあやふやと言われようが遺物と合わないと言われようが、縄張り論と遺構論からはこういったモデルでしか評価しえない、と言うだけの蓄積があるにも関わらず論として出せていない。このアンバランスさが不思議なところです。今までこうした批判を受けたことがなかったのかもしれません。
確かに、扇谷上杉氏から徳川氏まで年代が重なっている面もあり難しいのですが、竹さんの何も応えていない!というのはそういった観点から同感です。ただ、ここを「ないから検討できないんだ」とみるか「そこにみえているのに検討できないの?」とみるかの違いのように思います。
以上のように、最初からどちらにも批判的です。後者の方が一応「城郭研究者」なのでなんとかしてよ。とは思いますが。。。いずれにしても15世紀末から16世紀前半もいいけど、逆に天正期の関東をじっくり検証してほしいなと思っています。

ちなみに、遠隔地なので粗雑な予見とは思いますが、個人的には面的にみることで後北条氏が展開した縄張り技術はある程度みえると思っています。角馬出しなどのパーツだけでなく曲輪を展開する「発想」に独自性があると予見しています。そして、検討するならば少なくとも後北条氏がリードした縄張り技術(後北条氏系城郭)は天正期に展開したという前提からスタートして吟味を進める姿勢を採ります。また、おそらく織豊系城郭ほど独自の体系までは昇華しえてないだろうから、領国内の国衆たちや天正年間に激しく対立した諸勢力の縄張り技術との比較検討をしながら吟味すると面白いと思っています。
もし関東に居たならば、それこそ齋藤さんが新書で示した沼尻の合戦前後から関東役を軸に事例の検討をしてみたいと思います。そこから遡るかたちで分析を加えると思います。
そうした予見でいろんな資料をあたっていたらその内、杉山城は天正期に機能していたことがわかる証拠が転がり出てくるかもしれませんし。もしかしたら、後北条氏よりも最終期の南関東の有力国衆たちで共有された縄張り技術だったというオチかもしれませんが、少なくとも後北条氏がリードした関東の縄張り技術の水準がわかることでは変わりないと思います。

回答になっているかはなはだこころもとないですが、やはり懇親会で意見交換できたら私も中城研以外の関東での問題関心がわかって勉強になったと思うと残念です。また、よろしくお願いします。

