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2007年5月30日 (水)

岡城・城下絵図をみてて

かつて竹田市教育委員会(文化財課)で刊行した図書で『岡藩絵図』ってのがあります。
竹田市立図書館蔵の「岡城本丸平面図」「西御郭御絵図」「岡城城下家中図 天明七丁未年三月日」「城中より各屋敷への道筋の絵図4枚の分割写真が冊子になったものです。図はたいていが2〜3メートルサイズなので広げたらオオゴトです。当時の元課長が文字がみえなくなるので分割したと言ってましたが、文字は読めるのですけど妙なところで切られているので全体像が把握しづらいのが玉に瑕。折り込みで一枚物を用意してくれてたらよかったのですけども。また、1991年頃のものなのでモノクロなのも残念ですけど、非常に大事な絵図資料です。
しかしながら、報告書的なものなので有料配布はしておらず、ウチの仕事場は去年までなぜかありませんでした(笑)

で、去年末に、とある方のご配慮で大量に以前に刊行された調査概報などの報告書の在庫を入手できまして『岡藩絵図』も蔵書となり今回貼合せてみることにしました。ねらいは4枚目の
「城中より各屋敷への道筋
これだけ年代不詳なんですが、天明年間の図に比べると城内の櫓や城門が記号的ながら細かく描写されていてなかなか使える代物。
そして、よくよくみると二つの点で面白いことに気づく。。。
ひとつは寛文4年(1664)完成の「西御郭」ができていない点。それ以前は幕府提出の正保城絵図にもあるように家老屋敷などの敷地になっていました。それと同じように屋敷割が確認できます。ということは1666年以前の様子を描いたと考えられる。
もう一点は、城下の光西寺の位置。光西寺は寛文6年(1666)に火災にあって現在の御客屋敷がある位置から現在地に移転したと伝わっています。絵図の中ではその光西寺が現在の御客屋敷の位置に描かれています。これから1664年頃と、西の丸健造以前を描いた絵図である可能性が高まります。

そして、絵図の中では清水門が現在の位置に描かれており、正保城絵図で描かれた位置から移動しており、この点を踏まえて絵図の上限は正保城絵図のできた1640年頃より以後と考えられます。
ちなみに今回の東側の縄張調査で明らかになった清水門の移転と下原門の虎口プラン。そのうち課題となっている清水門の移動時期が、1640-60年代の久盛統治末期から久清統治期の間ということになります。
面白いことにこの絵図には下原門の調査で明らかになった、整備されていたら確実に飛ばされていたであろう平右衛門側の桝形虎口の腕部分も記号的に描かれていることです(笑)。

となるとですよ。
この年代不詳とされてきた
「城中より各屋敷への道筋の絵図。
なんと17世紀半ばの岡城と竹田城下を描いた最も古い城・城下絵図である可能性が出てきました。
もしそうなら、市史などで知られているのは天明年間の絵図なんですけど、それより100年ほど古い様子が描かれた絵図というわけです。もう少し慎重に確認してみますが多分間違いないような気がします。

整理すると、岡城・城下絵図では。。。。
内閣文庫所蔵の正保城絵図「豊後国岡城」が1640年代で最も古く、
ついで
「城中より各屋敷への道筋」が1650年代前後。
岡城だけなら、「岡城真景図屏風」が宝暦年間で1750〜60年代
天明七年の岡城城下家中図、天明七丁未年三月日」の1787年前後の一群。
そして幕末期の明治2年の「竹田町繪図」となります。
あと、未確認で延享年間の1740年代後半期の絵図があるようですので確認してみます。

「城中より各屋敷への道筋の年代比定も普通にやれば気づくようなものですが、どうしてこれまでできてなかったんでしょう。きっとウチの仕事場に来ないくらいですからもっとウィキペディア式に広く作業チームを編成していればよかったんでしょうけどね。
ハイアマチュアはたくさんいるが、マスター・Dr.クラスの学業のプロが少ない田舎ならでは。美術も考古もマスターに任せてようやく腰を据えて岡城調査をしていますが、これまでの見落としが多いので実に収穫ある「見直し作業」となっています。

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