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2007年6月13日 (水)

城郭を語らずして藩は語れない

近世史研究の政治史などの悩みとして、諸藩の中で自分たちのテーマとする藩の特徴を見出しにくいということがあります。
政治史的には、転封の多寡はあるものの歴代藩主の動向はだいたい将軍家の動向と類似してきます。
1〜3代が草創期の名君、8代くらいが最初の養子で復興の名君、そして10代前後が養子が続き藩政改革期。下手すると領内に一揆が起こされる。そして行き詰まった藩政を立て直そうとする11代くらいが出て幕末へ向うか、養子ばかり乱立してわけわからないまま幕末を迎えるかのパターンです。文化面でも後半期に藩校ができて儒学者のスクールか学者、あるいは芸術家が出てくると言うのがお決まりです。

わたしの扱っている岡藩も歴代藩主のパターンではだいたい上記の傾向を示します。また後期には田能村竹田らの文化人が多数輩出されていますが、多分、古文書からでは岡藩中川氏の独自性はわからないでしょう。

違いを見出そうとするなら、藩の確立期にその大名がどのような出自から成立したのかを考えるしかありません。その答えは岡城にあります。
岡城は1594年から10年間の間に基本形が完成した山城です。豊臣・徳川政権の中枢にあった大名が築いた近世城郭の多くが関ヶ原以降の大規模な転封後に成立しているのに対して、岡城の成立期は朝鮮出兵の最中、豊臣政権下ではじまることが大きな違いです。
類例は蜂須賀氏の徳島城や加藤清正の熊本城、加賀の前田氏などかなり少ないです。加藤氏は関ヶ原後に版図拡大しますし、蜂須賀氏はもともと大大名ですからそうなると本当に数少なくなります。
(ちなみに、南部氏や島津氏といった中世以来の勢力は土着性が強く織豊系の影響が小さいので割愛しています。これらの藩は近世以前からの流れを受けているグループとしてじゅうぶん特徴的ですから。。。)

なぜなら、1600年の会津出兵から関ヶ原戦を含む「慶長の乱」は、豊臣政権のもとに従っていた諸大名が二派に分裂して起こった全国的な戦争だからです。この戦いで豊臣政権の中枢を担った豊臣氏にとっての譜代大名はほとんど改易されています。また徳川方についた豊臣系大名は全体から見れば少数派ですが新たに加増されて転封しています。豊臣政権の中枢に参加していた大名はかなりこの段階でやられたり動いたりしているのです。

その中で、中川氏は京都に近い西国街道沿いの摂津の領主としてスタートし、清秀段階の天正半ばで織田信長と同盟関係を結びそのまま服属しているように、かなり早い段階で織田・豊臣政権に参加しています。しかも多くの豊臣系大名が子飼い衆からの出世組ばかりであるのに対して、信長・秀吉の同盟勢力として参加した点で大きな違いがあります。
清秀は、山崎合戦と賎ヶ嶽の戦いで陣頭で戦ったように、秀吉と同盟の摂津衆の陣頭に立つ活動をしています。そして討ち死にしているわけで、秀吉天下取りの先陣を切った名声を得るに至っています。
子の秀政は丹波・山城、摂河泉・播磨支配期の初期羽柴政権で外縁部を担う勢力として一定の地位を獲得しています。羽柴領の拡大に従い、摂津から播磨の三木に転封するのもそのせいです。そして、毛利氏と同盟関係になってひと足飛びに四国・九州を抑えた豊臣政権下では、朝鮮出兵の立て直しとして加藤清正・小西行長が領する肥後に隣接する豊後南西部(この段階での豊臣政権の外縁部)に入部するわけです。
このバリバリの豊臣譜代大名だった中川氏が築いたのが岡城です。

その岡城は、関ヶ原以降の大名によるスマートな縄張プランに対して、基本は押さえながらもどこか生々しい細かなテクニックを多用する特徴があります。
摂津の在地色を抱えた初期段階で織田・豊臣氏に参加した中川氏ならではの特徴が出ている部分です。

この中川氏は関ヶ原戦では黒田・加藤と共に東軍として参加しようとしたものの、周囲が西軍だらけの立地にあってかなり家中統制に苦慮しており、最終的には大きな戦果をあげそびれています。
ですから、そのまま岡の地に据置きで。結果として豊臣政権下のテイストを残しながら江戸時代に突入していく結果となっています。

早い段階で織田・豊臣政権に参加した独立勢力として京・伏見・大坂と深いコネクションを持つ豊臣譜代大名としての顔と、徳川政権下で江戸に藩邸を構えて参勤交代し、江戸で多くの大名家と交流した近世大名の顔を持ち合わせた中川氏。
それ故に、京・上方テイストの文化と江戸テイストの文化の両方が岡・城下町竹田に流れ込むことになったのです。
その早い段階からの独立系豊臣譜代大名のカラーが面白いくらいに出ているのが岡城です。

岡城知らずして岡藩は語れません。だから竹田市の歴史と文化、特に城下町の竹田市街地を語るには岡城からはじめないといけないのです。(もちろん熊本藩領、天領部分も別のアングルから抑えるのは言うまでもありません)
ところが今の岡城は、公園整備としては合格でも、城郭の持つ資料性、どのように位置づけるかといった城館史料学のアプローチからみればはまったく説明できていません。

竹田を竹田たらしめている中心が真っ白なままなのが、竹田の史跡活用における最大の壁なのです。

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