すみません。あれこれ、コメント見て、ここにたどりつきました。ここで、割り込ませてください。申し訳ありません。
大名系城郭論は、かなりアバウトに書くと、戦国期領域権力が、その領域の拡大にあたって、縄張りがどう変化するかという方法論と思います。武田も後北条も、織豊もまったく別個ではなく、同じように虎口空間(馬出)の発達が見られた動向も、私は当てはまると思います。ただし、隣接する(対峙する)諸勢力との技術の交流には抑制的な考え方だったように思います。
関西の大名系の議論では、織豊系城郭論があげられます。何度も書いているので、またかと言われそうですが、私は三期に分けられると思います。
 Ⅰ期は1980年代で、織豊系城郭論が自立していく段階です。それまでは、鳥羽正雄氏が中世城郭から近世城郭にいつ変るか、が議論されていました。しかし、織田・豊臣段階で、変化が表面化することから、この時期を独立して見るようになりました。村田修三氏の虎口への着目、中井均氏の防禦ライン論などが、平面構造(縄張り)の意義を明確にしました。さらに千田嘉博氏の虎口模式論で、タテ軸が完成し、編年を追求できるところまで到達しました。この頃、他の論点も模索され、たとえば多田暢久氏の松永系、あるいは一部の建築史学による山科本願寺の見直しなども見られました。しかし、織豊系の画期を見る必要があるという怒涛の流れから、他の視点は、かき消されてしまいます。この弊害は、今でも継続しているように思います(織田以前の権力がどんなに防御技術を進展させようが、織田以降から見れば見劣りする、あるい近世につながらず散発的に終わった等の議論)。
 Ⅱ期は1990年代で、織豊系城郭論の批判的継承ないし、批判論の段階です。福島や木島孝之氏は、地域的な展開に着目し、千田氏の編年を権力差で追求できるよう解釈しました。前者は土豪や地域社会の視点、後者は家臣団や幕府による統制などを視野に入れていました。ただ、こうした権力の様相をストレートに構造論に反映しすぎという問題点はありました。また高田徹氏のよる批判は、千田編年軸自体を疑うべきというところまで踏み込んでいます。これは、千田論が織豊といっても畿内を基盤にしていたことに対する反発があったように思います。ただし、尾張・美濃などの中部圏では、桶狭間の永禄から関ヶ原の慶長までの幅広い変化を見ないといけなくなり、千田論に変る編年軸の構築は困難となっています。すでに、この段階で、編年優位に見る視角が批判され、恒久的な城と陣城を別個の捉える議論、山城と平城を別個の編年で見る議論、あるいは、考古学による批判(瓦のコビキ論など)が活発化しました。ただし、これらは、千田批判の範囲の話で、城郭研究全体の議論になりませんでした(少なくとも関西では、織豊系以外の範囲で、平城独自の議論は現状では不可能。山城を歩いた経験から平城に捉えることで、初めて縄張り研究の意義を主張でき得る)。つまり、福島、木島氏も含めてですが、千田論の批判で各々の自論が成立するわけで、相対化には至っておりません。
 Ⅲ期は2000年代で、織豊系城郭における非織豊的要素への着目です。これは、すでに中井均氏の三点セット論や寺院技術の導入などの視点が1990年代より指摘されていましたが、縄張り論では中西裕樹氏の山岳寺院の構造論と安土城の大手を考える視点が注目されます。この議論の基盤は、すでに藤岡英礼氏や蔭山兼治氏が確立していましたが、織豊系まで含みこむこと、技術と技能の融合が大名系城郭論で確立しえている点で重要です。虎口論以降、縄張り屋が避けていた安土城の議論に参入し得た点でも意義があったように思います。ただし、この段階になると、城をやるためには、山岳寺院もやる必要があり、純粋な城郭論は可能か(というより、「純粋な城郭」は、いつからか)という段階になりつつあります。城郭研究そのものの相対化の端緒となり、私達にその覚悟があるのかと問われているように思います。また、Ⅰ期でかき消された視点が再評価されつつある時期でもあったと思います。
 このようなⅠ~Ⅲ期への概観のまとめ方には異論も多いと思います。ただ、既存の織豊系城郭論はよく批判されていますが、「織豊系」の枠組みないし、この時期への着目は、不思議に全面肯定されているというのが現状といえます。このように見ると大名系城郭の賛否が問題なのではなく、あくまでも城の平面構造を見るための「一過程」「方便」といってよいと思います。また、今回のまとめ方の問題ですが、池享氏が1980年代にまとめた戦国大名論の研究史の枠組みが重複すると思います(「戦国大名」の自立から「戦国大名」の相対化の段階まで)。しかし、次が重要だと思うのですが、Ⅰ期があるからⅡ期がある、Ⅱ期があるからⅢ期があると私は思うのです。