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2009年1月 9日 (金)

城郭研究と、城館の考古学

1月の第1週は、県立図書館へ通って、日本中近世の考古学について研究史や状況を文献でリサーチ。

縄張り調査などをもとに城郭研究をしていると、城館跡の埋蔵文化財を扱われる考古学の方々、いわゆる「歴史考古学」や「中世考古学」の業界との議論や関わり方について、考えさせられることがしばしばあります。
そういったこともあり、城館の考古学を含む中世の考古学について、前川要氏の『都市考古学の研究』から手がかりに文献をあさって研究史をみてみたら、元々の先史時代の考古学に対して、古代より新しい中世の考古学自体が70年代以降に急速に発達した分野とのこと。
となると、70年代後半から80年代にかけて、方法論が整備され、全国各地で城郭研究者が調査を行い、そして全国城郭研究者セミナーで議論してきた城郭研究(縄張り研究)の歩みとあんまり変わらない印象を受けました。

これまで、城館跡について「掘らないとわからない」とか『縄張り図は客観的じゃない」とか何だ言われてきましたけど、城館の考古学を含む歴史考古学だって、こちらとほぼ同じ歩みをみせてきた70年代以降の新領域。結局、大学や教委に属さない「掘らない(法律的に掘れない)」フリーランスで在野で居続けた城郭研究者に対して、中世考古学の研究者は70年代後半からの開発行為の増加や80年代後半の財政的に余裕のあった自治体の事業で調査事例が増え、大学や教委に属し国庫補助などによる発掘や整備事業の担当者として活躍の場を得たことで大きな違いが生まれたようです。 

城館跡の限られた面の調査を公共事業として中世考古学研究者が行っている間、縄張り屋はずーっと手弁当で、あちらの山城、こちらの丘城を調査して全体像を把握する縄張り図を作成しつづけてきた。そうした蓄積があるのに、城郭研究者は「科学的でない」「肩書きがない」、そして出張させてもらえない(笑)ということで悉皆調査や城郭の整備事業などの「公共事業」ではオブザーバー的立場に甘んじ、結局、城郭研究者のほとんどは「土・日の研究者」のままで、城の発掘・整備で事例を重ねた方に偏って「お城の専門家」となっているのが現状かと、感慨深いものがありました。

 
何だか、今まで文化財行政には謙虚に応えようとしてきたんですけど、結局、城郭研究者と城館の考古学など中世考古学の違いは、発掘と整備という自治体=「公共事業」にコミットできたかどうかの差だったのかなという気がしてきました(^^ゞ。 

とあれ、研究史的には、歴史考古学の分野もようやく最初の世代が定年なり地位を得てきたくらいなのですね。いろいろ過去の書籍をみてみると、70年代以降の代表的な成果が出てきたのが80年代末。ちょうど「学際的」と言われ、中世遺跡の書籍やシンポが開かれ、ここに城郭研究者も招かれるようになった、そんな時代。その辺から、文献史学研究者がイニシアティブを取り中世考古学研究者と調査事例や資金確保をコラボするかたちで、書籍や報告書、各種シンポ記録も出てきました。その辺で立ち回りが下手だったのか>城郭研究者。

ということで、あらためてその辺から今までの間の中・近世城館の代表的な成果について集めてみたいと思いましたです。

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コメント

初めまして。
縄張論は考古学の方からの批判に敏感のようですが、僕はあまりそう思わないのですけどね。ある縄張研究者の方は、縄張論は考古学の一部、と言ってますし、多くの中世考古学の人間が、縄張図も書きつつ発掘もやってますよね。縄張研究の意義も十分理解されている方はむしろ多いと思います。意味が無いなどは誰も言ってないはずです。自治体史編纂に縄張図が掲載されることも多いですし。

批判されるのは、例えば根拠が無い、というのも、実際発掘したら全然違う縄張が出てきたとか、そういう事例があったからでしょう。あとは年代比定ですね。杉山城問題などにより、千田さんなどに代表される縄張編年(単純→複雑)に疑問符が付きましたし、最近では個別城館の縄張をいくら分析しても年代比定は不可能かつ不必要であると縄張論の方が言ってます。その辺は遺物、あるいは文献から年代確定をまず重視する考古学・文献史学との違いがある訳で、そういう時に根拠を示せ、と意味で、根拠がない、と言っているんだろうと思います。
縄張論は縄張論の意義があるし、認められていると思うので、そんなに問題なのかなぁと…公的には学問として成り立っている文献史学や考古学の方が恵まれているのは否定しませんが。感想に過ぎませんが失礼しました。いつも楽しく拝見させて頂いております。

竹さん、どうもありがとうございます(^^ゞ
縄張り研究の「認知度」は地域差がけっこうあります。
関西ではかなり市民権が得られていますが、関東では民間学として広く受け入れられているものの、時折、杉山城問題などでの戦国大名系城館批判(かなり無茶な批判でしたけど)のように、本音を出すときもありますね。

まあ、杉山城問題は単に、縄張り論では後北条氏の最新技術のお城から、古い遺物が出たということなんですけど、相対編年から考えると、遺物の方はどうなの?とも言えます。お互いさまですけど。

それぞれの分野の研究史を調べてみると基礎は違うんですけど、中世関係は案外似たような時期に似たようなスパンで発達をしてきたんだなあと実感した次第です。それにしては、殿上人は千田さんくらいですね。。。(ノ_<)
てな具合に、一般的には市民権を得ていますけど、学問の世界では市民権はまだまだです。この辺は、縄張り屋さんが方法論を鍛える際に、考古学や歴史学の手法との交流ができていないせいでもあるんですけど。自戒をこめて。。。

これからもよろしくおねがいします。

お返事ありがとうございます。なるほど、地域差はあるでしょうね。千葉は、縄張と考古学両方やられている方が多いですね。

実は僕は戦国大名系城館論批判に肯定的な立場の人間でして…。杉山城は、一応文献も出まして、考古学と大体年代が一致しましたし、考古学もただ遺物が出ただけじゃなくて、遺構面が1面のみで造り替えの形跡がなくそこから遺物がキレイにまとまって出土していることを考えると、どうなのかなぁという感じを持ってます。北条氏に引き付ける理由は何なのかなぁと。まぁあまり深入りしませんが(笑)。難しいですね…

いろいろお考えを聞かせてくださり、ありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。


そうですね。あまり深入りしませんが、関東の戦国期城郭の場合は、小田原戦に至るまでの豊臣政権と北条氏側の緊迫した時期に大規模な改修がなかったのか?北条氏の城は上杉氏段階で築城されていたものを継承したのだ。というのなら、50年近く「関東だけ」築城技術が停滞していたことになります。

全国的にみて、天正後半から文禄・慶長期の諸勢力の築城・改修へ投下する土木量は半端じゃないという「感覚」を踏まえると、逆に、天正後半に小田原城だけでなくて北条領全体で大幅な大改修があってもいいんじゃない?という気がしてます(徳川入部後でもいいんですけど)。
その辺の吟味する視点がないのが気掛かりです。

まあ、そんな「見立て」で、機会があれば関東の戦国期城郭を勉強してみたいと思っています。

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