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2007年10月22日 (月)

豊前佐田城、再発見。

071022_11050001 秋は大友氏関連の城郭をおさえるために現地を回っています。
先々週の栂牟礼城に続いて、月曜日は豊前佐田城をみてきました。

安心院インターから近くの佐田集落から登山道ができていて楽に登れました。
戦国期豊前の有力国衆佐田氏の居城とされています。佐田氏は佐田家文書が良好に残されているので、文献史料から佐田城は佐田氏の城となっています。
それにしては県の悉皆調査報告書の図は技巧的だなと思っていたので今回の踏査と相成りました。

で、これは大堀切をすぎて最初にでてくる主要部の南西側にある石垣。
この石垣をひとめみて、即、結論。
                   ↓
佐田城主要部の遺構は、文禄〜慶長年間の黒田氏によるもの、或いはそれ同等の豊臣系大名による改修を受けたものです。

悩むまでもありませんでした。その後踏査しましたが、かなりよくできた織豊系城郭でした。
南西部の石垣は馬蹄状の石塁ラインでしたし、崩れていましたが栗石もあり、北東隅にも石垣ラインと石塁で形成された塁線がありました。
また、主郭は南側の両隅は空堀で直角に厳しい切岸になっており、堀切を隔てて北側に馬出状の曲輪がありそこから通路を通って北東隅に石垣で固めた虎口がありました。北側の石垣塁線上には横矢掛りもありましたし。。。
そして、特徴的な横堀と竪堀の組合せも横の遮断と堀底道に利用した技巧的な遮断線を形成しており、何より直線的かつ直角に折れる横堀は在地系ではありえません。というくらい直線的に仕上げられていました。

てなわけで、在地系城郭に間違いようのない織豊系城郭でした。というかどうみたら在地系城郭にみえるのか?と言いたくなるようなよくできた織豊系城郭でした。まあ防塁ラインの中身の曲輪は削平があまいため見極めが難しい面もありますけれども。。。

佐田城のこれまでの解釈は、文献史料に引っ張られる典型例と言えます。とは言え、遺構の指摘だけでは文献史料にひきづられた解釈へ異論をしても相手にされない場合が多いので、要、再調査リストに加えました(笑)
縄張り図をつくり文献史料を再読してみようと思います。別府から遠征かな?

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