Ⅰ期の段階において、目ざとい文献史学の方からは、すでに大名領国や織豊権力の相対化は進んでいるのに城郭研究では、まだその段階か?と批判をよく受けていました(これはよく覚えています)。しかし、一足飛びにⅢ期へは行かないのです。このタイムラグの耐えないと(あるいは理解しないと)城郭研究の独自性は絶対に語れないと思います。また、お気づきのように、Ⅰ~Ⅲ期が明確に研究者の世代差(世代交代)を反映しており、それぞれの基盤や問題意識を大事にして、役割分担を果たしています。今、関東の後北条氏の議論は、関西でいうⅠ~Ⅲ期を同時並行で、なおかつ、同一ないし同世代の研究者で進めているため(関東のⅢ期は戦争論になると思います)、毎度到達点や論点がぼけてしまう訳です(こんな見方もある、こんな見方もあるの提示で終わる、一種のブームの展開?)。後北条に徹底して拘り、適合しない事例はノイズとして排除する、すなわちⅠ期の展開がいつの時期にあったのか、それとも本当にそういう時期があったのか、私は知りたいです(その意味でも80年代関東の最大の成果ともいえべき『図説中世城郭事典』関東版の総括は不可欠です)。 
 もっとも、関西でも、縄張り論と考古学の重複研究者になると、縄張りではAだが、考古学ではBと同一研究者でぶれる場合があります。ただ、それを積極的に第三者に明示することで、論争の流れを開陳してきたと思います(セミナーの中西報告など)。本当の城郭研究の自立、あるいは民間学の標榜は、こうした潮流を形成し、第三者に開陳していくことだと思います。関東における論争の流れは、若い研究者に託されているかもしれません。
ちなみに関西ではⅣ期があるとすれば、横堀や櫓台の在地系の織豊系への接続、あるいは大名間の融合の視点(織田と浅井、朝倉、本願寺との差異は困難、両者の同時進行的展開)などになるかと思います。
 最後に、他の城郭研究者、ないし他分野と議論するとき、なかなか自らの成果を共有化させてもらえず、疎外感や鬱屈感も覚えるし、正直ぶれることもあると思います。あるいは他者からの批判を正面から受け止められない自分があると思います。しかし、動揺するのであれば、徹底して動揺する、そんな自分を開示することで、克服する処方箋を見つめていく必要があると思います。丹波の織豊系城郭のことをやった時、考古学や文献、地域史研究者、同じ城郭研究者も割と否定的でした。しかし、まずは彼らを同じ土俵にたたせる為には、同一次元の客観的史料たる文献史料の蒐集が不可欠でした。たまたま同じ民間研究者と明智光秀文書や内藤宗勝文書の蒐集する機会があり、自らの年代観をかなり補強させていただきました。その際にいたってようやく、他分野および他者も同じ土俵にたっていただけるようになったと思います。縄張り論だけで、同じ土俵にあがってくれるほど、地域史は甘くない。無理矢理でも相手を同じ土俵に立たせるためには、相手の史料にまで入っていく必要があります。これは、縄張りの自己否定と言われそうですが、海千山千の考古学や文献史学と対峙する際、本当に自己が確立しえているか問われると思います(文献の補強は、木島孝之氏や高田徹氏も年代観を探る、あるいは批判する根本史料になっています)。むしろ、市町村史が出て、新出文献史料が開示され、自らの縄張りの年代観を他者に批判、変更を強いられる方が私は絶対にツライです。新出の明智文書が出て、批判されるよりは、自分が何が何でも調べたいです! よく関東では天正18年以降の史料が不明といわれ、自治体史編纂の進捗が話題になり、これが年代観が進まない要因とされています。でも、これでは他力本願になりませんか。むしろ、地域史に拘り、自ら調べて縄張りの補強にすることができる、よい機会(いわゆる切り取り放題)のように思います。縄張り論は、結局のところ、文献や考古学との学際的研究は否定できないのです(あるのは研究者の「職能」や「専攻」だけです)。むしろ、その点を自覚することから始まるように思います。
 もう一つ、私は20歳代の時、丹波で地籍図を集め、城下町論をやろうとして、大いなる徒労を繰り返してきました。焦っていた私は一度丹波を止めて、中部の武田氏の城と城下町をやろうとしたことがあります。実は、これは、もっと徒労に終わりました。でも、最近はあのときの徒労が、90年代から始めた寺内町の研究に役立っています。けっこう無駄足は役立つですね。関東でも、城下町論などは、見直しの時期に来ていますし、都市をやることで、城の年代観や戦争論の補強もできると思います。「上の世代」はわかってくれないし、無駄に終わるかもしれませんが、逆に「上の世代」を無理矢理でも同じ土俵に立たせることができる絶好の機会とも思います。目先の「成果」をあげなければならない時期でもあり、個人では無理かも知れませんが、ぜひ長い視点で見据えて置いてください。最後はオッサンの戯言でした。失礼しました。

