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2009年4月29日 (水)

神楽尾城をみてきました。

29日は、さらに午後から分かれてM&Mさんと共に津山市上田邑の神楽尾城跡をみてきました。
美作の国府や総社があったとされる津山市街西部の背後、神楽尾公園からさらにもうひとつ奥の山にお城があります。
車を神楽尾公園に停めるとさらにそこからしばらく里道を歩くことになります。

神楽尾城は、主郭から南端のピークまで曲輪を並べる医王山城と異なり、主郭部とそれに連なる曲輪群が集まる主要部と「泥田堀」とする谷を挟んで対岸に東側にもうひとつの曲輪群(別郭)が並列しています。
もちろん主要部が規模では抜きん出ていますが、複数の山地を駐屯軍が占めるような広域拠点的な雰囲気を持ちます。国衆規模の居城とは思えない規模でした。

ここは医王山城とは異なり、織豊系城郭の特徴はまったくありませんでした。既存の図の虎口とされるものはダメでした。畝状空堀群や土塁を配した典型的な戦国期城郭です。
たぶんに毛利氏段階の拠点城郭として機能したのでしょう。美作に進出した駐屯軍が入り、周囲の毛利方勢力が籠城したものでしょう。
文献では大籠城戦をした医王山城と異なり、こちらはあっさりと落城したとありますが、遺構の機能としてはこちらの方が広域作戦の軍事拠点といった印象を受けます。

全体として公園整備されておりみやすい城跡です。
山頂の周りにある曲輪は土塁が縁辺部を固めるものがいくつかありました。これは毛利氏などの戦国期の築城主体がたどりついた曲輪防禦のあり方を示しています。どこかに開口部をつけて虎口としない辺りがやはり戦国期の縄張りです。
先端の畝状空堀群は比較的大きなものでした。

泥田堀は土橋状のもので塞ぐかたちになっていました。水がわき出て湿地となっていることは間違いないのですが、泥田堀というと眉唾な雰囲気を感じます。縄張りとして堀が人工的に造作したものとはみえないからです。単にふたつの城域の間にある谷部と言えるのではないか。
土橋状の突堤ももしかしたら後世の水利遺構かもしれません。近世後期には高い谷あいなどに突堤を築いてため池にする事例がいくつもあります。
こうした評価は類例をあたりもう少し慎重な方がよいです。

神楽尾城は毛利氏が美作中央部から東部へ進出するにあたって拠点としたであろう城郭と思われます。
吉井川対岸にある宇喜多方とされる荒神山城(これは現地に行ってないので評価は保留)と向かい合うかたちで対峙したのでしょう。
戦国期には津山城はまだなく、院庄辺りが守護所などがあったとされます(実際はどうか未確定だそうですが)。
現在の津山市街地がある吉井川・宮川・加茂川の合流域を挟んで毛利方と宇喜多方が対峙した、真島郡の拠点、高田城から岩屋城、鏡野盆地を通って進出する毛利方の拠点が神楽尾城だったと思われます。
神楽尾城は、これから加茂町の髙山城を経て智頭郡から因幡方面、或いは作東から播磨方面へ展開するための重要な拠点ではなかったのかな、という印象です。

遺構からみるとあっさり落城したと言う割には、けっこう戦国期の最終段階まで毛利方として機能したのではないの?と思う節もあります、その辺は高山城、医王山城と岩屋城の評価と合わせて広域的にみる必要があるでしょう。もうちょっと下調べが必要ですね。

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