(つづき) このようなⅠ~Ⅲ期への概観のまとめ方には異論も多いと思います。ただ、既存の織豊系城郭論はよく批判されていますが、「織豊系」の枠組みないし、この時期への着目は、不思議に全面肯定されているというのが現状といえます。このように見ると大名系城郭の賛否が問題なのではなく、あくまでも城の平面構造を見るための「一過程」「方便」といってよいと思います。また、今回のまとめ方の問題ですが、池享氏が1980年代にまとめた戦国大名論の研究史の枠組みが重複すると思います(「戦国大名」の自立から「戦国大名」の相対化の段階まで)。しかし、次が重要だと思うのですが、Ⅰ期があるからⅡ期がある、Ⅱ期があるからⅢ期があると私は思うのです。Ⅰ期の段階において、目ざとい文献史学の方からは、すでに大名領国や織豊権力の相対化は進んでいるのに城郭研究では、まだその段階か?と批判をよく受けていました(これはよく覚えています)。しかし、一足飛びにⅢ期へは行かないのです。このタイムラグの耐えないと(あるいは理解しないと)城郭研究の独自性は絶対に語れないと思います。また、お気づきのように、Ⅰ~Ⅲ期が明確に研究者の世代差(世代交代)を反映しており、それぞれの基盤や問題意識を大事にして、役割分担を果たしています。今、関東の後北条氏の議論は、関西でいうⅠ~Ⅲ期を同時並行で、なおかつ、同一ないし同世代の研究者で進めているため(関東のⅢ期は戦争論になると思います)、毎度到達点や論点がぼけてしまう訳です(こんな見方もある、こんな見方もあるの提示で終わる、一種のブームの展開?)。後北条に徹底して拘り、適合しない事例はノイズとして排除する、すなわちⅠ期の展開がいつの時期にあったのか、それとも本当にそういう時期があったのか、私は知りたいです(その意味でも80年代関東の最大の成果ともいえべき『図説中世城郭事典』関東版の総括は不可欠です)。 
 もっとも、関西でも、縄張り論と考古学の重複研究者になると、縄張りではAだが、考古学ではBと同一研究者でぶれる場合があります。ただ、それを積極的に第三者に明示することで、論争の流れを開陳してきたと思います(セミナーの中西報告など)。本当の城郭研究の自立、あるいは民間学の標榜は、こうした潮流を形成し、第三者に開陳していくことだと思います。関東における論争の流れは、若い研究者に託されているかもしれません。
ちなみに関西ではⅣ期があるとすれば、横堀や櫓台の在地系の織豊系への接続、あるいは大名間の融合の視点(織田と浅井、朝倉、本願寺との差異は困難、両者の同時進行的展開)などになるかと思います。
 最後に、他の城郭研究者、ないし他分野と議論するとき、なかなか自らの成果を共有化させてもらえず、疎外感や鬱屈感も覚えるし、正直ぶれることもあると思います。あるいは他者からの批判を正面から受け止められない自分があると思います。しかし、動揺するのであれば、徹底して動揺する、そんな自分を開示することで、克服する処方箋を見つめていく必要があると思います。丹波の織豊系城郭のことをやった時、考古学や文献、地域史研究者、同じ城郭研究者も割と否定的でした。しかし、まずは彼らを同じ土俵にたたせる為には、同一次元の客観的史料たる文献史料の蒐集が不可欠でした。たまたま同じ民間研究者と明智光秀文書や内藤宗勝文書の蒐集する機会があり、自らの年代観をかなり補強させていただきました。その際にいたってようやく、他分野および他者も同じ土俵にたっていただけるようになったと思います。縄張り論だけで、同じ土俵にあがってくれるほど、地域史は甘くない。無理矢理でも相手を同じ土俵に立たせるためには、相手の史料にまで入っていく必要があります。これは、縄張りの自己否定と言われそうですが、海千山千の考古学や文献史学と対峙する際、本当に自己が確立しえているか問われると思います(文献の補強は、木島孝之氏や高田徹氏も年代観を探る、あるいは批判する根本史料になっています)。むしろ、市町村史が出て、新出文献史料が開示され、自らの縄張りの年代観を他者に批判、変更を強いられる方が私は絶対にツライです。新出の明智文書が出て、批判されるよりは、自分が何が何でも調べたいです! よく関東では天正18年以降の史料が不明といわれ、自治体史編纂の進捗が話題になり、これが年代観が進まない要因とされています。でも、これでは他力本願になりませんか。むしろ、地域史に拘り、自ら調べて縄張りの補強にすることができる、よい機会(いわゆる切り取り放題)のように思います。縄張り論は、結局のところ、文献や考古学との学際的研究は否定できないのです(あるのは研究者の「職能」や「専攻」だけです)。むしろ、その点を自覚することから始まるように思います。
 もう一つ、私は20歳代の時、丹波で地籍図を集め、城下町論をやろうとして、大いなる徒労を繰り返してきました。焦っていた私は一度丹波を止めて、中部の武田氏の城と城下町をやろうとしたことがあります。実は、これは、もっと徒労に終わりました。でも、最近はあのときの徒労が、90年代から始めた寺内町の研究に役立っています。けっこう無駄足は役立ちますね。関東でも、城下町論などは、見直しの時期に来ていますし、都市をやることで、城の年代観や戦争論の補強もできると思います。「上の世代」はわかってくれないし、無駄に終わるかもしれませんが、逆に「上の世代」を無理矢理でも同じ土俵に立たせることができる絶好の機会とも思います。目先の「成果」をあげなければならない時期でもあり、個人では無理かも知れませんが、ぜひ長い視点で見据えて置いてください。最後はオッサンの戯言でした。失礼しました。

わ、荻野直正さんからだ。ありがとうございます!
はじめて城郭研究している人のウェブログらしくなったです。

「実戦に弱い」らしく即応するとあやふやなことを言いそうなので、竹さんのコメントに続いて、荻野さんからの関西の研究動向についていただいたコメントもしっかり回答しないといけませんので、しばしご猶予ください。
ありがとうございます。

このコメントのやり取り、まるでシンポジウムのようですね。当日より論点が浮かび上がってきているような…

自分から質問しておいてナンですが、これはちょっと議論が盛り上がりすぎて、ストップが効かなくなりそうですね…すみません。nakanishiさんには、お忙しい中、すでに十分詳しくお答え頂いたので、より詳細なコメントは、本当にお時間ある時に気が向いたらで結構ですので…。本当に、いつもご丁寧にお答え頂いて、ありがとうございます。

荻野さんのコメントにもちょっと反応させて頂くと、やっぱり今必要なのは、研究史整理なんじゃないかなぁと個人的には思っています。これだけ膨大な研究があるのに、研究史整理の論文ってほとんどないと思います。まぁそれで問題が解決される訳ではないでしょうけど…。『室町・戦国期研究を読みなおす』にあやかって、『城郭研究を読みなおす』なんてのが必要なのかもしれません(意外と売れるかも…)。

そういう思いで、次号の『城郭史研究』という雑誌に、関東において縄張編年はどのようにされてきたのか、という研究史整理論文を書きました。だいぶ大雑把なもので、おそらくブーイングをくらうこと必至ですが、覚悟のうえで書きました。そこで『図説中世城郭事典』も取り上げています。発刊されましたら、抜刷を謹呈させて頂きます。

研究史整理を楽しみにしています。今まで関東の研究史は、松岡進氏が詳細にやっておられましたが、複数の方が研究史整理をやるようになると論点が明確になると思います。図説中世城郭事典は大学生の時に出版されましたが、なかでも関東の出来はずば抜けていました。事典完結時に出た『読売新聞』の村田修三氏の批判も、関西との年代観のズレが話題になっていました。また、西股さんは『戦国時代の城』の論文で、編年研究を第一義としないとする一方で、領主制と城の議論が過去の皇国史観、武士道精神発揚の場と補完関係になったことを批判されています。しかし「図説」の菅谷城跡などを読むと、遺構から年代を読み取ることで、初めて鎌倉武士団の居館という伝承に対峙できるということを実感できます。つまり、編年、あるいは年代観を持つ事で、さまざまな方法論が可能になった様子を見せ付けてくれます。ただ、縄張り屋さんは、スタンダードを求めたがらないこと、さらに図を書く立場の微妙なニュアンス(やはり関東は類型化は、私も難しいと思います)も、ぜひ習得し、武器にしてほしいと思います。

お邪魔させてください。
シンポ当日は、担当企画展の最終日だったので、参上できず残念でした。このブログのおかげで論点がとても理解でき、感謝です。すでにnakanishiさんには数度にわたり酷評をいただいておりますし、自らの責任を感じないといけないと実感しています。
ブログを拝見していて、感じたことをひとつだけ。縄張りを見て、縄張図をかく。その作業の延長に個別戦国大名の姿は描けない。そのことを論じた総論が覚書で、北条各論が中世東国3の論文でした。縄張り論の方法論に対する批判です。ただし、作り手=大名家のスタンスとしては独自の城作りの指向性はあったでしょう。その方向性は近世城郭であり、織豊系城郭で見えてくるということなのでしょう。しかし、その指向性の推定と縄張り論の方法論は別次元の問題です。縄張り論の方法論で言いえることはどこまでか。方法論への警鐘が覚書だったのですが。nakanishiさんの参加コメントや九州の状況は自説を裏付けてくれ、心強く思った次第です。
『城郭研究を読みなおす』、よいですね。荻野さん、ビアガーデンの宿題、これでいかが?

竹さんとのやりとりから、荻野さんとBさんまで来ていただきありがたいことです。
これと平行しながら、これまでの議論についてこれまでの研究動向を読み返していました。まだ途中ですけど10年前の活発な時期を振り返っています。

私は九州からはじめたのでかなり偏った縄張り論の方法論ですけど、九州でやっていて縄張り調査から城郭跡を資料として読み解く作業を繰り返している経験からは、城郭跡は築城主体の性格を反映するものと思っています。
文献史料でおおよその当たりをつけてから実際に遺構を読み込み、特定の城郭跡、あるいは複数の城郭群を分布論的に比較検討する作業を通して仮説を検証する。その作業の結果、Bさんが提唱されていた地域性を読み解くこともありますが、その先には地域性を超えた大名権力や有力国衆の縄張り技術は存在するか?を常に意識しています。バリエーションは多彩でもあるけどやはり抜きん出た事例もあるわけで、そうしたものを創出した指向性を読み解く事を意識しながら調査しています。

幸か不幸か、大友氏や竜造寺氏、毛利氏などはそうした特徴ある縄張り技術が少なくて面白みに欠けます。その中で、九州では秋月氏や筑紫氏に既存の地域的な縄張り技術を消化して独自の体系を組み立てた上で新たな征服地の拠点に持ち出していることを確認しています。これは「〜系城郭」の萌芽的段階まで来た事例と思っています。九州での検証では、先発の大名勢力よりも後発組の有力国衆が到達した萌芽的段階を抜きには語れません。こうした事例は各地にあると思っています。
但し、その次の段階にあたる「ある程度完成した勢力」を検証する事例がないので面白みに欠けるわけで、関東・関西がうらやましく思えてきます。

そうした検証の中から、大名系城郭については現時点では地域的な縄張り技術を消化して独自の体系をつくり領国内に扶植する営みと考えています。
西日本の事例から類推するに、大友氏や毛利氏など多くの勢力は勢力を広げてもその地域の築城技術を取り立てて使用しています。ある程度独自の体系をつくる段階までいきついたのはほんのひとにぎりのようです(Bさんはないと考えられているのかもしれません)。その数少ない事例が天正18年まで勢力を広げた後北条氏だと思っています(勝手な予見では、武田氏は微妙かも)その後を踏襲した徳川氏との兼ね合いという条件保留はあるものの、後北条氏はその中でも抜けた存在とみています。そして、後北条氏よりも、それ以上に体系立てて他を駆逐し抜きん出た存在としてひとり勝ちしたのが織豊政権の築城技術と思っています。
稚拙な書き方をすると、
織豊系城郭/>>>後北条氏(武田氏?)>>後発組の有力国衆>>一般的な大名・地域の縄張り技術 でしょうか。

但し、関東で興味深いのは徳川氏の動向。すんなり織豊系や近世城郭を指向していたとは限らない、東海の大大名時代から関東一円支配時代に(先行する?)技術を吸収した亜流の織豊系大名の印象を持っています。
もしかしたら、地域の縄張り技術→その中で体系立てた武田氏系や後北条氏系→さらに消化した亜流の織豊系大名徳川氏という図式を仮定して検証する必要があるかもしれません。そうだとしても後北条氏の体系をどこまで見出せるかは興味あるテーマと思っています。その意味では関東は難しいけど検証しがいのある地域と思っています。

最後に年代観について。
中城研などの縄張り論の限界を問う場合に、後北条氏の主要な城は多くが扇谷上杉氏が築いていたから関与はわからないと文献から言うことができるとしても、城郭研究の立場で考えるならば遺構論から全ての城が徳川氏によって最終的に改修された可能性がある、本当に後北条氏段階まで遡れるのか?と問題提起するのがセオリーと思います。
縄張り論が万能ではないのはもちろんですが、東西を問わず、文献史料や遺物で年代を古く遡ることから縄張り論の限界を主張する論調には乗らないよう気をつけています。関西の事例も多くは天正期の織田氏進出段階の後発組有力国衆との衝突過程の産物じゃないかと疑っています。また、発掘は限られた「専門家」により遺跡を破壊し再検証ができない調査ですので年代評価は鵜呑みにしないよう慎重に考えるようにしています。縄張り調査の場合は八上城などでも批判する側も現地を再検証することができます。私もたまに外側の堀切を書き漏らしを指摘されたりします。しかし再検証できないものは学問として議論は難しくあります。
ですから、現存遺構からわかることから論じる姿勢が遺構論の限界であるけど武器です。この有効性だけは放棄してはならないと思っています。

うーん、やはりまとまらないですね。もっと真摯に勉強しないと(..ゞアセ。
ともかく、先輩諸氏から有益な論点をいただいたのでしっかり整理したいと思います。

>Bさん
今回のセミナーにはBさんは来られないだろうと思っていましたが、来られていたらどのような論点から発砲されるのか興味あるところでした。
セミナーではなく拙ウェブログ上でお会いできるとは思いませんでした。
双方向から考えないと行けませんので、関東に行く機会があれば、関東の城郭研究の流れと各自が指向するところのさまざまなアプローチの違いを聴いてみたいと思います。

>竹さん
研究史の整理『城郭研究を読みなおす』は楽しみにしています。よろしくお願いします。

シンポジウムの当事者として、討論面白く拝読しました。
当日、こういう調子でシビアな議論ができるのがシンポの理想かなあとも思うけど、PCの画面上だからできるということかもしれないですね。
シンポの仕掛人としての自分の反省は、やれるだけはやったけど、なあなあに流れた、という感じです。中西報告の質疑は、会場からまったく発言がなくてつらかった。nakanishi氏は、期待してみたが、と書いていたけど、抽象度の高い報告で、論点を具体的に出すので精一杯でした。引っ張りすぎという批判もあるでしょう。しかし、僕はシンポの討論は報告の理解に立脚すべきだというのを信条にしているので、ああいう形にならざるを得なかったのです。
石田報告は、広長氏に全部発言してもらわなくてもよかったかもしれないが、僕たちの議論の基盤を確かめる意味で必要だったと思います。最後に僕が「この違いは大名系の間の差なのか、時代相の差なのか」と質問したのもそういう意味です。
西股報告は、大名系城郭の形成は特定の軍事史的段階に対応するのではないかという見とおしを述べたもので、もしそうとすれば、たとえば杉山城は上杉というのは難しいだろう、ともっていくのが裏のねらいだったと理解しています。今回の討論で、この条件の問題にまったく踏み込めなかったのは一番の心残りです。西股氏が言う兵種別編成と大名系城郭はどう結びつくのか、その段階でないと固有のドクトリンを持った縄張は普及しないのか、論理的見とおしとしても詰めるべき余地はたくさんあり、いろいろな意見をうかがいたいところでした。最初に提起したように、大名系城郭の有無を含めて問い直すという趣旨なので、ただ大名以外の例もあるというのではなく、類似のパターンがあちこちに見られる背景に何があるのかを問題として示したかったのです。「大名系城郭」は、ありうべきその解答の一つにすぎません。村田さんの「この馬出分布図に全部出ています」という発言に、いささか虚をつかれて、持っていかれてしまいましたね…。なお、文献史学の成果を誤読してないかという趣旨の質問がありましたが、それはないと考えます。
さて、このブログ(というんですか)を拝見して、印象的だったのは、年代観を示して大名系城郭を正面から論じるべきだった、という意見です。僕は千田氏の本の書評で、千田編年は、編年というより発展序列だ、と書きましたが、木島氏の論文はその意味での継承だし、編年基準としての性格は、縄張研究のうちわに限っても、高田論文から後ではもう手放しの評価はできないと考えています(実際、このごろあまり尊重されているようには見えない)。荻野氏が書いているように、これに相当するような研究史上の段階をなす仕事が、関東ではあまり活字になっていなくて、そこに問題があるのですが、関東でももちろん論理的な序列は作れます。
杉山城についての最初の専論を書いた伊禮氏は、同じパターンの繰り返しに衰退を感じる、としています。そのパターンの主たる構成要素である横矢の張り出しは、文献で見ても16世紀の早い時期には出現している可能性が大です。しかし、この時期の動線は直進しています。「比企型虎口」は正面を強くして側面から導入する工夫で、だから動線が曲がるのですが、西日本では早くからあるようです(山上論文)。千田氏の織豊系の編年第3段階と質的に同じもので、論理的には直進する段階の後のはずです。その連続的な繰り返しが杉山城にほかなりません。だから、そこにマニエリスム的な衰退を読み取る余地は確かにあります。しかも、その同じパーツが天正10年代の唐沢山城の尾根続き部分や金山城の西城で確認できますが、その内側は曲輪である以上に火点の要素を強めています。同じ頃、対豊臣の最前線では、巨大な障子堀や石塁で遮断し、内側は曲輪の構成が解体して火点の集積と化したような城が築かれました。つまり、導入系の衰退に続いて、新たな遮断系が形成されているのです。この展開の、少なくとも終盤の担い手は北条氏と考えることにもなるでしょう。
しかし、これはひとつの論理的な展開序列でしかありません。文献で実証できそうなのは最後の段階くらいで、その時期でも埼玉の掘りこみ式の小さな枡形を持った山城とか、位置づけに苦しむ例と並行しそうです。僕はその多様性を率直に認めるべきだと思います。また、最後の段階は、同じ大名系の系統的展開というより、軍事的な段階差・時代相の差ととらえる可能性もあります。つまり、「系」ではなくて断絶があるという可能性です。
B氏の指摘のように、やはり縄張研究に何ができるのかを虚心に問う必要があります。考古や文献史学に対して議論できる根拠が、現代の視点から見た論理的再構成というのは、編年論としてはいうまでもなく脆弱です。モデルを提示するねらいが、考古や文献史学とクロスして討論をするということなら、討論になりません。縄張研究のうちわでは議論が盛りあがるかもしれないし、そういう議論も意味があるとも思うけど、セミナーに来ている考古や文献の人は、内向きの議論に失望するだけではないでしょうか。齋藤氏が大名系城郭論批判を書いたとき、織豊系だけは別とした意図はわからないけれど、千田編年を評価しているからではなくて、中井氏たちの3点セット論を尊重したからなのではないかと思います。いったい縄張研究の編年論は、いかにして可能か。縄張研究では何ができるのか。
ところで、nakanishi氏は関東とか中城研とかが同じ傾向で揃っているととっているようですが、そう見えるのは多分、荻野氏が書いているとおり、同じ人がずっとやっていて、世代交代がないせいです。たとえば僕は、極論すればこの20年、同じ穴を掘りつづけています。それで、方法論とかいうと決まって発表させられるけど、自分と同じ方法の人はいない。主流の方法は何だろう? 発表できない方法なのかな(苦笑)。こういう状況に風穴を開けるのは、若い世代しかないですよ。nakanishi氏や、竹氏に、期待するところ大です。それでは!

松さん、ご返事遅れて申し訳ありませんでした。
長文コメント、ありがとうございます。コメント欄でかなり充実していますので、コピペして読み返してみます。
とりいそぎ。

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